2018年03月28日(水)
  「祈りは力」

祈りが大事と、皆で語り合っていた。

生活に祈りが与えられていることが、何より感謝だと。
とにかくどうであれ、祈って、行動すると全然違うと。

そして、祈らないで行動して失敗する事によっても
教えられる。

朝に祈って始めた日と、朝から自分が立ってしまい、
神様が飛んでしまって、祈らなかった日が、同じ24時間
だが、1日終わった時に、全く違うと。

祈りをもって生活していると、自分の思い通りにならなくても
不思議に受け入れることができたりする。

「こういうものを購入したいと思い、祈って、買い物に出ると、
無かった時に、がっかり落胆するのでなく、
あ、今は時でないんだなとか、自分の思い以上の更に
良いものを下さるのではと、思える。」


「神様を知る以前jは、自分の思い通りに生きていた
ので、いろんな事に関して、思い通りにならないと、
もうイライラして、不満でいっぱいだった。
焦ったり、また落ち込んだり。

でも、今は、思い通りでない時に、あ、神様の御心
じゃ無かったのかな、と何だか平安になる。

別の御心が与えられているのかな、神様のお心は
どうなのかな、とまた祈って行ける。

心が落ち着いていて平安なんです。これって奇跡
ですよね!!」



「思い通りにならなかった時、そこで神様を見ると
あ、御心は別にあると平安になり、恵まれる。

でも、そこで神様が飛んでいると、心が暗くなったり、
いら立ったり、沈んだり、反対方向へ向かう。
天と地の差になりますよねえ」

神様が心にあり、神様に触れつつ、心が変えられている
奇跡!!(*^_^*)

2018年03月16日(金)
  「ゆだねられない」

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。
主が成し遂げてくださる」詩篇37:5


問題にぶち当たって、苦しくて苦しくてたまらない時、

主に委ねたらよいことが、頭でわかる。委ねるべきだと
わかる。

御言葉の通りに、委ねたら、主が目の前の問題を
導いて下さるし、解決を与えて下さる、成し遂げて
下さると、頭ではよくわかるのだが、

いかんせん、委ねることができない。これが問題だ。
いつも御言葉の学びでも、学んでいて、何をすべき
かがわかる。
目の前の問題を、自分自身を主に渡すこと、任せ
ること。
でも、出来ない。というか、自我が固く握って問題も
自分自身も決して放さない。

自分が放すと、物事がだめになってしまうと思える。
何もかもだめになるとしか思えない。
だから、放せない。自分がどこまでも握ってしまって
いる。

どうにも出来ない。

切羽詰まった、どうにも出来ない、瀬戸際の状況
が来た時に、もう放すも何も、委ねるも何も、どう
にもならない、そこまで来た時に、
初めて、明け渡せる。

自分ではなくて、神様のみわざ、神様がさせて
下さる奇跡だ。

「全然だめ。苦しい問題をずっと抱えていたが、
委ねることができない。頭ではわかるが、そうしようと
するが、自我が握りしめていて、できない。

だから、苦しくてたまらない。思い煩い、悶々状態。
だけど委ねない。出来ないでなく、しない。
強固な自我がある。

でも、もうどん底になった時に、もう心底何もどうしよう
も無くなった時に、気がつくと委ねていた。
神様が憐れんで、そうして下さったと思う。
問題が解決して行き、平安になった」


「幾ら頭でわかっていても、ずっと委ねられなかった。
自分の人生を自分が握り締めて、自分の思い通りに
したかった。

だから、試練が起きて、苦しみが臨むが、頭ではわかる
が、尚も委ねられない。

でも、ギリギリの瀬戸際の取り扱いが来て、自分でもう
何もどうしようも出来ない状況に陥って、初めて委ねる
ことができた。
奇跡だった。委ねた時に、心が平安で平安で満ちた。

あんなに苦しかった心に御霊の喜びが来て、驚いた」


委ねるって、人間にはできない。神のみわざ。

“それは人にはできないことです。しかし、神にはどんな
ことでもできます”マタイ19:26






2018年03月14日(水)
  「弱くて良い」

「わたしの恵みは、あなたに十分である。

わたしの力は、弱さのうちに完全に現われる
からである」Uコリント12:9

弱さの中で、「キリストの力が私をおおう」
だから、パウロは、大いに喜んで弱さを誇る
と言った。

とげ・・嫌なもの、忌むべきもの、これが無ければ
人生幸せなのにと思えるもの、受け入れ難い
もの、無くしたいもの・・

でも、それがある限り、キリストの臨在と共に
人生を歩める。
それなら、その方が良いと、パウロは言った。


「病を通った今、これがすごくわかります!
まさに、自分のことで、今、自分にピッタリ!です。

すぐに体調に響いてしまい、何も出来ない
自分、恵みは十分で、神様の憐れみと慈しみに
本当に感謝です。

強くならなくてよい、弱いままでよい、ほんとに
恵みをひしひしと感じさせられています。
感謝しかないです。

神様を知る以前は、強いことが良いこと、何も
かも自分でしなければならず、頑張ることが善、
だったので、弱くて良いなどと、もう真逆の全く
わからない、意味不明の世界。

自分がやらないで誰がやる!自分しかいない!
もう頑張りに頑張ってました。
全部自分の肩にずっしりかかるので、しんどくて
しんどくて、でも、やるっきゃない!でやってました。

神様を信じて、試練のある度に、恵みが十分
であることを実感させられて、させられての、
歴史ですね。

この世では、強いことが善、弱さは悪、ですよね。
弱いままで良いなどと、ほんとに嬉しい。
安堵と平安に満たされます」


肉は、自分が認められたい、評価されたい、自分の
栄光が欲しい。
だから、自力で頑張る。弱いことは忌むべきこと。
受け入れられないもの。

でも、自分の弱さを通される時、何という恵みで
安堵。頑張らなくて良いとは(*^_^*)



2018年03月11日(日)
  「主が共におられる}

カンボジア宣教師による、宣教報告があった。

治安も悪く、様々な測り知れない困難のある中で、折々に
もろに神様!の介入がわかる、みわざがあり、励ましとされ
ると。

地方の宣教地から首都プノンペンへの車での移動は、祈り
無しには出られない。
全く何も無い大平原を走るので、故障したなら
どうしようもない。JAFなど無いし、広大に延々と続く大平原
でなすすべもない。

そんな中、ファンベルトの故障で、車が完全停止してしまった。
お手上げで、どうしようもない。
それが、車が停止したのが、大平原途上の、小さな町だった。

しかしどうにも困り果て、ふと、横を見るとお兄さんがいた。
それでそのお兄さんに、、「この辺に車修理できる店ありますか」と
聞くと、「ここですよ」と答えた。

「え?」と驚き、「でも看板無いし・・??」「今から看板出して
修理店を始めるところ」と。

首都で修業を積み、生まれ故郷へ帰省し、今から修理工場
を開くところで準備していると。
非常に腕の良い職人さんで完璧に修理してくれた。
そして、翌日行くと看板が上がっていた(^^)

主は常に共におられ、節目々で、みわざにより励まして下さると。


聞いていて、修理工場の前で、故障の車を止められた神様。
どこで車が最終停止するかも、すべて御手の中。

という事は、このお方に、すべてお委ねしているなら、間違いは
無い。
お委ねして生きて行ける平安、安堵、幸いを思わせられた。



又、丁度帰国前に、現地で交わりのある教会の、按手式に
招かれた。
ところがその夕にある按手式の、朝に、突然の腹痛に襲われ
それも今までにない激痛だった。

母教会に祈りの要請も来て、皆も祈ってくれた。

朝拝は休ませてもらい、何とか体調整えに。ただ按手式は
沢山の先生方が来られるから、どうにもの時は、一人抜けても
大丈夫かなと思っていた。

夕には、完治ではないが、激痛も何とかおさまり、皆の祈り
に答えられ、無事に按手式に出席できた。

沢山先生方が来られると思っていたら、牧師の他に二人だけで、
「え?」と驚き、「二人だけですか?」「はい、特にゆかりのある、
思いのある先生方だけお招きしました」と。

出席できて良かった!と改めて、主と主のみわざに心から感謝
したと。


いつも共におられ、すべてが愛の支配の中で、守られ、保たれ、
ている平安に感謝!!


2018年03月09日(金)
  「敵の攻撃」

「思い煩い、恐れ、不安の威力、勢力は物凄いもの
がありますね。

日常生活で、人の気になる言葉が一言ポンと入ると、
気になって、気になって、どんどん不安、恐れになって
心暗くなって落ち込んで行く。
振り返ると、そのパタンがよくわかる。

一言なんですよね。その一言で、最悪のシナリオが出来
上がる。心がどっと沈んで、真っ暗になる。

全く事実でない、現実でない、仮想、妄想の恐れ。
そして、決してその通りにならないのに。

はっと、これは違う、思い煩い、恐れ、これはサタンの攻撃
だと気づく。
その気づくまでが、悶々状態で、平安は奪われ、不安
のどつぼとなって、ほんとサタンにやられてしまってる。

人の一言を、サタンが用いて来るということを、わきまえて
いないと、簡単にやられてしまう。

突如の不安に襲われたり、平安が失せたり、どっと思い煩い
が来た時は、祈ることですよね。

祈ると御霊により気づかせられる。我に返れ、平安が戻ります」



「私もサタンの熾烈な攻撃経験しました。

ある人の、全く何でもない一言が、なぜかぐっと心に刺さり
込んで来て。
猜疑心、疑い、恐れ、不安、不信感で一杯になるん
です。
言葉自体は、自分への攻撃でも、非難でも批判でもなく、
何の悪い言葉も無い、何でも無い一言なんです。

でも、変に思われているのではないか、自分の言葉がいけな
かったのか、態度か、悪く思われているのでは、とぐるぐる回る。
そういうふうに思ってしまうんです。

悩んで、落ち込んで、心暗く、重苦しくなって、何でこうなる
のかもわからない。悶々状態が続いて。

祈りに持って行って、祈っていた時に、それが!はっ!と
気づいたんです。

サタンだ!!
これらすべてサタンのしわざだと。
無いものを、有るものかのようにして、白を黒として、攻撃
して来ている。

サタンに気づいた時、平安が戻りました。
でも、もうわけがわからなくなるほどの、凄まじい攻撃でした。
物凄いです。祈っていたいです」


“私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、
この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの
悪霊に対するものです”
エペソ6:12


2018年03月02日(金)
  「鳥が来て食べてしまった」

種まきのたとえで、道ばたに落ちた種があった。
鳥が来て、食べてしまった。

地が固くて、中に種が入らず、サタンが種を
取って行ってしまった。

心が固くて、御言葉が全く入らず、サタンが御言葉
を奪ってしまう。
つまり、聞かなかった事と同じだ。

だが、御言葉を聞いているつもりなので、気づかない。
御言葉に拒否反応を示しているなら、わかりやすいが、
自分としては、聞いているので、わからない。


「それすごくわかる!!」

「その通りだ!!」

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝を
もってささげる祈りと願いによって、あなたがたの
願い事を神に知っていただきなさい」
ピリピ4:6

「何も思い煩うな」と神様は言っておられて。

でも、「何も思い煩うな」と聞く時に、この世界では
有り得ないし、この世の価値観でも有り得ない。

だから、同時に「そんな事言われても・・」と思っている。

そして生まれつきの価値観の方を選択して、
そんな事言われても、何も思い煩わないで済むなど
有り得ない・・と、思っている。
結局、御言葉を捨てている。

だから、根づくことがなく、結実がなく、いつも思い煩
っていることになる。

御言葉を聞く時に、必ず、肉の思い、世の価値観が
同時に聞こえる。

「そんなこと、信じられない」「現実には有り得ない」
「信じられたらいいんだけど・・」
「見たところ、助けなど、有り得ない、望めない」

御言葉を捨ててしまっている。
サタンに持って行かれている。

気づかないので、自分は御言葉を聞いていると
思っている。

御霊の気づきに感謝です。