2004年04月27日(火) 「求める」ことが大切
親友が、ご主人介護の日々を送っている。 付き添いが必要で、一人では置いておけない。 ご主人の肩に手を回して、肩で支えて一緒に歩く。 「求めよ」と言って下さる神様に、「求めて」 「求めて」「求めて」今までやって来たと。 最初、教会へも全く行けなかった。でも、神様に 求めた。 すると、数時間のヘルパーさんと、デイケアへの 道を開いて下さり、その間、平日の祈り会に行く 時間が与えられた。求め続けていると、車の送迎 が備えられ、数年の間に、少し良くなって来たご 主人を連れて、礼拝へ行く道が開かれた。 どんなに喜びであったか。 経済的必要も、空の鳥を養い、野の花を装われる 神様に「求めて」、「求め」続けた。ぜいたくな ど決して出来ないが、最低限食べて行くだけの必 要が常に備えられている。ケリテ川でのエリヤの ように、カラスが食べ物を運んでくるのだと。 近所の方がそれは良くして下さって、いつも菜園 で取れた新鮮や野菜を沢山下さり、到来物だと言 っては様々な物を届けて下さる。 小さい頃から、頂き物には、必ずお返しをと、厳 しくしつけられたが、溢れるばかりの頂き物に、 もうお返しが全く出来ない。不可能だ。 神様と相手の方々に心からの感謝を献げて、恵み を頂いている。心から感謝して受けていると。 神様に、必要な助けを「求め」ていると、近所の 方々が、実際的な手伝いも申し出て下さる。緊急 のどうしても必要な用の間も、快くついていて下 さると。 介護の福祉援助があることの、アドバイスをもら い、神様に「求めて」「求めて」、様々な窓口に 連絡を取ってみるが、規約の認定からはずれている。 しかし、何かの手立てがあるはずと言われ、神様 に「求めて」「求めて」いると、他県の相談窓口 に行き当たり、そこで的確な、必要ピッタリの指 示を受ける事ができた。 そして、援助の道が見事に開かれた。 自分では、環境も、時間的な事も、身体的な事も、 全くどうにも出来ない、何一つ出来ない状況に陥 って、神様に「求めて」「求めて」「求めて」行 くことの祝福を、日ごとに経験していると。 求めに必ず答えて下さると。 天地宇宙を支配しておられる、全能の神様が、共 にいて下さる。私達は全くの空手でも、その神様 に求めさえすれば、必要のいっさいを豊かに与え て下さる。必要なのは「求める」ことだ。 “わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆ ずりとして与え、地をその果て果てまで、あなた の所有として与える”詩編1:8 “また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自 身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべ て満たしてくださいます”ピリピ4:19 切に、神様に向かって、「求める」ことを教えら れる。 by 多恵子
2004年04月26日(月) 自分を誇りたい肉
祈りについて話していた。 子供が小さい頃、登校前に、バタバタバタバタ 持ち物を捜し回る。時間が迫り、焦り、追い込 まれると、神様!!と助けを求める。もう必死で、 祈る。 すると、いつも捜し物が出て来る。それが必ず 出て来るのだ。教会学校で新聞を作った時、 「イエス様は君にとってどんな人?」との質問 に、「無くなった物を見つけてくれる人」と答 えていた。 神様は、すべてをしてしまった最後の手段が祈 りでなく、まず最初に祈れと言われる。「わた しを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答 え、あなたの知らない、理解を超えた大いなる 事をあなたに告げよう」と。 判断する前に、事を起こす前に、始める前に、 まず祈れと言われる。 A婦人「あ!同じ!いつも後です。全部自分で やってしまってから、どうにも出来ないと、神 様!と、初めて祈る」 Bさん「私もだ。私はもう知ってます。十分わ かってますから、今まで学んだ事を生かして、 自分でしますから、と言ってる。(笑)頼って ないです。だからね、ずうっと失敗する。自分 でこれが良いと思ってやると、つまずいて、散 々な結果になる。 何度も繰り返してて、これって、繰り返し教え て下さってるんですよね。まあ懲りないんです よ。(笑)」 Cさん「私は大きな事は頼るが、小さな事ぐら いで神様の手を煩わしてはならんと思い、自分 でやるんですよ。これって、高慢ですよねえ。 幼子のごとく、常に神様に頼ることを喜ばれる んですよねえ」 自分の力を誇りたくて、人にも認めてもらいた いが、まず自分が自分を認めたい。だから、自 分の力でやるんですよねえ。 新しい性質と古い性質があって、古い性質、肉 は最後まで変わらない。自分を誇りたい、評価 されたい、認められたい。でも、それを拒否し ないで、選んで行くと、古い性質をどんどん成 長させて行くことになる。 “もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死 ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだ の行ないを殺すなら、あなたがたは生きるので す”ローマ8:13 自分が自分の力を誇りたい、認められたい、そ ういう者である事を、神様の前にまず認めて、 神様に拠り頼んで行く時、助けて下さる。 by 多恵子
2004年04月25日(日) 賜物に生きる幸せ
青年会で、A子ちゃんが証しをしてくれた。 この4月から転職というか、新たな進路に方向変換 して前進した。その心の軌跡を詳しく話してくれ、 皆でとても心恵まれた。 就職2年目に、突然外回りに配置換え。A子ちゃん にはそれは苦手で苦痛、又、ノルマもあって、日々 時間の余裕も無く、精神的にどんどん追い詰められ た。 日に日に辛さと苦しさは募り、許容量オーバーとな って行った。 聖歌556番“祈りすれど 手応えなく 求むれど 得ずして 重き心 抱き続け 苦しむは誰ぞや” の通りで、 “汝が持てるものを 主の手に ことごとく ささ げしや 条件つけず 降伏せば 勝ち得べし 勝利 を” で、A子ちゃんは献身した。 その後、同じ仕事をする中に、喜びが出て来た。神 様に委ねていると、ノルマが天から降って来る、神 様が与えて下さる事を経験した。 その仕事の中で、高齢者と接する時、どの世代と接 するよりも、心がしっくり来て、ピッタリ来る事を 発見した。 祈りを積む内に、高齢者との関わりをライフワーク にする事を導かれた。その道に進むため、学校に入 り資格を取る事の志を与えられた。 しかし、実際、仕事を辞めるのは大きな事で、決心 と勇気が要った。現状からの逃げではないか、との 意見もあった。しかし、献身後、今、仕事に喜びが あるし、前向きに取り組めている。返って、逃げで はないと自分自身も確認できた。 確信持って、仕事を辞し、次の進路に進む事ができ た。この4月からその学校へ通学している。毎日が 楽しくて、喜びがあり、感謝で感謝でならない。 改めて神様の導きであったことを確信できている。 証しを聞いて、一人一人の青年達が感想を述べた。 ・賜物の道に進むことは素晴らしい。人生で一番の 喜びであり祝福。生き生きと生きることができる。 自分も与えられている賜物をしっかり知って、用い たい。 ・苦しい外回りの仕事に変わったので、献身できた し、賜物が発見できた。神様にはご計画があり、辛 い苦しい事も、それを通して、更に益とし、みここ ろの道へと導いて下さる。 ・苦しみの中、祈って、求めて、みこころが示され て、その道を歩めることは素晴らしい。自分もいつ もみこころを求めて歩みたいと思った。 日々、生き生きと輝いているA子ちゃんを見て、賜 物が生かされる人生って、最高に幸せだと感じる。 by 多恵子
2004年04月15日(木) ボロボロのまま愛されて
親友と久し振りに、ゆっくり話した。 一緒の教会で救われて、とても仲良くなり、その後すぐ彼女 は郷里に帰ってしまったので、しばらく手紙のやり取りをし ていたが、それぞれ結婚で遠方に移動。子育て奮闘期で バタバタしていて、交わりが中断してしまった。 5、6年後、連絡取れて、交わり再開。 それ以来、電話や手紙、時たま会えたりで、ずっと交わりが 続いている。 救われてすぐに田舎に帰省したので、教理も充分わからない ままだった。家に訪問して来る、紛らわしい間違った宗教を、 同じだと勘違いし、5年も学びをしていたと。 救われた時の、神様だと信じきって。聖書もどきを使うから 紛らわしい。 同じ教会だったもう一人の親友と、連絡が取れて、間違い を知ったと。すぐに離れて、聖書の教会へ。 その時の子供に対する、その宗教の間違った教えによる、 間違った対応が、後々まで傷を残して、子供が思春期の 頃、爆発し荒れに荒れた。 手がつけられないほどの荒れ様で、詮方尽きて、なすす べなく、もう親の方も心ズタズタのボロボロ状態。 崩壊寸前に、親である自分自身が、あるがまま受け入れ てもらい、心癒され、息を吹き返した。 ずっと自分自身をダメ親と責め続け、世間からも親が悪 いと責められ、行き場がなかった。 まだ自分に余力がある時は、それでも自分の力でやって 行けるが、心底力尽きてしまう時があるんだと。もう 何の力も残っていない。このままくずおれて行ってし まうのが見えてしまった時。 親がまず癒されると、それが子供に及ぶ。今まで自分が だめなので、子供にもそれではだめ、ちゃんとしなさい、 あなたはだめの、発想と態度しかなかった。 自分が受け入れて貰うことを体験して、初めて、今度 は、子供をそのまま受け入れることが、できるように なった。子供が少しづつ、変わって、落ち着いて行っ た。 荒れている子供を見ると、つい子供の方に目が行くが、 その陰で、親がボロボロで行き詰まっていて、親のフ ォローが大切だと思うと。 もう一歩で谷底まっ逆さまの、崖っ淵まで追い込まれ たが、そこを通ったことも感謝で、自分が根底から変 えられるためには、それが必要だったと思う、と。 大変な遠回りをしたが、それも御手の内で、見捨てな いで、ちゃんと正しい場所に導き出して下さった神様 に、ただただ感謝で感謝でならないと。 自分がだめで、だめで、だめ人間と責め続けて、真っ 暗闇のどん底にいた時に、「神様は何と言っておられ ますか。聖書のどこに、あなたが、だめ人間だと言っ ておられますか」と言われて、はっと我に返ったと。 まず、神様の、大きな広い深いご愛にたっぷりと触れ て、自分がしっかり受け入れられている事を、体験し て行くことから始まって行く。 「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが 私たちのために死んでくださった・・」ローマ5:8 by 多恵子
2004年04月14日(水) 心に刻まれた信仰の足跡
遠方のC兄の突然の訃報を受け取る。 お身体も弱ってはおられたが、まだお元気だった。 夫と葬儀式に駆けつける。 「92才でした。身体も弱かったのに、神様に充 分生かして頂きました。天国でイエス様に会って 喜んでいると思います」と、ご家族。 50代でご夫妻で救われて、ご夫婦で聖書を読み、 祈り、祝福された信仰生活を送って来られた。 30年ほど前、この教会の開拓オープニング集会 の時、応援に来て下さり、数日間滞在して、チラ シ配布も手伝って下さった。 その存在がとても暖かく、霊的にとても励まされ、 オープニング時、一緒にいて下さって、大きな祝 福だった。 語られる言葉が信仰的で、前向きで、純粋な信仰 が伝わって来る。 そのオープニング集会は、C兄と、夫が広島に来 て友達になった大学生のA君、私達と4人で持った。 そのまま家に直行、4人で楽しく和やかに食事も共 にした・・今は良き思い出。 そして、オープニングから開拓の働きのために、ず っと祈りで支えて下さった。 数年後、再び訪れて下さって、ご親族が天に召され、 葬儀式の写真を見せて、証しをして下さった。 癌の余りの激痛に、神様にもう召して下さいと祈っ てたと、そして、祈り会の最中に、電話があったよ うで、講壇の牧師のもとに、メモが届けられた。 そして、牧師が、D姉が召されました。C兄すぐに 行って下さいと集会の中で伝えた。祈っていた祈り の答えだったので、アーメン!と、すぐに席を立った。 すると、奏楽者が突然、「♪みくににすまいを ♪ そなえたまえる」と演奏し出して、天国の賛美で皆 に見送られながら、集会を後にしたと。 その時には、感謝な事に、開拓から救われた数名の 青年達が起こされており、C兄の証しに、皆が大い に恵まれて、天国への希望に喜びが溢れた。 当時、救われたばかりの、若者達が「いやあ、C兄 の証しを聞いて、信じている天国が絶対にあるんだ と、天国の確信が与えられました!」と。 大きな祝福を残して、帰られた。 それから、20数年後、もう一度、新会堂完成時に 遠方から来て下さった。新会堂も見届けて頂いた。 開拓の初めに一緒にいて下さったC兄、そのお人柄 と信仰は大きな励ましと祝福だった。 今もずっと心に残り、決して忘れない。信仰の足跡 を残して下さった。 走るべき行程を走り抜かれて、今頃、主と共に安ら いでおられることだろう。 C兄を広島に送って下さった神様に、心から感謝。 by 多恵子
2004年04月13日(火) 「ヴィクトリイ イン ジーザス」
2月にアメリカのBちゃんから、朝5時に国際電話 があった。 自分の教会の牧師が、イラクのバグダッドで新しく 教会を始める働きの、手伝いに5人の牧師と共に出 かけた。 イラクで、銃撃され、Bちゃんの牧師は即死。他の 人々も重傷を負った。残された夫人と子供のため、 教会のために祈って欲しいというものだった。 驚き、心痛み、ずっと祈り続けていた。教会の方々 も一緒に祈ってくれた。 報告の手紙が来た。 「パスターの家族のためのお祈りを本当に有難う。 奥様は2月14日のバレンタインディに、不在のご 主人が予め用意した、バラの花とカードを受け取ら れ、その数時間後、ご主人の死の知らせを受け取ら れた。 その翌日の日曜、代わりの牧師が朝早く準備のため に教会に来会。会堂から喜び溢れる賛美歌のピアノ 演奏が流れて来て、牧師の死を知らない人が、弾い ているのだろうと、今日は喜びの曲は控えてもらお うと思い、会堂に入った。 すると、それは奥様だった。ピアノの上に、届いた カードとバラの花があった。 牧師の葬儀には、1000人近いクリスチャンが訪 れ、悲しみよりも、そこには主の栄光が満ち溢れて いました。 特に、100人近くの牧師達による「ヴィクトリイ イン ジーザス」は、天国からの賛美のように、力 強く、私達に希望を与えてくれました。 牧師は本当にイエス様のために、すべてを献げて働 いておられた。教会員のために、教会のために、休 む事なく日々働いておられた。 私は余り喋る方ではないのですが、もっと言葉でも って、その働きに感謝を表したかったです。 奥様も子供達も時々涙を見せていましたが、今は、 奥様は(私達には及びもつかないほどの、イエス様 の慰めを受けておられ、希望が満ちているのでしょ うね)返って、喜びに溢れているようにさえ見えま す。・・・」 手紙を読みながら、涙が出た。 「イラクに建てられた教会で、その後、6人のイラ ク人が救われました。続けて、牧師方が送られてい ます。迫害されればされるほど、イエス様の愛を伝 えるために、この地に福音が運ばれるのですね・・」 Bちゃんの手紙を通して、心がイエス様に触れる。 ここに確かにイエス様がおられる。確かに触れる。 by 多恵子
2004年04月11日(日) 私のイースター
今日はイースター礼拝だった。 イースターとは、イエス様が十字架にかかり、墓に葬ら れ、3日目に復活された事を、記念してお祝いする日。 私はイエス様を救い主と信じて、救われて、3年後献身 した。その献身した時からが、目が開かれて、本当の意 味での信仰生活が始まった。 それまで、自分のプランや自分の生涯など、絶対に献げ られないと、ずっと神様に抵抗していたので。 しかし、神様に追い込まれて、自分の計画も自分の夢も、 自分の将来も何もかも、いいです、献げますと決心した。 その後、自分で聖書を読み、祈っていた時に、「ここに はおられません。前から言っておられたように、よみが えられたからです」マタイ28:6 の御言葉が、突然、まさしく心に臨んで来た。霊の喜び が心の内側から湧き出て、溢れ出て、満ち溢れた。その 場に神様の臨在を感じた。神様がおられた。 「ここにはおられません」 死人のおるべき墓にはおら れない。罪も死も打ち破られた。私の古きも過ぎ去った。 私の生まれながらの価値観の中にもおられない。私の肉 の思い、私の力の中にもおられない。 まとわりついて来る罪、足を引っ張る肉の欲、それらも 打ち破られた。 それらすべてを打ち破って、よみがえられた。 霊の喜びで、充ち満ち溢れた。よみがえられたイエス様 に出会った気がした。 自分が委ねた度合いでしか、イエス様はわからない事を 知る。 自分が握りしめて、放せない間は、救われてはいるのだ けれど、全くわからなかった。 「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すの ですか」ルカ24:5 ちょくちょく語りかけられる。充ち満ちた、全能の力の ある主は、死をも打ち破られ、よみがえられ、生き生き と今働いておられる。 その主を、なぜ、頭の中で、理屈で、教理で、肉の力の 中で、捜すのか。 「自分の力」、そこにはおられない。領域が違う。 瞬間、瞬間、生き生きとした交わりの中で、今、生きて おられるイエス様に触れていたい。 教会では、昔は早天野外礼拝をしていた。6時に桜の素 晴らしい山頂で、イースター礼拝!! まだ、少し寒さの残る中で、心身きりっと、御言葉に聞 き入り、これがなかなか良かった。 人が増えると、皆が皆、6時集合は無理になって、普通 の礼拝時刻で、野外礼拝になった。これが、ちょうどイ ースターって、桜の季節なので、見事な桜の下での礼拝 と食事会。 それで、なぜか、うちの教会では、イースター=「教会 のお花見」になってしまった。 礼拝と共に、兄弟姉妹の和やかな交わりが、いつも素晴 らしき祝福!! by 多恵子
2004年04月08日(木) 頑強な自分の力
青年達と「内に生きる主」を学んだ。 キリストを信じた時、神の子とされ、聖霊が内に 宿って下さった。 古い罪の性質も、そのまま残っているので、自己 中心な生活をすると、自我が大きくなり、聖霊が 小さく隅に追いやられる。 明け渡し、神に従う生活を続けると、聖霊の支配 される領域が大きくなり、自我が小さくなって行 く。神の子とされた時に与えられた、新しい性質 が大きく育って行く。 生まれつきの古い性質、罪の性質に、サタンが誘 惑を持って来る。罪の性質の欲望と、サタンの誘 惑が、ピッタリ合致するので、乗って行ってしまう。 乗って行くと、古い性質を増長させる事になる。 せっかくの新しい性質が萎えてしまい、そちらが 成長してしまう。 肉は神に反抗する。神の律法に服従しない。服従 できない。はなから肉は神に反抗して、服従でき ないのだから、肉が改良されて、成長して御霊の 実を結ぶことはあり得ない。 肉は御霊に逆らい、御霊は肉に逆らう。この二つ は対立していて・・。どこまでも葛藤し、争う。 どうしたらよいのか? 「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して 肉の欲望を満足させるようなことはありません」 ガラテヤ5:16 自分の力でなく、御霊に導かれて、助けられて歩 むこと。すると、歩みが可能になる。自分で頑張 るのでなく、明け渡して行くこと。主を信頼して 行くこと。 「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。 人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にと どまっているなら、そういう人は多くの実を結び ます」ヨハネ15:5 「わたしにとどまりなさい」と言われる主に、と どまり続けること。自然にぶどうの木から、枝に 養分が来て、自然に豊かなぶどうの実がなる。頑 張る必要など何も無い。 逆に「わたしを離れては、あなたがたは何もする ことができないからです」 もし、主にとどまっていないなら、どんなに素晴 らしい事をしても、何の実も無いことになる。 今、自分はイエス様にとどまっているか?つなが っているか?が、信仰生活のすべてだ。 Aちゃん「頼れば良い。イエス様にすべてを任せ れば良いことがわかる。わかるのに、自分の中に、 固い頑ななものがあることがわかる。 頼りきることができない。これが自我なんですよ ねえ。内に強情な強固なものがあるのがわかる。 それで、中途半端なんだとわかる」 Bちゃん「すぐ自分の力でしてしまう。自分の力 で生きること、頼らないことが罪なんだとわかる。 それがイエス様から離れていることであると、よ くわかる。 わかるのに、自分の力でしてしまう。けれど、感 謝なことに、環境を通して気づかせて下さる。自 分の力で高ぶっていることを、色々な事を起こし て、砕いて教えて下さる。痛いことが色々起こる が、それが砕きだとわかる。 自分では、神様に頼れない者を、頼る者に変えよ うとして下さっているのがわかるから、感謝」 結局、信仰生活、イエス様にとどまっているか、 どうかだけなんだ。今、自分はとどまっているか。 離れては、何一つ実を結ぶことができない。 by 多恵子
2004年04月03日(土) 誠実なご夫妻
牧師会の交わりに、夫と二人で、B先生夫妻の もとへ。 同時に、会堂で、ジュニア合宿も行われていて、 9名の若者達が集っていて、楽しく交わる。 集会では、前に出て、バプテスマや新しい決心 がなされていた。とても恵まれた。 今年、宣教10周年とのこと。開拓伝道のオー プニング集会の時、お手伝いに行った事を思い 出す。何だかこの間のような気がする。 床にワックスをかけ、拭き掃除をし、チラシ配 布をし、近所の訪問をし、集会に備えたっけ。 数年後、こちらの教会のジュニア達が、交わり に行かせて頂いた。一緒に戸別配布した、その 後、姿の見えない執拗な悪質な、迫害と嫌がら せが始まった。 サタンは、聖書的な教会が、その地に建つのが 余程嫌だったよう。 しかし、数々の妨害にも屈せず、神様に守られ、 地道に働きを続けて来られた。 この10年の間に、小さかった子供達が、すっ かり大きくなって中、高、大生になっていた。 様々な奉仕に携わり、子供達が戦力となり、チ ラシ配布要員とのこと。子供達、成長したんだ。 神様の大きな祝福を感じた。 翌日の夜、牧師会をして、朝5時まで交わった。 何やかやと語り合い、盛り上がる。誠実に忠実 に労しておられる、ご夫妻の姿に、励まされ、 慰められ、主に在る交わりは楽しくて、恵まれる。 地方の偶像の濃い地で、地道な働きが守られ導 かれている事に、しっかり守り支えておられる、 生ける神様を感じる。 続けてご夫妻と教会が豊かに祝され、用いられ ますように。 by 多恵子
2004年04月01日(木) 「与える祝福」
家のすぐ近くに、中四国最大のショッピングモール が出来た。 開店初日は8万人、プレ開店を含めると40万人が 来たそうな。ふっふふ、夫に「行ってみようよ」と 誘って、混んでいるのは嫌なので、夜遅〜く行って みた。 天井が高くて、敷地面積が広くて、ふと、アメリカ のモールを思い出した。 Bさん夫妻が、あちこちのショッピングセンターに 連れて行ってくれた。売場への移動が、延々距離が あり、途中でひと息、コーヒーを飲んだっけ。 そして、Bさん夫妻を思った。そのアメリカ旅行は、 Bさん夫妻の私達夫婦への、愛のプレゼントだった。 ちょうど銀婚式だった。休みなく、毎日のように集 会から集会へ動き回った25年間だった。新会堂建 設の後の、ひと休みを是非プレゼントしたいと、招 いてくれたものだった。 10日間のアメリカ旅行、旅費から、滞在のすべて の費用、観光の費用の何もかも、至れり尽くせりで。 Bさん夫妻が、家を購入する時に、主のために働く 宣教師が来た時に、家族で泊まれるように、そのた めの部屋を取りたいとのビジョンがあったそう。 その願いが叶えられ、素晴らしい広い部屋のある、 大きな家が神様から与えられた。 その快適な部屋で、滞在させてもらい、良き休息与 えられ、あちこち案内してもらった。 夫妻の属する教会の方々との幸いな交わり、アメリ カ在住の日本人姉妹との交わり。素晴らしい恵みと 祝福に満ちた10日間だった。 何より、Bさん夫妻の主に在る、暖かい愛情で胸 が一杯にされた。 ちょうど今週の礼拝メッセージが、「与える祝福」。 1.与える側の祝福 与える事によって、物質的、霊的、すべての面で満 ち足りる者にして下さる。神の満ち溢れる恵みを知る。 種を取り込んでしまうなら、次の収穫はない。 自分のためにだけ使うなら、神の恵みを知る事はない。 <与える事の2つの実>@すべての事に満ち足りる Aすべての良いわざに溢れる者とされる。 2.受ける側の祝福 受ける人の必要を満たし、神への感謝を生み出し、与 えた人のために祈り、慕い、神に感謝する。 霊的一致、霊的交わりが与えられ、受ける人も霊的に 満たされる。 仕事が大変な中、交代に休みを取り、毎日付き添って くれたB夫妻。時間、富、労力、大きな犠牲を払い、 大きなプレゼントを与えてくれた、その愛を受けて、 その愛のゆえに、今も感謝が一杯で、日毎にB夫妻の ために執り成し続けている。 受ける側の祝福が、御言葉の通りであること、身をも って体験している。 “惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通し て、神への感謝を生み出すのです。 なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分 に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、 満ち溢れるようになるからです。 また彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたが たに与えられた絶大な神の恵みのゆえに、あなたがた を慕うようになるのです”Uコリント9:11 愛を与えてもらい、受ける側の大いなる恵みを体験し、 与える祝福にあずかりたいとの、思いが新たにされた。 by 多恵子