2020年03月27日(金)
  「思いとは違う『益』」

「万事益」の学びをしていて、

★Aさん「自分の思い通りでない、思いと違うことが起きて、
自分の思い描いた事柄とは違うので、戸惑い、でも、
万事益にして下さるはず、良いことになると思っていました。

ところが、事態はますます思いとは逆方向へ。
祝福に変えて下さる、良きになると思っていると、事態は
更に悪化。

もっと痛い辛い出来事が起きて、もう、一体どうなっているのか、
わけわからず、ただただ祈るばかりとなり。

益にして下さる、良くして下さると思っていたが、更にひどい
事態となり・・と祈って行き、

心の思いや、気持ち、ありのまま吐き出していると、恨みや
怒り、愚痴、憎しみが噴き出して来て、

自分のありのままの姿を、御霊によって見せられました。
自分で気づいていない、恐ろしい肉の姿でした。
闇に光が射した瞬間でした。

まさに、悔いくずおれました。心から悔い改めました。
痛く、辛い、苦しい心が、痛みが全く消えて、すっかり平安
になりました。
これが「益」で、大きな祝福だったのだとわかり、喜びが満ちました」



★Bさん「私は、大きな、大きな悩みがありました。
どこへ行っても解決はなく、癒しもなく、心が晴れることもあり
ませんでした。

丁度、近くに教会があったのですが、でも、何か『きっかけ』がないと
なかなか足を運べないものです。

そんな時、不思議に、教会関係者のクリスチャンとの出会いが
あり、誘ってもらい、来れました。神様ですよね!!

教会で、御言葉を学ぶ内に、状況はそのままですが、神様
を知って行けて、『感謝』という、今まで全く無かった価値観、
思いが生まれました。

神様に感謝する、その神様にはご計画があり、今はわからない
が、万事益となり、愛であり、慈しみ深い神様は最善しか
されない・・だから、『感謝』なのだと、知って行けました。

今まで、全く感じたことの無かった『平安』が心に生まれました。

状況は変わらず、このままの状況で、先はどうなるのかと
思うと、不安と思い煩い、恐れに襲われそうになりますが、

この事も、素晴らしい「益」として下さると思う時、
希望が持てます。
あ、神様に委ねればよいのだ、先をご存じの神様に
お任せすればよいのだ、と思う時、平安になります。

自分の思いと違ったとしても、どうであれ、神様は最善を
して下さると信じれます。

本当に救われました」

2020年03月25日(水)
  「圧倒された」

ローマ8:28の「万事益」の学びをしていた。

その時に、もう30数年前のことが、鮮明に思い出された。


他教会のクリスチャン婦人Aさんのご実家が、丁度私たちの
教会のすぐ近くだった。

それで、まだAさんの親御さんがお元気な頃、大きな休みに
親御さんをみるために、帰省された時には、礼拝に来て下
さっていた。

いつもお世話のために、すぐに帰られていたが、ある時、少し
交わりの時間が与えられた。

ご家族の事とかをお聞きしていた時に、子供を交通事故で
亡くしたんですと話して下さった。

え!と、もう、びっくりして、大変だったですね、悲しかった
ですねと会話した。
どんなに、お辛かっただろうと。

「はい、その時は、もう悲しくて、悲しくて、どん底で、ずっと
泣いていました」

「でも、感謝なんです。本当に感謝なんです」と言われた。

「でも、子供が亡くなるなんて、どんなに悲しいか」と言うと、

「でも、ほんとに感謝なんです」との言葉に、更に驚き。

「悲しみのどん底で、最初は何も考えられず状態だったの
ですが、しばらくして、神様に、心の内も何もかも話して
祈っていたんです。

祈り続けていた時に、御言葉が与えられたんです。


“一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つの
ままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます”ヨハネ12:24


子供は、神様の一粒の麦なんだと。子供の死を通して、
豊かな実を結ぶのだと。

御言葉に支えられて、御言葉から光と希望と力が来て、
立ち上がれたんです。心が平安にされました。


“人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と
思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます”ピリピ4:6
まさにこの平安でした。

悲しみと辛さしかなかったのが、希望が臨み、信仰思って
神様を見上げることができるようにされました。


そんな時、事故の補償金が入って来たんです。
祈りに祈って、神様の栄光のために、子供が喜ぶことのために
用いたいと祈りました。
子供は、神様を信じていて、喜んで教会学校に通っていました。

それで、同じように救われる子供たちが起こされるように、そのために
用いて頂きたいとの志が与えられました。

それで、小さな集会所を建てました。牧師先生に来て頂いて、
近所の子供さんを集めて、そこで教会学校を始めました。

沢山の子供たちが来てくれて、救われて行きました。
そして、子供だけでなく、大人の集会も開かれるようになった
んです。大人の方々も救われて行きました。

もう感謝で、感謝で!!感謝しかないです。
子供も天で、子供たちも大人の方々も救われて、どんなにか
喜んでいることかと思います。感謝です。

「ほんとに感謝なんです。ただただ感謝なんです」と言われる時に、
この世の喜びでない、御霊の喜び、霊の喜びが与えられておられる
と、びんびんと伝わって来て、もう圧倒された。


“あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに
変わります”ヨハネ16;20

御霊の喜びが心に満ちる時、悲しみも苦しみも、勝利とされる。








2020年03月24日(火)
  続・「何も失っていない」

前回の、携帯紛失で、以前の盗難事件を思い出した。

小さ目のセカンドバッグを持って、スーパーで買い物中だった。

その時、食料品の買い物が多くて、かご一杯になっていた。

少し先の棚の、食品を一つ取るのに、食糧いっぱいのカート
にバッグを置いたまま、すぐそこの目当ての食品を取りに行った。

ほんの一瞬、そちらに目が行ったスキに、数歩戻るとバッグ
が無かった。

あー、やられた〜
しばし呆然。がっくり。

店に連絡すると、事務所に通され、保安係さんが対応してくれる。
即、店に、不審者がいないか、走ってくれる。
が、「もういるはずないですよね」「そうですねえ」。

すぐに、「お手元、身の回りの持ち物にご注意下さい」のアナウンス
が流れた。

「近くに怪しい人はいなかったですか。何か気づかなかったですか」
と聞かれる。

「いやあ、まず、そういう目で見てないですからねえ。全くわからないです。
そういう人って、何か違うんですか?わかるんですか?」

「いや、もう全然違います。一目でわかります。盗もうとしています
からね、もう身体全体に緊張が走ってるんです。普通のお客さんとは
全然違います」

「警備員が、私服でずっと店内回ってるんですよ。ちょくちょく盗難ある
んです。でも、お客商売ですし、余り露骨にアナウンスもできなくて」

「まあ、そうですよねえ」

色々内情も知る。

財布もカードもすべてバッグの中で、手元に全く何もない。空手だ。
何も無いと、初めて気づく(笑)


電話をどうぞと言われ、電話を借りて、夫に連絡。
「大変だったね」とすぐ迎えに来てくれて、必要な買い物も済ませる事
ができた。


何で入れてたかなあ、10万ほどと、切手類や商品券も、ああ、喪失感・・
免許も更新に行かなくちゃ、面倒かも・・


でも、夫と帰りながら、心を神様に向けながら、不思議に心があたたかい
温もりで、いっぱいになる。主が共におられる(*^_^*)
不思議な慰め、平安が心に(^^)

神様がいて、夫がいて、目に見えない沢山の恵みと祝福を与えられていて、
「何も失っていない」と知る(*^_^*)

突発事態が、豊かな恵みに変えられた(*^_^*)

2020年03月23日(月)
  「ありかをご存じ」

先日のこと、携帯を無くしてしまった。

家のガレージに戻った時に、バッグに無く、気づく。
あ〜あ、やってしまったようだと、思う(>_<)。

いつも学んでいるように、「すべてのことについて感謝せよ」が鉄則で、
とにかく、携帯を落としたことを感謝します、見つかりますようにと、祈る。

そして記憶をたどると、ショッピングセンターの最後の食料品コーナーで、
品物を袋に入れる時に、台に置き忘れた可能性が、一番高いように思う・・。

夫が、携帯で、私の携帯にかけてくれると、
「電源が切れているか、電源の届かない〜」のアナウンスが流れる。

うん?? 
30%ほどまだバッテリーが残ってたので、呼び出し音が鳴り続けるはず。
そのアナウンスにはならないはず・・。

誰かの手を通ったってこと??盗難にあったか??

今まで、紛失した事、盗難にあった事等あるが、返って来たことは一度も
無いことを思い出す・・

街中でセカンドバッグを落とした時も、交番に行くと、残念ですが財布が
入っていたら、返らないと思って下さいと・・


神様とにかく電話しますと、家電話から、すぐに、その最後の食料品店に、
忘れていないか電話する。

するとサービス係さんが、その忘れ物はこの食品コーナーには無いですと。

うーん、無いか。神様、無いそうです。
カード類も一緒に入れていて、あちこち連絡して止めないといけない
と頭が巡る。

で、その係員さんが、この建物の他店の忘れ物等々もあるので、調べて
連絡しますと。


神様に祈りつつ、見上げつつ、不思議な感覚になる。
「でも、神様、あなたは、今、私の携帯がどこにあるか、ご存じですよね」

主は、ありかを知っておられる。
とても不思議な感覚で、主が共におられること、目を留めて下さっている
ことに、安堵と平安になる。
不思議・・

窮地に、共におられる主を感じ、実感し、もし見つからないとしても、
主と共にこの対処にあずかって行けばよいと思い、主が共におられる
平安を経験した。

そんな数分後、先ほどの係員さんから、電話がかかり、「他の店に
ありました!」と。
その前に行った店で、携帯支払いして、荷物を持った時に台に置き
忘れたようだった。


イエス様が共におられる、不思議な恵みに包まれた出来事でした(*^_^*)






2020年03月21日(土)
  「心に響く祝辞」

三原の沖牧師が小学校のPTA会長をされていて、卒業式
の祝辞です。

「心に沁みた」「心に響いた」「ものすごく感動した」と
保護者の方々から大きな感動が。
クリスチャンが聞いても、恵まれ心に沁みて来ます。

<祝辞>
世の中がどんなに騒がしくても、春は忘れずいつものように
やって来て、暖かい日差しで虫たちを冬の眠りから目覚め
させ、優しい風を運んで、枯れていたかに見えた寂しい山の
木々を芽吹かせています。

まるで何が何でも皆さんの門出をお祝いしているようです。
ですから、私も今日、お出でになれなかった多くの方々を
代表して、声を大にして申し上げます。

六年生の皆さん、保護者の皆様、御卒業本当におめでとうござ
います。心よりお祝い申し上げます。

さて、こんな時だからこそ皆さんに心からお勧めします。
どうか共に過ごした仲間をその絆を大切にしてください。

人はだれもが弱く決して一人で生きていくことはできないの
ですから。私たちは今、いつも当たり前に思っていたものが
如何にもろく、簡単に失われてしまうかを、嫌というほど経験
させられています。

そんな時、いつまでも残るのは人と人との確かな絆であり、
大切なのは互いに助け合うことなのです。

そこで、「へりくだって互いに人を自分より優れた者と思いな
さい。」という言葉を皆さんに贈ります。

何でもできる完璧な人はいませんし、それを目指す必要もない
と思います。なぜならできないことは決して恥ずかしいことでは
ありません。

あなたにはあなたにしかできないことが必ず用意されています。
人と比べず、自分にまかされている能力を一生懸命伸ばして行
けばよいのです。

ですから、皆さんはいつでもへりくだって、つまり、自分の弱さ
を認め、反対に周りの人の自分よりも優れている所を見つけて
仲間を尊重し、互いに助け支え合うなら、あなたはすばらしい
仲間を持つことができます。

そして、自分で自慢しなくても仲間があなたの良い所を見つけて
誉めてくれることでしょう。

そのようにして培われた須波小学校の仲間をこれからも大事にし、中学校でもその和を広げて行ってください。

最後にもう一つ、「万事が共に働いて益となる」という言葉が
あります。今の大変な時も皆さんの人生にとって必ず良い経験
として益となると信じます。

皆さん、決して病なんかに打ち負かされてはいけません。
皆さんの団結力をもって必ず打ち勝ってください。

最後に校長先生はじめ教職員の皆様、六年間子供達を温かく
ご指導いただき有難うございました。また、保護者の皆様、
6年間PTA活動にご協力いただきありがとうございました。
この場をお借りして御礼申し上げます。

中学校での生活が祝福に満ちたものとなることを心から祈りつつ、お祝いの言葉といたします。

2020年03月09日(月)
  「光に照らされる」

Aさんが証ししてくれた。

対人関係で、ひどく傷つくことが起きた。
心が、ぐさっと、裂かれるようで、心は暗く、押しつぶされそうだった。

傷つけて来た相手が、どうしても赦せない。
憎む心がむくむくと起きて来る。怒りが沸いて来る。

憎しみ、恨み、怒り、赦せない思いがふつふつと沸いて、心は
暗く、喜びはない。平安は無く、自分が辛くて、苦しくてたまらない。

しかし肉は握っていたい。嫌っていたい。赦せない。
赦したくない。

でも、心は苦しくてたまらない。何とかして欲しい。
何もかもを祈りに持って行った。

心の内を吐き出し、感情も思いも、気持ちも、内側のドロドロを告げて
行った。
主の御前に祈っていた。

すると、相手を糾弾して、指さしていた、その指が自分に向けられた。
御霊だった。

まさに姦淫の女性が、イエス様のところへ連れて来られ、皆で責め、嘲り、
追求し、罪定めをし、指さしていた。

その時、イエス様が「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に
石を投げなさい」と。ヨハネ8:7


相手を責め、罪し、さばいているが、自分はどうなのかと。
自分の内側を御霊に見せられた。

すると、自分の内側の罪が、次々と見せられ、溢れて出て来て、
何という罪人、何と罪深い者と、圧倒され、恐ろしくなった。

全く気づいていない罪を、次々御霊の光で、気づかされた瞬間
だった。

もう恐ろしくなり、主の御前に、心から悔い改めた。

その時、あれほど辛くて、重くて、苦しかった心が、すう〜っと
平安になった。心に喜びが来た。

自分の方がもっと罪が深いことを見せられ、赦せるように
して下さった。主の奇跡だった。


姦淫の女性を、糾弾し、問い詰めていた人々は、主の指摘に
全員、逃げた。
だから、変えられることも、平安も、喜びも受けることができなかった。

罪に向き合ったAさんは、平安に変えられた。





2020年03月06日(金)
  「試煉を受け止める」

主に在る友に、大きな試練があった。

試煉は信仰生活で、何度も経験するが、嬉しくなく、必ず痛いし、
苦しく、悲しい。御言葉にある通りだ。

“すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって
悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された
人々に平安な義の実を結ばせます”ヘブル12:11

喜ばしくなく、悲しい。

しかし、やはり、試煉を、試煉として受け止める時に、神様に
焦点が合い、神様が見えて来る。

逃げて避けようとすると、痛いばかりで、辛いだけだ。
神様も見えない中、余りに痛いと、無意識にも自分を無感覚に
してしまう。

いつか試煉は無くなるが、神様を知ることもなく、霊の喜びもなく、
何の成長もないことになってしまう。

苦しい中で、祈り、神様を求めて行く時に、御声が聞こえ、
御言葉が臨んで来る。


主には一つも無駄はなく、ご計画の中にある。

“わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。

それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに
将来と希望を与えるためのものだ”エレミヤ29:11

今、先が何も見えず、トンネルの中だが、ご計画の中だ。

一見災いにしか見えないが、わざわいではないと。
この事態が、平安の落とし所に必ず導かれる。

目に見えるところは、全くどうしてよいかわからないが、見えるところ
は不安と恐れしかないが、御言葉を受け止めて行くと、光が来る。
希望がある。

思いもよらない、想定外の事が目の前に、起きるが、「万事益」
を信じる。

“あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて
くださる”詩篇37:5

主に信頼して行こう。

御言葉を語られ、主を見上げて祈って行った時に、主は解決の
糸口へと導いて下さった。






2020年03月04日(水)
  「今まで与えられていた恵みに気づく」

Aさんから、祝福の連絡があった。

今、世の中どんどん自粛〃、縮小〃で、それでなくても
閉塞感でいっぱい。

特に気管支が弱いBさんは、普通でも咳が出る。
今、街中で咳でもしようものなら、周囲の視線が刺さる。
ささっとまとめ買いをし、ひたすらひきこもっていますと(^^;)

Aさんは、クラッシックコンサートが大好きで、それが
生活のリフレッシュとなり、癒しとなり、楽しみだった。

ずっと以前から楽しみに購入していたチケットが、すべて
軒並みに中止。
一番の楽しみだっただけに、がっかりし、落胆し、悲しく
なった。
それでなくとも閉塞感のところ、気落ちし、気持ちも沈む。


そんな時、神様から
「すべての事について感謝しなさい」
「あふれるばかりに感謝しなさい」
の御言葉が語られた。

その時に、はっと我に返れて、ああ、感謝が無かったと
神様に焦点が合った。

そして、今まで素晴らしい楽しみが与えられていたこと、
ずっとコンサートに行かせて下さっていたこと、良いリフレッシュ
を与えて下さっていたことに、思いが至った。

心から感謝が溢れました、と。

無くして初めて、今まで与えられていた事の感謝に思いが
至るのですねと。

コロナはいっときの不便、不便を通して、沢山の与えられていた
事の恵みに気づけることに感謝。

当たり前にしか思っていなかった事への、今一度恵みに感謝
できることが感謝!!

2020年03月02日(月)
  「“我慢”は違う」

Aさんが、「私ずっと、聖書の“忍耐する”というのは、我慢だと勘違い
していました。
だから、ずっと嫌な事や、試練や、辛い事、苦しい事があると、我慢して
いました。

我慢なので、ぐう〜と心の奥に押し込み、抑え込んでいるだけなので、
それは、ずっとそこにそのままあって、出て来そうになると抑えつけて、
自分はずっと辛かったです。

でも、あ、自分は勘違いしていたんだと、気づかされて。
聖書に出て来る忍耐は、自分を抑えこんで、我慢することでなく、

神様を信頼して、神様が必ず良くして下さると、信じることなん
ですね。
ものすごく楽になり、解放されました!!

我慢は、辛く苦しいですが、神様がこの苦しい事態を良くして下さる、
必ず最善に導いて下さると、信じることは、すごく平安で、感謝です。



前述の、天に帰られた主に在る友のAさんが、かつて証しして
下さった。

腕の捻挫と骨折をして、それが非常な激痛で、うめきつつ、
顔を歪ませながら、ひどい痛みをじっと我慢していた。

我慢に我慢をし、余りの痛さに、神様助けてと祈り続けていた。

その時に、ハッと、「我慢」の「我」は、自我の「我」で、「我慢」の
「慢」は高慢の「慢」だと、突然御霊から教えられた。

「我慢」は、自我と高慢から来るものだと。
自分の力で、力の限り耐えて抑え込む、どこまでも自分の力だ。
自分の力を高慢という。

「我慢」するのでなく、主に頼り、主を信頼することが、主の喜ばれる
こと。


目の前の試煉も、自分が何とかしなければと、思っているから、自分の
両肩に何もかもがかかってきて、負いきれず、大きな不安と思い煩いと
なる。
心が暗くなり、落ち込み、恐れに襲われる。

自分が、しようとしている。

主を仰いで、主に拠り頼めるよう、主に信頼できるよう祈ろう。


“主に拠り頼む者は幸いである”詩篇52:8