2007年03月24日(土) 「神の時」
教会でA兄とB姉の結婚式があった。 多くの親族も出席され、神様の聖さと 温かさを感じた、恵み溢れる式だった。 親族の方々にも御言葉に触れる機会を との祈りが答えられ、素晴らしい時だ った。 さかのぼれば、もう7,8年前からこの 結婚のための祈りが積まれて来た。積み 上げられ、積み重ねられて来た。 祈りの答えを一つ一つと見せられて行った。 本当に「人手によらず」の御言葉がピッタ リに、神ご自身が導かれた様を目の当たり にして来た。 結婚が決まり、双方のご両親も快諾、何の 障害もないが、環境がなかなか具体的に進ま ず、整わず、「時」を待つよう訓練され、 じっと忍耐を学ばされた。 そして、神の時が満ちるや、もうあれよあれ よと環境がどんどん開き、人手によらずに、 勝手に門が目の前で、驚くほどダッーと開い て行った。 この結婚を通して、「神の時」があること、 神の時には、神ご自身が大きく動かれること、 すべてが神の御手の支配の中にあることを、 厳粛にもう一度見せられた。 「人手によらない」から、神ご自身の栄光だけ が現れる。だから、ものすごく恵まれる。 信仰生活、すべてに「神の時」があり、神の時 でなければ、人がどうしようと、何をしようと、 空回りになるだけで、何一つ動かないが、神の 時が来ると、事が、状況が動いて行く。 待つこと、忍耐することの重要性を思いつつ。 「神のなさることは、すべて時にかなって美し い」伝道3:11
2007年03月20日(火) 「従うなら変えられる」
ちょっとした事で、良心のとがめが来る。 きつい言葉を発してしまったとか、悪い態度 をしてしまったとか、いらいらした感情を、 つい相手にぶつけてしまったとか。 そんな時、良心のとがめを何とかしたいので、 良い行ないをして、親切を返して、チャラに する。 普段の生活で、よくやることだ。 でも、神様は全焼のいけには望まれない。 「たとい私がささげても、まことに、あなた はいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえ を望まれません」詩篇51:16 「神へのいけには、砕かれたたましい。 砕かれた、悔いた心。神よ。あなたはそれを さげしまれません」17 神様は、親切でチャラにしてしまう事でなくて、 「ごめんなさい」を喜ばれる。 Aちゃん「私もよくする。お母さんと喧嘩した 後なんて、悪かったなと思い、ごめんなさいは 言いたくないので、ちょちょっと手伝って、 ごまかそうとする」(笑) Bちゃん「あー、私、バイト先でチーフとけんか したんです。不満が鬱積していて、ついに切れて きつい事を言ってしまった。でも、向こうも悪い からこっちも怒り爆発で、ああ〜どうしよう。 祈って下さい」 すると、2,3日後、「祈ってもらった後、あれか ら、私の心が変化したんです。誤りたいなと自然 に思えて、謝るので祈ってて下さい」 そして、「ちゃんと謝れました!心が平安でさわや かになりました」と連絡が来た。 すごい!!御言葉に従って行く時、変えられる。 実を結んで行くんだ。周囲も神様の栄光を見る。
2007年03月14日(水) 「自分側の問題」
Aさん「ちょっと対人関係で、ええーっ!と思う事が あったんです。余りに配慮が無くて、礼儀に反してて 怒りが沸騰して来て。(笑) 相手をさばきまくって、怒ってる。でも、相手に対し ては、にこにこして、怒ってなんていませんよ、大丈 夫ですよ、心配ないですよ、という態度をしてる。 内と外が全く違って(笑) でも内心は、こんな事許せるかとの思いで、煮えたぎ ってて。もう怒ってるんですよ。 でも、今日、神様を、聖書を知った自分が、真理の 物差しを人に向けて、さばいている事がわかった。 これって、恐るべき自分の罪で、高慢ですよね。 相手どうこうじゃなくて、自分の罪が見えた途端、 怒りが消えた!胸の中に、ストンと落ちて、怒りが 今、全く無くなった」 皆で「えー!すごいー!!」 ある婦人のご主人がギャンブル中毒で、お金をつぎ 込むので、夫婦喧嘩が絶えなかった。 お金を持ち出しては、ギャンブル代にするので生活 に困るようになる。勝手に奥さんの財布から持ち出 すようになり、やがて給料を全部持って行くように なった。 もう生活ができない、家の中争いばかりで、何度も 離婚を考えた。 奥さんが、ある日教会へ行って救われた。 御言葉を学んでいる時に、主人は見るからに悪いが、 自分の心の内を見せられた。 主人をさばき、上から見下し、軽蔑し、まるで自分が 神になって罪に定めている。恐ろしい高慢な姿が、初 めてわかった。自分の恐ろしさに震えた。 自分の方が、主人より、何倍も恐ろしい罪人だと 見せられた。 神にも主人にも告白して、今までの態度を謝罪した。 それから、主人が変わった。 争い、喧嘩、そこに全く何の実もなかった夫婦の間 に温もりが生まれて来た。 夫婦の中に暖かい心の通い合いが生まれ、潤いが出て 来た。 実が出て来た。御霊に従う時に、御霊の実を結ぶ。 喜びや平安の実が現れ出て来た。 相手を攻撃していたなら、自分を見なくて済む。 それで、矛先を相手に周囲に向けてしまいたいが、 何の解決もなく、御霊の実もそこにない。 自分の心が照らされることが、大きな恵み。 その時、変えられる。
2007年03月12日(月) 「神様と対話」
雑談していて「思い煩い」の話に。 Aさんが「以前鬱をしたせいか、春先は何か調子悪いんですよ。 鬱は春先が悪いと言いますでしょ。何か身体もしんど〜いんです。 もうしんどい時は、仕事も後回しにして、横になってるんです。 不調の時は、思い煩いがどっと来ます。体調のこと、将来のこと、 経済的なこと・・何やかやどおっと来るんです。」 「自分でシナリオを作るんでしょ。それも最悪のシナリオを」(笑) 「そうです、そうです。最悪のシナリオが出来上がる(笑)でも、 人間て不思議ですね。必ず悪い方へ、悪い方へ考えるんですね。 悲観的な方へ、否定的な方へ。なぜか、良い方へ、建設的方向 へは行かないですね」 「でも、神様が気づかせて下さるんです。あ、今、思い煩いを自分 が選択してると。ほんと自分が選んでるんですよね。 一つ一つ神様にお委ねして行くんです、この事、あの事、よろしく お願いしますよ、と。神様を意識して、見上げると心が楽になって、 平安が来ます。 でも、不思議にどんなにしんどくても、教会へだけは行けるんです。 ほんとに不思議です。今日もこうやって集会に来れました。 神様、お願いしますよと、昨日からお祈りしてました。こうやって、 高齢になって、神様を知っている事が、どんなに感謝かを、しみじみ つくづくと思わされます。 日々、御言葉から心を刺されたり、励まされたり、示されたり、正 されたり、御言葉によって生かされています」 「神様どうしましょうか」「神様お願いしますよ」「神様、こけな いように足もと守って下さいね」一つ一つを、幼子のように主に 頼り、祈りに答えられて、主と共に生活しておられる姿に、 本当に恵まれる。 目の前の事、一つ一つを神様と対話しながら、一緒にして行く時、 心は軽やかになり、喜びが来る。
2007年03月09日(金) 「一方祈りは」
Aさん「今週のメッセージで『一方祈りは』というのが ズシンと心に入って、祈りの大切さと今までの祈りも覚 えさせられました。」 メッセージは「揺るがない平安」のタイトルで、使徒 12章のヤコブが殺され、ペテロも捕まり投獄され、教 会では皆が熱心に祈り続けていた箇所。 へロデに明日引き出される前夜、ペテロは鎖につながれ て寝ており、明日は殺されるかも知れないのに、その平 安はどこから来るのか。 @祈りから A主の約束の確信から B最善をされるから @の「祈りから」で、「教会は熱心に祈り続けていた」 が別訳では「一方祈りは」になっていて、「祈り」の力 強さが強調されている。祈りは力だ。 Aさん「職場で証しをしたいとの願いがずっとあるが、 なかなか出来ず、でも今までただただ祈って来た。 職場に来るご高齢の婦人がおられ、何とか自分がクリス チャンであること、教会へ行っていること証したいと強 く思った。 それで、その婦人と二人になる機会を与えて下さいと祈 った。 すると、しばらくして、教会に来た時に、ばったり教会 の近くでその婦人に出会った。それで、この教会に来て いる事、神様を信じている事を話す事ができた。 次に職場で会った時に、向こうから声をかけられ、彼女 の方が、教会の話題をおおっぴらに話され、こんなに 明らかに証しができたことに驚きと喜びで感謝に溢れた」 祈りは答えられる。 B婦人の友人の話だ。小さい時に養子をもらったが、 その娘が思春期に入った頃、母親に反抗、反抗で荒れた。 常にくってかかり、暴言も吐いて来た。 友人である母親は、それらをいっさい黙って受け止め、 ただただ祈っていた。娘に対応する前も、対応中も、娘 のために祈り続けていた。時々、心の中での祈りが、溢 れ出て唇が小さく動く事もあった。 荒れる娘を穏やかに受け止め、神に頼って、祈り続けた。 すると、突然ある日、娘が泣きながら「お母さんごめんな さい」と謝って来た。 「お母さんが、ずうっと私のために祈ってくれていた事を 知っていた。お母さんの事好きなのに、心がイライライラ イラして、心にとげがあって、自分ではしたくないのに、 反抗してしまう。突っ張ってしまう。そんな自分が、自分 でどうにもできなくて、どうしていいかわからなかった」 それ以後、大の仲良しの親子にされたと。 祈りの力を教えられる。
2007年03月08日(木) 「正しいことが、正しくなくなる」
「善悪を知る木の実を食べると、必ず死ぬ」 正しいか正しくないかで、進んで行くと、そこ は死だ。喜びと潤いと安らぎが失せ、恵みが全 く無い。 Aさん宅で。聖日朝、礼拝に行くのに、分を争 って皆が準備状態。洗面所も混む。髪をとかし たり、お化粧したり、時間が無い。心が急き、 ついイライラが生じる。 皆が、相手を責める心が出て来る。「もっと早く 動いてよ」「余裕もってやっててくれたらいいの に」「前もってわかってる事じゃん」心の中でつ ぶやく。すべて正しい。 皆がイライラムードで、一言出てきそうな時に、 一人が「ごめんね」と言った。「遅くなってご めんね」。その時、瞬間、その場の空気が変わっ た。 ピリピリしたイライラ、トゲトゲした雰囲気から、 暖かい潤いのある空気に瞬時にして変わった。 そして、「あ、自我」と自分の自我に気づかされ た。誰かがへりくだると、そこに潤いと温もりが 生まれる。神様が働かれる。 Cさん「正しい事を子供に押しつけて、子供をず っと損なって来た。正しいんだけど、結果的に間 違っていた。 子供の“気持ち”を全く考えずに、親が思う正し い事を、信仰を押しつけて来た。子供の心をどん どん抑えつけ、歪めてしまった。 親は良かれと思い、正しいと思ってした事だった が大きな間違いをしてしまった。 この事を通して、自分自身が砕かれ、この事をも 益として、今は子供も導いていて下さる神様に 感謝でならない。」 正しいから押しつけてしまうが、子供には子供の 人格があって、気持ちがあるから反発する。 積み重ねられた祈りと、愛による見守りがどうし ても必要だ。 いのちによって、愛とあわれみと、祈りによって 生み出されて行く。 Cさん「妹に、私は正しい事を言ってるんですが、 必ず喧嘩になる。いつも喧嘩になって、もう雰囲 気最悪になる。正しい事を盾に、私が自己主張し てるんですよねえ。だから、妹に全然届かないど ころか、反発させる」
2007年03月06日(火) 「自分でつくる実」
「御霊の実」と「人工の実」の違いを話していた。 自分を明け渡して、御霊に従って行く時に、クリス チャンは御霊の実を結んで行く。 「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、 自制」だ。御霊によって与えられる実であり、霊の ものだ。 でも、自分の意志の力によって、ある程度外側は繕 える。クリスチャンらしく、幾らでもできる。 親切そうに振る舞えるし、優しそうにできるし、腰 を低くできるし、ニコニコしておれる。 つまり、それは霊によらない、人工の実だ。 Aさん「その違いすごくわかる。クリスチャンらしく というので外側を演じる。この場ではこうしておい た方がいいだろうというので、それらしく出来てし まう。 証しのためになどと(笑)全然証しになってないん ですが、物腰低くしておこうと。自分がへりくだり をやっている。 御霊にいっさいよらないで、あくまでも自分が物腰 低くしているから、これって、すごい高慢ですよね。 自分はへりくだっているつもりで、相手が思ってい る反応を返してくれないと、自分はこれだけへりく だってるのにと、もうカチン!と来る。(大笑) 霊によらないから、めっきがすぐにはがれる。 自分も無理してへりくだってるから、全然喜びなど ない。ほんと肉です。 でも御霊に導かれると、全く違う事もわかります。 御霊によって、御霊に助けられてしているから、 自分の努力でないから、そこには喜びがある。 自分は出来ないから祈る。祈って、御霊に導かれて 親切な言葉をかけたり、やさしくできる。その時、 自分がしていないから、自分を誇らないし、神様 に感謝があって、相手にも潤いが伝わり、そこに 神様を感じる。 Bさん「あー、すごいわかる。こっちは頑張って るのに、相手から思ったような反応が返らないと、 クソッーと思う(笑)やってやってるのに!と。 ほんと肉そのものですよねえ」 自分にできない時、御霊が働いて下さるのがよく わかる。自分がしていなから、わかる。
2007年03月05日(月) 「人手によらずに」
この日曜の礼拝で、Aさんが招きに出て信仰告白を された。 B婦人からの祈りのリクエストで、婦人会でも祈り 続けた7年来の祈りの答えだ。 神が働かれ、神がみわざをしておられるのが見える からこそ、真に恵まれて感動した。 人間的なものでなく、神ご自身を見るからだ。 Aさんの救いも、全く人間的なものによらない、超 自然のみわざだった。 全く「人手によらずに」なされた事により「天が支 配するということをあなたが知るように」とのご計 画だ。 今回の信仰告白も、あれよあれよと神ご自身が突然 導かれた。ところが布石もあり、本人の心も伴うよ うにされた。 人手によらないからこそ、恵まれるんだと気づされ る。そこに神の栄光だけが現れされる。 祈りの答えが来るまで「恐れないで、ただ信じてい なさい」信じていればよいことも教えられる。 Aさんの信仰告白という日を迎えた。逆に見れば、 この日が必ずあるのだから、その間、思い煩わず、 焦らず、心配せずに、ただ信じているようにと。 うちの両親共に、今際の際に救われた。祈り始めて 38年後だった。救いに入れられた感動の日に「こ の日」をただ信じておれば良かったのだと、深く教 えられた。 今祈っている数々の課題も、約束を見つめて信じ ていたい。恐れず、思い煩わず、焦らず、「恐れ ないで、ただ信じていなさい」 「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず 来る。遅れることはない」ハバクク2:3 「何事でもみこころにかなう願いをするなら、神は その願いを聞いてくださる・・私たちの願う事を神 が聞いてくださると知れば、願ったその事は、すで にかなえられたと知るのです」Tヨハネ5:14 「すでに得たり」
2007年03月04日(日) 「感謝は感謝を増し加える」
Aさんの証しに恵まれた。 「信仰生活の中で、“すべての事について感謝しなさい” とあるように、見えるところでなく、実際に恵みを数えて 感謝を献げて行く時、心が平安に守られ、更に感謝すべき 事を増し加えて行って下さる、ことを教えられた」 御言葉を実践する事が大切で、実践する時に、信仰を使う ので、神様を知って行く。 日常生活で、様々思い通りにならない事態、思いと逆の状 況が起きる。肉の反応だと、その時に出て来る思いは、い ら立ちや不満、思い煩いだが、信仰とは見えるところに寄 らない。 五感によって歩むのではない。見えないところを見て歩む のが信仰で、その状況を与えておられる神を見て、信仰に よって“感謝する”時、その状況を受け入れる事になる。 それで、心が変えられる。 状況は全く同じなのに、感謝すると、心が平安になる。 全く同じ状況で、片や不平不満、反抗、いら立ちで、 片や平安、喜び、感謝となる。 受け入れ難い状況が、“すべての事について感謝しなさい” に従う時、不思議に受け入れられることを経験する。 神は感謝する人に、ますます感謝すべき事を与えて下さる と言われているが、実践すると経験する。 そして、感謝は、サタンの足場を崩してしまう。不平不満 思い煩いは、常にサタンに足場を与え、そこからサタンが 自在に働き、霊的にどんどん落ち込んで行く。 感謝する時、サタンの足場が失せ、サタンが働けない。 Bさん「Aさんの証しにすごく恵まれました。感謝して 行くと、感謝を増し加えて行って下さる、自分の生活を 振り返っても、そうだなあと思え、感謝しました」 神は最善をされる。最善以下の事は決してされない。 自分の思いと違っても、すべてにことに感謝に立って、 「信仰」を献げて行けたらいいな。
2007年03月02日(金) 「自分の中でグルグル」
信仰生活、神を信じるのが本来の信仰だが、自分を信 じ、自分の中でグルグル回っているだけ、ということ。 でも、自分は神を信じているつもりだから、気づかない。 Aさん「私もわかる。あ、自分のことだと思った。神 様に向き合ってるんじゃなくて、自分の中で、自分に 向き合ってるだけだと、感じたことがある」 Bさん「自分がカードを持っていて、今のこれは試練、 これは愛すべき、と対応カードを持っていて、状況に 応じて、自分がそのカードを持ち出して、処理してい る。それぞれが別々のカードで、対応しているのも自 分。そこに神が無い。すべて自分がしている。信仰生 活を何か大きく勘違いしている。 自分がもう全面ギブアップで、断崖絶壁でどうにもで きない時は、神様に心底頼っているのがよくわかる。 でも、普段は、頼って無くて、自分で生きてて、自分 でやってる。 それぞれの場面場面に、信仰的と自分が思う対応をし て行く事じゃなくて、信仰とは自分を献げて行くこと なんだと、教えられる」 「そこに至った時、献げられない自分、献げたくない 自分、そこに行き着く。自我が頑強にあって、献げら れない。神様、神様と言いながら、自我の強い、自己 中心な自分を知る」 でも、自我の強い、自己中心な自分が見えるという 事は、自分の中でグルグルしているのではなく、神に 向いたという事だ。光に向かう時、自分の姿が見える。 献げることができないという事が、見えていることは 神の恵み。見えていることは、祈りにもって行ける。 祈って行く時、神はその祈りを聞いて下さる。 神に向き合っておらず、自分の中でグルグル回っている 時は、自分が神なわけで、常に自分は正しくて、何の 問題意識も感じない。 御言葉を自分が取って来て、成就するように念じている 状態。神は語っておられない。 実は目をしっかり閉じて、見ようとしない状態。神だ と思っていたものが、実は自分であり、自分の中だけ の世界だ。そこは自分の思い通りだ。 いろんな状況の中で、御霊が働いて下さって、状況と 御言葉が一致して、何だか気づけたりする。御霊の働 きだ。
2007年03月01日(木) 「神は第三者」
青年会の「信仰」の学びで、 信仰とは、全くの第三者である神を信じているはずが、 自分の中でグルグル、ぐるぐるしている場合が多いと あり、ほんとにそうだと思った。 @自分―――――――自分(神と思っているが) A自分―――――――→神 自分←―――――――神 Aが正しく神と向き合っているが、@の場合も多い。 神のつもりが、ただ自分の中でグルグル回っている だけ。神と全く触れていない。 神と触れていないで、自分の「思考」の中でグルグル 回っているだけ。 Aさん「すごくわかる。デボーションで祈っていて、 神様に向かっているつもりが、自分の思考の中をぐる ぐるしているだけ。神も、みことばも、そこにきちん とあるので、なかなか気づかない。 朝祈ってるつもりが、祈りのつもりの中で、実は自分の 思考でスケジュールを浮かべ、計画を立て、自分の力で その日やって行く。 全く神様は関係無く、自分がしていて、神から離れてい ると気づく。 肉がしているから、周囲とギクシャク問題を起こす。 仮にうまく行くと、必ず自分を誇る。自分はこんなに うまく出来る、自分は素晴らしいと。 自分の力で、肉でやると、必ずやっていない人を裁く し、自分を誇る。 しかし、聖霊に導かれてした場合は全く違う。 自分を誇らないし、感謝が溢れるし、神に栄光を帰し、 平安で満ちる。」 肉から始まって、神に栄光が帰される事はないし、 御霊から始まって、自分に栄光が帰される事もない。 御心、御心と言いつつ、自分で御心を持って来て、 自分の中で、ぐるぐるしている。 自分の中の神だから、自分の思い通りになる。 しかし、現実は思い通りにならない。全くの第三者 だから、厳然と意志を持っておられる。 そこに気づけるように。 これは自分自身も、クリスチャンにもなかなか多い。