2003年11月28日(金)
  罪を離れることができた

Dさんが証しを書いてくれた。ちょうど1年前の出来
事だ。神様に従って行こうとする時に、まとわりつく
罪、何気ない会話の中から、はっきりとした罪が浮き
彫りにされた。

罪は離れて、捨てるしかない。Dさんにとれば、命ぐ
らいに大事なもの。自分を護ろうとするので、それを
取り上げようとする、神様への怒りと攻撃心が湧き上
がる。

何とかそれを持ったままで、神様と両方取れる道は無
いのか。しかし、神様からの答えは一つ。「罪から離
れなさい」
行き場が無くなり、悶々とした日々を過ごす。罪があ
るので、祈れなくなり、神様の方を向けない。

「私は、黙っていたときには、一日中、うめいて、私
の骨骨は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私
の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでか
わききったからです」詩篇32:3

悶々の心は暗く沈み落ち込んで行った。そんな時、こ
のままでは神様から離れてしまう。本当にそれでいい
のかと、真剣に考えた。
いいや、絶対に、愛して下さったこのお方を離れるこ
とは自分にはできない。そう思った時、我に返れた。
そして、神様に向かい、罪を悔い改め、再び祈れた。

「私は自分の罪をあなたに知らせ、私のとがを隠し
ませんでした。「私のそむきの罪を主に告白しよう」
すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」
詩篇32:5

罪を捨てて、大切なものを献げて、神様に従ったD
さん。本当にすべてのことが益で、神様は最善にして
下さることを見せられた。

喜び一杯に、生き生きと、どんな時にも、神様に従っ
ているDさんの姿に、昨年のことを思う時、大きな主
の恵みにただただ、感謝が溢れるばかり。

「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨
てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって
走り続けようではありませんか」ヘブル12:1
by 多恵子

2003年11月27日(木)
  心洗われるよう・・

B婦人の子供Cちゃんが、学校で辛い状態にある。
聞くたびに、心が痛んで、胸が苦しくなる。

B婦人が「もうこれ以上だと、心がどうにかなる
と思い『学校休んだらいいよ』と言ったんです。
でも、子供は『もうとっくに限界は超えてるよ。
休むと、勉強がわからなくなるから、大丈夫、
行く』と。

「以前に、もっと苦しくて、耐えられないほどの
辛い事があった時、でも、その最後は、神様が見事
に最善をして下さった。だから、この事も、神様が
きっと、最終的には、良いようにして下さるとは思
える。
なかなか祈りはきかれないし、試練のトンネルは長
い。でも、感謝もできる気持ちが、心の片隅にある
んよ」とCちゃんが。

大人でも、ちょっと何かあると、ギャアギャアわめ
いて、不平不満愚痴で一杯になるのに、あの小さい
Cちゃんが、大人より、もっと大人だと思った。

試練に耐えるって、こういうことなんだと、目の前
でお手本を見せてもらってるよう。何か、レベルの
違う・・。
その背後に、Cちゃんをしっかり守って支えている、
大きな神様が見えるよう。
心のゴミや目の曇りが、何かきよい水ですすがれて、
心が洗われるよう・・。

試練がずっと続くCちゃんは、神様から特別に愛され
てて、“金のように出て来る”んだね。

周囲からどんな圧迫や害が来ようと、その人が素直に
神様を見続けているなら、それはその人を、気高くし
て行くことしかできないんだ。
by 多恵子



2003年11月26日(水)
  「互いに励まし合い」

今日は、Tさんの退院祝いを兼ねて、食事持ち寄り
婦人会をする。学びと祈りの後、一緒に豪勢な食事。
うわあ〜、バイキングじゃあ〜!!

わいわいがやがやと、いつもながら楽しく、盛り上
がる。四方山話に、霊的恵みが一杯。

B婦人、皆でずっと祈って来た、子供さんの進路が
決定した。「第一志望はダメだったが、本人はやる
だけやったと、すっきりしてて、合格した第二志望
へ行くと喜んでいる。本人は満足していて、本当に
祈りの答えだった。感謝だった。

第一志望を一緒に受験した友達が、一次合格した。
「一緒に喜んであげようね」と、子供に言うと、
「うん」と言い、「良かったね。二次も頑張ってね」
と、自分の持っていた、二次の参考書を全部上げた。
子供のその姿を見て、本当に嬉しかった。感謝だった。

C婦人「子供の現状と、自分が子供について思って
いる状態が、違うことに気づけて感謝でした。
親の言葉を真剣に受け止めて、一生懸命になる。完璧
にしようとするので、出来ない。それが身体に出て来た。
子供に押し付けて、子供を苦しめていた事に気づけて
本当に良かった」

D婦人「子供が今、厳しい試練を通っていて、色々な
思いや気持ち、心の内を子供と話す。小さい頃のあの
時、この時の思いを話してくれて、ああ〜親の気持ち
を押し付けて、育てて来たんだなあと。
親はすべて良かれと思ってやって来たけど、子供のその
つどの状況や気持ちとは、ズレていたんだと、つく
づく・・」

「いやあ、麗しい親子関係ですよお」「ほんとにねえ」

G婦人「何でも好きな道へ行けるよう、それぞれの分野
の門戸が開いていたらいいのにねえ。何をするにも、
とにかく受験しないといけないものねえ」
「そう、だから、知人なんて、もうしっかり勉強させ
る!と言ってる」
B婦人「何?『させる!!』 そりゃあ、ここに来て貰わん
にゃあいけんわ!!」(大笑)
「私なんて、どんなかなあ?進みよるんかな?」と独り
言みたいに、そおっと、気い遣いながら言うんじゃけえ」
「お茶でも入れようかあ」って?(笑)「でも、私も変
えられて、ほんと良かったよ」

美味しい食事をしながら、日常のあれやこれやを話す
が、互いが互いの体験に、教えられ、気づかされ、恵ま
れる。幸いな、祝福の交わりに、霊肉共満たされ感謝!!
by 多恵子



2003年11月25日(火)
  心満たされた

今日はとても心楽しく、恵まれた。

以前、教会に来て下さっていた婦人が、聖書のお話
を聞きたいと、お家に招いて下さった。
遠方から、もう一人の婦人も合流、本当に久し振り。

積もる話が盛り上がる。心尽くしのお昼を用意して
下さっていて、ほんとに心和み、楽しいひと時だった。

気持ちの良い秋晴れのもと、さんさんと降り注ぐ陽
の光に、物音も聞こえない、静かなたたずまい。
のどかさに、心癒されるよう。

話は幾らでも、終りなく弾むが、「じゃあ、聖書のお
話をお願いします!」と、聞く態勢万端。
真剣に耳を傾けられ、その御言葉と日常生活を照らし
合わせて、色々語り合えて、又、盛り上がる。

「日頃生活の中で、神様や、聖書の言葉が心にふっと
ある時、夫婦の間が全然違うんです。
普通なら喧嘩になるところを、私に余裕があって、潤
っていると、穏やかに対応できて、すると、夫も穏や
かになる。互いに思いやり合えて、いい関係になるん
です。神様を感じます」。

もう一人の婦人も「生活の中で、自分でどうにも出来
ない時、祈ります。それが、結果的に、良いようにな
って行くんです。
何があっても、神様のご計画があって、良きにして下
さるんですよね。試練って、痛いけれど祝福なんです
よね。成長して行けることが、生活の中で、よくわか
る気がします」。

環境的に教会へは、なかなか来れないが、神様に少し
づつ触れておられることに、とても心恵まれる。

和やかな楽しい交わりと、御言葉の交わりに、心が解
き放たれ、自分自身が満たされた。

“わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわ
ざを成し遂げることが、わたしの食物です”
ヨハネ4:34

今日、みこころを行なって、不思議な心の満たしを
経験した。食物を食べて、力を与えられた感じ。
by  多恵子

2003年11月18日(火)
  欲と誘惑

「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おひき寄せ
られて、誘惑されるのです」ヤコブ1:14

昔、子供達が小さい時、私は子供の写真を撮りま
くっていた。夫は、その以前からカメラが好きで、
趣味だった。

そんな時、デパートのイベントで、「写真撮影教室」
なるものが催された。みっちり4時間もある講義と実習。
まず、カメラの構造から教えてくれて、技術的なもの、
更に、美術的な方面からのノウハウも教えるという。

夫が、これを聞いておけば、同じ写真撮るにも、いい
ものが撮れるよ、行って来たらいいよ、と言ってくれる。
子供達もみているから、行ってきたらと盛んに勧めてく
れる。
育児や家事、働きで、24時間営業状態の身には、そこ
から解放されて、4時間フリーというのだけでも大い
なる魅力。
しかし、これだけのお膳立てがあっても、結局行かな
かった。

なぜ、行かなかったかと、よくよく考えてみると、「関心」
がないから。行けない。気力と行動が起こらない。動け
ない。少しでもあれば、行ったかも知れないが。

この時、伝道しているが、未信者にとってもそうなんだと、
つくづく思った。関心のない時に幾ら言われても、どうに
もならない。それぞれに「神の時」があるんだと。

そして、誘惑に関しても、関心のないところは、誘惑に
なり得ないことがよくわかった。まず食指が動かない。
つまり、関心のあるところが、誘惑されるところであり、
強い関心に、誘惑が来るのだと。

自分の内にある欲望、様々な欲望、弱さが聖霊様によって
よく気づけるように。

「明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らか
にされます。明らかにされたものはみな、光だからです」
エペソ5:13

気づけた弱さは、祈ることができる。弱さが見えていて、
祈れるなら、問題ない。光のもとにさらされて、見えて
いるから。

見えていない自分の欲、見ようとしない弱さが、危険で
あり、暗やみであり、足もとすくわれるんだと思う。

聖霊様の光によって、自分の内をくまなく見せて頂け
るように。見たくない弱さも。神様が見ておられる
ように。

「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主に
あって、光となりました・・光の結ぶ実は、あらゆる
善意と正義と真実なのです。」4:8

by  多恵子



2003年11月17日(月)
  サタンの誘惑

昨日の礼拝メッセージ。誘惑について、とても教え
られた。
創世記3章の、アダムとエバが罪を犯した箇所から。
神は、溢れるほど沢山ある木から、1本だけ、食べ
てはいけないと禁止された。

エバが蛇の誘惑を受けた時、その木のそばにいた。
その木のそばにいて、誘惑を受けた。

数えきれないほど多くの木がある中で、なぜその指定
された木、善悪の知識の木のそばにいたのか。

例えば、広島に多くの家があって、神が一つだけ指定
され、広島市南区仁保南1丁目15−27の家へだけ
は行ってはいけない、と言われたとする。

そう指定されて、その家にいたとしたら、どういうこ
とか。
意志して、そこへ行ったとしか考えられない。うかっと、
気がついたら、その家にいたなどと、あり得ない。

エバは、取りも直さず、まさに神の禁止された、その
木を意志して、目指していたのだ。禁止されたその木
の実が、食べたかった。

誘惑される、そのところに、ピッタリの欲望が内にすで
にあって、罪への強い関心がある。関心の無い
ところは、誘惑にならない。
誘惑される以前に、すでに、折りあらばしようとしてい
たりする、潜在的な強い思いがある。

内にある欲望が、一番の問題であることを見せられて
感謝だった。どこまでも罪深い。

木の実を食べた、そのことの底にあった神への反逆心、
神なしでやって行けるという高慢、内にある罪の性質、
肉の性質は神への反逆心そのもの。

アダムとエバは、いちじくの葉をつづり合わせたが、
それではだめで、神は、羊を裂いて皮の衣を作り、
彼らに着せてくださった。
そして、神は、「新しい衣」でなく、「新しい人」を
着せて下さった。

「あなたがたは古い人をその行ないといっしょに
脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。」コロサイ3:9

「新しい人」は、イエス様。
自分の力で、神なしで生きようとする「古い人」、肉は
どこまでも自分の栄光であり、自分の力を誇り、自分の
評価を求める。その誘惑がいつでも来るということ。

新しい人、イエス様をを着せて下さった、ここに救い
があり、何という神の恵み。

「新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます
新しくされ、真の知識に至るのです」3:10
 by  多恵子