2019年10月21日(月) 「品性」
クリスチャンには、どんな時にも、どんな状況でも「希望」がある。 苦しい事、悲しい事、辛い事・・試練はしんどいが、希望へと つながる。 Aさん「ずっと試練続きの歩みでした。生い立ちから、ずっと 苦しい中を来たように思います。 苦しい中、支えが欲しかったから、教会に来れたと思います。 もし、これまでの苦しみ、試練が無かったら、教会に来て無い です。 普通に生活できていたら、神様は必要無いですものね。 苦しみや辛い事柄が、神様のところへ連れて来てくれたので、今、 思えば本当に感謝です。 神様を信じてものの、なかなかよくわからなかったです。 小さい子供たち抱えて、子育ては忙しく、主人は未信者の中、 なかなか思うように、教会へも行けなくて。 手詰まりの中、神様が道を開いて下さって、学び会に行ける ようになりました。 神様のことはよくわからない中、少しづつ少しづつ学びを通して、 知って行けました。 よくはわからない中も、現状は厳しくて、悩みや問題が次々と 来て、助けて欲しかったので、祈りを教えられ、祈りました。 よくわからない中も、その祈りが答えられて行きました。 次々と、祈りが答えられ、道が示され、必要がことごとく与え られました。 イエス様の十字架の救いを信じてから、かなりの時を経て、わから ないながらも、祈りが答えられて来た現実もあり、この方は真実だと 思え、目に見えない、なかなか実感も持てないけれど、この神様を 信じて行きたいと決心しました。 その時から、変えられたと思いまそす。 霊的に神様がわかるようにされました。 その間も、試練はずっと続き、問題も次から次へと来るのですが、 一つの御言葉がしっかり心に与えられています。 “そればかりかではなく、患難さえも喜んでいます。 それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、 練られた品性が希望を生み出すことを知っているからです” ローマ5:3 この中の「忍耐が練られた品性を生み出し」に心が捕らえられ、 「品性」が培われたいと。 試練に会う時、苦しみが来た時、「品性」を生み出して下さる と思う時、励まされ、受け止めることができるようにされています。 品性が希望を生み出す。 どんな中にも、希望があることに感謝!!!
2019年10月18日(金) 「思い煩い」
神様からの「思い煩うな」は本当に感謝で、救いだと 語り合う。 「あすのための心配は無用です」マタイ6:34 「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもって ささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に 知っていただきなさい」ピリピ4:6 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。 神があなたがたのことを心配してくださるからです」Tペテロ5:7 「心配無用」 「何も思い煩わないで」 「思い煩いをいっさい神に」 Aさん「いつも学びで、思い煩いは、今日の一日をだめに してしまい、目の前の一日を全く歩めなくしてしまうと。 本当にその通りで、私は、気づかないまま、ずっと大切な 目の前の一日を思い煩いで無駄にして来ました。 主を信じる以前は勿論そうですが、救われた後も、どれ だけの日々を無駄にして来たかと思います。 主が思い煩うな、と言われているのに、思い煩ってしまっていて。 最近は、気づきが与えられ、思い煩ってしまっている時、 思い煩いかける時、ふっと御霊が教えて下さる事感じます。 身体に色々弱さを持っているので、ちょっと頭痛やめまいが すると、先の不安にどっと襲われ、それはいつの間にか、 老後の不安にまでなっていて。 以前は気づかぬまま、体調の恐れと不安で、一日、心が重 く暗く沈んでいました。 家族の一言が、心に刺さり、心配になり、不安は不安を呼び、 やはりその先にまで思いが行ってしまって、どよ〜んと心重苦しく なって、落ち込んでしまう。 大切な人だと、特にそうなってしまう。 すっとそうだったが、それが普通で、当たり前で、おかしいとも 思わずに、思い煩いに引きずり込まれていました。 今は、違います。サタンからの思い煩いにふと気づけて、神様 を見上げて、とにかく神様に告げて行けます。 不安も恐れも思い煩いも、何もかも持って行く時、ほんとに 心が守られること経験させられます。 自分が変えられた事に感謝です。御言葉の力を経験させ られています。」
2019年10月15日(火) 「判断の知恵を与えて下さい」
ラインホールド・ニーバーの祈りがある。 「神よ。変えることが出来ない事柄については、それを そのまま受け入れる平静さを与えて下さいr。 変えることが出来る事柄について、それを変える勇気 を与えて下さい。 そしてこの二つの違いを見定める知恵を、私に与えて下さい」 変えるべき事と、そのまま受け容れるべき事があり、それを間違 えると、ずっと平安が無く、混乱と無秩序状態が続いてしまう。 受け入れるべきものを、変えよう、変えようとすると、不毛の 戦いになり、疲労こんぱいして、力尽きてしまう。 よく相手を変えよう〃として、環境を変えよう〃として、 苦しんでしまう。 変えるべきものを、変えようとしない場合も苦しくてたまらない。 主は自分自身を変えるようにと、しばしば言われる。 しかし、自分でなく、相手を変えようとしてしまう。 Aさん、非常に難しい対人関係があった。 距離を置ければよいのだが、それも不可能な環境で、ただただ 辛くて苦しくてたまらなかった。 祈りに祈り、状況を見るに、環境を変える事は出来ないので、 今の状況を受け入れる事が出来るように、祈りに持って行けた。 祈って行くと、普通に振る舞っているが、自分の心の底に隠れた、 相手を嫌う心、憎しみ、恨み、赦せない思いが示された。 それらもありのまま祈って行けた。時間をかけながら、主は赦す 心へと導いて下さった。祈りの力を教えられた。 胸の痛み、辛さ、苦しみが消えた。主のみわざだった。 ただ、悩み苦しんでいるのでなく、事態を受け入れ、受け止めよう とした時から、主は解決へと導かれたことを知った。 そして、自分が変えられた。 受け入れるべきものか、変えるべきものか、目の前の事態に ついて、まず主に知恵を求めて祈ろう。、
2019年10月12日(土) 「赦せない思い」
Aさん 人間はというか、自分はなんですが、すごく罪人だと 思いました。 結婚して、義母から辛く当たられてたんです。 昔の人だったから、姑が強いのは当たり前の環境 で来た人だったので。 ずっといじわるだと思って来ました。 でも義母はノンクリスチャンで、自分はクリスチャン、 何とか良い証しをと、懸命に仕えようとして来ました。 やはり救われてもらわないといけないと。 証しにならないと、と思うので、いじわるを我慢して 良い嫁をしていました。 でも、心の中は、怒り、恨み、復讐心が煮えくり 返っていて。 うわべでは良い嫁をしていたが、実は自分も巧妙に わからないように、姑にいじわるをしていたんです。 嫌いでした。 ほんとに罪人だと見せられました。主の御前に悔い 改めて、心の何もかもを告白しました。 憎しみ、敵対心、報復したい感情、洗いざらい ありのまま、祈りに持って行った時に、 奇跡のようですが、苦しかった心、辛かった胸の内が 平安ににされてしまったんです。 自分の心が癒されて、平安の内に、それが楽しく義母と 交われるようになったんです。 神様のみわざです。感謝しかないです。 Bさん わかります。私も嫌な相手がいました。嫌で嫌でたまらず、 でも、嫌うと、胸の奧が苦しく辛いんです。 目の前の忙しさで、忘れている時はいいのですが、ふっと思い がよぎると、もうダメで、心が暗くなり、重苦しくなる。 ずっとその繰り返しの状態でした。 苦しかったです。イエス様に出会って、赦すべきなんだと思うが 赦せない。 ずっと赦せず、でも、赦せない思いは、辛く苦しい。 赦せないこと、赦したくないことを、祈りに持って行って、ずっと 祈って行きました。 長く赦せなかったのですが、長く祈って行った時に、赦すこと ができました。全く自分でなく、神様の力です。 あれほどの胸の辛さ、苦しみが消えました。 主の平安を経験させられ、神様のみわざはすごいです。
2019年10月10日(木) 「御霊の声に従う」
Aさん 心がくじけて、沈み込んでしまう事態がありました。 しんどい状況にあった時に、一方的に非難されてしまい、 それがずれた非難だったので、心辛くなってしまい、重く沈んで ずうっと沈んで行きそうでした。 その時に、「信仰を使うのは、今だ!」と、神様に言われた気が して、神様に向いた時に、 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について 感謝しなさい」Tテサロニケ5:16 の御言葉が心に沸き上がって、沈み込んでいた心が、一気に 引き上げられました! Bさん 非常に忙しい毎日に、ふっと、一人の時間が出来ることがある んです。 何か、神様が「今、デボーションしなさい」と言われている気が するんですが、 その声をスルーしてしまって、ぼやっーとテレビ観たり、居眠りして しまったり、ぐずぐずして、すぐに時間が無くなってしまうんです。 何回か、同じ事を繰り返して、はっと、御霊の導きだと気づかさ れて、従って、デボーションしたんです。 すると、すごく恵まれて。御言葉が心に入ると、全然違って、 神様と交わると、ほんとに心が変えられて、その後の時間が 平安に過ごせることを経験しました。 御霊の声に従うことが大事だと教えられました。 Cさん 御霊の示しに従う時、ほんとに実を結んで行くこと経験します。 この間も、ちょっと子供のことで、不安になる事があって。 子供のことって、一番心に刺さり、不安が不安を呼び、もう 子供がこの先、ダメになってしまうところまで、進むんですよね。 いつも学ぶように、サタンからの妄想で、最悪のシナリオが すぐに出来上がる。必ず最悪なんですよね。 ふっと御言葉が来たんです。 「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる 祈りと願いによって・・」ピリピ4:6 突然、あ!と、我に返って、思い煩いに引っ張られてたと気づ かされ、そうだ!「何も」、「いっさいがっさい」、思い煩うなと言われていると。 神様が絶対に良くして下さる、導いて下さると思った時に、 すっかり平安になってしまったんです。 神様を経験しました。 御霊が働かれ、その御霊の示しに従った時に、みわざを見せられて行く!!
2019年10月06日(日) 「祈りの答えを通して」
神様への信頼は、少しづつ、祈りに答えられた経験の 積み重ねで、増し加えられて行くことを教えられる。 Aさん イエス様の十字架の救いを聞いた時に、信じたいと思い イエス・キリストを信じました。 でも、ずっと教会へ行けたり行けなかったりで、なかなか神様の ことがよくわかりませんでした。 そんな中で、御言葉の学びの機会があり、少しづつ学んで 行きました。 頭ではわかるのですが、実感が無い状態が続きました。 しかし、次々と問題が起きて、どうしても指針が欲しかったから こそ、続けて行けたと思います。 でも、実生活で、試練は多く、次々と苦しみが臨んで来ました。 祈らざるを得ない状況に、学びに従って、神様に祈りました。 神様の事は実感持ってわからないながら、祈りが答えられる 事を、経験して行きました。 些細な事から、重要な事まで、祈りが答えられて、目の前の 事が導かれて行くことを、見せられて行きました。 その祈りに答えられる経験が積み重なった事が、神様が わからないながら、不信感というのは無かったです。 かなり年月が経た時に、神様の愛ということが、どうしても わからず、そんな時、自分は神様の愛を信じようとしていない ことが示されました。 紆余曲折の人生だったことも、影響しているのか、素直に 愛を受け取れ無かったのだと思います。 神様の愛を信じようとせず、受け入れていない事に気づか され、受け入れますと祈れました。 そう思えたのは、わからないながらも、祈りが答えられて来た ことで、神様を信じれたのだと思います。 そして、全く実感は無いまま、神様の愛を信じますと祈った 時から、変えられました!! 神様の愛がわかるようにされました。 時間をかけながら、少しづつ少しづつ、私にわかるように、心に 働きかけて下さった、それこそ神様のご愛に感謝です。
2019年10月01日(火) 「瀬戸際で」
瀬戸際の叫びに、祈りに主が答えて下さることを見せられ、 励まされる。 Aさんが、親族の事情で、遠方からこちらに引っ越されて来た。 ただ一人のご家族が、施設からの転所がかなわず、離ればなれ のままだった。 何とか近くに転所をと、いつもいつも涙ながらに祈っておられた。 心が痛んで、痛んでと。遠方でちょっと訪問というわけにも 行かず、会うことができない。 申請も出しているが、幾らたっても、かなわず、日にちがどんどん 過ぎる。 会う度に、涙で祈られていた。 かなりの日数が経た頃、あれほど願いに願っていたAさんが 「近くへの転所が、もし主のみこころで無いのなら、それも 受け入れます。もし離れたままが主の御心なら、受け入れます。 それでも構いません。すべてを主にお委ねします」と涙を流して祈られた。 あれほどの心の底からの願いを、明け渡されたことに、献げられたことに 驚き、本当に恵まれた。握りしめていたものを、主の手に渡された。 すると、何と!、その週に、転所の連絡が来た!! もうびっくり!!し、主に委ねることの、幸い、祝福を目の当たりに見せられた。 今は、転所が実現し、喜びと安堵の中におられる。 Bさんも、やはり瀬戸際に立たされた。 “彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨も またそこを祝福でおおいます”詩篇84:6 試練の“火の中、水の中”を通り、“涙の谷”を通った。 これ以上無いほどの、辛い苦しいところを通った。 一日の内に、一人になる時間があり、そこを祈りの時間に決めていた。 その時間には、とにかく涙が止まらず、号泣となり、苦しみ悲しみを 主にことごとく告げて祈った。 毎日毎日、幾ら泣いても泣いても、涙は枯れず、止まらない。 主に聞いて頂いて、主との交わりによって、支えられていた。 そんなある日、もう限界だと、主に祈っていた時に、ふっと目を上げると 空に虹が。それも大変珍しい二重の虹!! 主だ!はっきりと、主の答えとだと感じた。どんなにか慰められ、力づけられた。 新しい力が与えられた。主が必ず良くして下さると、心平安にされた。 そして、時を経て、その試練は、見事に解決を与えられた。 平安と素晴らしい喜びへと成就を見た。 瀬戸際には、特別に主が近くいて下さる。