2006年12月28日(木)
  「肉の思い」

「肉の思いは死であり、御霊による思いは、
いのちと平安です」ローマ8:6

肉の思いが、信仰の成長を邪魔する事を覚え
させられる。
Aさんが「今まで何度も何度も罪の事や
十字架の事を聞いているが、罪がなかなか
わからなかった。最近やっとわかって来た。
だから十字架があるんですよねえ、ほんと
に感謝で。今まで何度も何度も聞いてたん
ですが(笑)」

罪のこと、頭ではわかるが“そんな事を言
っていたら、誰も世の中生きて行けん”と
思ってしまう。その思いが御言葉を阻んで
しまう。
潜んでいるまさに肉の思いだ。でも、その
思いはそんなに罪には思えないので、通り
過ごしてしまう。気づかない。世の常識、
世の知識が肉の思いだ。

Bさん「常識が肉の思いで、信仰を妨げる事
最近も経験した。対人関係で、え!そんな、
非常識な、と思ってしまい、思い煩いと混乱
で暗闇に落ち込んだ。
でも、神様を見上げた時、この世的には非常識
だが、神様がその事態を与え、受け入れる
ように導いておられると思った瞬間、心が引き
上げられ一挙に平安になった。
すると環境も開かれて、そのように導かれて
行った。世の常識と神様の思いが違う事を教え
られた」

この世の知識、この世の常識は要注意だ。の思いだ。
そちらにそって行くと、死がある。

信仰生活は教会の中だけ、この世の中ではとても
じゃないが、やって行けない・・それが肉の思いだ。
信仰と世での現実生活が分離してしまう。
しかし、それは一つであり、一致して行くのが御霊
の思いだ。いのちと平安の中で生活できる。

自分の思い、世の思考パタン、考え方、それらが
来た途端、死が臨む。

肉の思いと御霊の思いを判別できるように。
by多恵子

2006年12月25日(月)
  「試練と共に逃れの道」

外国から仕事で来日のAさんが証しをされた。

「神は試練を与えられる。訓練し鍛えるためだ。
9・11のテロの年、その影響で仕事が全く
無くなってしまった。全く仕事が無い中で、
妻と子供達を養うために、大変な状況になり、
困り、神に祈った。

6ヶ月仕事がなく、貯えを使いながら過ごした。
貯えもなくなってくるし、どうしても仕事が
必要で、神に切に祈った。

すると、三〇〇キロ離れた所に仕事が与えられた。
遠距離なので、平日はそちらに滞在して、週末帰
るという、家族と離ればなれの生活になった。

家族と離れた状態が続くと、子供達に弊害が出て
来た。情緒不安定になって来た。様々な問題が
生じて来た。家族が離れているのは良くないと
思えた。しかし、仕事もしなければ生活できない。
だが、どうしても家族は一緒に暮らしたい。どうす
ればよいのか。この状態の解決を求めて、神に切に
祈った。

その答えとして与えられたのが、日本での仕事
だった。日本に来て、家族皆で一緒に住む事ができ
仕事が与えられている。日本へ来たのは神の導き
であり、神が来させて下さった。素晴らしい解決の
道を与えて下さった。心から感謝している。

今、仕事があり、家族が一緒に住める幸せに感謝で
ならない。喜んでいる。神はどんな時にも共にいて
下さり、試練と共に逃れの道を与え、問題を良きに
導いて下さる。どんな時にも勝利だ。この神に従え
る事を心から喜び、感謝している。」

家族のリーダーとして、主のしもべとして従い、
家族を守り、リードして行くAさん通して主の
栄光を見て、とても恵まれた。
主を頭として、従って行く家庭を主は豊かに
祝福して下さっている。

by多恵子




2006年12月24日(日)
  「礼拝」

今日はクリスマス礼拝だった。
東方の博士達が、星を見て、その星に導かれて
エルサレムまで、やって来て、幼子を礼拝し
宝物を献げる箇所だ。

博士達は、数ヶ月をもかけての遠路の旅、すべ
ての財を費やした。身の危険も覚悟の上だった。
星に導かれてエルサレムまで辿り着いた。
しかし、肝心のエルサレムで王に、ユダヤ人の
王として生まれた方のことを尋ねると、王は恐
れ惑った。
新しい王が出て来たなど、自分の地位が危うく
なるからだ。幼子が生まれた場所を調べさせ、
ベツレヘムである事を調べさせ、博士達を送り
出す。
「場所がわかったら自分も拝むから教えて欲し
い」と騙して。へロデは保身、地位、名誉、ひ
たすら自己中心、自分の事だけだった。

導きの星が力強く先導し、幼子の所へ導いた。
導きの星は聖霊だ。自分が主のもとへ導かれ
救われるために、人々や様々な状況を備えら
れた。背後で聖霊が導かれた。

博士は幼子に「宝の箱をあけて」黄金、乳香
没薬を献げた。自分自身の宝とするもの、大切
なもの、命とするものを献げた。
黄金は王としての主、乳香は神と人を執りなす
祭司としての主、真理としての主、没薬は死人
を埋葬する時に用いられ、死を表わし、罪から
の贖い主としての主を表わす。

自分の王として、祭司として、贖い主として
主を礼拝した。
そのように主を受け入れ、礼拝できるように。
自分の心の宝の箱をあけて、献げることができ
るように。

博士達は全財産を費やして、命の危険を冒して
数ヶ月もかけて、たった一度の礼拝を献げるため
にやって来た。自分の命をかけて。
どんな事をしてでも、会いに来たかったのだ。
要するに博士達は何もかも、すべてを献げ、自分
自身を献げた。博士達は満ち足りて、喜んで帰った。

礼拝とは何かを見せられる。
礼拝とは自分自身を献げること。礼拝で主に出会
い、自分自身をお献げする時、満ち足りて帰る。

by多恵子

2006年12月21日(木)
  「思いを見張る」

「十二弟子のひとりで、イスカオテと呼ばれる
ユダに、サタンがはいった」ルカ22:3

ユダにどのようにして、サタンは入ったのか。
ユダの思いの中、思索の中に入った。思いが
戦場だ。サタンは思いの中に入り、思いを支配
し、行為へと及ばせた。

Aさん「サタンが思いに来るのがすごくわかる。
でもね、それが、いつもなんですよ。一通り
ぐわ〜〜っと、思いの中で感情が激して、外に
は出さないんですけど、怒りやさばきや、憎悪
やら、もう一杯一杯になって、うわあ〜となっ
た後、わかるんです。え?うわっ、サタンじゃ。

渦中は、もう感情の大嵐で大波に飲まれてしま
ってる。ひとしきり波がおさまった時にわかる
んです。同じ事、繰り返してるのに、飲み込ま
れている最中はサタンがわからないですねえ。
最初から気づけたらいいですよねえ」

Bさん「私は思い煩いに来る。思い煩いがどん
どん高じて、絶対有り得んシナリオまで出来
上がってしまって、どつぼになって、ふっと
気づく。うわっサタンじゃ。

Cさん「自分の思い、肉の思い、この世の価値
観に来る。神様の思いと自分の思いは違う。神
様も“わたしの思いとあなたがたの思いは異な
る”と言われている。人間の思いの方が常識的
で、まともに見える。神様の思いの方が非常識
に見えて、そっちに行くとうまく行かないと思
えてしまう。これが肉の目なんだと思う。
サタンにそっちに引っ張られる」

ほんとに信仰の歩みだ。肉の方がまともに見え
てしまう。神様視点と御言葉にしっかりとどま
っておれるように。
思いに今も働いているサタンに気づけるように。
思いを見張っておれるように。

by多恵子




2006年12月19日(火)
  「必ずすべては益に」

「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、
だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがどどま
っていることはないのです」Tヨハネ3:13

Aさん「ほんとに罪がわかります。憎む者は人殺し、
自分はもう何人殺したかわからないし、一人の人を
何回殺したかわからない。

難しい厳しい対人関係を与えられて、憎んで、憎ん
で、人を憎み、自分も辛い。その場では激情になる。
それは家族にも被害が及んで、家の中でニコリとも
できず、家族に害毒をまき散らす。ほんとにこのま
ま行くと破滅だと感じた。滅びだと恐ろしかった。

悔い改めて、悔い改めて行きたい。悔い改めるなら、
赦して下さることが本当にもう感謝でならない。
十字架の意味が、以前よりもっと近くなって本当に
感謝。

Bさんがすごい輝いた顔で、証しされていたのがもの
すごく印象的だった。Bさんはパニック障害を通られ
どんなにか辛く苦しいことと、一時期お顔の表情から
も見てとれて、苦しいところを通っておられるんだな
と感じていた。

それが、今は、もうはつらつとされて、喜びと感謝が
満ちておられるのを見た。病気があったから、今が
あると言われた。すべてが感謝だと。

ものすごく励まされた。通っている渦中は真っ暗な
トンネルだけど、その中では、何でかもよくわから
ないけれど、必ず出るし、出た時に、本当に心から
感謝できるんだなと。今はわからないし、状況は辛い
けれど、意味があると覚え、感謝して行きたい」

Bさんは本当に奇跡だ。神様のみわざが輝いている。
どんなにか苦しく、しんどく、辛いパニック障害を
患われた。でも、地区集会にだけは、どんな事があ
っても来たいと、這ってでも来たいと、病気中も休
む事なくずっと来られた。
病気のさ中も、集会のお世話を、ずっとして下さっ
たのだ!!

ほんとに今、仕事も与えられて、生き生きとはつらつ
とされている。主の栄光が現われている。

Bさんも「自分はものすごく几帳面で、杓子定規で、
絶対に、これはこうでなければならない、というのが
物凄く強かった。時間は絶対に遅れないし、家にちり
はあってはならないし、ほこりなんて無いですよ(笑)
そして、もう頑張って、頑張って、頑張って生きて来た。
それが培われてしまっていて、どうしても抜けない。

それが病気をして、もう全面ギブアップ。だって、どう
やってもどうも出来ないんだもの。ほんとに変えられ
ました。融通が利くようになったんです。楽になりま
した(笑)」

“私は多くの人にとっては奇蹟と思われました。あな
たが、私の力強い避け所だからです”詩篇71:7

病気を通して、どっかーん!!と恵みの大海へ神様が
放り込まれたよう。

by多恵子

2006年12月17日(日)
  「祈りは働いて」

最近、教会に来始めたBさん。
ミスってしまって、交通違反で罰金。
お金がなくて、大ピンチ。

神様に祈ったらよいんだよと、言われ、
お金が無いこと、必要である事を祈った。

すると、不思議におじいちゃんに会う機会
が与えられ、おじいちゃんはお小遣いをく
れた。
それが、祈ってたから、あ!神様だ!と、
すぐに気づけた。とても嬉しくなった。

教会の皆は、もうしょっ中経験しているん
だろうけど、自分は大感動だったと。

聖書の事、詳しく知らないが、あ、これ、
聖書のどっかの、あの御言葉が実現しとる!
と、神様知れたことが嬉しかったと。(^^)

「求めなさい。そうすれば受けるのです。
それはあなたがたの喜びが満ち満ちたもの
となるためです」ヨハネ16:24

祈ったから、神様がわかったし、神様の
答えだとわかった。何よりも、喜びが満ち
満ちるの約束の通りだ。

祈らなかったら、偶然で終わり。物は与え
られているが、それが神様に結びつかない。
だから喜びがない。

どんな小さな事でも、神様に依存して、頼る
と一つ一つの事柄に喜びがあり、それが見え
て来る。

祈りは、心と生活を神様につなげてくれる。
祈りがあるから、霊の目が開かれて、実は
そこに満ちておられる、神が見えて来る。

「まことに主がこの所におられるのに、私
はそれを知らなかった」創世28:16

by多恵子

2006年12月16日(土)
  「御心の地は平安の地」

アフリカで宣教しておられる女性宣教師A
先生が来教して下さり、報告して下さった。

青年会で、宣教地について話して下さった。
主に子供達への働きを中心にしておられ、
宣教始めた頃の子供達が、今、青年になって
来ていると。尊いお働きだなあと思う。

イスラムの教えで、子供達は旧約聖書をよく
聞かされていて、よく知っていて、天地創造
を信じていて、アダムやエバ、モーセのお話
をものすごく喜ぶ。

創世記から話すと、喜んで聞き、もっともっと
と催促するそう。創造から、出エジプトと
どんどん幾らでも喜んで聞く。そしてイスラム
と根本的に異にするキリストの救いのお話を
される。

貧しいので、物やお金を求めてやって来る。
しかし、それが救いにならないので、主からの
知恵や導きを求めながら対処されると。

女性お独り身なので、宣教師と一緒でないと
治安上働けない。宣教師の帰国に合わせて、ご
自身も帰国される。今まで、ずっと共に働く
宣教師が与えられて来たと。すべての面で神様
はずっと備え、必要満たし、導いて来て下さった
A先生を通して、主のみわざと栄光を見る。

時間の感覚が日本と全く違い、あって無いよう
なものと。時間の約束などがなく、1日の内の、
いつ子供達が来るかもわからない。それがその
土地のやり方でと。今から少し休もうかなと思
っているところへ突然やって来たり。

帰国すると、時間に合わせるのが慣れていない
ので大変な苦労と。昔、5分も無駄にせず惜しん
で、常に何かをしていたのが嘘みたいと。
今はもうそんな事、全く無くなりましたと。

「お独り身で、ホームシックとか無いですか」
に「それが全然無いんです」若い時に宣教地が
示されてから、門が開かれるまで、待ち望み
の時期が長かったから、もう行けること自体が
嬉しくて、嬉しくてと。
みこころの場所が、どこであれ一番の平安の地
なんだ。

青年達とも皆で、A先生はかっこいいよね、素敵
だよね。一生涯、神様だけを見て、一生を献げて
従い続けておられる。それも極めて自然体で。
そのお姿見るだけで、恵まれる。

by多恵子

2006年12月12日(火)
  「爆笑のクリスマス会」

先のクリスマス会の交わりが盛り上がり、
面白楽しかった。

他教会のAさんが、学びがしたくて、私達
の教会の、この地区集会に出席したいと願わ
れた。丁度、集会所が娘さんのお家のすぐ
近くなのだ。

この集会のお世話をしてくれているBさん
に尋ねた。
A「わたしゃ、他の教会の者なんじゃけど、
学びに入れて貰っていいもんかねえ?」
B「大丈夫よ!うちの牧師先生、天国から
ぶら下がっとってじゃけえ」(大爆笑)

B「だって、全然お金とか、目の前の事に、
ちまちまされないじゃないですか。天国人
みたいなんじゃもん」

昔話に花が咲いた。今、高校生の子供達がまだ
皆、幼稚園だった時に、うちの教会のクリスチ
ャンTさんが、幼稚園で集会案内のチラシを配
った。

その頃、Yさんはいつも完璧にお化粧し、真っ
赤な口紅を塗り、超ミニスカートをはき、長い
髪をフワフワにパーマかけ、いつも豹柄のバッ
グが腰に。
Gさん「夕方からお仕事?ってな感じだったよね。
いつもバシッとお化粧完璧で、この人、すっぴんの
顔って、どんなんなんだろうと、いつも思ってた」
(大笑)

そのクリスチャンのTさんは、全員に教会案内
を配り、そして、そのYさんだけ避けられた。
よけられてチラシを貰えなかった。(又又、お腹
抱えて大爆笑)
Gさん「そりゃあ、Tさん、恐かったんよね」(大笑)

Yさん「後で、Tさんが謝ってくれちゃったんよ。
絶対この人教会へ来ないと思って、渡さんかって、
ごめんね、って」(大笑)
Yさん「結局、私一人もらわなくて、でも、教会へ
来て、残ったのは私一人なんよ」(笑)
Kさん「人は見た目じゃ、わからんのんじゃあ。
見た目で見たら、いけんのんよ」(笑)

「でも、スタイル良くて美人で綺麗なYさん、Tさ
んは女優さんかと思ったと言ってたよ」(笑)

神様に愛されて、しっかりつながって、今はお世話
をして下さってるYさん、神様がしっかり選んで
下さってたんだ。感謝、感謝。

もうお腹抱えて大笑い。皆で楽しかったねえ〜(^^)/
楽しいクリスマス会だった。

by多恵子

2006年12月11日(月)
  「恵み溢れたクリスマス会」

今日は地区集会で、一番乗りのクリスマス会だった。
近辺の婦人方と丁度期末テストで早く帰った高校生
の子供さん達も集ってくれた。

「その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご
自分の民をその罪から救ってくださる方です」
マタイ1:21

メッセージの中の、特に「ご自分の民」が心に留ま
った。神の民とされている人は、必ず神の愛がわか
る。神の民とされている人は、必ず悔い改めて、神
を受け入れる。私達にはわからないが、神は誰が民
かをご存じ。

「私たちは神から出た者です。神を知っている者は、
私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者
は、私たちの言うことに耳を貸しません」
Tヨハネ4:6

罪を贖うためには、罪の無い小羊、神でなければな
らなかった。ご自身で犠牲を払われた。神の愛を
思えば思うほどに感謝が溢れる。

食事をしながら交わる。
Aさんが「感謝な事がありました!高い所の窓拭き
をしてたんです。窓の網戸を落下させてしまって、あ!
でも、すべての事について感謝しなさい、神様、感
謝します、と言ったんです。

隣が葬儀会社で、丁度下はそこの駐車場になってて、
車がズラーと並んでたんですが、それが落ちた場所
だけ車が無かったんです!!隣はベンツでした。
まあ、神様に感謝しました!」
皆で大笑いしながら、まあ良かったねえ!!

BさんとCさんがまだ子供が小さい頃、公園で遊ば
せていると、子供同士が一緒に遊び、親同士が知り
合いになった。その頃から10数年の付き合い。

Bさんが途中でクリスチャンになり、するとCさん
のお母さんがクリスチャンだった。それで、Cさん
お母さんも地区集会に集って下さった。不思議な神
のお導き。

娘のCさんが「母はもう大変な心配症で、石橋を
叩いて、叩いて、叩いて、叩き壊して渡らない、
遙か彼方の事まで延々心配する気性だったんです」

それが、クリスチャンになられたお母さん、神様に
お委ね、お委ねで、今は人生お委ねで、老後を平安
な中で過ごしておられる。神様はすごい!

クリスチャンになったBさん通して、界隈の色々な
方々が入れ替わり立ち替わり、地区集会に集って下
さった。
教会はどうも、という方も、地区集会ならワンクッ
ションあって来安くて、来れるよう。地区集会なら
ではの用いられ方を見せられて来た。

今日も御言葉の恵みと、楽しい笑い転げた交わりと
素晴らしい食事に身も心も恵まれた。

by多恵子

2006年12月07日(木)
  「主のこころ」

最近カルトの学びをしたり、カルトから逃げ
て来た人々の事を聞いたりする機会がある。

マインドコントロールとは、例えば、魚とまな
板と包丁だけが置いてあって、鍋もガスも無い。
さあ、どうぞ自由に、自由に、あなたの自由に
調理しろと言われて、刺身しか作れない。

それに気づかずに、自分で刺身を作る事を選ん
で、自発的自由意志で刺身を作ったと思っている。
実は裏でコントロールされている。

洗脳は、直で、もろでわかりやすい。キリストは
神でない、神でないと、すり込まれてること。
北朝鮮から帰国した人々のように、環境が変われ
ば、元に戻る。

指導者の野心、欲望追求のために利用される。
神の名のもとに、聖書のもとに、良心に恐れや、
とがめを与えて、人々を支配して行く。従わない事
は自分が悪いと、良心がとがめようになる。
そのようにコントロールされる。
自分で考えるより、指図された事をする方が楽だか
ら、指導者のいいなりになって行く。

神に従っている指導者なら、その人と神との関係
を育てて行くように、導いて行くはず。

面白かったが、
深夜にジャンジャカ、バンバン賛美して、隣人
から怒鳴り込まれた。主のための賛美をしている
のに、怒鳴り込む方が悪い。サタンじゃ。迫害じゃ。

皆で大笑い。「それって変だと思わんのん?」「中に
いると全然思わんかった。今はしっかり思うけど」
「でも、そういうの前にも聞いた事あるわ」

「暖かい神様なんて全くわからない。厳しい恐い
だけの神様」「いつも安堵感があって、平安で、
自由なんだよ」「自由なんて、わからない」

カルト、カルト的・・って、心がない。
主のお心がない。形は全部あって、外側は同じ
聖書の御言葉、でも、冷たい、冷え冷えした牢獄
のよう。

イエス様の弟子たちって、逃げた。自由に逃げること
ができたってことは、いっさいマインドコントロール
されていないんだ。

イエス様の周囲にいつもパリサイ人もいた。
ほんとに、イエス様のお心を思っていないと、
それてしまう。主のためにとやっていて、間違いに
気づかない。

by多恵子





2006年12月04日(月)
  「クリスマス・ストーリィ」

クリスマスが近づいて、準備とかもあって、
クリスマスストーリィを御言葉から読んで
いた。

東方の博士達が星に導かれて、エルサレム
までやって来て、へロデに、ユダヤ人の王
として生まれたキリストについて尋ねた。

へロデは恐れた。苦労して手に入れた王の
地位が危うくなる。自分さえ良ければ周囲
はどうなっても構わない。自分を守るため
に、近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず
殺させた。

神は、罪について見せておられる。へロデの
ような権力が無いから良かったものの、自分、
自分の、自我を押し進めて行くと、周囲を蹴
散らして害毒を流して行く。神の栄光を損な
って行く。

へロデが恐れ惑うのはわかるが「エルサレル
中の人も王と同様であった」。何でエルサレ
ム中の人が恐れ惑うのか。へロデ王がいかに
陰湿陰険かを知っているので、不穏な事にな
る、そして戦いが起こるのを恐れたのか。

エルサレムの人々にも求められていかった。
へロデが自己中心、自分が心の王座にも座り、
自分が神となっていたが、結局エルサレルの
人々も自分を神としていたいがために、本当
の神が来られては困る。

人間の心はアダムの罪以来、そのようで、自
分自身もそうなんだと教えられる。本当に救
いは奇跡だ。
「あなたがわたしを選んだのではありません。
わたしがあなたを選び」ヨハネ15:16
神の憐れみに、ただただ感謝。

東方の博士達が、遠方から数ヶ月の時間と莫大
な費用をかけて、道中、命の危険をも覚悟して、
幼子にたった一度の面会のために、すべてをか
けて、犠牲を払ってやって来た。

「礼拝」するためであった。何の見返りも求め
ず、財産投げ打って、命をもかけて、礼拝する
ためにやって来た。何の打算もなく、ただ礼拝
を献げるためであった。

自分の何かのためでなく、礼拝を目的として、
献げた。神を礼拝するために、生きていること
自分が満たされるための礼拝でなく、神を礼拝
すること、それ自体が目的であることを教え
られる。

by多恵子

2006年12月03日(日)
  「視点」

ペテロの海上歩行は有名だ。
ペテロがイエス様だけに焦点を当てて、
見詰めていたら、歩けたが、
風に目が移った途端に沈んだ。

状況は全く同じだ。
何を見ているかで、奇跡のごとく歩け
たり、沈んだりする。
状況が全く同じというところが面白い。

クリスチャン生活は、天国へ行くまで
毎日毎日毎瞬が水の上を歩く歩みだと
思った。

Aさんが厳しい試練の中で、犠牲を払っ
てくれて、時間や労力を使って、励まし
たり慰めたり、気をかけてくれる兄弟姉
妹の愛が身にしみ入り、それを通して、
こんなにも、自分を愛して下さっている
神が見えた。

神の愛をひしひしと感じ、心が喜びと感謝
と恵みでいっぱいにされた。

ところが、まっすぐ見ている神様から目を
離して、状況と自分を見た途端、どぼどぼ
と落ち込んだ。
皆は幸せそうなのに、幸せなのに、自分だけ
何で?何で?と、どんどん落ち込んで行く。

状況は全く同じだ。

神を見ているなら、同じ状況で感謝と喜びと
恵みで溢れ、神から目を離し、自分と状況を
見た途端、自己憐憫に陥る。

どちらを見ているかだ。それだけで、それが
すべてだ。
一生涯、イエス様だけを見続けていたら、
どんな状況の中でも生きて行けるんだと、
教えられる。

神に、御言葉に、賛美に、祈りに、感謝に
恵みに、今日も目を留め、見続けていたい。

by多恵子

2006年12月02日(土)
  「両刃の剣」

御言葉の力を、ずっと学んで来た。

いじめに会い、心がぼろぼろになった人々が
御言葉で、新たにされ、神の力を受ける証し
を色々目にした。

最近のいじめは、昔のがき大将のようではなく
陰湿、陰険、誰が標的になるかわからない。
次は突然自分が標的になったり。

「死ね」「うざい」「気持ち悪い」「消えろ」
などと四六時中言われ続けたら、どんな人でも
自分の存在を否定され、自分の価値を無くして
しまう。言葉の暴力だ。心が死んでしまう。

御言葉は、どんな状況にも打ち勝って行く、
神の霊が宿っている。
イエス様が共におられる事を、御言葉により真
に受け取った時、何も恐くなった子供が、いつ
ものようにクラスの子達がいじめに来た時、
思わず笑みがこぼれた。

いじめっ子達はその気配に恐れをなして、二度
となくなったと。神が働かれたと。

「耐えられない試練はない、逃れの道がある」
の御言葉を受け取った子は、神様にすべてを
委ねて、祈り続けていたら、なぜかわからない
が、相手が謝罪に来たり、神様はまことに生き
て働かれ、様々なみわざをされる。

神の口から出る御言葉を受け取る時、状況に
関係なく、力が湧く、希望が湧き、愛や赦しが
そこにある。

神の御言葉は、両刃の剣よりも鋭い。生きている。
御言葉を握る時、霊の敵はひるむ。どうもできない。

私たちが戦っている相手は、血肉ではなく、
もろもろの悪霊に対するものだ。

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、
主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、
また、天にいるもろもろの悪霊に対するもの
です」エペソ6:12

御言葉は霊であり、いのちであり、力だ。
今日も神の口から出る、御言葉を受け取りたい。

by多恵子

2006年12月01日(金)
  「いじめ」

友人がPTA役員をしていて、近くの大学教授を
呼んで、いじめの講演会を開いた。
その時の、その講演の結論が「いじめに解決は
ありません」だった。

「牧師に来てもらったら良かった」と言っていた
が、この世に解決は無いと思う。

いじめが人間の罪から来ているからだ。奥底に
あるドロドロした罪、自分の傷をいやすために
人を傷つける。人を傷つけて自分をいやす。

心の傷は、物ではだめで、人格を傷つけないと
癒えないそうだ。人を痛めつける事が面白い、
痛めつけて、自らの鬱屈を発散させる。

戦時中の捕虜の虐待や、日本が各地でした事、
ホロコーストや、ごく日常の、上司が部下にスト
レスを発散させる、母親が子供に自らのイライラ
をぶつける、弱い者へ弱い者へと向かう。

いじめられた者が、人の弱さがわかって、と
いうのではなく、いじめられた者が人をいじ
めて行く。
陰湿、陰険な罪の性質であり、人間の力や教育で
どうにもならない。子供でなく、大人の社会に
いじめがあり、子供はその真似をしている。

いじめに会われたキリストの十字架が解決だ。
祭司長達は、陰湿な妬みをぶつけ、ピラトはわか
っていて、ただただ自分大事、暴動になれば、
将来がおじゃんで、自分を守るだけ、

群衆は、自分達の鬱憤、鬱積、何もかもをキリス
トにぶつけ、殺せ、抹殺しろ、の大軍団。

兵士達は、この時とばかり、自分の日々の鬱憤を
晴らすため、何の関係もないキリストを、怒りと
恨みと屈折した感情で、滅茶苦茶にむち打った。
自分のストレスを晴らすために。

ほとんど十字架にかかる前に、拷問死にも等しい
ほどに、痛めつけた。
皆が、キリストを血祭りにあげた。いじめそのものだ。

いっさい抵抗されず、完全無抵抗で、全部のいじ
めを受け入れ、引き受け、やられるがままで、
最期は十字架で死なれた。

人間のやりたい放題、なされるがままを受けられ
ることにより、人間の罪をあらわにされたんだ
なあ。どんなに陰湿陰険で、おぞましいか。

これらすべてが自分の姿なんだと。

キリストの十字架を見上げる時、愛が心の核心に
触れ、真実を貫き通ように感じる。
愛が流れ出て、温もりと潤いといやしが流れ出る。

十字架を見る時、胸がいっぱいになる。
愛がわかる。これが解決なんだと。

by多恵子