2007年02月22日(木) 「あるがまま愛されている」
Aさん「神様を信じられない、不信仰な自分がいる」 「神様信じられませんと、そのまま祈ったら?」 Aさん「え?そんな事、神様に言っていいのか」 「だって、建前の祈りは祈っても無駄、聞かれない。 きれい事の祈りも聞かれない」 「本音を受け入れて、愛していて下さる神様だから。 自分の不信仰な姿、愛の無い実際で、そのまま神様 のもとへ行かないと、ありのまま受け入れて下さっ ている神様が、絶対にいつまでたってもわからないよ」 Aさん「ああ、ほんとだ。そうですよね。そのように 祈ってみます」 いつも赦されて、ありのまま受け入れられている から、いつも平安と喜びと安堵感がある。 Bさん「嫌な相手がいて、『愛せますように』と ずっと祈っていたが、幾ら祈っても聞かれなかった。 何一つ変わらない。ある日、いつものように『愛 せますように』と祈っていて、これは嘘だと気づい た。違う。自分は愛せますようになどと思ってい ない。 きれい事で、建前だと気づかされた。『愛したいと 思っていません』と、自分の本心を認めて、告げて 行った時に、初めて祈りが聞かれた。」 愛したいと思っていない私を、愛し、受け止めて 下さる神様は、なんて愛深いお方だろう。
2007年02月21日(水) 「変えようとしなくなったら、変わった」
以前、知り合った婦人が話してくれた。 ご主人がギャンブル依存のようで、普通では ないのめり込みようだった。 パチンコに毎日、毎日仕事が終わると通う。 家計が圧迫される額の、かなりのお金を持ち 出すので、それでは生活して行けないので、 必ず喧嘩になる。争いの日々だった。 家では、毎日喧嘩が絶えなかった。彼女は 怒りで、実家に帰る事もしょっ中で、行き つ戻りつをずっと繰り返していた。離婚も 何度も考えた。 しかし、何とか夫がギャンブルを止めてく れるように、夫を何とか変えようと一生 懸命だった。 ご主人はとうとう給料を家に入れないで丸 ごと、パチンコに使うようになった。もう 暮らして行けないし、夫が何を考えている のか、怒りで、顔を合わせると喧嘩しかな かった。 そんな頃、誘ってくれる人があって教会へ 足を運んだのだ。もう疲れ果てていて、や はり何かにすがりたかったし、支えが欲し かった。 疲れ果てた心に、聖書の言葉が吸い込まれる ように心に入り、信じたいと思った。 そして、教会へ通い、聖書の学びをして行く 内に、自分の姿が照らし出されて行った。 それまでは、夫は完全悪、自分は完全善 だった。夫が一方的に悪い。表に表れる 行動は確かに悪かった。 しかし、心の内を見た時に恐ろしい自分の 姿が見えた。夫を軽蔑し、見下し、さばき 上から見下ろしている、高慢な自分の姿。 自分が真に恐ろしいと思った。 それに引き換え、夫はギャンブルはするが、 人の悪口など全く言わない人だった。 自分は人の悪口ざんまいだった。 神様の前に自らの高慢を心から悔い改めた。 自分の夫を軽蔑し見下し、さばく、その態度 こそが、夫をますますギャンブルへと駆り立 てていた事に気づかされた。心から夫にも詫 びた。 パチンコも、もういいと思えた。したいなら、 したいだけすればいいと思えた。もう文句も 不満も言わなくなった。心が変えられたのだ。 すると、夫が変わった。夫婦間に喧嘩がいっさ い無くなった。嘘のようだった。平和が訪れた。 驚くべき事に、夫も教会へ時々来てくれるよう になった。 そして、パチンコ狂が止んだ。今では本当に ほんの趣味程度で、のめり込む事など全く無く なった。 相手を変えよう、変えようとした時は、決して 変わらず、そのままで良いと思った時に、相手 が変わった。 つまり、自分が変わった時に、相手が変わった。
2007年02月19日(月) 「善が住んでいない」
「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうち に善が住んでいないのを知っています」 ローマ7:18 肉は「善」を懸命にしようとする。しかし、 肉が幾ら善をしても、 「肉にある者は神を喜ばせることができま せん」ローマ8:8 善が住んでいないのだから、それが善を行な うなら、それは偽善だ。 Aさん「すごくわかる。肉の自分が出て、神 様を差し置いて、自分が懸命に事をしている。 そして、下手すりゃ、神様より私の方がうまく 出来るわよ、と言ってる。」 Bさん「そうそう!祈ってなんて、まどろっ こしい。こんな事ぐらい、祈ってる間に、さ っさと出来てしまうわよ!と言ってる。」 Cさん「祈るより、さっさとやってしまった 方が早いわよ。頼ってる間に出来てしまうん だから、なんて。」 「大きな事だったら、不安だから、必ず真剣 に祈って、導き求めてやるんですよぉ。 でも、小さな事は、神様忘れてる。頼る事も、 祈る事も忘れてて、神様が飛んでる。 やっぱり、自分でやれると思ってるし、自分 の力に頼ってる。 でも、だから、失敗しますよ。自分の力で歩 んでると、スムーズに行かないで、必ず、糸 がからんでしまうように、周囲とギクシャク ギクシャクする。 平安と喜びが無くなり、心がざらざらして イライラするし、荒んで来る。 その時に、気づく。神様に頼ってなかったと。」 皆で「そう、そう!状況もうまく行かなくな るし、皆の気持ちが、トゲトゲして、秩序と 調和が失せて、責め合ったり、さばき合った り、害毒が流れてるんよね」 肉はどこまでも、自分の力でやろう、やろう とする。砕いて下せさる事が感謝。 神様に頼って、頼って、歩む時、喜びと平安 に心が保たれる。
2007年02月17日(土) 「言葉は大切」
Fさんが、自分がよく否定的な言葉を使っている事に 気づかされた。それは否定的思考につながり、物事 を否定的に捕らえて行く事になる。 口から発する言葉は、とても大切だと気づかされた。 信仰的、肯定的、積極的言葉を自分の口から発する 者とされたい」 Bさん「子供が小さい頃から、自家中毒で、これとい った原因は無いのに、頭痛や嘔吐、下痢がしょっ中起 きて精神的に不安定だった。 神様を知って、振り返った時、自分がそう育てたんだ とわからされた。自分も小さい頃、身体が弱かったか ら、自分が神経質になっていて、そう育ててしまった。 だから、子供はものすごく神経質。そして私が絶えず 『大丈夫?大丈夫?』と聞くものだから、大丈夫なも のも、大丈夫でなくなりますよねえ。 全然どうもないのに、聞かれると、え?自分は大丈夫 じゃないのかな、と思ってしまう。それも、神経質に 拍車をかけていた。 学校へ行く時も、試験の時など、つい『大丈夫?』が 出てしまい、すると、子供が不安気な顔になるのが わかる。これがいけないんだと、気づかされた。 言葉は大事ですよねえ。いっさいこの言葉を口から出 さない事にして、黙っていることにした。 試験の朝も、黙ってただ「いってらっしゃい」とだけ 言うと、元気に、明るい顔で「行ってきまーす」と 出て行く。 学校から戻って、何やから子供が言う時も、いつも 自分はそれに、自分の評価を下し、意見を言っていた。 「それじゃ、だめじゃないの」「こうしないと」という 風に。子供は黙り込んでしまっていた。 でも、「ふう〜ん」「あっ、そう」とだけ言うように すると、子供はどんどん心の内を話すようになった。 しんどい事も、悲しい事も話してはすっきりした 顔になった。」 言葉は大事で、その大本の自分の姿勢と態度は更に 大事だ。
2007年02月16日(金) 「受け入れられない」
Aさん「子供が多大のストレスとプレッシャー があるらしく、学校から戻ると、ドバーッと 玄関入るや、口から立て続けに喋り始める。 喋って発散させるタイプのようで、もうとどま るところを知らず、喋りに喋りまくる。(笑) それが不満と愚痴ざんまいなので、聞いている 方は、もうものすごく疲れる。それが、時たま なら聞けるが、毎日毎日の日課なので、いい加 減しんどくなる。こっちも容量が無い。 「それぐらい何よ」「それぐらいがどしたんね」 と思いながら聞いている。 「学校が問題じゃ」と、もう延々何じゃらかんじ ゃら、「あんたが問題なんじゃ」と思いつつ聞い ている自分。(笑) こちらも聞くのがしんどくて、受け入れられず 「それがどしたんね」と心でいつも子供を否定 している事に、気づかされた。 「ああそうなんだね、大変だね」と言ってやれ ない自分。自分の自我だと思わされた。 受け止めないから、受け入れられてないから、余計 に、子供も自己主張して喋りまくるんだとも気づか された。 今日から帰って、しっかり受け入れてやることが できるように、祈ります!自分に余裕がないと できないですよね。神様が私を助けて下さるよう に祈って下さい」 Bさん「夫に対してそうだった。夫は身体も弱い ので、いつも疲れて職場から帰る、『しんどい、 しんどい』が口ぐせ。 身体の事で、本当にしんどいんだと思う。 でも、私も仕事しているから、帰って家事をする し、心身共に疲れていて、相手の疲れを受け止め られない。 こっちもいい加減疲れていて、こっちが受け止め て欲しい。それで、いつも心がしんどくてたまら かった。 でも、神様にその事をずうっと祈り始め、自分に は出来ないからと、祈っていたら、本当に不思議に 心が変えられた。主人を受け止めることができる ようになった。祈りって、聞かれますねえ! やっぱり、祈りです。そして、自我もずっとある けれど、神様に従う方を選択して行くことを教え られます。選択する事なんだなと。」
2007年02月14日(水) 「厳粛だった・・按手式」
A伝道師がこの度、カンボジア宣教へ出て行く ので、「按手式」が教会で執り行われた。 信仰が、教会の信仰告白に乗っとって正しいか どうかの試問があり、教理的な「聖書とは」 「神とは」と順番に延々質問が続く。 かなり長いのだが、教会の方々が「良かった!」 「すごい自分にとっても学びになった!」 「今日は、濃い〜凝縮した学びを、みっちり、 しっかりさせて貰った。良かった!」 専門用語でなく、わかりやすい、平易な言葉で 答えていたのが良かったよう。誰にも大変わかり やすかった。 日本宣教のため、語学も勉強中の宣教師の先生 も9割方ほとんど理解できたと。 すべての試問終了し、宣教師として働きを開始 する事を承認され、諸先生方が頭に手を置いて 祈って下さった。 最初から最後まで、ピンと空気が張った、厳粛 さと緊張感が漂っていた。ほんとに厳粛だった。 兄姉方が「聖い式でした。神様の聖さを感じた」 「聖かった・・」「厳粛だった」 遠路を来て下さったBさん、ハンカチで目を拭 いながら「最初から最後まで、もう涙が出て仕 方がないんですよ。何か私、恵まれて、恵まれ て。ほんとに来て良かったです」 式に、神様の栄光と聖さが現されますように、 との祈りの答えを、目の当たりに見せられた。 カンボジア宣教のために祈って下さっている、 日本中の沢山の方々のお祈りに感謝。 カンボジア宣教も霊の大変な戦い。サタンが 対抗して来る中、神様の御力を現して下さった。 その事がわかって、心が喜びで満たされた。 「この世を支配する者が来るからです。彼は わたしに対して何もすることはできません」 ヨハネ14:30 いよいよ、カンボジア宣教が開始して行く。
2007年02月13日(火) 「地雷」
テレビ番組で、カンボジアの地雷撤去の事が 報道されていた。 タイとの国境近くの村の様子だ。ある家族が 地雷付きの土地を購入し、手動で自ら地雷を 撤去しそこに作物を植えようとしている。 大丈夫かいなというような旧式の、昔の手動 式の金属探知器で、土地一体をくまなく調べる。 銀紙に反応したから、充電はOKとの、何とも 心もとない、ほんとにちゃんと作動するのかし らみたいな。 2日前にも、近くの人が地雷で亡くなったと。 反応したら、何かがあるわけで、地雷である 可能性も高い。非常に危険な恐ろしい作業だ。 一つ間違えば命にかかわる。命がけだ。見て いてもヒヤヒヤもので、恐い。 命の危険を冒してでも、全財産をはたいて、 自分の土地を持ち、作物を作りたい。それが 彼らの夢であり願望だ。 そこは、ガスも水道も電気も無い地域だ。 高床式の住居だ。人々が逞しく生活している。 地雷は全面撤去に、まだこの先100年かかる そうだ。よくまあ、それだけ埋めたものだ。 今も、被害に合う人々が続出で、命を失う人々、 手や足を無くす人々が後を絶たない。 前の人が踏んだ地面しか歩けない、限られた 歩道。それるなら地雷が埋まってるのだ。 地雷撤去作業に加わった日本人、本当に死ぬか も知れないと思ったと。 「キリングフィールドからの生還」のハイン・ ニョルも、ポルポト政権崩壊後、タイ国境に 向かう時に、大勢の人々が地雷で死んで行った と。川床にまで、地雷は仕掛けてあったと。 現在、一般住民が地雷被害に合わないように、 地雷原地図を作成するが、カンボジアでは雨季 があり、その雨季の度に、地雷が雨で流され、 位置が変化し、せっかく作った地雷原地図が、 全く間に合わなくなるという。 「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を 見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、 光が上った」マタイ4:16 朽ちることのない永遠のいのちが、カンボジア に伝えられますように。
2007年02月12日(月) 「キリングフィールドからの生還」
映画「キリングフィールド」の通訳の役をした ハイン・ニョルの「キリングフィールドからの 生還」という本を読んだ。 実際に、ポルポトの大虐殺を通った「生き証人」 だ。フィクションでなく、事実であるだけに強烈 だ。 映画に出演したのも、カンボジアで実際にあった 事を、その真実を少しでも、人々に知って欲しか ったからだと。 映画では、主人公を助ける通訳の役だったが、 実際の本人は医師で、医師はポルポト政権下では、 皆殺しにされるが、彼はひた隠しに、隠して、難 を逃れた。 首都プノンペン陥落した日に、全員首都から農村 移動を命じられる。同時に虐殺が行われた。 情報は完全に遮断され、何が起きているのかが、 一体何がどうなっているのかが、民衆には全くわか らなかったと。 クメールルージュが住民を虐殺しているという噂を 風の便りに聞くが、全く信じなかったと。そんな事 あり得ないと。 ポルポト政権崩壊までの4年間、200万とも300 万とも言われる自国民を虐殺した。 知識層皆殺し、メガネをかけているだけで、手がきれ いなだけで、知識層だと殺された。 国土は破壊され、産業も破壊し、カンボジアを崩壊 させた。人々の心も深い傷を受けた。 人が理由もなく殺されて行くのを、見ているしか無か った。止めに入れば、何か言えば、自分も殺される。 確実に殺される。 何も出来ない、どうにも出来ない。いやそうなのか。 そうではない。それは言い訳であり、弁解にすぎない。 自分はエゴイストであり、自分さえ助かればよいのだ。 何という人間だ。気がおかしくなりそうだ。生き残っ ている人々は、皆、深い心の傷を負っているはずだ。 著者も数回の言語に絶する拷問を受け、妻は栄養失調 での出産で死亡、妻の母親は自殺、父親は傲慢で殺さ れ、母親も死んだ。 持ち物没収され、農村で強制労働させられ、食物は底 に米が数粒の水のような粥。蛇、トカゲ、カエル、蟻 ネズミ、何でも捜しては食べた。 1975年に首都が制圧された時点から、一般の人々 は何もわからないまま、何が起きているのかもわから ないまま、巨大な渦に巻き込まれ、ほんろうされて 行ったのがわかる。 悲惨な歴史だ。人々は家族を失い、愛する人々を失 った。本を読んでいても、余りの衝撃に言葉も無い。 思わず、カンボジアの地の魂の救いのために祈った ほどだ。 このカンボジアに、私たちの教会から神の愛と救い を伝える宣教師が送られようとしている。 この働きにあずかれる、神様からの大きな恵みと 特権を覚えて、心から感謝した。
2007年02月11日(日) 「バイオリンコンサート」
新会堂が建って以来、毎年恒例のバイオリンコンサート。 クリスチャンであり、プロバイオリニストであるAさん が、毎年来て下さっている。素晴らしい演奏だ。 教会の近所の方々も、足を運んで下さっている事が感謝 だ。日本では、教会というと、違和感もあり、なかなか 来会には勇気が要る。 それで、教会の存在を知ってもらう事と、とにかく会堂 に足を踏み入れてもらう事を目的に始めた。 再来者が多いのが特徴で、一度来た方が、毎年続けて来 て下さっている。本当に嬉しい事だ。少しでも、聖書に、 イエス様に触れて下されば幸いだ。 Aさんが曲と曲の合間に、説明を少し入れて下さる。 往年の作曲家達が、作曲というのは、自分で創るのでは なく、与えられるもの、と言っているというのが興味 深かった。 どう頑張っても自分では創れない、神から与えられる ものだと。演奏家は作曲家が作曲したものを代わりに 演奏しているに過ぎない。 その作曲家が作曲したものは、神から来たものだと。 つまりは、神から来たものを、演奏しているのであり、 すべての栄光は神にあると。 天地を創造された神、地に満てるすべてのものを創造 された神、音楽をも創られた神に思いを馳せる。 以前、この世の名曲がどのように出来たかを、ある番 組でしていたが、作詞家がどんなに練っていても、思 い定まらず、悶々としていたら、突然降ってわいたよ うにひらめいた。スラスラと歌詞ができて、そこに 丁度、作曲家との出会いがあり、それも時間的、環境 的に偶然の一致が重なって行く。色々な事が偶然、偶 然・・。そして名曲と言われる曲が生まれる。 これって、自分が作るというより、与えられるものな んだと、番組を見ていて感じた。 2時間弱のコンサート、「良かったです」「素晴らし かった」と、皆が満足して帰られた。 演奏と共に、織り込まれたAさんの証しや、牧師による ショートメッセージもあり、福音に触れて下さった事 も良かった。 10時からのコンサートに、Aさんとピアノ奏楽のB さんも、8時からリハーサル、結局4時間ぶっ続けで 演奏。すごい集中力と体力。ふう〜、横にいるだけで も疲れそう〜。 演奏前に「神様に献げる演奏が、神様の栄光のために 用いられますように」と二人で祈って、献げられた 演奏、主の栄光のために豊かに用いられた。
2007年02月06日(火) 「求めにしたがいて」
神様の愛・・ Aさん「頭ではわかるんですよ。神様が御子を 殺して下さったほどに愛して下さって、いつも 共ににて下さって、どんな時も決して見捨てず 愛し続けて下さっている。 罪だらけで、罪しか犯せないのに、その罪をこ とごとく赦して、真っ白にし、罪無しだと言っ て下さる。罪を犯しても、犯しても赦して下さ る。 頭では、ふんふんとわかるんですが、実感とし てわからなかった。そうなんだろうなあとしか。 今回、腫瘍と言われて、初めて死と具体的に向 き合った時、今まで頭だった神様の愛が、頭で なくわかった。リアルになった。こちらがもう 切羽詰まって、絵空事じゃないから、真剣その ものだからなんでしょうねえ。」 Bさん「こちらサイドなんですねえ。死ぬか生 きるか、みたいな状況って、普段無いから、 ポワ〜ンと受け止めてるから、ぼんやりとしか わからないんですねえ。 私も、求めが長い間無かった。普通に生活して ると、必要性が無いんですよね。毎日忙しく 流されて過ごして行くし。せっぱ詰まった状況 もないし、求めがない。 やっぱり、問題が来て、悶々として、自分では どうしようもなくなった時に初めて、心が神様 に叫んだんですねえ。やっぱり助けを求めた。 その時、いつも答えて下さった。少しづつ少し づつ、神様知ってこれた。何もないと、わから ないですよねえ。」 Cさん「真剣に求めたら、真剣にご自分を現し て下さるんですねえ。こちらの求め方なんです ねえ。自分でどうにも出来ない事態にならない 限り、人間て求めないですねえ。自分で生きて 行ってしまいますよね。」 Dさん「それに、こちらの目が腐っていたら、 恵みが満ち溢れてても、見えないんだよね(笑) 自分の目が曇ってたら、神様見えないよね。」 「試練て感謝だなあと思います。痛い事、苦し い事、辛い事、嫌だけど、今まで神様を知って 来たのは試練の中なわけで。順境の時でなく、 試練通してで、それが無かったら、ずっと神様 わからないままだったろうなと。」 「求めざるを得ないんよね。苦しくて、必死で もうあがき求める感じよね。でも、ほんと今ま で、求めに答えて下さった。神様は真実だった。」
2007年02月05日(月) 「ことごとく神に告げる」
思い煩いの話に。 Aさん「どうしても思い煩ってしまう。ずっしりと 肩に力がかかって、しんどくなって、動けなくなっ てしまうのは、自分の力に頼ってるからだなあと。 でも、やっと「ノー」が言えるようになりました。 自分には出来ませんと。私にとれば大きな進歩です (笑)」 Bさん「私は、人にどう思われているか、人に良く 思われたい、悪く思われたくない、人の目を気にす るのが、思い煩いの原因です。八方美人ですよねえ。 仕事していても、人にどう思われてるかがすごく気 になって、それが動機で動いている。そこから思い 煩いが来ていることを気づかされる。 Cさん「自分の弱さを認めようとしないで、頑張っ てしまう。もう少し何とかなれば、できるはずだと。 でも、出来ない。そこで重荷を背負って、重い煩っ てしまう。自分が出来ないことを認めれば、気が楽 になって、ほんと平安ですよねえ。 出来なくなって、神様のもとへ行って、祈っている と示されて、委ねて行くと、心が変えられて平安に なる。」 Dさん「私もそう。難しい状況や問題が来たら、まず 自分が立ち向かって、自分の力ですよねえ。右往左往 して、悪戦苦闘して、頑張って、頑張って、心身力尽 きた時、初めて神様に頼る。 その時、ほんとに助けられる。ところが次に問題が来 たら、また同じ事をしている。自分で頑張って、疲れ 果てた時に、神様を思い出して、頼る(笑) 懲りずに毎回、毎回、おんなじ事を繰り返している。 今日気づいた。力尽きて初めて神様のところへ行くの でなくて、最初に神様のもとへ行って助けてもらいたい。 どうしても、自分の力に頼ってるんですよねえ。」 Eさん「思い煩いが来ると、最悪のシナリオが出来上 がってる。ああなって、こうなって、更にこうなって と、最後までシナリオが・・。そうなったためしは無い んですけどね。 たった一言の不安材料で、膨大なシナリオ完成で、ど っぷりネガティブ世界に浸かる。思い煩いを引き寄せ てる。好きなんですかねえ」 思い煩いから守られる方法は、何もかも神様にことごと く本音を告げて行くこと。建前ときれい事の祈りは、はな から聞かれていないから、本音をぶつけて行くこと。 その時、神様が知っていて下さることを知り、心が平安 になる。状況がどんな中でも、心は平安に守られる。
2007年02月02日(金) 「力尽きて安堵へ」
Aさんが証しして下さった。 以前、ある団体に入っていた。早起きして、 とにかく善事に励まなければならない。本 も売って歩かないといけない。 でも、善い事だと信じ、一生懸命にやって いた。本を売りさばくのにも、ノルマがあ り、段々増えて、とうてい不可能に思えて 来た。それでも頑張っていた。 時間的、体力的、労力的、どんどん追い詰 められ、疲れ果てて行った。でも、善い事、 正しい事だと思っていて、頑張り続けていた。 当然ながら、段々と許容量オーバーになっ って行った。 疲れ果てて、もう限界を感じ出した。身も 心もしんどくてしんどくて、自分はもう倒 れそうになりながら、ここに幸せがありま すよ、喜びがありますよ、安らぎがありま すよと、人に勧める。 もう、これは何なんかと限界に来てた頃に、 イエス様を信じて、救われたお姉さんから、 聖書の事などを聞くようになった。 その時に、姉の行っている教会のB牧師夫人 が、家に訪問をどうぞと言われ、本を売りに 行った。その時はもう心身ヨレヨレだった。 違う宗教だし、どんなだろうと思って行った ら、夫人が、どうぞ話すこと話して下さいと 言われ、本を売る時の説明を全部させて下さ って、聞いて下さった。 そして、ニコニコして「本、買いますよ」と 言って下さった。もう、安堵感で力が抜ける ようだった。 その笑顔が、自分が所属している団体の人々 の笑顔と全く違った。いつもへつらいの笑顔、 作り笑いに取り囲まれていた。 そんなきっかけで、まことの神様に出会い、 もう、疲れ果てて、砂漠のような心に染み渡る 神様の愛、恵みを知った。 平安と安堵と喜びに心が満たされた。 ・・・・・・・・・・・ 「私は、こうでないと救われなかったんだと 思います。自分で全力でやって見て、力を使い 果たして、虚しさを知って、まことの神様の ところへ導いて下さった。」 ほんと、人それぞれ、環境も、経歴もその人に ピッタリ合ったように、匙加減ピッタリに神様 が導いて下さったこと、 そして、これからも匙加減ピッタリに、行く手を 導いて下さることを思い感謝!!
2007年02月01日(木) 「建前は聞かれていない」
建前の祈り、きれい事の祈りは全然聞かれない、 と話し合っていた。 Aさん「そうなんです!それわかったんです。 自分では全然気づかなかったんですけど、ある 人の欠点ばかり見えて、ずうっと不平不満、 愚痴が出てたんです。口から溢れ出て来るんです よね。でも自分では気づかないんですよ。 それで、ある時「人をさばくと、自分がさばく になるよ」と言われたんです(笑) ほんと自分の心は荒れ果ててすさんだ砂漠にな ってる。 その時、ハッとして、ほんとにこれじゃいけない と。その人を愛せますようにと、ずうっと祈って たんですけど、全然祈りが聞かれない事に気づい た。幾ら祈っても聞かれない。 ああ、そうだとわかって、自分の本音はそうじゃ ないとわかった。正直な自分の本音の気持ちを そのまま神様に告げたんです。 それから心が変えられました。祈りが聞かれたん です。正直な自分を告白した時に、初めて。 今じゃ、好きです。神様すごいなあと経験させて もらったんです。」 Bさん「あ、私、建前でしか祈ってない。きれい 事です。全然自分が変わらないんですけど、聞か れないわけですよね。 神様の前に正直な気持ちで出ることを、今日から したいです。私も、変えていただきたいです。」 Cさん「あ、私、気づかされた。以前、しんどく てしんどくて、もうどうにもならなくて、あるが まま神様のところへ行った時、溢れる喜びと大海 のような平安をもらった。それが、最近、また 自分の力で歩み始めて、建前で神様と向き合って ることに、今日気づかされました。 原点に帰ります。」 本音を受け入れて愛して下さっている神様、こんな 神様いない。 だから、どんな時も、安堵と、安心と、大海のよう な平安の中におれる。感謝。