2024年09月08日(日) 「子どもでなく、実は自分のため」
<Gさん> 教会へ来るようになり、イエス様を信じ、救われて。 聖書の学びや、夫婦・育児の学びをする中で、自分 の間違いに気づかされました。 子育て時代は、まだ神様を知らず、未信者でした。 ・・・・・・・・・・・ 「自分が」良かれと思うことを、子どもに押し付けて 来たことがわかった。 自分の思いばかりが強くて、子どもの「気持ち」に、 思いが至らなかった。 結局、親の自分中心だと、気づかされた。 子どものためにと言いつつ、実は自分のためであると。 ・・・・・・・・・・・・ 自分が、良かれと思う、自我だと。 失敗をさせまいとして、転ばせまいと、石を取り除 いて来た。それが過保護ですよね。 自分が、子どもが転ぶのを見るのが、痛いからで、 あって、それも自分のため。子どものためではない。 逆に、子どもを損なって来た。 ・・・・・・・・・・・・ 聖書には、「蒔き刈りの法則」があって、蒔いたのものは 必ず刈り取るとある。 子どもが、自分の失敗を、自分で刈り取って始めて、痛い 思いをし、次に、失敗しないように、学べると知った。 親が、子どもの失敗の尻ぬぐいをすると、子どもは学ばず、 成長が無い。痛い目を見るのは本人のためだ。 忘れ物をして、立たされる。宿題を忘れて、立たされる。 痛い目を見て、恥ずかしい思いをして、自分で、次は すまいと学ぶ。 何をしても、親が尻ぬぐいをすると、全く学べない。 ・・・・・・・・・・・ アルコール依存症の夫の、尻ぬぐいを妻がして回る なら、夫は全く痛い思いをする事がないので、止む ことはない。 自分で尻ぬぐいをさせ、恥ずかしい、痛い思いをする 時に、止めようとして行く。 「思い違いをしてはいけません。 神は侮られるような方ではありません。 人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」 ガラテヤ6:7
2024年09月07日(土) 「変わるべきは、自分」
<Cさん> 「ちょっと、もめ事があり、トラブルがありました。 どこまでも、相手を変えよう、状況を変えようと してしまいます!! いつも学ぶように、「相手」と「自分の過去」は 変えられないんですよね(^-^; 自我が強くて、自分はそのままで、相手と状況 を変えようと必死になる。 そして、「あ!」と気づくんです。 そうじゃないんだと。 変えるのは、自分自身なんですよね。」 ・・・・・・・・・・・・・・ <Dさん> 「あ、わかる〜。同じです〜!! 肉があって、古い価値観、自我、根深く培われ ていて、自分は棚上げで、どうしても相手と 状況を変えようとする。 対人関係で、問題起きた時に、相手を 変えようとすると、もう、実の無い、不毛 の戦いになりますね。 疲れ果てて、何も変わらない。相手も変わらない、 状況も変わらない、自分も変わらない(笑) 何も変わらず、ヘトヘトになり、力尽きる(>_<) ・・・・・・・・・・・・・ 子どもが思うようにならない事で、よく経験 します。 自分の思い通りにしようとしている事が罪 ですよね。 でも、主のもとへ行く時、本当に御言葉与え 事態を導いて下さることに感謝です。 ・・・・・・・・・・・・・・ いつも疲れ果てる時、 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、 わたしのところに来なさい。 わたしがあなたがたを休ませてあげます」 マタイ11:28
2024年09月06日(金) 「自分に見えない<梁>」
Aさん 生きてる限り、ずっと対人関係がありますよね。 職場や、家庭、近隣、いろんな対人関係に囲ま れてるのですが、 どうしても、裁いてしまうんです。 相手の言葉や態度に、カチン!と来るし、ムカッ と来る。怒りが湧く。罪に定めてる。 相手を裁くのは、自分が正しいと思っているから ですよね。 自分が正しくて、相手が間違っている。そう思って いる。 自分が正しいとしか思えない。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ Bさん そうなんですよね。御言葉の通りですね〜。 「さばいてはいけません。さばかれないためです」 「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに 目をつけるが、自分の目の中の梁には気が つかないのですか。 「兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせて ください。』などと、どうして言うのですか。 見なさい、自分の目には梁があるではありませ んか。 偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。 そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちり を取り除くことができます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 人のちりを見てを裁くが、自分の目の中に梁である 丸太があるんですよね。 自分の目だけは、自分では見えないので、梁が 見えないんですよね。 相手を裁くばかりで、自分の罪は全く見えない。 ただ、ふっと「梁がある」との御言葉が思い浮かぶ んです。 悔い改めさせられています。 御言葉に立たないと、自分では見えないって 恐いですね。 御霊と御言葉に感謝です。
2024年09月04日(水) 「砕かれた・わかった」
遠方の知り合いAさんが、「砕かれないと、神様の ことは、わからないですねえ」と。 10数年、毎週ではないけど、教会に通っていたん ですけどね。何だか、全然わからなかったです。 わかりたいとは思うんですけど、そんなにどうしてもと いう熱意ではないし、ぼんやりしたままでした。 でも、まあ教会は嫌ではないから、わからないまま、 通っていました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ そんな中、試練が来たんです。もう苦しくてたまらず、 悶々状態で、行き詰まってしまい、初めて心の底 から、神様を求めました。 というか、求めさせられました。もうどうにもならず、 神様にゆだねざるを得ず、ゆだねさせられました。 今まで、沢山学びをして、頭での理解だったことが、 膚でわかるというか、御霊によってわからせられ、 初めて、心に平安と喜びが来ました。御言葉は 本当なんだと、身を持って実感しました。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 砕かれたんですねえ。 あんなに痛くて辛いことは無かったですが、ほんと に感謝でした。 まさしく、「苦しみに会ったことは、幸せでした」の 通りで、アーメンでした。 ★★★★★ Bさんも、 自分は自我が強くて、自分の思いが強くて、思い 通りにやって行きたい。 神様から、色々示されていた。生活を変えるよう に、あれこれ御霊の促しを感じていた。 でも、自分にとって、そこは変えられない、あれや これやあって、自分を通していた。自我ですよね。 やはり、いろんな時に、神様の示しを感じていた。 でも、どうしても従えなかった。 握りしめているものが、自分にとって命になって たのかも。偶像ですよね。 ずっと、従わずぐずぐずしていたら、ガーン、 ドカーンと、大きな試練が来て。 砕かれた。 もうガーン!!頑なで、強情な自我がどうにも ならず、でも、神様が、砕いて下さったんだなと。 感謝でした(*^^*) ・・・・・・・・・・・・・・・ 「あなたは人々に、私たちの頭の上を乗り越えさ せられました。 私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。 しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出され ました。」詩篇 66:12
2024年09月02日(月) 「結局は自我に行きつく」
信仰生活、結局は、すべての妨げが「自我」に起因 しますよね〜!! 対人関係で、相手から、ムッと来ることを言われると、 言い返したい。倍返し、何倍返しをしてでも。 自我に触れるから。 嫌いな人は、顔を見るのも嫌で、嫌っていたいですよね。 関わりたくない。愛せよと言われても、愛したくない。 自我。 自分の思い通りにしたいという、ものすごく頑固な意志 がありますよね。 神様が、砕いて下さるために、思い通りにならない事態 を起こされるが、神様が見えないで、状況だけが見える と、反抗する。 心砕いて、へりくだって、受け入れることをせず、どこま でも、状況を変えて、自分の思い通りにしようとする。 自我。 そうならなければ、周囲を責める。 自我。 何かが起きると、すぐ自分が動いてしまう。だから自分の 肩にすべてがかかるから、重くて、不安で、思い煩う。 神様に頼らないで、まず、自分が動く。 自我。 自分は正しい。自分の判断は正しいと思っているので、 主を仰がず、神無しで動いてしまう。 自我。 結局、自分が心の王座に座っていて、御霊を心の隅に 追いやってしまっている。 好きなようにするのが、心地良い。 自我。 神様に従おうとするほど、自我の存在がわかり、妨げて くることがわかる。 主は、その自我の解決も与えて下さって、十字架で一緒に 釘づけて下さった。 手を取って、信仰の成長へと導いて下さることを 信じ、感謝(*^^*)
2024年09月01日(日) 「自我が握りしめて放さない」
学びと交わりの中で。 「思い煩い」は、ずっと信仰生活、信仰人生の課題で、 繰り返し〃御言葉に立ち返ることですよね。 思い煩いは、起きた事態や状況から来ると思い がちだが、思い煩いは、状況から来るのではない。 なぜなら、同じ事態が起きて、思い煩う人と思い煩 わない人がいるからだ。 思い煩いは、その人の「心から」起きる。 平安に過ごしている中、何だか心が重い、暗い、 落ち込みが来る。 その時に、主に心を向けて、心を探ると、思い煩い に陥っていたりする。 その思い煩いを探ると、何かの起きた事柄や、 誰かの言葉や、態度やらが、原因だったりする。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ それが、同じ事柄で、しょっ中、繰り返し起きている 時、自分の内の何かに触れている。 神様にゆだねられない、何か。明け渡すことができ ない。 しっかり握りしめている。だから、そこに来ると、 不安で、心配で、思い煩いとなる。 そこに偶像がある。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「あ!わかる〜!!!」 いつも、同じ所に来ている。 自分の偶像だから、放せずに、握りしめている。 いつも心配でならない。 そして、自分が手放してしまうと、何もかもだめになる、 崩壊してしまうと思っている!! だから放せない。 自我ですよね!!!自我がどこまでも強固で。 つまりは、神様を信じられないからだよね。 神様に渡せば、最善をしてさることが、頭ではわかるが 信じ切れていない自分がわかる。 信仰強められて行きたい!! 明け渡せるよう、まず、祈って行きます!!!