2006年11月29日(水)
  潤いの道とイライラの道

いつも二つの道が目の前にある。
一つは律法の道で、重荷が全部自分にかかる。
〜ねばならない、〜ねばならないと追い立て
られる。安堵と休みがなく、いつも急かされ、
幾らやっても足らない。満ち足りる事がない。
辛く、しんどく、苦しい道だ。
自分が背負うから、自分にかかる。

もう一つは、主が背負って下さるから、自分
を委ねる道だ。労力は使うから身体は実際
疲れるが、心が平安なのだ。安堵と喜びと
感謝と安らぎで、心は満たされる。

律法の道は必ずしんどい。心が重苦しく、暗く、
イライラし、焦り、思い通りにならないと、人を責
め、周囲に腹を立てる。さばきまくる。害毒を
流す。恵みを消して、神の栄光を壊して行く。

神に焦点を当てて、恵みに立つ道は軽やかだ。
天と地ほどに違う。

Aさん「主人が身体が強くないので、いつも
疲れた、疲れたと口から出る。自分も仕事
して疲れているので、受け止められない。
言われるとものすごく心がしんどくなる。こちら
だって疲れていて、わかって欲しい不満が噴出
する。

でも、神様に目を向けて、恵みに立つ時、
全然違う。心が自由で、平安で軽くて、
『その疲れを取って上げるために、私は何をして
あげたらいいかね』と言っている自分にびっくり。

状況は全く同じなのに、<自分がせねばならない>
と<主がして下さる>の差がこんなにも違う。

Bさん「体調が悪く、身体がしんどくて横になって
いた時、自己憐憫の否定的な思いがふつふつ
と湧いて来る。不平不満つぶやきが出そうになる。

でも、その時、そうじゃないとの思いが来て、
突然、恵みと感謝が見えた。体調悪い中、
今まで守られて、なすべき事ができた事が
どんなに感謝かが見えて、心が感謝と喜びと
平安に満たされた。

律法と恵み、状況と自分に焦点を当てるか、
神様に焦点を当てるかで、ほんとに天と地
の違い。

律法の下は、不満、イラ立ち、思い煩い、自己
憐憫、暗〜く、落ち込む。
恵みの下は、平安と安堵、喜び、感謝、潤い
温もりだ。

自分の選択だ。

by 多恵子


2006年11月25日(土)
  「カルト」

最近、今までのカルトと違い、十字架の救いを
伝え、教理も同じ、一般キリスト教会のカルト
が出ているそうだ。
「バイブルカルト」と言うそうな。福音が
全く同じなので極めて紛らわしい。

恐怖で縛る。神様は怖い。指導者がマインド
コントロールを信徒にし、ここを出ると一生
生きて行けない恐怖を植え付ける。

ここを出ると地獄に堕ちる、内部のことを漏
らすと地獄、サタンに一生を滅茶苦茶にされ
る。
バカバカしいと、一笑に付してしまうが、でも
信じている人には心底恐怖なよう。
コントロールされてしまうのだ。

丁度、青年会で0先生より「カルト」の学びが
あった。

カルトとは、カリスマ的な教祖に指導された
熱狂的な非主流的小集団のこと、特に破壊的
カルトは、信者獲得のために悪意的マインド・
コントロールを用いる。

洗脳は強制的に脅しをもって、思想を押しつけ
られ、外部からのものなので、その環境から脱
けるなら解けやすい。

しかし、マインドコントロールはコントロール
されているに関わらず、自分はされていないと
思っている。自分の自由意志で選んでいると思
わせられるので、悪質。
他者が自らの目的成就のために、他者が気づか
ない間に、他者をコントロールする。

エホバの○人や統一○○はよく知られているが、
最近は一般的キリスト教会もカルトに近づいて
来ている。
特に、破壊的カルトは聖書以外のものを用い、
聖書以外から教えるのでわかりやすいが、原理
講論、モルモン経、ものみの塔の本・・
しかし、最近のカルトは聖書だけを用いるので
紛らわしい。十字架の福音は全く同じで、教義
の内容も同じ。
しかし、マインドコントロールを用い、恐怖で
人を縛る。ここから脱け出すとサタンの手に陥
り、一生滅茶苦茶になる。

よく用いられるのが、新しく来た人を滅茶苦茶
歓迎する「愛の爆弾」。
洋服店に行って、試着する度に「まあお似合い
で」「お美しい」と言われても信じない。真に
受けない。買わせようとの相手の魂胆がわかっ
ているからだ。
しかし、教会に初めて来て、素性も相手の事も
一切わからないのに、愛してますよ、愛してま
すよの愛の爆弾、場所が教会なだけに、マイン
ドコントロールされてしまう。

<気をつけなければならない事は>
@その教えが聖書から出ているか。御言葉に基
づいているか。

私達はイエスは神と信じているが、では、聖書
のどこに書いてあるかと問われたら、答えられ
るだろうか。ただ、教えられて信じているだけか。

A神との個人的関係があるか。
これが破壊的カルトには無い。指導者の言う事
に従わせ、何でも指導者に聞き、言うなりになる。
指導者が支配し、自分で判断させない。自分で神
との一対一の直接の関係を深めて行かせない教え
はおかしい。

多くの人は神ご自身ではなく、コミュニティを求
めている。共同体を求めている。一緒に神を賛美
して、交わって楽しい。「感謝!」「アーメン!」
「ハレルヤ!」「愛されてる!」と集まって楽しい
だけ。
キャンプファイヤー状態。火を囲んで同じ所をただ
グルグル回っている。賛美して、交わって楽しい。
しかし、何の成長もない。人間は止まっている方が
楽。信仰とは一人一人が個々に、神をしっかり求め
て、個々が神に向き合うことが土台。

どんな時も御言葉がどう言っているか、御言葉に
基づく事と、神との一対一の個人的関係を求め、
深めて行く事が大切だ。

by多恵子



2006年11月16日(木)
  「潤いとトゲトゲ?」

「しかし、御霊によって導かれるなら、あなた
がたは律法の下にはいません」ガラテヤ5:18

「律法によって義と認められようとしている
あなたがたは、キリストから離れ、恵みから
落ちてしまったのです」5:4

Aさん「自分が律法と恵みの正反対の中にい
る時、それぞれよくわかる。
恵みの中にいる時は、何をしても苦にならな
い。感謝があって、喜んでする事ができる。
人に対する赦しがあって、受け入れる事がで
きて、暖かい気持ちになれる。

ところが、律法の下にいると、もう肉(笑)
イライラして、人に腹を立てる。自分が自分
の力で頑張っているから、人がしていないと
腹が立つ。あんたもちゃんとやってよ、とな
る。あんたは何もしないでと、人をさばく。
心がとげとげしくなり、苦々しい心になる。

同じ自分なのに、神様との交わりが大切だと
本当によくわかる。交わりの中にいると、心
が潤って、余裕があり、優しくなれる」

Bさん「私は、家族の事でもうずうっと祈っ
て来たから、家族の中ではものすごく守られ
る。いら立つ事もなく、家族を受け入れる事
ができて、穏やかな心でおれる。本当に恵み
で感謝。祈りに働いて下さってるんですねえ。

これが職場に行くと一変する(笑)人のミス
や失敗にイライラしてしまって、さばいてし
まう。そうすると、悪い事しか見えなくなる。
悪循環になってしまう。空気がとげとげしく
なって、ピリピリして、皆がさばき合ってし
まう。

これから先、仕事量が増えて来るが、この
状態だととても無理で、もう辞めようかと
思うが、そうじゃなくて、神様との交わり
で恵みの中にとどまって、助けを求めて
祈って行けば、やって行けるんだと思えた。

神様と自分の関係だけですよね。神様との
生き生きとした交わりに生きることですよね。
祈って行きたいと思えた」

主にとどまっている時、御言葉に従おうと
思える。御言葉に従うと、本当に自分が
変えられるから不思議だ。

by多恵子

2006年11月15日(水)
  「良いもので満たされる」

Aさんが、職場で占いが流行っていて、占い師
に見てもらいに行く人達がいるそうだ。
人々は将来へのどうしようもない不安と恐れが
あって、見てもらうそうだ。

Aさんは、自分はまことの神様を知って、本当
の神様に出会えて、本当に感謝でならないと。

偽札があるのは、本物が一つあるからであり、
本物が無ければ、偽物は無い。

小学生の頃、祖母の友人に狐の神様??(狐が
飾ってあったが)を信心している人がいて、
よく遊びに行って、何だかわからないが??勉
強が出来るように拝むと良いと言われ、拝んだ
事がある。

偶像って、自分の事しか拝まない。受験にしても、
自分の合格のみ。人の合格など絶対に祈らない。
何という自己中心。人の合格を祈るなどという
発想自体もなかった。

Bさんの家に、張りぼての神様があって、棚の
上に置いてあって、家族が拝んでいたら、その
張りぼての神様がめげた。その張りぼてを修理
して、また棚に上げて、拝み続けた。
普通で考えて、それって変と思うが、大の大人
が変だとは全く思わない。惑わしの霊が働いている。

何か悪い事が起こると、先祖の供養をしていない
から、先祖のたたりだと言う。
自分を供養しないからと、子供にたたる?孫の
人生滅茶苦茶にする?ひ孫を呪う?絶対にあり
得ん。孫がいるが、どんな犠牲を払っても守って
やりたいと思い、幸せしか願わない。この思想
かなり変。

厄年だ、方角が悪い、仏滅だ、日が悪い・・
すべて十字架で解決して下さったイエス様の愛、
自由、解放。

天国へ至るまで、どの年も、360度どの方角も、
1年365日どの日も、すべてが祝福だ!!
悪い方角、悪い日、悪い年など一つもない。
すべてが良い!!何と自由で喜びなんだろう!!

「あなたの一生を良いもので満たされる」
詩篇103:5

by 多恵子

2006年11月13日(月)
  「打ち傷」

Aさんと久し振りに会い、いろんな事を思いきり
喋り合う。
「今、いじめの自殺が続いてますよねえ。親にし
たらもういたたまれなくて、たまりませんよねえ。
大事に大事に育てて来た子供が。
死ぬほど辛いなら、学校なんて行かなくていいで
すよねえ。」
「うん、いい、いい。学校なんて行かなくていい」

「死なれるぐらいなら、ずっと家にいてくれた方
がいいですよね。学校より子供の命の方が大事で
す。大事な大事な子供を。勉強なんて、どうにで
もなりますよね。人生は長い。選択肢幾らでもあ
る」

「でも、いじめは、どう言ったっていじめる方が
悪いですよね。いじめる方が止めたら、いじめは
無くなるわけで」「うん、いじめる方が悪い」

「うちの子が小さい頃、同じような年頃ばかりで、
ややこしくて、難しかったです。子供って残酷な
んですよね。仲間はずれにしたり、誰か一人をハネ
にしたり、うちの子も泣いて帰ったり、遊んで貰え
なかったり、又、こちらも多数側に加わってたり、
小さい子供の世界なのに、いじめみたいなのはあり
ました。

その環境を出た時は、もうほっとしました。でも、
それ通して、子供も、もまれて、鍛えられて、成長
になったと今は思えます。」

「いじめる方も何かストレスがあって、それを弱い
所へ向ける。自分のストレスを陰湿に発散させる。
母親の子供虐待もそうだし、反撃して来ない弱い所
へ向ける。

イエス様の時もそうだった。祭司長やパリサイ人達
の嫉妬、兵士達も寄ってたかって、自分達の鬱積、
鬱屈を、主に向けて思いきり鞭打った。人間の罪の
性質で、いじめはサタン的だ。」

「陰湿、陰険、残虐な罪の性質から来てるから、十字
架にしか解決が無いですよね」

Bさんが「大人だっておんなじだよ。私、いじめに
会ったよ。PTAの役員会で。フルタイムの仕事の
中で、なる人いないから引き受けた。時間休み取っ
て、ミーティングに出席した。すると、噂話と悪口
延々で会合が始まらない。

もうびっくりして、私、発言した。忙しい中、時間休
みを取って来ている。すぐ職場に戻らないといけない。
定刻通りに始めて欲しい。それと、ここにいない人の
事をあれこれ言うのは、いかがなものか。本人は反論
ができないのだからフェアでない、と。

するとね、次の会合の時、全員にシカトされたよ。
完全無視。でも、こちらは相手が答えなくても、ちゃ
んと挨拶したよ。私は、全然平気。全く、どうもない」

Bさん強いー!!!!(笑)

イエス様って、十字架で何もかも全部受けて下さった
んだなあ。だから、イエス様の打ち傷によって、心の
傷が癒される。ここに癒しが、唯一の解決がある。

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し
通され、私たちのとがのために砕かれた。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち
傷によって、私たちはいやされた」イザヤ53:5


by多恵子

2006年11月11日(土)
  「自分で頑張ると・・」

交わりの中で「自分の力で頑張ると、人を裁く」という
話になる。律法の世界。

Aさん「私は時間に几帳面で、きっちりしないと気がすま
ない。待ち合わせの時間など、絶対に遅れないように、
早目に用意を済ませ、準備を整える。

先日も、待ち合わせの時間に、相手が遅れて、大切な事
のためなのに、それも、ちょっと喋ってて遅くなったと。
もう信じれん。どういうことかと、さばきまくっている
自分がいた。

もう私は、待ち合わせせずに一人で行くと言おうと思った
が、御言葉によって、赦すことを示されて、心が変えられ
平安が来た。まあ何という姿と、さばいている自分を教え
られた。申し訳なさでいっぱいになった。

やっぱり、自分は時間に遅れないために、すべき事を
していると、神様によってでなく、自分がしているので、
そうしない相手を、さばくのだという事を教えられた。」

Bさん「仕事をチームでするので、遅かったり、ミスが出
ると、どうしても全部に影響してくるので、イライラする。
心の中でさばいてしまってる。
恵みによってでなく、自分で仕事をしている、自分が
しているから、同じように、ちゃんとしてよと、なるんだ
とわかる。
神様を見て行く時、仕事の遅い人もミスの多い人も、
性格的なすごい良さがわかる。それが見える。そして、
皆でフォローし合おうよ、補い合おうよと思える。」

Cさん「しんどいのに、自分が頑張っていると、自分は
しんどいのに頑張ってるんだから、お前もごちゃごちゃ
言わずに頑張れよとなる。
冷ややか〜な、殺伐とした、とげとげしい空気になる。
恵みが全然無い。これが律法の世界。自分がしてる。」

恵みの世界は、暖かい。潤いがあって、温もりがあって、
喜びがあり、感謝がある。さばきが無い。

今、生かされているのは恵み、仕事が出来るのも恵み、
あれやこれや出来るのも恵み、主と共に、主によって。

by多恵子



2006年11月09日(木)
  「いろいろな方法で」

前回の友は、私の行っていた教会の宣教師から
何か乗り物に乗っていた時に、声をかけられ、
トラクトをもらい、それを見て教会に来たのだった。

声かけとトラクトが用いられて、救いに導かれた。

別の知り合いも、たまたま飛行機で隣り合わせた
宣教師と会話していて、聖書に関心を持った。宣
教師が日本人の婦人にファローを頼み、彼女も、
はっきりイエス様を知り、信じ救われた。

友人は歯医者の待合い室で、横の女性と会話にな
り、自然に証しの機会が与えられた。その女性も
教会へ来て救われた。

出産時に同室で仲良くなり、教会へのきっかけに、
というもの何人か聞いた。

ここで開拓して、最初に救われた高校生は、校門
前で配布したトラクトが、学校のごみ箱に捨てられ
ていて、それを拾って読んで、聖書通信講座に応答
した女子高生だった。

「主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
しかし、サマリヤを通って行かねばならなかった」
ヨハネ4:4

サマリヤの女を救うために、わざわざサマリヤを
通られた。

私は友人に誘われて教会へ行き、救われた。
私を救うために、人生途上に、友人をそこに置き、
導いて下さったイエス様を思い、ご計画を思う。

救われた時の不思議と、主の御手を思う。
深い感謝でいっぱいになる。

by多恵子

2006年11月07日(火)
  「実感」

主に在る友から電話有り。

Aさんはご主人が事故に会われ、九死に一生
を得た。命を取りとめ、リハビリを続けられ、
今、初期を思うなら、比べられないほど穏や
かな日々とのこと。

ほんとに、神様の手の中で生かされているの
が日々の実感だと。大きな御手の愛と配慮の
中で自分が生きているのでなく、生かされて
いると。

何一つ欠けても生活はいっさい成り立たず、
健康面、経済面、精神面、物心両面、絶妙の
配剤の中で生かされていると。

一つ一つの必要が天から与えられている事が
もろにわかり、必要な霊的守り、必要な時間、
必要な経費、必要な身体の守り・・神がおられ
なかったなら、今は無かったと。

必要な経費が補助から下りたり、教会へ行く
時間がヘルパーさんとの時間がピッタリに
与えられたり、一つ一つがすべて天から下
ってくるもので生かされていると。

弱さの中に恵みが十分で、神の力が現れ、日
ごとに神を実感しながら、一つ一つに感謝を
献げながら生きることのできる幸いを思った。

何の感動もなく、感激もなく、生きている実感
もなく、虚しく生きている人々が多い中で、
生き生きと生の実感もって、神様を膚で感じな
がら、日ごとに生きる事ができる・・これって
すごい恵み!!!だと思わされた。

御霊によって、神様を実感して生きることの
できる幸せ!!

by多恵子


2006年11月05日(日)
  「招待」

教会学校で、紙芝居を用いて、「お城の結婚式」
のお話をした。
マタイ22章の王が王子の結婚披露宴に、招待
しておいたお客を招きにしもべを遣わすところ
だ。
素晴らしい食事の用意が出来上がっていて、何
もかも整っているから、どうぞ宴会にお出かけ
くださいとの招きだ。

ところが、畑だ、商売だと、気にもかけず無視、
更には、しもべ達を殺してしまった。
王は怒って、その者どもを滅ぼし、今度はしも
べ達に、通りに出て、誰でもよいから招けと。

誰もかれもが来て、宴会場は満杯になった。
ところが、一人、婚礼の礼服を着ていない者
がいて、外に放り出された。

Aさんがそれを聞いていて「礼服は王様がすで
に揃えていて、それを貰って着て出席すれば
良いんですね。礼服は貰えたんですね。ここの
箇所で、服て?どうなってんのかな?と今まで
読みながらわからなかった(笑)神様が救いの
何もかもを備えて一方的に与えて下さっていた
のがわかった。改めてすごいなあと思った。
この人は一方的に与えられるのに、要らないと
拒んだのだと」

礼服は要らない、自分の服で、自分の力で大丈
夫と、神様に頼らずに、自分でやって行く信仰
生活も同じだと思った。

「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太っ
た家畜もほふって、何もかも整いました。どう
ぞ、宴会にお出かけください」マタイ22:4

毎朝のデボーション。主はこのように、さあ
宴会にいらっしゃい、素晴らしいご馳走を用意
しているよと言って下さってるのだと思った。

「気にもかけず」5’披露宴の後でもできる、
畑や商売に、他のことに忙しくしていないか、
思わせられた。

「何もかも整いました。どうぞ宴会にお出か
けください」と主は招いて下さっている。

by多恵子

2006年11月03日(金)
  「天に宝を」

A教会の献堂式に出席した。
その教会のBさんが証しをされて、とても恵まれた。

遙か遠方の地から、親族の救いのために、示され
てC市にやって来た。しかし、来た時は職もなく
何の当てもない。ただ神が導かれたから来た。

しかし、そのC市で思ってもみない仕事が与えられた。
クリスチャンゆえ与えられた仕事であった。そして、その
地で牧師が与えられるようにという、大胆な祈りを導
かれ献げ続けた。
すると、本当に神学校を卒業したばかりのD先生が
主に導かれてやって来られた。神の奇しいみわざに
驚いた。

やがて、ご両親が救われた。その父親が亡くなられ
た時に、遺産が入った。その遺産すべてを神に示さ
れて、会堂建設のために献げられた。

これは神から来たもの、神のもの、自分のものには
出来ないと。“金銭を愛する生活をしてはいけませ
ん。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身
がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを
離れず、また、あなたを捨てない」”ヘブル13:5

素晴らしく立派な会堂が建ち、神の栄光が溢れて
いた。Bさん通して、主に従う事の素晴らしさを教え
られた。

自分の喜びでなく、主に喜ばれることを選び取って
行く時、そこに真の喜び、主からの喜びが与えられる。
自分のために生きても、ほんとに虚しい。
天に宝を積む歩み、天を見て、今日も生きること
ができるように。富も時間も賜物も、天に積んで
行くことができるように。

by多恵子

2006年11月01日(水)
  「よくなりたいか」

今日のみことば「よくなりたいか」ヨハネ5:6
で、一人の姉妹Aさんを思い出した。

ある夜中の1時頃に電話のベルが鳴った。
イエス様を信じてからも、信仰生活で自分の弱さを、
ずっと抱えて来たが、いつもいつも繰り返し、どう
しても、苦しくて、辛くて、情けなくて、もうどう
にもならないと。
その時は、鬱積が吐き出たのか、わーわー、号泣だ
った。
Aさんが、わーわー泣きながら喋るのを、ずっと聞
いていて、主の「よくなりたいか」との御言葉が大
きく浮かんで来た。

「よくなりたいか」と御声をかけて下さるのは、何と
いう恵みだろう。出来るか、よくなれるか、と言われ
ない。よくなることを願うかと、問われている。

Aさんは「よくなりたい」と願った。今まで何度も
失敗した。同じ失敗を繰り返し、これからも同じだ
ろうと諦めそうになるが、でも「よくなりたい」と
はっきりした意志をイエス様に向けて祈った。電話
口でも一緒に祈った。

しばらくして、手紙が来た。あの後も弱さはあるが、
根底が完全に変えられたのがわかると。根元が癒さ
れたと。あの時から、心の底に大きな河のような平
安が流れていると。表面が波立ったりするが、底に
確かな平安がある。癒されたのがわかると。

Bさんは、いつも何かあると、自己憐憫の殻に閉じ
こもってしまう弱さがあった。そこが居心地が良く
て、人をシャットアウトしていれば良くて楽なのだ
と。しかし、自分は可哀想と、どんどん落ち込んで
行く。

イエス様を信じ救われた時に、その事がわかった。
「よくなりたい」と願った。自己憐憫の誘惑が来た
時に、そっちには行かない事。拒否する事をした。
数々の自らの弱さに落ち込むのでなく、弱さに気づ
けた事に感謝して、主に拠り頼んで行った。
すると、「弱さの中に恵みは十分」である事を知ら
されて行った。

どんな瀬戸際であれ、どんな状態であれ「よくなり
たいか」と問うて下さっている。

by多恵子