2006年10月30日(月) 「良い贈り物は上から」
ヤコブ書の箇所から皆で、学んだ。 神は悪に誘惑されることが無い。誘惑はサタンから 来て、それは自分の内にある欲望に餌を投げかけ られ、食いついて行くのを、取り込まれてしまう。 「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられ て、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪 が熟すると死を生みます」 自分の欲望が強く、どうしても手に入れようとすると、 サタンの巧みな誘惑にひっかかる。 「良い贈り物、すべての完全な賜物は上から来る」。 自分でもぎ取るのではなく、自分の力でどうこうする のでなく、あらゆるものは、天から下ってくる。神が 与えて下さるものだ。 「人は、天から与えられるのでなければ、何も受ける ことはできません」 以前Aさんが証してくれた事を思い出した。 Aさんは子供ができず、不妊治療をずっと続けていた。 どうしても子供が欲しくて欲しくて、忍耐して治療を続 けるが、なかなか出来なかった。 そんな時、心の内を見て愕然とした。何が何でも欲しくて、 もらえるならどんな手段でも、何としてでもと思っている 自分。 余りに願望が強烈すぎて、これなら一つ間違えば、子供を 手に入れるなら、他の神様でもよい事になってしまう事に 気づかされた。欲望に、サタンの凄まじい誘惑が来ている。 その時に、神様の祝福を自分の力で何としてでも、もぎ取 ろうとしている自分がわかった。見せられた。 自分の恐ろしい高慢がわかって、神様の前に心から悔い改 めた。自分の恐ろしい姿におののいた。 自分の罪の姿に悔い砕かれた。涙が溢れた。 その後、不思議な導きがあり、養子をもらう道が導かれた。 神様が門を開き、すべての面で整えられた。神様からの子供 が与えられて、大きな喜びと感謝に溢れた。 そして、月日が経て、次の養子をと思ったところ、何とその時、 検査結果で、妊娠不可能なはずのところ、奇跡が起きて、 妊娠が与えられたのだ。皆で驚いた。子供が生まれ、更に次 子も生まれ、今、3人の子供の母親だ。 本当に良い贈り物、すべての完全な賜物は上からだ。 養子も実子も、すべて神様の贈り物で、天から下された。 自分で奪い取るのでも、もぎ取るのでもなく、上から神が 与えて下さるものをもらいたい。 強い願望の箇所に、サタンが誘惑を仕掛けてくることも 教えられる。 by多恵子
2006年10月29日(日) 「無いときこそ」
今日は教会学校でツァレファテのやもめ女の お話をした。先週のエリヤがケリテ川でカラス に養われる続きだ。 飢饉の中、最後のひと握りの粉で作ったパン 菓子をエリヤに献げると、日照りの間中、かめ の粉は尽きず、つぼの油は無くならなかった。 子供達も食い入るように紙芝居を見つめ、真剣 に聞いていた。 その後、夕拝でAさんが「結婚式があったんで すが、私、靴が無かったんですよぉ。でもお金 が無くて、買えないし、どうしようかと。結婚 式迫るし、はいて行く靴がない。そしたら、玄 関に靴が並べてあって何と祖母が買ってくれて たんです。 それも、自分の欲しかった長いブーツで、もう びっくりして。こんな小さな事だったんですが、 神様だと思って、神様が目を留めていて下さる と思いすごく嬉しかったんです」 Aさんの話を聞いていて、突然思い出した。 神学生の時、元旦に神学校で聖会があって、 行くのに、その時、お金が無かった。 どうしても行かなければならないし、祈って いると、これは必要な物で、天地が逆さまに なっても与えられると、どうやってでも絶対に 与えて下さると信じれた。 神に賭けて、信じて、お金は無いまま、とに かく駅へ行こうと立った。 すると、玄関に来た時に、祖母がお年玉にと ポチ袋を手渡してくれた。「もう大きいんだから いい」と言うと「したいんだから」と。神様に 感謝した。祖母を通して与えて下さった。 もう一つは、少し遠方で聖書セミナーが1週間 に渡って開催された時のこと、心が恵まれて、 最後の献金の時に、献げたい気持ちが溢れた。 札とじゃら銭があり、札を献げて、じゃら銭が 帰りの電車賃で帰宅。 しかし、翌日の電車賃は無いので、行けないのが 残念だなあと思いつつ。 そして、帰宅すると、田舎の方の祖母から手紙が 来ていた。いつも信仰冊子を送って貰っているので お礼にと、お札が同封されていた。わあ、神様だ! それで、次の日も集会に行く事ができた。 献げたことを通して、溢れる恵みを膚に感じた。 無い時こそ、神様の恵みや愛がもろにわかる時で、 感謝。 by多恵子
2006年10月26日(木) 「目的地へと」
Aさんが証しをしてくれた。 一時帰国して、行く予定の教会へ行こうとすると、 大雨で路線が不通。先へ進めない。どうしたものか と立ち往生。 そこで、主に祈った。「主よ、以前から行く事を 楽しみに予定していたのに、どうしてですか。 どうか、行けますように。しかし、もし、あなたの 御心でないなら構いません。それも受け入れます」と。 そこへは、Bさんと途中落ち合って一緒に行く予定 だったので、とにかく、駅の電話から、Bさんの携帯 に電話した。 すると、他県にいるはずのBさんが、何と同じ駅の ホームにいると言う。びっくり!そして、別の路線で、 迂回して行けるとの事。何とそれが、2分後に出る との事! 「私もそれに乗る!」と急ぎ電話を切るが、ホームも どこやらわからない。 もし遠ければ、2分ではもう不可能。それが、何と すぐ前のホーム!急ぎ、走り、ギリギリセーフ! 間に合った。 しかし、どこにBさんがいるやらわからない。列車の 中から電話をするが、携帯に通じない。 すると、係の人が車掌室に行けばと言われ、行って 車内アナウンスで呼び出しを頼んだ。すると引き受け てくれたが、結局どうなったのか、アナウンスは無か った。そのまま到着駅まで着いてしまった。 もう、どうやったら会えるのかと、先に出て、出口 で待とうと思った。が、出口が3ヶ所もある。 どうしようと思っていたら、そこでバッタリ出会えた。 そして、二人で、駅からすぐのその教会へちゃんと 辿り着けた。 すべてが神の御手の中にあり、祈りが働き、主が道中 導いて下さった事を感謝しました、と。 主は、Aさんの状況を支配しておられた。最終的には きちんと目的の所へと導かれた。 その間、Aさんは、ひやひやしたり、どうなるのかと 思ったり、主に祈ったり、見上げたり。 ジグソーパズルのピースが埋まるように、環境や事態 を支配し、導いておられる神様だ。 私達サイドでは、どうなっているのか、わからないよ うな中でも、主はちゃんと目的地に向かって進め、導い ておられる。その主を信頼して歩みたい。 by多恵子
2006年10月25日(水) 「主を認める」
アメリカからお客様。Aさんは結婚してアメリカ移住。 もう50数年になると。 77才だが、とてもお元気。一人で帰国中も、日本中 を回られる。 2年前に、ご主人が召された。先に天国へ旅立たれた。 お身体の痛みをあちこち持っておられた晩年で、もう 苦しそうなのは、見ておれなくて、苦しみから解放さ れて、天国で安らいでいることが嬉しいと。 肺の手術をされたが、それが医師のミスで、術後すぐ に、今縫ったばかりの所を、再手術となった。 術後、天に召されて行かれた。丁度、義理の息子さんが 来てくれ、見ているから休むようにと言ってくれ、皆で 一旦家に引き揚げた、その夜に、天に帰って行かれたと。 周囲から医療ミスなんだから、訴訟とか言われたが、全 くその気は無かった。 主が命を延ばそうと思われたら、そうなってたし、主が 御心によって、天に送って下さったから、これは主から 来ているから、御心なんだから、いいと。 主を認め、しっかり御心を受け止めておられる姿に、皆 で恵まれた。Aさん自身も、主の平安の中におられる。 そして、帰国中も、ハプニングが起こり、財産をすべて 無くされた。しかし、これも人の救いにつながればいい と。 財産を使って帰国していたので、もう帰れなくなるが、 それも、もし主が御心で帰国させて下さるなら、与え られるだろうし、と。主の御心のままですと。 今回、帰れた事も主の恵みだし、今後帰れなくてもそれ も主がされるなら、いいと。 すべてを主と、御心に委ねきってておられる。ほんとに 爽やかだ。 ほんとに、主の御心でないと、何をどう思っても、何一 つ成らない。すべては主からだ。 Bさん「Aさん、素晴らしいです。これから生きて行く のに、ものすごく良い学びになりました」 「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。 そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」 箴言3:6 人生のすべての道で、今日1日の信仰生活の中で、主 を認めて歩みたい。主のなさる事を受け入れて、環境 に主を認めて行きたい。 主を認めることを教えられる。 by多恵子
2006年10月23日(月) 「み声に従うなら、良きものを」
Aさんの証しを聞いた。 「ある難関の資格試験に挑んだが、不合格。 がっくり来て、落胆。再度臨まねばなら ない。その間の生活の糧も必要だ、さあ、 仕事はどうしよう、と今後の事も重い心 で考えていた。 祈って、神の御心に触れたいと聖日礼拝 に臨んだ。 すると、その日のメッセージが「喜ぶ者 といっしょに喜び、泣く者といっしょに 泣きなさい」ロマ12:15だった。 そして、悲しみにある人といっしょに泣 く事はまだ出来るが、喜ぶ事が難しいの ですと、メッセージで聞いた。 実は、友人が合格してたのだ。ああ、神 の御心はこういう事かとわかった。友人 の合格を祝福しなさい、喜びなさいという 事だった。 できないと思った。自分にはできない。 しかし、神の御心が示されている。自分 には出来ないが、神には従いたいと思っ た。それで決心して、祝福のメールを 入れた。自分はだめだったが、頑張っ て欲しいと。 すると、友人はまだ残る試験があり、大 変励まされたと、喜んでくれた。 自分も嬉しくなり、神に従えたことが何 より感謝で、良かったと思えた。 すると、その友人が、もう自分はいらな くなったからと、友人の仕事をそのまま 回してくれた。 溢れるほど豊かな生活の糧が与えられて びっくり!! 神の御心に従う時、本当に祝福される事 を経験した。」 主が示しておられる事には、従って行き たい。良きものを備えていて下さる。 by多恵子
2006年10月22日(日) 「水路のそばに」
「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、 罪人の道に立たず、 あざける者の座に着かなかった、その人。 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、 昼も夜もそのおしえを口ずさむ。 その人は水路のそばに植わった木のようだ。 時が来ると実がなり、その葉は枯れない。 その人は、何をしても栄える まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。 しかし、悪者の道は滅びうせる」詩篇1 皆で詩篇1篇を読んで、教えられた事を語り合う。 Aさん「デボーションの必要がよくわかってるが、日々、 忙しさに、目の前の様々な事に追われ、思うように 取れない。だめだなあと思う。そこにサタンが来て、 落ち込ませようとする。だめだ、だめだと。世の人 と同じように歩んでいると。 でも、違う。そうじゃない。御言葉によると違う。 水路のそばに植えられてる。水路のそばに植わった 木だと。 だから、植えられている所が、信じていない人とは違う。 もう水路のそばに植えられているから、デボーションで きない時も、その場で、神様を見上げて歩めば良いの だと。」 Bさん「木はそこで動かずにしっかり立っている。ただ 立ち続けている。自然に、水分が木のすみずみに まで及んで、実を結ぶ。 しかし、その実は、「時が来ると」実がなるのであって、 時が必要であり、忍耐が必要。思い通りに行かない 事も多いが、その葉は枯れない。 そして、時が来ると必ず実がなる」 Cさん「主は、正しい者の道を知っておられる。 自分は進路が今、目の前に迫って必要であるが、 神様が、道をすでに知っておられ、備えて下さって いることが感謝。もう備えて下さっているから、委ね ていたいと思う。」 Dさん「主の教えを、“喜び”とする事が自分の課題。 それが与えられるように。」 水路のそばに植わわった木は、何があっても枯れない。 木自体がどうのでなく、水路から豊かな水分が流れ 込んで、成長して行く。 すでに水路のそばに植えられた私達は幸い。 by多恵子
2006年10月15日(日) 「待つこと」
信仰生活、「待つこと」「主を待つこと」「待ち望 むこと」これが難しいと、皆で話す。 Aさん「子供がバイトを辞めて、家にいたりすると、 次のバイトは?探したら?求人見てみようか?子供 の意志と気持ちを無視して、待てない。早く早くと 追い立ててしまう。 すべての事に、神の時がある。急かさないで、追い 立てないで、神の時を待つ事を示される。待つ事は 本当に難しい」 Bさん「近所で色々トラブルが起こる。早く何とか して欲しい、何とかしたい、早く収拾したい。解決 を早く、早くと思っている。神様に委ねて、神様が 解決に導いて下さるよう、神を待ち望むことを教え られる。今、自分のする事は、神が事をされるのを 待つこと。すべてに神の時があるんですねえ」 Cさん「ほんとに神の時がある。見せられる。どれ だけ自分が頑張っても、どうやっても、事態が動か ない。環境が整わない。気持ちは焦って、早く早く と思うが、しかし、心に平安はない。 神の時が満ちた時、事態が本当に進展して行くから すごい。環境が導かれ開かれて行く。自分も平安で、 すべての事に定まった時がある」 Dさん「待てない弱さを思う。今まで信仰人生、ずっ と導いて下さった。先の見えない状態で思い煩うが、 必ず素晴らしい結果を用意して下さっていた。いつ のそうだった。でも、それが信じて待てないで、い つも思い煩ってしまう。神様に本当に申し訳ない。 焦って不安になって、落ち込んで、でも、いつも最 善の道が備えられていた。信じて待っていたい」 自分で動かず、焦らず、自分の思いを後ろに置いて、 主を待つこと、待ち望むことを教えられる。 by多恵子
2006年10月11日(水) 「従うことの大きな祝福」
Aさんが証ししてくれた。 教会で夫婦の学びをして、初めて神様が見ておられる 夫婦がどんなものかを知った。 「もはやふたりではなく、ひとりなのです」 マタイ19:6 神は一体として見ておられる。 夫婦は凸凹で、補い合う関係。ふたりでひとりなので、 相手に無いものを自分が持ち、自分に無いものを 必ず相手が持っている。二人でうまく補い合えて、 完全なひとりの人間となる。 相手に無いものは、さばいたり、見下したり、 責めたりするのでなく、自分が補えるということ。 自分に無いものは、劣等感を抱くのでなく、 卑下するのでなく、相手に補ってもらえる。 又、妻は夫の助け手として、神が与えられたが、 その「助け手」の意味は、一段低い補助者という 意味でなく、助けの意味が、神が私達を助けて 下さるのと同じ言葉だと。 むしろ、相手より強くなければ助けられないのだと。 一段低いものでなく、尊いものとして妻を造られた ということ。 ひとつになるには、自分を捨てて行くこと、自我に 死んで行く事が必要で、どちらもが自己主張して行 くなら、結果は火を見るより明らか。 そこで、信仰者としての成長があること。 そんな色々な事を学び、一つ一つ実際に従って 行った時に、本当に自分が変えられて行った。 行動で従って行くと、態度や思い、心が変えら れて行った。 もし神様を知らなければ、自我は自分の好きなよう に生きたい。自分の思い通りに生きたい。 確実に離婚していたと。この世界の周囲の熟年の婦人 達は、夫といて全く面白くない、手がかかるばかりで 煩わしい、女友達と旅行した方が楽しい、できるだけ 外に出ていたいと。心を通い合わせて来なかったつけだ。 自分も同じようだっただろうと。しかし今、心が変 えられ、夫に愛情があり、気持ちがあり、大切なか けがえのないものに思えると。 老後に向けて、ますます夫婦を暖かいものに建て 上げられたいと。こんなにも心を変えて下さった 神様にただただ感謝と。 それを聞いたB婦人が、恵まれて、涙が出て来まし たと。夫に冷ややかな自分が示されて、神様に導か れたいと。 「あなたがたがこれらのことを知っているのなら、 それを行なうときに、あなたがたは祝福されるの です」ヨハネ13:17 聞いたことを行って行くことの祝福を教えられる。 by 多恵子
2006年10月06日(金) 「御霊に教えられて」
とても久し振りに海外在住のAさんから電話。 ご高齢なのに、ものすごく張りのある元気な お声。 その信仰に、いつも励まされ恵まれて来た。 60代でパソコンを始められた。孫とメールが したいというきっかけだった。出来ないと思った が、主が出来るから、信仰によって行いなさ いと言って下さったと。 アメリカの主に在るBさんとチャットをして いた時に丁度、参加して来られ知り合った。 Aさんが60代でパソコン始めた事に励ま されチャレンジを受け、若いCさんも信仰に よってPCを始めた。メールで信仰の交わり ができるから感謝だ。 Aさんは、結婚して渡米。言葉もわからず 右も左もわからい中で、クリスチャン方に ひとかたならぬ親切を受けた。本当に親切 が嬉しくて、実際どんなにか助けられて、 お返しのつもりで教会へ行った。義理でい っていて最初はよくわからなかったが、行って いる内に、少しづつ御言葉が心に入って来 て、十字架の意味がわかって、信じることが 出来たと。 義理のお返しから始まって、救いに入れら れ主の恵み! 最初の頃、クリスマスに自分宅で交わり会 はどうかと言われた時、つい。うわっ準備が大 変との思いに負けて、思わず、その日は仕 事!と言ってしまった。これって嘘だと心が とがめ、神様ごめんなさいだった。 数週間過ぎて、クリスマスになり、仕事が 入って来た。何でクリスマスに残業で、 仕事なのか、つまらない、さえないなあと 思った時に、ハッ!と神様がわかった。 自分が言った事が嘘にならないように、 憐れんで、本当に仕事にして下さった のだと。神様を感じて、不満が賛美に変 えられたと。 つい数年前、手の手術をされたが、それが もう痛くて、痛くて、耐えられない痛さに、 歯をくいしばって我慢した。 しかし、その時、聖霊様が教えて下さった。 神から全く離れて、自分の力で我慢してい ると。「我慢」は「自我」の我と「高慢」の慢 だと。自分で我慢する事は、自我と高慢で あり、そうじゃなくて、痛い時も、主に頼って 頼って、頼り続けることを喜ばれると。 ほんとにその通りだ!!と、とても恵まれた。 御霊に導かれて歩んでおられるAさんから とても教えられる。いつも前向きで信仰的だ。 by多恵子
2006年10月04日(水) 「生きて働かれる神」
で、その宣教師が次の宣教地へ立たれた後、 信徒7人が残った。 そして、しばらくして、その集会所に借りて いた家が、改築のため出なければならなくな った。賃貸の時にそういう契約だった。 信徒だけで7人残り、無牧の上、集まる場所 も無くなってしまった。 皆で相談し、5人の若い人達は、電車で行ける 交わりのある教会が色々あるので、そこへ行き、 2人の未信者の夫をもつ婦人は、遠方は無理な ので、近くのより聖書的な教会を探して行くと。 どうしようもなく、こうしか方法が無いので、 そうする事に皆で決めた。 しかし、決めたものの、なかなか別れられず、 一人の婦人のお宅に足が向き、自然に皆が集ま っていた。 丁度その時、近辺の教会合同の聖会があり、行 く予定も、行く気も全く無かったのに、なぜか その場で、若い人達で行く事になった。これが 不思議な主の導きだった。 その聖会で、何だか皆で新たにされ、やっぱり 別れないで、やって行こうと、そんな導きが与え られた。帰って婦人方に話すと、皆で一致できた。 そして、聖日に家を順番に回って、礼拝を持ち 始めた。聖書を読んで、証しと祈りをした。 皆で、1週間の恵みと祝福、取り扱いを分かち 合い、とても恵まれた。 そうこうしていると、近くの市場の集会所が借り れるとの情報が入り、行くと問題無く借りれた。 ほとんど倉庫状態の小さなスペースだったが、 看板も前に置いて、そこで集会できるようにされ た。神のみわざ、導きだった。 小さな群れだが、伝道して行こうと、特伝を計画、 チラシを印刷屋で頼み、配布した。祈りに祈って の特別集会だった。すると、驚くべきことに、新 来者が5人か6人ほどあった。ただただ神のみわ ざだった。 その後も、救われる人が起こされ、バプテスマを 受ける人々が起こされて行った。 やがて、結婚やらで出て行き、最終的には近くの 交わりのある教会と合併した。 神が生きて、働かれた実際を、目の当たりに見て 来たのであった。本当に神は生きておられる。
2006年10月03日(火) 「続・信仰によって」
それで、その宣教師の先生が、ある日突然 「次の宣教地ハワイへ行くよう、神様から 導かれている」と言われ、皆でびっくり。 でも、突如の思い付きなどではなく、2年 間祈り続けた結果、確信したことだと。 大変なショックだったが、皆で、神様がそ のように導かれているなら、止める事はで きないし、受け入れざるを得ないというか、 受け入れましょうと、話し合う。 自分達は無牧になるが、先生の新しい宣教 の祝福のために祈ろうと。 サポートを受けていたミッションボードが 日本宣教のためのサポートだったので、ハ ワイへ行くとなると、もうそのサポートは 受けられない。ストップする事になる。 しかし、ここでも、直に神様の示しによる ものだからと、サポートがストップしても 神様だけに頼って行かれた。 ハワイに着いても、全く当てはなく、とにか くハワイに行き「後は神様の導きのままです」 と。飛行場に降りた時点から、導きのままと。 すごい信仰だ。 すると、A君が「それって、芝山先生と同じ じゃん」(笑) それが、神様の導きはすごい。丁度出発1週間 前に、先生の親しい宣教師が、もう会えなくな るからと遊びに来られた。 その宣教師の親友が、何とハワイにいて、先生 には内緒で、連絡を取り、段取りをした。 先生夫妻が空港に降り立った時に、そのご夫妻 が迎えに来ていて、とりあえずは家に滞在する よう招いた。何もしらない先生達も、もうびっ くり!神様のサプライズだったわけ。 すごい! そして、バイトをされながら、倉庫が借りれ そこを集会所にして、働きを始めて行かれた。 神様は、生きて働いておられる! そのことを見せられた。
2006年10月02日(月) 「信仰によって」
先日、教会の兄弟姉妹と昔話をしていて、 救われた頃の話になり、導いてもらった 宣教師の話になった。 「信仰」の人だったなあと、感慨深い。 経済的には、いつもギリギリのサポートの 中で生活しておられた。 ある時、以前に開拓宣教をされて、日本人 牧師に引き継がれた教会へメッセージの奉仕 に行かれた。 行く費用が無くて、交通費のために祈って おられた。すると、その教会からフェリーの チケットが送られて来た。小銭を電車賃に、 フェリー乗り場まで。そのチケットで無事 教会まで着けた。 特別伝道集会の奉仕を祝福の内に済ませ、 帰りの交通費はなく、祈っておられた。 すると、牧師がフェリー乗り場まで送って くれて、彼がチケット売り場に走り、チケッ トを買って渡してくれた。 「神様、感謝します」とフェリーに乗船。 降りて、家までの電車代が全く無かった。 どうする事もできず、「神様、どうしましょ うか」と、祈りながら、駅近辺をうろうろと 歩き回っていた。 すると、そこでバッタリ宣教師の友人に会っ た。「やあ!」と双方驚いた。その時、その 友人が「ああ、良かった!ここで会えて感謝。 私、あなたにお金を借りていましたね。返す 事ができます」と。 その返して貰ったお金で、無事、家まで帰れ た。神様!!このような証しをよく聞いた。 いつも神様だけに頼って、神様からすべてを 与えられて、宣教生活をしておられた先生だ った。 先日、懐かしく思い出した。もうかなり前に 母国で胃癌で天に帰られた。その最期も非常 な激痛に関わらず、召された時のお顔は微笑 んでおられたと。 生涯を献げて主に仕えられ、信仰生涯を全う され、最も愛する主のもとへ、喜んで帰られ たんだなと。
2006年10月01日(日) 「デボーションができない原因」
今日はデボーションの学びで、デボーション、 毎日すれば良いことは重々承知だが、なぜ 出来ないのかなと、各自の原因を話し合った。 ★「求めがない。試練とか切羽詰まった時に は求めるが、普段は自分でやれると思ってい る」 ★「渇きがない。目の前のどうしてもの必要 は求めるが、必要がないと行けていってしまう」 ★「神様のみ思いに従うのでなく、自分の思い が強いから、自分の思いを優先してしまって、 時間がとれない」 ★「自分は時間を決めていない事による。ちゃ んと時間を聖別する必要がある。目の前の事 をしてからになると、ダラダラ時を失ってし まい、しないまま出勤になる」 ★「第一にしていない。優先順位の問題。デボ ーションの位置づけが、日常生活の他のこと、 食事や歯磨きや身支度と同列。同レベル。だか ら、第一でないから、後回しになり、取れなく なってしまう」 ★「自分は、時間を聖別していない原因だと 思う」 ★「試練の時には必死で求めるが、やっぱり 自分でやれると思っている。だから頼らない」 ★「自分はまず習慣ずけが必要だと思う。 生活の中で、習慣づけが無いから、なかなか できない」 ★「神様でなく、人や物や他のもので心を満た そうとしている事が原因。神様以外のものを 求めている」 ★「自分は意志が弱いと思う。きちんときっぱり 起きないで、もう少し、もう少しと寝ているし、 時間をきっぱり取らないで、だらだらと朝も過 ごし、出勤の時間になってしまう」 ★「やっぱり試練の時には、必死でとるものも とりあえず求めるが、何もなく順境になると 求めない自分がいる」 色々自分のケースを話し合っていて、みな当て はまる事にも、皆で気づかされた。 求め、渇きがない、自分で生きてゆけると思っ ている、第一にしていない、優先順位、聖別の 問題、一つ一つもう一度よく吟味して、神様の 前に整えられたい。