2007年01月24日(水) 「沈んだ時は」
ダウンした時に、どうやって引き上げられるか の話題になった。 Aさん「突然の事態が来ると、やっぱり目の前 の事に反応して、神様が飛んでパニックになる。 くよくよしたり、思い煩ったり、落ち込んだり する。 しばらく、くよくよして、沈んで(笑)やっぱり 御言葉ですかねえ。御言葉が思い出されて、神 様は良くして下さると思える(笑) 今まで良くして下さった事なんかも、思い出して 信じて行こうと思える。心が明るくなって来て、 何とかなる!神様良くして下さる!と信じれる。 沈んだ時点から、引き上げられるのは、神様に 目を向けた時ですね。神様を意識する、御言葉 がふっと浮かぶ、すると、平安に戻される。」 Bさん「私、ものすごい思い煩い症なんですよ。 もう極度の心配症で、昔はすごかったんです」 横からCさん「そうそう、お母さんはもうすごか ったんですよ」(笑) Bさん「でも、今、思い煩うと『あ、神様』と、 すぐ神様呼んで、祈るんです。あの事、この事、 祈ると、ほんとに心が守られます。あの事、お願い します、この事、お願いしますと、お委ねして 平安にさせてもらってます。もう78になりました。 何でも『神様』とお話して、祈って平安に過ごさ せてもらって感謝です」 Dさん「神様を見た途端平安になります。目の前 の様々な起こる事態に、一瞬反応して、うわっと、 どうしようと、状況を見ると必ず心暗くなり、不安 と恐れになるけれど、神様見上げた途端、神様の 支配の中、御手の中だと、同じものを見ているのに 見方が全く変わる。 不思議ですよね。状況全く同じなのに。心がまるっ きり変わる」 御霊様がいつも共にいて、神様を見上げるよう、 見上げるよう、助けていて下さる。
2007年01月21日(日) 「パワー・フォー・リビング」
「パワー・フォー・リビング」というのがテレビ で流れている。有名人クリスチャンが証しをして いて、本を無料で差し上げますというものだ。 最初、テレビで見た時には、びっくり!!した。 公共機関から「神が・・」という声が聞こえて来て、 え?神って!確か、「神」と言った・・。?? 聞き間違いかと思った。 テレビから、「神」という言葉を聞いてビックリ する、それほど異教の国なんだと、改めて思った。 9・11テロの時には、アメリカでは、普通の新聞 に再臨や患難時代の事が、バンバンごく普通に出て いたそうだが、日本では考えられない。再臨などと 言おうものなら、「おかしな人」になってしまう。 莫大な資産を相続した人が、世界的に伝道目的でし ているらしい。 画面から、受ける感覚が爽やかだった。悪霊がらみ の、もうどよ〜〜んと、閉塞感、暗闇の世界を感じ る番組も色々ある中、清風が吹き通るような清涼感、 爽快感を感じた。感覚的なものだ。 テレビから「神が・・」と流れて来て、「まさか」 「聞き間違い」と思うような世界に住んでいると いう現実。 で、思ったのが、天国へ帰った時、どんなに喜び 爆発だろうと。そこにいる皆で、力一杯御名を崇め、 何の遠慮も無く、気兼ねもなく、大声で力一杯賛美し、 皆が皆、神を喜び、神が称えられ、神を礼拝する。 神だけが栄光を受けられ・・ うわっすごい世界、やっぱり天国だ。 その世界が待っている。この世界もしばしの間だ。 「♪再臨のその日には 主と共に天に行き ♪ 勝利の白い衣 身に着けて 主を誉む ハレルヤと賛美する 素晴らしいその時を 待ち望み 日々歩む 希望に満たされて♪」 パワー・フォー・リビング のコマーシャルを見て、 再臨の喜びに、心が満ち満ち溢れたのであった。 再臨の希望に満たされて、歩めることが感謝。
2007年01月19日(金) 「その場ですぐに」
なかなか「神様、ごめんなさい」が難しいと 話し合っていたら、 Aさん「自分のちょっとした言葉とか、態度 とか気分とかで、あ、相手を傷つけたなって、 一瞬教えられるんです。心の平安取り去って 下さって、あ、間違ったとわかる。 御霊が言っておられるのがよくわかる。ちょ とした言葉や態度で相手を損なってしまった 事がわかる。 その時に、その場ですぐに謝ったら、すぐに 解決する事を経験する。相手も、いいよと気 持ち良く赦してくれる。いっさい後に残らな い。尾も引かない。すっきりする。 それがすぐに謝らないと、もう謝れなくなっ てしまう。時間を置くと、ちょとした事だけ に、それを掘り返すと余計に変になるし、ひ どく気にしているように取られてしまうし、 もう機会を逸してしまう。 そういう小さな事が積み重なると、大きくな ってしまう。恨みやつらみは、なかなか人間 は覚えているもので、あの時もああで、この 時もこうでと、しっかり覚えていて、この人 いつもそうだ、ずっとそうだ、となってしまう。 その時に、以前の小さな事はその場その場で 謝って解決しておくなら、決してひきずらな い。 小さな事は、すぐに、その場で謝れるように、 して行きたい。」 その場ですぐに謝ったら、きっちりかたが着く。 気持ちよく受け入れてもらえ、解決する。
2007年01月17日(水) 「自分の力」
アダムとエバは、「あなたがたが神のようになり」 との誘惑に乗った。神のようになることを選んだ。 サタンの大嘘で、神になれなかった。善悪を知った だけで、行なう力は無かった。惨めな状態となった。 人間は神を捨てて、自分の思いと知恵で判断して、 自分の力で生きて行きたいと欲した。 それが肉の性質で、生まれつきの自分の性質だ。 神様から独立して、自分の力で生きて行きたい。 それが実は最大の不幸であり、神を頼って生きて 行く事が最大の幸福だ。 神様は、私を幸せにするために、とにかくご自身 に頼らせたい。放っておくと、自分で生きて行く 者を、様々な出来事を与え、砕き、頼るようにして 下さる。これこそが恵みだ。 Aさん「肉は、自分の力で生きて行きたいのが、 強い力があるのが、よくわかる。自分でしたいん ですよね。一方、新しい性質は神様に頼ろうと するし、それを喜ぶし、平安がわかる。 例えば、ある事を計画して、それを成し遂げて 行く時に、どんどん進めて行く。一日中、手を尽く し、時間と労力をかけて、一生懸命に準備して形 が出来る。 後で、気が付くんですけどね、全然神様飛んでて 祈りもなく、全然頼ってなくて、やってるんですよ。 出来上がった時に、別の人から、クレームが来る。 その時に、全然神様頼ってなかったって、気づく んですよ。祈ってもなかったと。自分の力でやって いたと。 気づいて、神様ごめんなさいと、素直に謝れると スーと平安になって、そこで知恵が与えられ、行 動も導かれ、人の前にもへりくだれて、あったかく されて行く。 そこで、気づくが、心頑なにして、神様に謝れ ない時は、プライドが突っ張って心ますます固く なって、必ず人を責める。 私は時間も労力もかけて、一日中懸命にしたのに 相手は何もせずに、クレームだけつけてと、怒り になる。そして、空気が気まずくなり、神様の栄光 と反対のものを表して行ってしまう。 こういうの、日々の小さな事柄で、しょっ中経験 します」 神様頼らずに、自分でしている事に、気づかされた 後、すぐに、神様ごめんなさいと、心素直に謝る ことが、大きな恵みを受ける道だ。 “わたしを離れては、あなたがたは何もすること ができないからです”ヨハネ15:5
2007年01月16日(火) 「気づかされる」
肉の思い(理性、常識、知識)が、聞いている御言葉 を心に受け取る事を、妨げること話し合っていたら、 Aさん「何かわかる。御言葉は一応御言葉として頭に は入るんだけど、心に入れてないんだと思う。『そ んな事できんわ』御言葉はまず出来ないと思って る。何かきれい事として、頭で受け取ってる。 だって、敵を愛するとか、自分を捨ててなんて、はな から出来んとして、聞いてる。それって、肉の思いで 御言葉が心に入ることを、シャットアウトしてますよね」 理性、常識、この世の価値観て、一見、ストレートな 罪、酔酒、酩酊、憎しみ、妬みのような・・でないので、 妨げられていながら、わからない。 Bさんは「神の、あなたを愛しているとの言葉を聞く 時、同時に『私みたいな者が愛されるわけがない』と の思いが来て、愛しているのメッセージを受け取れ ない。どうしてもダメ」 御言葉と同時に来る“愛されるわけがない”との 思いが問題なんだ。御言葉をさえぎってしまう。 でも、何より、気づきが与えられる事が感謝だ。 あのエマオ途上のクレオパ達も、常識と理性と知識で、 イエス様がよみがえるなど、信じられなかったんだろう な。そんなバカな事があるか。 十字架上で、イエス様ははっきり死んだ、明確に死んだ、 完全に死んだ。そりゃ、よみがえったら嬉しいだろう けど、そんな事あるわけない。そんな荒唐無稽な話。 “ところが使徒たちにはこの話は、たわごとと思われ たので、彼らは女たちを信用しなかった”ルカ24:11 常識と理性と知識で判断したなら、まさに、たわごとだ。 あり得ん!! 失意で、する事もなくなって、とぼとぼと郷里に帰る クレオパ達に、イエス様が現れて下さった。 御言葉を説き明かして下さったら、心が燃えて来た。 喜びが来て、生き生きとして来た。 これって、今、私達が御言葉を読む時に、御霊によって 語られる事なんだろうな。 御霊に語られる時って、心に喜びが来て、平安が来て、 生き生きと、心が生きて来る。求めていた答えが来て、 神がまさにここにおられる、実感が来る。 “肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと 平安です”ローマ8:9 “神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです” 御霊が導いていて下さる。
2007年01月14日(日) 「どうぞ宴会にお出かけください」
先週の聖日礼拝に、フィリピンから仕事で来日の クリスチャンが来会された。 女性一人で、短期の仕事で来ておられ、心寂しい 中、礼拝できて、交われて、大変喜ばれた。来週 も来ると言って、帰られた。 それで、日本語が全然わからず、英語なので、彼女 のために、選曲係は、英語の歌詞がある聖歌を調べ 選曲してくれた。英語の歌詞もコピーしてくれて、 彼女が歌えるように用意してくれた。 メッセージもその時は、たまたま来会の韓国人クリ スチャンが通訳してくれ、アウトラインが理解でき た。それで、今回はその姉妹もいないので、教会の 一人の姉妹が準備し、辞書も持参で通訳するよう備 えてくれた。 で、用意万端で、聖日を迎えたが、その彼女は用が できたのか、来ることができなかった。 彼女が来る事ができなかったのは、残念であったが、 準備を整えた事を通して、とても恵まれた。 「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家 畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会に お出かけください」マタイ22:4 神様が自分自身にこう言って下さっていることが、 わかった。いつもすべての用意が整っている。さあ、 来なさいと、招いて下さっている。 自分でするのでなく、神様の側で必要のすべてを 整えて待っていて下さる。 毎朝のデボーションもそうで、自分は行くだけで、 神様が恵みを備えて整えて待っていて下さる。 奉仕も、自分はあずかるだけで、神様が必要な力、 知恵、アイデア、恵みのすべてを用意して待って いて下さる。 信仰生活そのものが、そうなんだと。 いつもいつも、さあ来なさい。すべて整ってるよと 神様が招いていて下さる。恵みの中にいつもとどま りたい。
2007年01月13日(土) 「前進したい」
2007年、年頭礼拝のメッセージは「前進せよ」であった。 出エジプトを果たしたモーセとイスラエルの民であったが、 追っ手の軍隊がどんどん迫り、後ろはエジプト軍、前は 海の絶体絶命となった。 進むことも、退くことも出来ない。どうにも出来ない窮地 だ。民たちは恐れて、こんな所で死ぬより、エジプトへ帰 った方が良いと騒ぎ出した。 その時に、モーセは「主があなたがたのために戦われる。 あなたががたは黙っていなければならない」と告げた。 そして、神はモーセに「前進せよ」と言われた。 今、信仰生活の中である、様々な問題、それは主が戦って 下さる。だから、前に進めと言われる。 神は雲の柱を使って、イスラエルを守られた。前を進んで いた雲の柱が、後ろに回り、イスラエルとエジプトの陣営 の間に入ったので、真っ暗な雲で夜を迷い込ませ、一晩中 エジプトがイスラエルに近づく事はなかった。神は、必ず 守りの手を延べられる。 直路宣教師がデプテーション中、船で移動時に、尚子姉が 船酔いでダウン、とりあえず途中の与論島で急遽下船。 空港に山羊がいて、閑散。人もそんなにいず、全く初めての 知らない島に降り立ち、尚子姉は体調崩してるし、荷物と 子供抱え途方に暮れた。 ホテルの送迎で来ていた青年に、事情を話すと、親切にして くれて、タクシーを呼んでくれ、病院まで行けた。 処置をしてもらって、何とそこで、あかりちゃんが水疱瘡に かかっていると判明。主の導きだった。 そして、電話帳でホテルを探し、行った先が何とその助けて くれた青年のホテルだった。 神の御手の中に、しっかり守られている事を感じた。 モーセが杖を差しのばすと、海が分かれて乾いた道が現れた。 神は、私達が窮地の時には、道を造られる。道が無いと思え ても、神が道を造って下さる。 途方に暮れても、行き詰まる事は決してない。道を造って下 さるから、前に進める。 だから「前進せよ」と言われる。 今年、信仰において、前進して行けるように。 「主が戦われる」は、一つ一つの難題に対して、平安を与え てくれる。「必ず守りがあり」「道が造られている」から。 今年、前進して、そして今年の最後に、主が戦って下さった、 守りがあった、道が造られていたと、心から感謝できること を見つめている。
2007年01月12日(金) 「御霊の助け」
思い煩いについて学んでいた。 Aさん「思い煩いが来ると、どんどんネガティブ 思考にはまり、知らない内に、今こうなのは、あれ がこうなって、ああなって、結局おおもとまでさか 上って、元からして悪いと、全部を否定的に考え てるんです。 そうしていて、それも気づかない。教会に来て、 はっと気づく。前向きじゃなく、全部後ろ向きに なって、不平と不満タラタラ。 感謝など全く無いし、喜びもない。平安もない。 周囲にも当たってて(笑) 今、感謝が見えます。ほんとに神様見ると、感謝 しかない。次々恵みが見えて、今まで導かれた 奇跡のわざが見えて、感謝しかないです。 ほんとに天と地ほど違う。目の前の状況同じなの に、神様無しになると、不安と恐れと不満、将来 へのどっと心配に襲われる。 でも、神様見ると、平安と希望と確信が来ます。」 サタンは肉に働いて、神無しの否定的思考へと 強力に誘う。 ふっと、我に返り、神に帰れて、そうじゃないと 気づきが与えられる。御霊様の働きに、ただただ 感謝。流されている時、どうか気づけるように。 「肉の思いは死」。状況に面と向かった途端、不安 と恐れに襲われる。これが肉の思いから来る死だ。 「御霊による思いはいのちと平安」でも、この 状況の背後に神様がおられる!と瞬間思いが至る と、神には計画があられ、この事態は益となり、 必要で、何かを教えようとしておられると、 神様視点で考えられる。 御霊の助けに、本当に感謝。
2007年01月11日(木) 「状況は同じでも」
妊娠中のAさんが検診に行き、現在8ヶ月で逆子 と判明。 へその緒が巻き付いてるので、体操はできないから ちょっと様子見ましょうと言われたと。 前回も逆子で、逆子体操して元に戻ったそう。 それを聞いて、え!と思い、突然不安になり、どう なるのだろうと、恐れと思い煩いで、ああだ、こう だと暗い方へネガティブな方へ思いが行っていた。 突然、え?でも神様が、と神様に思いが行った。 頭を上にするのも、下にするのも神様じゃとの 思いが来て、全部神様の支配の中だと思った途端、 へ?突然憑きものが落ちたように、今までのうじゃ ら、うじゃらは何だったん?とすっかり平安にな った。 要するに、「視点」の問題だと。状況はまるで 同じなのに、視点の違いで、天と地の差が出る。 状況だけ見るのと、神様を見て、状況を見るの では、まさに「肉の思いは死で、御霊の思いは いのちと平安」だ。 そう言えば、私も逆子で、神様のみわざを見た。 末っ子の出産の時、妊娠中毒症になった。 どんどんひどくなって、9ヶ月ほどの時に、 妊娠中毒症のゆえに入院して、症状が改善したら、 一旦退院という予定だった。 妊娠中毒症で逆子で、最悪で、何かがあっても 病院には責任が無いという了承の書類を提出 させられた。万一も覚悟しておいて下さいと 言われた。 教会の皆も祈ってくれていて、入院1週間目に 破水した。破水したので、もう出産になります からと言われ、小さな未熟児で、逆子のまま、 足から全く何の問題もなく出て来た。 小さかったので、良かったと医師が。そのまま 保育器に。 丁度、入院中だったので、すべて即、対応して もらえ、難なく出産。 結果的に、何の心配も思い煩いも不要で、神様 がすべて良きに導いて下さった。 すべての事は、神様の支配の中、神様を見ている 時、いつも平安だ。
2007年01月10日(水) 「よくなりたい」
ベテスダの池の箇所を話し合っていた。 38年病気の男性がベテスダの池に伏せっていて、 イエス様が目を留められて「よくなりたいか」と 問われる。 Aさん「あ、私、全然良くなりたいと思っていな い。よくなりたくないと思っている。 良くなったら、嫌いな人を愛さないといけない、 神様に祈れば、そうして下さる事もわかっている。 だから祈りたくない。よくなりたくない。嫌いな 人を愛したくないんだ」 「よくなりたいと思っていない自分がわかった。 新しい年、前進したい。よくなりたいです」 よくなりたくない自分の姿を、照らし出すために、 自分自身の本当の姿を、認識させるために、イエ ス様は「よくなりたいか」と聞いて下さる。 心が探られて、自分の心を自分で知る。 Bさん、対人関係で目の前に、どうしても受け入れ られない相手がいる。でも、自分への神様の取り扱 いであり、そこから逃げたとしても、次の「あいつ」 が必ず次々と備えられていることがよくわかる。 相手の問題でなく、自分の問題なのだ。強烈な自我 に触れるのがわかる。つい相手へも態度が悪くなっ てしまい、平安が全くなく、苦しくて仕方がない。 悶々の内なる葛藤の日々の後、ついに「よくなりた い。苦しい。私を変えて下さい」の祈りへと導かれた。 自分が良くなりたいと思わない限り、良くなる事は 不可能だ。「良くなりたくない」自分を知る事から 始まる。その自分を認める時、神がみわざをして下 さる。
2007年01月09日(火) 「世の常識」
「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのち と平安です」ローマ8:6 肉が、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝・・の類は、 わかりやすい。 しかし、肉の思いは、そういうものだけでなく、 理性、良識、常識、この世の知識だ。 Aさんが「最近やっと罪がわかって来た。今まで 何度も何度も、罪について聞き、十字架について 教えてもらっていたが、それが通り抜けてしまって、 罪が全然わからなかった。」 なぜ、すり抜けてしまうのか、聞いて行くと、 その原因が「世の常識」だった。 罪の御言葉を聞くと同時に思いが来る。 頭ではわかるが、しかし「そんな事が罪だと言っ ていたら、とてもじゃないが、この世の中生きて 行けない」「現実世界では、そんな事、無理、不 可能だ」「世の人はみんなしていること」 それで、御言葉を心に入れないで、捨ててしまう。 だから、罪の御言葉がわからない。原因はその 「常識」“肉の思い”だ。 形は様々だが、こうやってサタンは御言葉を心 に入れないようにしていると、見せられた。 「肉の思い」によって、心に入れる事をさえぎる。 それが、悪い思いでなく、常識、良識、理性だから 全く気づかない。 気づかずに、この世の常識、価値観でもって、御言 葉を判断してしまうから、絶対に相容れない。 それで、御言葉がわからない。 御言葉をそのまま受け取らない。 「愛している」の言葉も「いいや、そんなはずない」 と思っている。 だから、いつまでたっても、愛がわからない。 どういう思いで、御言葉を思っているか、受け取 っているか、よく心探られたい。ここから始まる。
2007年01月08日(月) 「見たことも聞いたこともない神の愛」
様々な事件が起こっていて、本人の罪であり、 本人の責任であるが、色々考えさせられる。 親の押しつけが、子供を損なって行く。 若者が意見を言っている。 「自分も親を殺したいと思った事がある。 実際に殺そうとした瞬間もある。親のため などでは全くなく、自分の将来のために思い とどまった」 「親の家業を継がなくてはならない。自分は 全然したくない。嫌だ。でも仕方がない」 「家が病院。だから親を継いで医者にならな ければならない。なりたくない。向いてもい ない。しかし、医者にならなければ、親に愛 してもらえないと思った」 “医者にならなければ、親に愛してもらえな いと思った” これって、 “教会へ行かなければ、親に愛してもらえな い。神様を信じなければ、親に愛してもらえ ない”とおんなじだ。 クリスチャンの親が陥って、全く気づかない、 大きな間違いだ。 前回のAさんが、これに気づいた。そして、 変えられた。 Bさん「私は、それをして来て、子供を損なっ て来ました。自分自身が神様の無条件の愛が わからない。神様の無条件の愛を子供と一緒に 教えられたいです。 神様がすべての事を益として下さることを、信 じて感謝して行きます。」 クリスチャン二世「私は気が強いから、もう嫌 なものは嫌で、思春期の頃、教会へ行かなかった。 すると、クリスチャンの親から迫害を受けた」(大笑) 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり」 と言われる神様、ほんとに、人間の思いと神様 の思いって、違う。 帰って来た放蕩息子を、無条件の愛で、喜び 受け入れる神様。人間はだいたい兄息子だ。 「そんな甘いことでどうする」「甘やかすから 悪くなる」「家に入る前に、ひとことあるだろ」 この世にはない、「見たことも聞いたことも、 心に思い浮かんだこともないもの」これが神の愛。
2007年01月07日(日) 「見守ること」
お正月にAさんから久し振りの電話。 子供の事を通して、何年も神様からの 取り扱いを受け、教え導かれた。 どうしても正しい事を、神様の事を子供 に押しつけてしまう。神様の事は絶対的 に正しいから、押しつけても自分の内で 正当化される。むしろ、善になる。 それが正しいと自分でも思ってしまう。 しかし、子供はどんどん離れて行った。 反発し、非行へと走った。子供の事は一番 辛い。今までの人生でこんなに苦しかった 事はないという中を、自分が間違っていた と気づかされた。 どうしも子供を神様に従わせたくて、子供の 信仰を親が何とかしようと、ずっとコントロ ールして来た。子供は重圧と反発で、むしろ 神から離れて行った。 自分自身が砕かれた。子供の意志をコントロー ル出来ないことがわかった。なぜなら、子供の 意志は子供のもの。 親は祈ることができるのみだ。もういいと 思えた。教会へ来るのも来ないのも本人の 意志。信仰自体も本人の意志だ。 子供が高校を中退して働くと言った。 親としては高校だけは卒業するのが、本人の ためと思った。しかし、自分も変えられた。 世間は甘くない事、今のままでは仕事が限ら れる事、生活して行くのは実際大変である事、 人生の先輩としての助言だと、親として思う 事は思う事として気持ちを話した。 あくまで助言で、本人の意志を尊重すると。 本人はそれも受け入れた上で、本人の意志で 退学を決めた。本人の決めた事を親は受け入れ た。親として出来る事として、書類を整えてやり、 もし復学したくなった時には、いつでも出来る ようにしてやった。 自立すると言ったからには、経済的援助も本人 のために敢えてしない事にした。神に任せて 祈り続けた。 子供は働いたが、やはり甘くはなく、身体的に きつく、ハードだった。現実にぶち当たり、良い 訓練だった。仕事一つでは足らず、二つしたりした。 時を経て、勉強したいと自分から願い、学校へも 行くようになった。そして、大学への政府からの 全額サポートを受けられる試験にもパスしたとの事。 放任でなく、祈りの中でひたすら見守る、これが 神様のお心だと思う。放蕩息子への御父の心だ。 人の心は、その人のもので、どうにも出来ない。 その人が自分でそう思わない限り、不可能だ。 人の心を変えられるのは、神様だけだ。 その神様にお任せできることが、何と恵みで感謝 な事だろう。
2007年01月06日(土) 「視点」
Aさん「感謝な事がありました。子供が腹痛と 嘔吐でぐったりして、もしやノロウィルス?と それでもおかしくない症状で、不安と思い煩い になりかけた時、信仰によって見る事を示して 下さったんです。 いや、すべての事は神様から来ている、この事 も神様から来ていると、そこに立った時、心が すうーと平安になったんです。 自然に神様の御手に委ねることができて、不安 も思い煩いも無くなってしまって。 すると、しばらくしたら、子供の症状が軽くな って来て、ノロウィルスの心配など全くなくな って。 この事通して、ものすごく教えられました。 状況全く同じ中で、天と地ほどに違う。状況を 見たら、恐れと不安と思い煩い、でも、神様を 見たら、平安と落ち着き、同じ状況でこんなに も違うのだと。 新しい年、本当に状況でなく、その状況を支配 しておられる神様を、どんな時にも見て行きた いです。」 ほんとに日常生活、ペテロの海上歩行そのままだ。 どんな不利な状況でも、イエス様を見て、イエ ス様から来ていると思うと、御霊の喜びが来る。 そこに主を見ると、ネガティブなものがいっさい 消えて心に喜びがあるから不思議だ。 視点の問題だ。イエス様を見ることが信仰だ。 by多恵子
2007年01月04日(木) 「着物はすり切れず」
大晦日の聖日礼拝は、申命記8:2−5だった。 「主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ま せられた全行程を覚えていなければならない」 2006年も、歩ませられた行程をしっかり心 に刻んでいなければならない。 試練の荒野を通される。荒野は水が無く、食べ 物も無く、命を滅ぼす毒蛇やサソリがいる。 自らの力も知恵も全く役に立たない場所。人は 荒野で訓練を受ける。 その目的は、@心の中にあるものを知るため。 神はすでにご存じなので、自分が自分の本当の 姿を知るため。神は私達に自らの本当の姿を明 らかにされる。 試練の中で本性が出る。本来の姿がいかに罪深 いかを自分が知るため。 A神の言葉で生きる事を学ぶため。食べ物が無い 中、神は天からマナを降らせて下さった。マナで 養われた。試練の中で初めて御言葉の力を知る。 「あなたの神、主があなたを訓練されることを、 知らねばならない」5’ 神は試練を与えられる。しかし、それは必ず益 となる。なぜなら、そこに神の愛があるから。 だから「この四十年の間、あなたの着物はすり 切れず、あなたの足ははれなかった」4’ 救われて40年、伝道を始めて32年になるが、 本当にこの通りだ。 数々の試練はあったが、「あなたの着物はすり 切れず、あなたの足ははれなかった」。 決して着物はすり切れず、足もはれていない。 「あなたの一生を良いもので満たされる」詩篇 103:5 良いもので満たされ続けて来た。そこに神の愛 があったから。神の愛で満ちていたから。 by多恵子
2007年01月03日(水) 「わくわく感」
明けましておめでとうございます。 いつも読んで下さっているお一人お一人に 神様の豊かな祝福がありますように。 今年一年も神様がどんなに良きものを、祝福 を備えていて下さるのか楽しみです。 今年はいよいよカンボジア入りする長男一家 が最後のお正月なので、家族皆で楽しい時を 過ごせるように、豊かな祝福を祈っていました。 長女一家も共に総勢十名で、大晦日から一緒 に和やかなや笑いの楽しいお正月でした。 皆クリスチャンというのも、改めて神様の恵 みだなあと。 楽しい喜びの日々が与えられ、仕事始めで、 それぞれ帰って行きました。 ふと、気づきました。そう言えば、神様知る 前は、待ちに待った楽しい時が過ぎてしまう と、心虚しくなったものでした。 楽しければ楽しいほど、喜びが大きいほど虚し さも大きかった。 でも、神様を知った今は、楽しい日々が過ぎ た時、神様は次は更に大きな喜びと楽しみを 与えて下さる、次は何だろうと、神様を期待 し、更に喜びに溢れます。 これって、すごい事じゃないかと。神様にあ ると、肯定的、前向き、期待感、わくわく感。 虚しささが全く無い。 今年も、次は、次は、どんな良いものを下さ るのかと、わくわくしながら歩める幸い!! 「あなたの一生を良いもので満たされる」 詩篇103:5 by多恵子
2007年01月01日(月) 「神の時」
大晦日には、毎年深夜祈り会がある。 教会の一年の歩みを振り返り、個人の一年の 祝福を語り合い、祈りで年越しをする。 いつも祈り終わった時、顔を上げて「おめで とう!」と言うことになる。 今年、教会の三原宣教とカンボジア宣教が大 きく前進した。 三原は5年間、種蒔きをし続けた。繰り返し 繰り返し、チラシ配布をし続けた。チラシを 見て、新しい人が来るには来るが、定着まで には至らず、種を蒔き続けた。 祈っていても、神の時があるとの答え。答え は「神の時」ということなのだ。しかし、神 は答えて下さっていた。 「天の下では、何事にも定まった時期があり、 すべての営みには時がある」伝道3:1 「神のなさることは、すべて時にかなって美 しい」3:11 去年、喜んで集って下さる婦人方が与えられ た。何より「喜んで」来ておられるのが、神 のみわざだ。まさに神の働きだ。 Aさん「三原を見ていて、ほんとに『時』っ てあるんだなあと教えられ恵まれます。『神 の時』って、厳粛にあるんですねえ。」 「神が動かれない時は、事が動かないから、 ひたすら待つことよねえ。平安もって待って いれば良いのよねえ」 「それが、待てないんですよねえ。平安に待 っていれば良いのに、焦ったり、悩んだり、 落ち込んだり、悶々としたり」 「私、ほんとに神様を信じて平安に待って いようと思う!」 『恐れないで、ただ信じていなさい』 マルコ5:36 カンボジアデプテーションも130の教会を 訪問する事ができて、様々な助けや備えに神 の大きなみわざを見る。 頼って一歩を踏み出せば、次の一歩をどんどん 導いて先導して下さる。 神の導きはサーチライトでなく、あんどんで あり、足もとの一歩だけを照らす。しかし、一歩 を照らされるので、必ず歩ける。 一歩進むと、次の一歩が照らされ、また、次の 一歩が照らされて、はっきり見える。 by多恵子