2019年09月22日(日) 「思い煩い」
「しょっ中、思い煩うのですが、思い煩いの学び通して、変化して来 ていることを感じます。 以前は思い煩いに捕らえられて、思い煩っている事自体を気づいて いなかった。 心が暗くなって、沈んで、心重く過ごしていた。 でも、今、心が変化した事にまず気づけて、心が沈んだり、重苦しく なったり、暗くなる時、はっと気づけて感謝です。 その前までどうもなかったのに、心が沈んで、重苦しい事に、ふっと 気づかせられ、そして心を探って行くと、人の一言から来ている事に、 気づけたり。 人の目を気するからですよね。影響されてしまう。 平安に過ごしていると、全然考えてもいなかったのに、突然先の 事が不安になったり、これは、てき面サタンですよね。 サタンの火矢ですね。前後関係が全く無いので、段々気づける ようになって。 サタンの火矢を、信仰の盾で防がずに、受け入れてしまう。すると その事を数時間思い煩います。不毛な無駄な時間ですよね。 数時間後、あ、サタンだと気づいて(^^;) 気づけることが感謝です。以前はサタンに攻撃されて、2,3日悶々と してましたから。 そんな中で、自分の弱さに気づかされて感謝です。いつもサタンが 来て、誘惑されたり、攻撃受けるのは、自分の弱いところだと。 自分が握りしめて、放さない、明け渡せないところで、それが自分の 宝なんだなと。 そこに来るので、主に明け渡せるよう、祈って行きます」 「なかなか委ねられないこと、経験する。委ねたら良いと頭ではよく わかるが、自我が握りしめて、放さない。 でも、委ねないと、ずっと不安と心配、思い煩いにさいなまれる事も、 経験する。 委ねられない、どうしても放せないとずっと祈っていたら、試練のギリギリ の状況を通らされて、ギブアップ状態で、ギリギリの瀬戸際で、もうどうにも できず、手を放させて下さった」 「放すのでなく、放させて下さったね」(*^_^*) 「でも、委ねさせて下さいの、祈りの答えだよね」
2019年09月10日(火) 「主の恵みは十分」
Aさん「自分の思う最善と、神様の思われる最善が全く 違いますねえ」 今、病気も持ってるんですが、何で、このしんどい病気にと思って しまいますが、神様的には最善なですよね。 でも、祈って、冷静に考えたりしていると、これがあるから神様を 求めざるを得ず、結果的に神様をすごく求めている。 祈りに向かわせられる。心の内の悶々を全部吐き出すこと を教えられる。聞いて頂ける恵みを知る。 御言葉が欲しくて、御言葉に触れていたくて、御言葉を求める。 これって、すごい恵みですよねえ。 自分は、何でも自分の力でやってしまって、神様を頼らないし、 祈らずにやってしまうから、神様を求めるように、この病気を 与えて下さってるんだなあと。」 「そう思えることが、感謝で、恵みですよねえ。神様に焦点が 合ってなければ、不平不満と愚痴、落ち込みしか無いです よねえ」 Aさん「“わたしの恵みは、あなたに十分である」Uコリント12:9の 言葉が与えられていて感謝です” 病気がすごく対応も大変で、どんなにか辛くしんどいであろう、Aさん の口から、その御言葉を聞くから、ものすごく心に響くし、恵まれる。 すごく神様を感じて、心が引き上げられる。 病気で大変だが、神様の素晴らしい栄光を現しておられる。 亡き母が、まだ未信者の頃、星野富弘さんの詩画集にとても 感動して、新しく出る度に、読んでくれた。 「いいねえ」「いいねえ」と、とても感動すると。 星野さんが現状を受け入れて、生きておられるから、感動する のだと思う。 人々に慰めや励ましを、恵みを与えて行かれるのだと。 わたしの恵みは、あなたに十分である、といつも、現状を 受け入れて行けますように
2019年09月05日(木) 「イエス様を愛して」
「忙しいと、目の前の雑多な事柄を、次々と、ただただこなして 行ってしまっていて、“イエス様を愛して”、事を行なっているのか、 すごく考えさせられます。 イエス様を愛してでなく、ただ機械的に、無機質に流されて いないだろうかと。 虚しいですよね。 一つ一つの事柄に信仰と祈りを持って、主と共に当たれたら、 どんなに恵みだろうなと思ったんです。 “何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、 心からしなさい”コロサイ3:23 何事も、イエス様に対してするように、祈ってして行きたいなと。 そこに気持ちがあり、喜びがありますよね。 「そして、一つの出来事がありました。 属しているサークルで、イベントがあって、ゲームの賞品を皆で持ち 寄る事に。 一応の、これくらいのめどでとの、金額は決まっていて。 この事も主と共にしたいと、祈って、買い物に出かけました。「主よ、どれ がいいですか」と心の中で祈りながら、店もあちこちと回り。 するとブティックに、とても綺麗で素敵な置き物があったんです。 一瞬、「あ、これだ!」と、わかったんです。「主よ、これですね」と。 金額はオーバーしていたのですが、全く構わず、もらった人はきっと嬉し いだろうなと、わくわくして。心は平安でいっぱいで。 主と共に、とても良い買い物が出来た事が嬉しく、喜びでいっぱいでした。 祈りが答えられたことも嬉しく、そしてこの小さな事が、主のために、 主と一緒にできたことが、何より心潤い、幸福感でいっぱいでした。 何をするかは関係なく、主のために、主と共にする時に、喜びと平安が 満ちる経験に感謝でした」
2019年09月03日(火) 「御言葉と自分の思いと」
日常生活で、御言葉と、状況が相反する場合がある。 御言葉と、目の前の見える状況が、異なる時はどうすれば よいかと学んでいた。 パウロが囚人たちとローマ行きの際、百人隊長が率いた。 ところが冬に近づき、海が荒れるので、 「もう航海は危険」使徒27:9とパウロは注意した。 しかし、 「百人隊長は、パウロのことばよりも、航海士や船長の方を 信用した」11’ 百人隊長は、常識、この世の価値観、人間の思い、目に 見えるところを選択し、従った。 そして、まずもう少し先まで行って、そこで冬を過ごすことにした。 その結果、大変な大嵐に会い、船は暴風に巻き込まれ、身動き 取れず、流されるがままに。 命の危険となり、「助かる最後の望みも、今や絶たれようとして いた」20’ 絶体絶命に陥った。生死の危機に、どんなに恐怖であったろう。 そこでパウロが、神の使いが現われ、必ず全員助かると告げた ことを伝えた。 「元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、 私は神によって信じています」25’と。 そして、紆余曲折あり、結果的に、全員が無事に陸に上がった。 主のことばの通りに成った。 Aさん「しょっ中、御言葉が飛んで、御言葉をスルーして、自分の 思いを選び取っています。 だから、すぐに目の前の事に思い煩うし、心配でたまらなくなる。 「何も思い煩うな」との御言葉を捨てて、目に見えるところと、 自分の思いを取る。だから思い煩っているのですよね」 Bさん「対人関係で、相手の言葉にカチンと来ることがある。 つい言い返してしまったり、嫌みを言ったり、不機嫌になったり する。 御言葉に立つのでなく、目に見えるところに反応してしまっているん ですよえ。 神様はまず「祈れ」と言われる。しかし目の前の状況に反応し、 御言葉でなく、自分の思いで応酬する。 すると自分も後悔するし、周囲に証しにならず、害毒を流して しまう」 Cさん「そうなんです。御言葉は「祈れ」なのに、自分の思いで、 肉の言葉を発すると、必ず後悔する。 御言葉に従うのでなく、自分の思いで、突っ走ることが多いです。 絶えず祈りなさい。心の中で祈っていたいです。 とっさの場面で、御言葉に従えるように」
2019年09月01日(日) 「今日一日」
Aさん「先のことが、不安でたまらなくなるんです。 老後のこととか、心が重苦しく、暗くなって、気持ちが 沈んでしまって」 Bさん「明日の心配無用とありますよね」 Aさん「あ、そうだ。そうだった。そうですよね。今日一日なん ですよね。 明日はゆだねて、今日一日を精一杯生きることが大事 だったですよね。 気持ちが、どよ〜と沈んで、暗くなって、重苦しくなって、 気持ちが萎えて、気力も失せ、嫌な思いでいっぱいで、目の前 の事ができなくなって。喜びも平安も無くなってしまう。 無為な無駄な、思い煩いの一日になって、周囲に害毒も流し てしまう。 もろサタンですよね。肉がついて行ってしまって。 今日一日のことだけを考え、与えられた御心を行って行く時、 今までも平安と喜びが与えられていました。 今日一日!!肝に銘じます!!」 Cさんが、想定外の突如の事態が起きて、一ヶ月半だけだが、親族 を引き受け、お世話をする事になった。 皆、事情があって、自分しかいない。しかし、自分もフルタイムで 働いていて、夜勤もあるシフト勤務。子供たちはまだ小学生。 引き受けることは、御心だが、どうすればよいか全くわからず、 途方に暮れた。生活はちゃんと回るのか。 不安しかなくて、まず主の御前に祈りに祈った。 不安と思い煩いを一つ一つ具体的に、主に聞いて頂いた。 その時に、御言葉が与えられた。 「あすの心配は無用です。あすのことはあすが心配します」マタイ6:34 突然、「一日だけでいいんだ!!今日一日だけ生きればいいんだ」 とひらめくように、御言葉が臨んで来た。 「一日だけ」それなら出来る。明日は考えず、今日一日なら、何とか できる!そう思えて、まず心が平安にされた。 そして、一日だけなので、心の負担は軽く、今日は大丈夫との信仰が 持てて、祈りつつ、今日だけ考えて生活して行った。 すると、夫はその間、犠牲を払い、よく助けてくれて、何と子供たちまで 協力してくれて、懸命に様々出来る手伝いをしてくれた。 そして一日一日生きて行くと、一ヶ月半を主の平安と喜びと感謝の中で 全うできたのであった。 そして、家族の絆も深められ、主の取り扱いとみわざであった。