2019年05月25日(土)
  「目に見える所と御言葉」

他教会のAさんとお話する機会があった。

初めて教会に行った時に、「試練はあります」とはっきり
言われた、その事がすごく心に響いたと。

「神様を信じると、悩み、苦しみ、悲しみ、病気やけが、
失業が無くなる事は、いっさいありません。

神を信じない人々と同じようにあります。しかし必ず乗り
越えて行けます」と。

それを聞いた時に、真実を感じたと。
そして厳しい試練、様々な悩み問題を通ったが、それら一つ
一つを通して、主のご愛、主のご真実、主の支えを知れた。
後に振り返ると、試練は大きな恵みであったと。

この世界は、「商売繁盛」「家内安全」「交通安全」「五穀豊穣」
「無病息災」「受験合格」で、そのための信心だ。

信心していて、病気やけがをし、リストラや倒産に会えば、信心
している意味がない。他の神々に乗り変えるかも知れない。


Bさんは、ずっと恐れに支配されていた。今、商売繁盛して
いても、いつか傾くのではないかと、不安で不安でたまらない、

今、家族が元気でいても、病気やけがをするのではないか。
今、元気で、問題無い時も、このまま続くはずが絶対にないと、
平穏な時も、ずっと恐れと不安でがんじがらめだったと。

主は、その「恐れ」から解放するために来て下さった。

「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできない
ような試練に会わせるようなことはなさいません。

むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道
を与えてくださいます」Tコリント19:13

耐えられない試練は無いことを思い、必ず脱出の道がある
ことを思う時、心が全く違って来る。

想定外の事が起きた時に、目の前の状況だけを見るか、
御言葉の方を見て、信じるか、二つに一つだ。選択だ。

そしてその結果で、心が天と地ほどに違って来る。

目に見えるのは苦しい試練だが、御言葉は耐えられないもの
はない、脱出の道がある、と言う。

目に見える状況でなく、御言葉の方を握って信じておれる
よう、助けを求めて祈りたい。

2019年05月18日(土)
  「苦しみに会ったことはしあわせ」

ご高齢のAさんが話して下さった。

「試練は本当に感謝です。
若い時に、夫を戦争で亡くし、まだ小さな子供たちを抱えて、路頭に
迷いました。

夫を亡くし、どうやって生きて行けばよいかわからない、しかし子供たち
は育てなければならない、もう重荷に途方に暮れました。

心は真っ暗でした。でも、食べて行かなくてはならない。
狭い狭い間借りの、住み込みの仕事にしがみつきました。

肉体仕事の、重労働で、きつくて辛くて辛くて、でももう、食べて
行くことに必死でした。何も言っておれない状況でした。

そんな時に、知人を通して、教会へ導かれ、神様に出会い、
真に救われました。ほんとに心が救われました。

感謝で、感謝でならなかったです。仕事は厳しく辛く苦しいのですが、
心に喜びが与えられて、嬉しかったです。
神様に出会えなかったら、どうなっていたかと思います。

夫を亡くすまでは、どちらかというと恵まれた境遇にいました。
経済的にも、地位的にも恵まれていました。

それがすべてを無くし、どん底に陥り、底辺となり、それが感謝でした。
砕かれました。神様の砕きでした。

あの恵まれたままでいたなら、何もわからず、恐ろしい高慢に陥って
いたと思います。高慢な人間でいたと思います。
ほんとに恐ろしいです。

神様が高慢を砕いて下さって、わからせて下さって、もう感謝しかありません。
人生終わりになった今、苦しい試練に会って良かった。
本当に良かった、心底良かったと思えて、感謝しかないです。
試練は恵みで、感謝です。

神様は、何も無い中、生活を守り、子供も育てて下さって、すべてに
おいて守られました。
老後、本当に平安で平安で、嬉しくて喜びでいっぱいなんですよ」



“苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。

          私はそれであなたのおきてを学びました“詩篇119:71


本当にAさんはこの御言葉を、ご自身の人生を通して証しされている。

2019年05月10日(水)
  「主の平安」

「わたしは、あなたがたに平安を残します。
あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに
与えるのは、世が与えるのとは違います」ヨハネ14:27

年配の婦人が、語られた。
教会へのきっかけは、主人が亡くなったことでした。悲しみ、落ち込み、もう、どうにもならず、ただ支えが欲しかったです。

イエス様を信じ、救われました。罪が赦され、天国に行けること感謝です。救いを受け、それが、心が本当に救われました。

あれほど辛くて、苦しくて、痛くてどうしようも無かった心に、平安が来たのです。ほんとに全く自分でなく、神様のみわざでした。驚きでした。

長い間の偶像のことで、神様に従った時に、喜びが満ちたんです。喜びが溢れる経験をしました。

今、一人暮らしなのですが、心は平安と喜びが与えられています。嬉しいです。主がいつも一緒にいて下さるので、寂しくないんですよ。
平安に過ごさせてもらっています。神様に出会わなければ、どうなってたかと思います。喜び与えられて、感謝で、感謝しかありません。


真に心に救いを与えて下さること、悲しみと痛み、辛さのどん底にあるたましいに、慰め、いやしを与え、生きる力を与えて下さることを見せられた。

自分の内からではない。自分では完全に何もどうにも出来ないところ、真に外部から、主から来る。


問題が起きて、試練に会う時、不思議を経験する。
目の前の苦しい状況に、心も苦しくてたまらない。
ずっしり重い鉛を抱えたように、心は重苦しくふさがれたようになる。
それが、主に、心にある事をこととごとく何もかも告げて、交わって行く時に、心が落ち着いて来て、主が受け取って下さった、主が思われる最善をして下さると思えて来る。

すると苦しい状況はそのままなのだが、心が平安になるから不思議だ。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」ピリピ4:6

「そうすれば」の通り、神の平安に守られる。


「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のため指し通され、
私たちの咎のために砕かれた。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし・・」イザヤ53:5

「私たちに平安をもたらし」
平安をもたらして下さるための十字架であった。


どんな時にも、「平安を与えて」、生かして下さることに
感謝でならない。