2003年09月30日(火)
  みことばがとどまり・・

先週、姉妹達と学びをした。
今週、1週間の祝福を語り合っていた時に、
御言葉の力を知る。

A子ちゃん「一ミリオン行けと強いるような
者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい」
(マタイ5:41)
の御言葉が、先週1週間、ずっと心にあって、
事ある毎に、しんどいと思う時も、不思議に
動けて、二ミリオン行ける。犠牲を払って、
従うことができるのだ。

これは、もし、御言葉が心にとどまって無かっ
たら、絶対に自分ではできない、しない。御言
葉がとどまっていると、行なう力が来る。

B子ちゃん「先週のロトの箇所の学びで、自分
の好きなように、肉の思いで歩み、世と妥協し
て行くと、何の証しの力もなく、娘婿も妻も救
えなかった。娘も悲惨なことになり、神様に従
うことの大切さを思った。

いつもバイトがあるが、ちょうど祈り会の日、
バイトが休み。忙しい毎日を過ごしていて、し
たい事もある。何だか面倒な思いも来る。

しかし、その時、ロトのことが突然浮かび、不
思議に行く力が与えられ、教会へ行けた。
その日、素晴らしく祝福されて、本当に行けて
良かった。御言葉が心に無かったら、行けなか
った。
御言葉の力を知る。

『・・神のみことばが、あなたがたのうちにと
どまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝
ったからです」(Tヨハネ2:14)

御言葉を心にとどめて、御言葉に立つことがで
きるように。
by 多恵子


2003年09月26日(金)
  一歩、一歩と手をとられ

Aさんと話していた。
子供に、どうしても過保護になって、心配過剰で、
転ばせないように、口出ししてしまう。無難な、
安全な道を行かせようとする。

しかし、子供は失敗するとは思っていない。いつ
も、自分の思う道を妨げられる。小さい時から、
親の言う通りに歩む内に、親への依存心も出来上
がっている。

大きくなり、とうとう親の思い通りにはならなく
て、不安で心配、思い煩いで一杯になる。その内、
もうどうにもならなくなった。
感謝なことに、自分でどうする事も出来なかった
から、子供を神様に委ねることができた。

神様にお委ねした後は、自分の思い通りでなく、
神様の思い通りで良いと思え、心が本当に楽に
なった。以前の自分と全然違う。
子供の意志を尊重し、子供の願う進路に進ませ、
見守ってやろうと思えた。

若いので、ああでもない、こうでもないと、進路
も考えが変化するが、神様が最善をして下さると
信じれるので、見守れるようになった。自分が本
当に変わったと思う。子供をあるがまま受け入れ
てやれるようになった。

どうにもならず、行き詰まって、絶対絶命だった
ので、神様に委ねることができ、結果的には、そ
れが感謝だった。益とされた。

しかし、自分自身のことは、まだまだ力があって、
自分でしていることに、今日学びをしていて、気
づいた。
どうにもならない事は、神様にお委ねできるが、
自分で、できることは、している自分。
自分で行なうと、自分が認められ、評価されるこ
とを求める。自分の力を誇る。その通りで、次は、
自分を委ねることを導かれたい。

委ねることは、楽になること。肩の重荷が取れて、
自分の力で頑張っていたのが、神様に負っていただ
ける。
一歩一歩、一段階一段階、手を取って導いて下さ
る神様に感謝。
by 多恵子

2003年09月25日(木)
  自分が頑張ると・・

この世界の価値観と、神様の価値観は正反対だ。

頑張れ、頑張れ、頑張ることは美徳であり、良
い事と教えられて来た。叱咤激励されて。
しかし、自分が頑張って、辛いと、必ず、頑張
っていない人を見ると腹が立つ。

又、自分が頑張って、辛く苦しいと、わかって
くれない周囲を責める。

B婦人と話していた。懸命に義理の親の介護を
した。家の事も、自分の事も犠牲にして、ギリ
ギリまで頑張った。
しかし、義理の兄弟に認めてもらえず、こんな
に大変な思いをして、精一杯やったのに、心に
怒りと反発の思いが出て来た。

しかし、自分はクリスチャン、動機を探られた。
全く神様に頼っていない。自分の力でしていた。
だから、認められないと、腹が立つ。

神様に頼って、神様から力を貰って、神様のた
めにしていたなら、兄弟に認められなくても、
神様に認めて貰っているのだから、平安でおれ
たはず。

神様から離れて、自分の力で行なうと、必ず自
分の栄光を求める。自分の賞賛、自分の評価。
それが得られないと、心の内で、認めてくれな
い相手を、周囲を責める。

神様の世界は正反対だ。頑張るのではなく、神
に信頼する。
自分が頑張っていないのだから、周囲を責める
こともない。

「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中
にとどまっているなら、そういう人は多くの実
を結びます。
わたしを離れては、あなたがたは何もすること
ができないからです。」ヨハネ15:5

主との、喜びある交わりの中で、主に頼って、
祈って、御霊に導かれて、生きること。
自分の力で行なうなら、主から離れている。
by 多恵子

2003年09月22日(月)
  心が神様に触れて

毎日の生活の中で、神様の愛や配慮、しようとして
おられることや、明確なご意志を知る時、神様に近
づけて喜びが湧く。

Aさん、指をケガしてしまった。犬が好きで、犬に
近づいて、噛まれてしまった。仕事へも出られず、
1週間ほど休んだ。何をするにも不自由だし、最初、
何で?どうして?こんなことが?と思った。

が、その1週間は、実に幸いな時とされた。普段、
仕事をしている時は、なかなかゆっくり信仰書など
読めない。
それが、その間、じっくり読めて、神様とも交われ
て、後になれば、神様に近づけた、素晴らしい時間
だった。

自転車での、仕事の帰りのことだった。大雨が降っ
て来た。どんどんひどくなって来る。困って、自転
車をこぎながら、必死で、懸命に、雨をやわらげて
下さい、と祈り続けた。
「もう必死だったんですよ!こぎながら、必死で、
もう祈り続けました!」すると、雨が突然止んでし
まったんです!

もう、びっくりして、嬉しかったです!!私のような
者の、祈りに答えて下さったことが、もう嬉しくて、
嬉しくて!!
嬉しくて、家に帰って、未信者の夫に言うと、何を
言ってるんじゃ?という様子で、そりゃあ、止む時
だったんじゃろうよ、と。(大笑)

日常の小さな事柄、大きな事柄の中で、神様を見て、
神様に触れて行く時、心に喜びが湧く。喜びは、心
が神様に触れるところから来る。

集会が終わった時、涙を拭いておられた。何だかわか
らないけど、涙が出て来るんですと。心の線が神様に
触れる時、心が恵まれ、心が動かされる。

日々の日常の生活で、心の目で、神様をしっかり見て
行けますように。
by 多恵子

2003年09月18日(木)
  雲の柱

今日、長く交わったC婦人が遠方へ引っ越された。
とても寂しくなった。

謙虚で、柔和なC婦人は、皆が、ああいうお年寄
りになりたい理想で模範。その信仰によって、励
まされて来た。
何と、80才の時に、地区集会のお世話係を引き
受けて下さった。モーセが召されたのが、80才
と聞き、奮い立って下さった。お陰で、救われる
人、求道する人々が起こされた。

春頃に、家が売れたら、すぐ引越しますとのこと、
その家がなかなか売れず、半年がたってしまった。

「信仰の試練でした。まあ、試されました。近辺
に新しい家も色々売りに出しているのが、新しく
ても全然売れてないんです。
決まりかかっても、いざというところで、だめに
なって、どうなるのか、いつ行けるのか、本当に
売れるんだろうか、それは、ものすごく試されま
した。

神様は、まあ、良くして下さいます。「みこころ
の時」があるんですねえ。どんな時にも、信じて
待つこと教えられます。
雲の柱、火の柱が動かないと動けないんですよね
え。動くまで待つんですねえ。

「イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕
屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、
上る日まで、旅立たなかった」
出エジプト40:36

信仰生活、いつも雲の柱、火の柱で導いていて
下さる神様をしっかりと見上げていたい。
by 多恵子

2003年09月15日(月)
  根本的に変えられる

ペテロが呪いをかけてまで、イエス様を3度裏切り、
よみがえったイエス様が、そんなペテロを回復して
下さる箇所を読んでいた。

「アガペーで愛しますか」の問いに「フィレオで愛
することは、ご存じです」2回目も「アガペーで
愛しますか?」「フィレオで愛することは、ご存じ
です」3回目、「では、フィレオで愛しますか」
「フィレオで愛することはご存じです」

アガペーは犠牲的な神の愛で、フィレオは友情。
3回否んだので、3回聞いて下さって、回復さ
せて下さった。

ペテロは裏切った事により、自信を砕かれて、
アガペーで愛せないと思った。すると、主は、
では、フィレオでいい、あなたのその愛でいい
と言って下さった。

砕かれたペテロは、以前のように、「愛します」
と言えなかった。「愛することをご存じでいて
下さいます」としか言えなかった。
ペテロは変えられた。

肉の強さを、自信を必ず砕いて下さる。
砕かれることは恵み。
最近取り扱いのあったGちゃんを見ていて、
根本的に変えて下さる、神様のみわざを驚
きをもって見る。ペテロの砕きと重なる。

自分で、どうしようもない。頭でわかっても、
どうにもできない。神様が取り扱って、砕いて
下さらない限りどうにもならない。
放っておかないで、取り扱って下さることが
感謝。変えられて行くことが感謝。
by 多恵子


2003年09月13日(土)
  砕かれることは大きな恵み

今日、親しい愛する姉妹が証しを送って来て
くれた。
子供の気持ちより、体裁が大切。人の目ばか
り気にして、子供を損なってしまった。外側の
ことばかりを押し付け、正し、ますます子供は
抵抗し、反抗し、非行に走って行ってしまった。

家から離れ、遠方の矯正施設で、子供は訓練を
受けている。この辛い痛い出来事通して、姉妹
は自分が聖霊様から照らし出された。自分の姿
を聖霊様の光の中で、正しく見せられた。

子供の気持ちより、母親として自分がどう見ら
れるかの方が大切。良い子であれ、ちゃんとし
た子であれと、子供は正しく育って欲しいから、
外側ばかり整えようとし、ずうっと叱ってばか
りいる状態になる。

要求ばかりで、押し付けばかりで、全く気持ち
をわかって貰えない子供は、余計反発して、悪
事へと走る。

押し付け、抑えつけ、子供の気持ちより、世間
体を、自分のプライドを、自分の都合を優先さ
せていた罪が、はっきりと示された。心から悔
い改め、子供にも謝罪した。
神様により、子供との関係が回復させられ、良
い方向へと向かっている。

何件も接して来て、このような時、親が二つの
タイプに分かれる。自分の問題として受け取る
親と、子供の問題としてしか見えない親。
親は立派で、子供が非行に走っていたら、親子
並べたら、どう見ても、子供が悪いとしか見え
ない。親も自分は正しいから、子供の問題とし
か見えない。

でも、不思議だけれど、自分の問題として受け
止めて行く親の、子供は癒されて行く。なぜか、
子供の問題としか見れないケースはそのままだ。

「自分は正しい」に立つと、何も見えなくなる。
不思議だけれど、本当に何も見えなくなる。

「もしあなたがたが盲目であったなら、あなた
がたに罪はなかったでしょう。
しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見
える』と言っています。あなたがたの罪は残る
のです」(ヨハネ9:41)
by 多恵子


2003年09月12日(金)
  伝えたいこと

先日久しぶりに叔母の家に行った。
あれこれ話しに花がさき、楽しい一時をもったが、
さあ、帰ろうとして立ち上がった時、叔母が
「ちょっと食器もらってよ」と言う。

使わないのなら、ありがたく・・と思ったが、
叔母が「もう、いつお迎えが来てもいいように、
食器や服を整理してて、あちこちに貰ってもらって
る」と言うので驚いてしまった。

「死ぬのはぜんぜん恐くないよ。あっちには、お父
さんもお母さんも、妙ちゃんもいるからね」と言う。

妙ちゃんというのは、八年前に亡くなった私の母だ。
それからは弟、妹と共にこの叔母を母親代わりに思っ
て頼ってきた。

母には、生前になんどか福音を話す機会があったが、
「死んだ先のことなんか、今は聞く気にならん、死
ぬまでに聞くわ」とはねつけられて来たが、亡くな
る前に病室でイエス様を心に受け入れてくれた。

「お金も、徳を積むこともできん病人の自分には、
信じるだけで罪が 赦されるというのはありがたい」
そして「私も、あんたや孫と同じ所に行きたい」と
言った。

残される親族にとって肉親との別れは本当に辛い。
しかし、私は、一時的な肉親の別れの悲しみも確か
に辛かったが、やはり心の底には、母がイエス様
のところに行っているという喜びがしっかりあった。

晩年は悪性リンパ腫とその治療の副作用の苦しみ、
また最後は癌とその手術など大きな病気や痛い思い
ばかりで逝ってしまった母が、完全な身体になって、
私達との再会を待っていてくれる。

クリスチャンにとっての毎日はこの世との別れが近
くなる反面、天にいる家族、友人との再会の時は近
づいている。

どこにいるかわからないが、死んだら会えるだろう、
といった漠然とした希望ではなくイエス様が十字架
の上で死をもって与えてくれた確かな希望だ。

信じられない人には、おとぎ話や幻想に聞こえるだ
ろうが。

安定した老後…という言葉をよく聞くが、私はこの
十字架の信仰を持たずにいる人がなぜ心穏やかに死を
向かえることができるのかわからない。
それがわからずなぜ安定しているのだろう。
自分の目に見えるものだけをなぜ信じておれるのだろ
う。

また安定していないなら、なぜ不安定な自分の力であ
がくのだろう。
神様を知らなかった、以前の自分のことを思い起こす
たびにもう絶対にあの時には帰りたくないと思うのだ。

高齢になっている親族達への証しと救いを今、せつに
祈っている。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに
世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとし
て滅びることなく永遠のいのちを持つためである。
ヨハネ3:16      
                  by 富士子


2003年09月11日(木)
  問題は自分

F婦人「下の子供が悩んで、沈んで、うじうじして
いたので、『いつも喜んでいなさい』とあるよ、と
言うと、黙って、普段ほとんど何も言わない上の子
が『あんたがな』と私に言った。もう、ギクッ!!と
しました。

二重のメッセージをいつも子供に送っている。
学校で何やかや問題があって、早退する子供に、
『ええんよ、帰ってもええけえ。お母さんは、元気
なあんたが好きだが、悩んでるあんたも好きなんじ
ゃけえね。』と言う。

しかし、そう言いながら、心では『もう、何でこう
なんじゃ。そんなぐらいで、うじうじと。頼むけえ、
ふつーになってくれ。ふつーでええんじゃけえ。』
と思ってる。

先日、子供が、早引きしようと思ったが、踏ん張っ
て、頑張って、授業に全部出て帰った。
すると、子供が帰宅して、玄関で『今日のことを、
一番喜んでるのはお母さん。』と言った。本心、
見透かされている。言っている言葉でなく、心で思
っていることを受け取っている。

『周囲が変わらん』と悶々悩んでいる子供に『あん
たが変わらんにゃあダメよ、あんたが変わったら、
たとえ周囲が変わらんでも、あんたの見方が変わる
んじゃけえ』と言う。

人が変わるのを待ってても、人は変わらん、あんた
が変われと、子供に言ってて、一番変わらないとい
けないのは、自分だと気づいた。

全く変わらない、何一つ変わらない自分。自分が変
われば、子供が変わると気がついた。一番の問題は
自分自身だと気づいた。変えられたい。」

自分が変わる時、相手が、もし変わらなくても、自
分の見方が変わる。すると、必ず何かが変わって
行く。

“心の一新によって自分を変えなさい”ローマ12:2
by 多恵子



2003年09月10日(水)
  価値観に来る誘惑

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むし
ろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、
神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るた
めに心の一新によって自分を変えなさい」ローマ12:2

仕事が立て込んでいて、久しぶりに婦人会に来れた
B婦人。「少し、教会に来れないと、もう、ものすごく
流されるわー。特に価値観に来る。多勢に無勢で、こっ
ちがおかしいんかいのうと。」(笑)

この世の勢力は凄まじい。この世の価値観、この世の
思考、考え方、発想・・神様と正反対。

「それでいいのか、思い煩え、思い煩えと言われてる
ようで、私もちょっとは、思い煩わにゃあいけんのん
かなあと」(笑)
「あんたはそれでいいのか、それでいいのか」と言われ、
何だか不安になる。「自分の思いで立て、もっと自分の
力でやれ、自分を主張せよ、もっと強く抑えつけろ。」と、
神様と正反対の思いが、攻撃が、誘惑が渦巻いている。

神様は「思い煩うな、委ねよ、信じていよ、待て、見守
れ、自分で動くな、神に判断を求め、導きを求めよ、仰
げ」とにかく真反対。
「この世と調子を合わせてはいけません」この世の価値
観に流されてはいけない。凄まじい勢いで襲って来て、
すぐに影響を受ける。

Cさんも、「高齢の親戚が言うんですよ。『悪いことば
かり起こる。人生、いい事何もない。』ええっ、という
感じで、がくっと来ますが。」
Bさん「いやあ、そうよ。あんたとこも、ええ事ないねえ、
と言われる。」(笑)「全然自分は思ってないのに、
神様が導いて下さるけえ、大丈夫じゃ思うとるのに、なん
か、そっちの影響受けて、心が沈んで行ったりして
しまう。」(笑)

しかし、神は言われる。どんな不都合なこと、一見悪
い事が起ころうと、「わざわいではない」。
「平安を与える計画であり、将来と希望のためのもの」。

「神様は益とされる」「計画を持っておられる」「しよ
うとしているはっきりとした意志を持っておられる」
「愛して下さっている」

「この世と調子を合わせてはいけません」肉の思い、
攻撃、誘惑について行くな。肉は、常に「自分が、
自分が」。そうではなく「神のみこころは、神の
み思いは」。
by 多恵子

2003年09月08日(月)
  祈りが変えられた

今日、久しぶりにC婦人とお会いする。
突然、どうしてこんな事が、という事態が勃発。
もう、何をどうすれば良いのか、右往左往。目
に見えるところだけを見ると、八方塞がりで、
心が重く、しんどくなる。

まず、目の前の混乱した事態でなく、神様に焦点
を当てる。神様を通して、目の前の混乱を見る。

すると、神様には<ご計画>があり、<わざわい>
ではないと言われる。エレミヤ29:11。
<平安>を与える計画で、<将来と希望>のため
のものと言われる。

「そうですよね。神様は、この悩みと問題の中で、
自分達を成長させようとしておられるのですよね。」
希望が見えて来ます、と。

「この事に対する、神様のおこころを求めます。
神様のご意志があり、ご計画があることわかりま
す。教えようとして下さっていること、学ばなけ
ればならないことが、よく悟れるよう祈ります。」

「ずっと腰痛で、通院しているんです。癒して下
さい、癒して下さいと、ずうっと祈っているが、
全然癒されない。もう長いんです。

祈りを変えます。この腰痛を通して、神様が教え
て下さりたいことがわかりますように、みこころ
を知れますように祈ります。」

「人生に、日々の生活に、ご計画を持っていて下
さることが嬉しいです。自分の意志を、神様のみ
こころに添わせて行きたいです。」

わたしの願いでなく、みこころがなりますようにと
祈られ、父のみこころに、自らの意志を明渡して行
かれたイエス様を思う。

心から神様に従いたいと、願っておられる婦人と、
心恵まれる交わりに感謝でした。
by 多恵子

2003年09月06日(土)
  どんな中でも希望がある!

先日、知り合いの牧師さんのところへ交わりに行った。
皮膚の病気で、ありとあらゆる方法を試しておられる。
アルカリイオン水がとても良いと、今はそれを実行中。
私達にも飲ませて下さった。

夜も、かゆみで、毎日熟睡が出来ない状況にあられる。
何度も目が覚め、蓄積睡眠不足状態で、頭がもうろうと
していますと。毎日のこと、どんなに大変かと思う。

しかし、この病は、主からのもの、主が与えられたもの
ですからと、しっかり信仰によって受け止めておられ、
受け取っておられた。
必要だから与えられていて、必ず良くして下さると信じ
てるんですよ、と。

「この計画は・・将来と希望を与えるためのもの」

クリスチャンには、どんな時でも、どんな中でも、希望
がある。その希望は、特に、暗闇の中で光輝く。状況が
暗ければ暗いほど、輝きが増す。ここに救いがある。

友人が、今、厳しい試練まっただ中で、真っ暗闇の中で、
何がどうなって行くのか、もう、わけがわからない中に
いる。聞くだけでも、自分なら耐えられないだろうと思
えるほどの試練。

しかし、トンネルだと理解している。トンネルは必ず出
るし、今はわからないが、神様は最善を用意していて下
さると信じれると。
考えられない大変な試練の中で、友人と話していると、
友人から、笑いが出て来る。試練が半端じゃないから、
もう限界まで行って、本当にどうにもできないから、も
う、神様にお任せするほかなく、お任せしているからと。

「四方八方から苦しめられますが、窮することはありま
せん。途方にくれていますが、行きづまることはありま
せん。・・・倒されますが、滅びません。」
Uコリント4:8

希望は生きる力だ。「いつまでも残るものは信仰と希望
と愛」。

by 多恵子

2003年09月05日(金)
  何に焦点を当てるか

B婦人。次から次と困難が臨み、一つづつ順番
にでなく、幾つもの大変な事態が重なり合う状
況。一つ一つがどれもが厳しい試練。もう、何
が何だかわからない。身体もクタクタのヘトヘト。

大きな厳しい試練続きに会い、自分の人生にとっ
て、何が一番大切なのかを考えた。
経済的に、心配が無かったら幸せなのか、そうで
無いことはわかっている。家族全員が健康なら幸
せなのか、良いことかも知れないが、それが一番
大切なことではない。
家族の誰にも、何の問題も無ければ幸せなのか、
いや、問題自体は、何ら不幸ではない。

一つ一つ考えて行った。そんな時、二人の人から
全く同じ事を言われた。子供がお母さんは幸せに
見えると言った。そして、近所の人に、いつも幸
せそうでいいですねえと言われた。

次々臨む困難の中で、確かに自分は幸せだと思えた。
混乱して、目に見える問題に翻弄されそうになっ
ていた時、しっかりと、見るべきところへ戻して下
さった。

教会へ来て、学びをする中で、目の前の状況が整
理されて行った。神に焦点が合い、神を通して物
事を見る時、正しい位置に戻される。
神様にはご計画があり、ご自身でしようとしている
ことがあられる。はっきりとした意志をお持ちだ。

偶然の不運に、翻弄されているのでは、決して無く、
その神様の意志とご計画が、今まさになされている。
混乱していたのが、信仰に立つことができるように
して下さった。

今の出来事が神様から与えられているので、その中
で、神様のお心を知って行けるように。そして、と
にかく、状況が変わって、状況が好転するようにと
の発想しか無かったが、そうでなく、この中で、自
分自身が成長して行けるように、神様を知って行け
るようにと、祈りが変えられた。

状況しか見えない時、神様が飛んでしまう。動揺し
混乱し、右往左往、深い闇の中に落ち込む。
しかし、神様を通して状況を見る時、信仰の目が与
えられる。神様の発想で状況を見て行く。平安の計
画であり、将来と希望のためのもの。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよ
く知っているからだ。−主の御告げーそれはわざわ
いではなくて、平安を与える計画であり、あなたが
たに将来と希望を与えるためのものだ。」
エレミヤ29:11

by 多恵子


2003年09月04日(木)
  「力の源は」

G子ちゃん、ある奉仕で、今回3回目の準備をし
た。確かに、スケジュールが入っていて、時間が
なく、大変な状況だったが、自分なりにはした
つもりだった。

ところが、評価が今いちだった。足らない箇所、
直す箇所を、あちこち指摘された。
何だか、ムッとしてしまって、素直に受け取れ
ない、自分では、時間の無い中、一生懸命した
つもりなのにい。

ムウッとしているが、でも、神様から来てる事
と、気を取り直して、夜に、最終的準備をし始
める。

すると、自分の準備したテーマ聖句そのものから
語られた。心の中を照らし出され、前の2回が
神様の恵みと導きによったのに、ものすごくうまく
出来たので、次は大丈夫、大丈夫、出来る、出来
ると、高ぶっていた事が示された。

そして、前の2回は、必死で神様に頼って頼って
したのに、今回は、自分の力でしていた事に気づ
かされた。

だから、神様が立ち止まらせられ、砕かれ、やり
直させられた事がわかった。

前の分は、準備中も、準備後も、奉仕後も、高ぶり
も不純な思いも全く無かった。真に、神様に頼って
頼って、頼りきっていたからだと教えられた。

源の違いで、大きな開きが、差が生じる。その事
を行なっている、力の源が神様か、自分か。

自分の力ですると、結果が出るなら、必ず自分を
誇り、自分の栄光にしてしまう。
しかし、神に頼るなら、決して自分の栄光とはせず
神に栄光を帰する。

by 多恵子