2007年04月22日(日)
  「どうして下さるか、楽しみ」

Aさんが経済的な非常な困窮に陥った。
身体的な事で、仕事を辞める必要が生じたからだ。
これからしばらく全く収入が無くなる事に、パニ
ックになった。
今まで、毎月必ず給料が入るので、初めての経験
であり、ほとんど恐怖だった。

「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方
が、どうして、御子といっしょにすべてのものを
私たちに恵んでくださらないことがありましょう」
ロー真8:32

御子を下さった方が、経済的必要など下さらない
わけがない。私達もずうっと祈って与えられて来
た。
こういう事は絶対に大丈夫なんだと、幾ら言って
も恐怖でパニック。通らないとわからない。

やがて職を辞し、無一文の生活になったが、本当
に神があらゆる方面から豊かに与えて下さった。
溢れるばかりに恵みを振り注いで下さった。
結局、身体の回復までの間、神が完璧に養われた。

その間、ずうっと、カラスがエリヤに食物を持っ
て来る、同じ事態を体験した。
いつも、いつも必要を満たして下さった。
その繰り返しの中で、神は必ず必要を与えて下さる
方である事を確信して行った。

「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光
の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たし
てくださいます」ピリピ4:19

定期的な給料が入って来る時は、わからなかった
神の恵みを体験的に知った。
経験的に、神を知る知識が少しづつ増し加えられ
て行く時に、自分が変えられて行く。

その後も、困窮が時々起こるが、今度は「神がどの
ように満たして下さるのか、どうして下さるのかが
楽しみになった」。

神は必要は必ず与えて下さる。どこからでも与え
られる。愛していて下さる。ご計画がある。しよ
うとしておられる事がある。

経済的困窮だけでなく、様々な問題が目の前に起こ
る時に「これを、神はどのようにして下さるか、
楽しみだ」と思えることが、何という幸い。
感謝だろう。

2007年04月21日(土)
  「一つ残らず益に」

友人から電話。

子供さんが今春、就職した。
それまで、子供さんはバイトで辛い日々を送った。
上の人が厳しくて、毎日毎日叱られ、辛く当たら
れる。
どれだけやっても、注意され、毎日毎日注意され
た。辛くて、家に帰っては泣いていた。
涙の日々で、何とか仕事に出ていた。

余りにしんどければ、辞めてもいいよと母親は言う
が、辞めないで、ずっと泣きながら続けた。
そんなに辛い中、続けられるのも不思議だったが、
辞めないで、続けた。

そして、就職が与えられた。始まってみると、その
職場も非常に厳しい。
子供さんが言った「お母さん。神様がすべての事を
あい働かせて益として下さるというのは、本当だね!

あの時のバイトの辛い経験が、すべて益となってる
んよ!細かい所まで、ことごとく叱られて注意され
たのが、今、そのまま全部役に立ってて生かされて
るんよ。
苦しかったけれど、身につけて下さったのは、この
時のためだったんだ!神様ほんとにすごい。」

神様は無駄な事は一つもされない。すべての事が益
とされる。最善しかされない。起こる物事すべてが
一つ違わず、ご計画の中にある。愛されている。

友人は、ご主人が交通事故に遭われ、障害を負われ
社会復帰はできず、ずっと介護の生活だ。脳挫傷
で、日常生活も介助無しにできない。
彼女も過労で、フラフラでそれこそ事故になりかけた。

その友人が、「神様は無駄な事は一つもされない。
今が最高。すべての事を益として下さった。感謝
しか無い。先日、初めて、主人を肩にかつぎ、介護
しながら、家族全員で外食ができた。
事故後、初めての事だった。もう感謝で感謝で、
喜びが溢れた。神様を誉めたたえた」と。

とても励まされて、元気をもらった。


2007年04月19日(木)
  「喜びが満ちる」

思春期の子供さんを持つAさん。

進路を決めないといけないのに、一言も
話してくれない。
気持ちを知りたくて、穏やかに問いかけ
るが、何の返答もない。
何を考えているのか、親は心配で、時期
的に将来の事を、きちんと決めて行かな
いといけない。
親の方がどんどん焦って来る。つい問い
つめてしまう。親もこれではいけないと
優しく、どう思っているのかだけでも話
しかける。が、応答がない。

Aさんも悶々状態になり、主の御前に祈り
続けた。子供と心が通い合えるように、子供
が祝福され、将来の事が導かれるように、何
より、よく見守ってやれるようにと。

祈り続けていたある日、二人で出かける機会
があり、和やかな雰囲気の中で、子供が口を
開いて、素直に進路の事を話してくれた。

子供なりに、色々ちゃんと考えている事を知
れた。方向もおおむね定めていて、具体的に
進み出していた。気持ちを率直に話してくれて
心が通い合えたのが、本当に嬉しかった。

そして、何よりも嬉しかったのが、神様が祈
りに答えて下さった事だった。まさに祈りの
答えだった。神様のみわざだった。

親としての態度も反省させられ、主から教え
られた。生活のただ中に、生きて働いて下さる
神様、その事が知れて喜びで一杯になったと。

「求めなさい。そうすれば受けるのです。
それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものに
なるためです」ヨハネ16:24

窮地の祈りが答えられる時、本当に感謝で一杯
になる。愛されていることを知る。

2007年04月17日(火)
  「今日もともに」

引っ越ししたAちゃんを訪問した。
片づけも終了して、バタバタの時も終わり、
丁度する事も無くなり、見知らぬ地で、何
だか、心どよ〜んとなっていた時だったと。
聖書読んでも祈っても、何か入って来なく
てと。

丁度少し前がイースターで、復活の学びだ
った。罪と死に勝利された事、私達を義と
するためによみがえられた事・・等よみがえ
りの意味を学ぶ。

「見よ。わたしは世の終わりまで、いつも、
あなたがたとともにいます」マタイ28:20

よみがえられた主が、いつもともにおられる。
御言葉が臨んで来るように、とてもリアルに
感じられた。
今もともにおられる事を思うと、心に喜び
が湧き上がる。イエス様がそこにおられた。

翌朝、Aちゃんから虹が出たと写メールが
届いた。神様が共にいると語って下さって、
嬉しくなったと。神様が素晴らしく祝福し働
いて下さっているのに、不信仰になって、朝
虹に神様を見て、ごめんなさいでした、と。

虹って、ほんと神様だ。よみがえりのイエス様
が絶えず信仰をよみがえらせて下さる。慰め、
励まし、力づけて下さる。

以前、離婚を通った親友が、もうボロボロで、
心も壊れかけで、限界で、もう立って行けない
一歩も歩めないと、崩れそうになった時、
目の前に、虹が現れた。それも二重の虹だった。
絶対にあり得ない。

神様が、わたしがともにいると、ご自身を現して
下さったと。神様をはっきり感じて、神様によって、
あの時、立ち上がれて、今があると。

よみがえりの主が、今、心の内に生きていて下さる。
一日一日に、主の心があって、その愛と慈しみに
触れるから、心に喜びがある。

「いつも、あなたがたとともにいます」
どの瞬間も、又、喜びの時も、悲しみの時も、いつも。

2007年04月15日(日)
  「ともにいます」

失望落胆、絶望して、郷里へ帰るエマオ途上の
二人の弟子。
イエス様が、かたわらを歩まれ、語りかけられる。
「話しているのは何のことですか」

二人の弟子達は「暗い顔つき」で答える。
弟子達の言葉はすでに過去形になっている。
「・・力ある預言者でした」
「望みをかけていました」でも、だめだった・・

夕陽に向かって、とぼとぼと、失望落胆、挫折、
暗い顔、まさに斜陽だ。

弟子達には、語りかけられているのが、主である
事が全くわからない。
不信仰ゆえに、目がさえぎられて、主が見えない
と言われた。

毎日の生活で、常にかたわらを歩んでいて下さる
イエス様。朝起きた時から、一つ一つの事を共に
負って歩んで下さっている。

「心の鈍い人たち」鈍い目だと本当に見えない。
でも、イエス様に焦点を合わせると、生活の一つ
一つを共にして下さっている事に喜びが溢れる。

イエス様が御言葉を解き明かして行かれた時に
弟子達は心が赤々と燃えて行った。
暗い、空虚な、虚無の心が生き生きと躍動し
喜びが満ちて行った。奇跡だ。

よみがえりのイエス様が、今も御言葉を解き明か
していて下さる。
主が語られる御言葉に、耳を傾けて行く時、目が
開かれて行く。

よみがえりの主が、「見よ。わたしは、世の終わ
りまで、いつも、あなたがたとともにいます」
マタイ28:20
と言われた。

「イエスは生きておられる」ルカ24:23
その生きておられる主が、今日も、今もともに
おられる。

ただの言葉でなく、主が解き明かして下さった
言葉、御霊による語りかけによって、心が喜び
に満ちた。御霊の喜びだ。

2007年04月12日(木)
  「もし、そうでなくても」

神は最善をされる。

カンボジア出発に、第二子の出産が間に合うかどうか、
ギリギリのところだった。
「子供の顔を見れて、出発できたら感謝。でも、見れなく
てもそれも感謝。神は常に最善をして下さる。」

「もしそうでなくても」ダニエル3:18
シャデラク、メシャク、アベデ・デゴがネブカデネザル
の作った金の像を拝まなかったので、燃える火の中に
投げ込まれようとした時、彼らが言った。

「私達の仕える神は火の燃える炉から、私達を救い
出すことができる。神は私達を救い出す。
しかし、“もしそうでなくても”・・金の像を拝まない」

「もしそうでなくても」は、とても心試される。
でも、「もし、そうでなくても」でなければ、御利益
宗教になってしまう。
自分に都合が良いから、何かがもらえるから、神に従っ
ているのではなく、神が神であられるから、従っている
わけで。

「もし、そうでなくても」はとても大切なキイワード
のようだ。

Aさんが「新学期になって、あれがああなり、これが
こうなりますようにと祈ってたんですよぉ。

でも、気がついたんです。自分のしたい事、自分の願い
だけで、そこに神様が全く無い。
これって違いますよねえ。神様に喜ばれるように、神
様の御心は何かという発想が全く無い。
神様のお心を求めて行くことを、教えられました。

結局、私の願いを叶えて下さって、願い通りのことを
与えて下さったんですけど、自分の生涯について、神
様のお心を求めて行きたいと思いました。

“もし、そうでなくても”私の願いが願い通りに叶えら
れなくても、感謝なんだと、何となくわかります。
更に良いものが備えられていることも。
でないと、自分の願いだけなら、ほんと御利益宗教です
よねえ。

自分の願い通りでなくても、神は最善をして下さる、
それを信じるのが、聖書の信仰だ。

2007年04月09日(月)
  「主のお気持ち」

孫が生まれた。
名前はまだ無いので、「はなちゃん」。
3805gで、大きい。

カンボジア宣教、単身出発が4月10日、
出産予定日が4月4日、できたら赤ちゃん
の顔を見て行きたい。二人目は早いだろう
から、大丈夫だろうと思っていた。
3月下旬ぐらいには生まれるだろうと。

しかし、なかなか生まれない。予定日が
過ぎても生まれない。
「神のなさることは、時にかなって美しい」
伝道3:11から「一番神様の美しい時に」
出産を与えて下さいと、祈り続けて来た。

「神の一番美しい時に出産」は信じる事が
出来た。
予定日過ぎて、段々出発の日が迫るが、何
の気配も無し。全く兆候無し。

「神の一番美しい時」っていつなんだろう??
ハテナ?ハテナ??
7日、8日と全く気配無し、祈ると「主が胎
を閉じておられた」Tサムエル1:8
胎を開くのも、閉じるのも神様。神様がまだ
胎を閉じておられる。

10日朝福岡空港出発なので、9日夜には福岡
入りしていないといけない。
8日になってもまだ兆候無し。
しかし、胎を閉じておられるのは主、なので、
何かの栄光のためなんだろう。

「カンボジアへ行ってから、写真でも見れるか
らいいよ」と長男。
う〜ん、この場合、神様の御心と栄光とは何なん
だろう?別に顔を見なきゃ死ぬほどの事でもない
から、絶対に、どうしても与えて下さいとも祈れ
ない。見れたら良いな、で。

神様のお心を現して下さり、栄光が現れますよう
にと祈る。神様のお心は何なんだろうな?

すると、9日朝少し陣痛が来て、病院へ行くと、
もう大きいので、陣痛促進剤を打って、効いた
らよくて、それでも出ないようなら、夜に帝王
切開と。

すると促進剤がとても効いて、1時間後、無事自然
分娩で出産になった。
何とギリギリに生まれ出て、赤ん坊の顔を見て、車
を病院に置いて、そのまま電車に乗り、福岡へ。
結局、顔を見て、カンボジア宣教に出発となった。

これが神様の心だった。暖かい愛とご配慮、神様の
お気持ちに触れて、心恵まれた。

今後、カンボジアで、一分違わず神様の支配の中で
神の御心が成って行く事、いっさいが御手の中にあ
る事、「共にいる」とのメッセージだった。

最後に本人が「見れたら感謝、でも見れなくても
感謝。神は常に最善をされる」

しかし、顔を見て、宣教に出発させて下さった、
神様のお気持ちに触れて、心恵まれた。

2007年04月06日(金)
  「試練は痛い」

「さまざまな試練に会うときは、それをこの上も
ない喜びと思いなさい」ヤコブ1:2

試練は絶対に益で祝福、試練が無ければ成長が無い。
それは今までのメッセージや、御言葉もそう言って
いて、よくわかる。

振り返って神様に一番近かった時は、全員が言う。
「あの試練の時だった・・」と。あれほど神様によりす
がり頼った時はない、神様にものすごく近かったと。

だけど、試練は痛い、わかるけれど辛い、嫌なんだ
よねえ。

Aさん「試練の時の祈りが大きな的はずれ。試練の
時は、とにかくこの試練が無くなるように、状況が
早く、すぐに変わるようにとしか祈っていない。逃
げる事、避ける事ばかり」(笑)

Bちゃん「私も同じだ(笑)何とかこの試練が無く
なるように、又は、状況から脱っせるように。そう
祈ってしまう」

Cちゃん「同じ!苦しい事は逃れたい。皆同じなん
ですねえ。でも、苦しみ通してしか、味わう事の出
来ない喜びも経験します!
神様がすごく身近に感じられて、皆の祈りが心強か
った。ほんとに試練は益、御言葉の通りです!」

Fちゃん「試練の時って、ほんと古い性質があらわ
になる。見たくない、ふたをしておきたい、自分の
一番嫌なところがクリアにされて、はっきり認めさ
せられる。

いつも教えられてて、そこを通ると、すごい成長が
あるとわかっている。どう冷静に考えても、試練を
通って成長できるなら、通った方が良いですのにね
え。だのに、直面すると逃げの一手なんですよねえ
(笑)」

でも、逃げたくない新しい自分もいる。嫌だけど、
痛いけれど、しっかり受け止める事を選択しようと
いう新しい自分がいる。

Yさん「最近、仕事先でギクシャクして、対人関係
がもうややこしくて、行くのがしんどくて辛くて、
心が重く苦しかった。
上の人が、余りに理不尽な事を言うので、とうとう
こちらも限界で、きつい言葉を発してしまった。
平安が無くなり、冷静になると悪い事をしたと思う。
でも、腹も立っている。

そんな時、御言葉からきちんと謝る事を示された。
うわっ、そんな事、とても出来ないと思ったが、祈っ
ていると、自然に謝りたいと思えるようになった。
不思議だった。

そして、ちゃんと謝る事ができた。神様を感じた。
心に平安が戻った。心がすっきりし、神様に従う事
がすごく気持ちの良いことだと思った。

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせで
した。私はそれであなたのおきてを学びました」
詩篇119:71

「わたしがしていることは、今はあなたにはわから
ないが、あとでわかるようになります」ヨハネ13:7

振り返って、数々の痛い、厳しい所を通ったが、
通って良かったと心から思える。それを通して、
いろんな事が学べたから。もし、それが無ければ
どんなに高慢になっていただろうと。





2007年04月05日(木)
  「御心行ってるのに・・」

みこころに従うから試練が来る事を学ぶ。

5千人の給食の後、弟子達はイエス様に
従って舟に乗ったから嵐に会った。
「イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込
ませて」
自分が選んだんじゃくて、イエス様により、
強いて乗り込ませられた。

従わないで岸に残っていたら、恐怖に会わ
なかったわけだ。なぜか、みこころに従う
なら、何もかもがスムーズに、すべてがう
まく行くはずとの幻想がある。

なぜかそう思っている。だから、みこころを
行っているのに、問題が来たら、パニックに
なる。「なんで?どうして?」そして、辿り
つく結論が、みこころを間違ったのか?
祈って祈って導かれたと思ったけれど、自分
の思いだったのか?

でも、みこころに従うから悩みが来る。それ
を、御心を間違ったのでなく、試練として受
け止める事を学ぶ。

Bさん「今の自分です!祈りに祈って、祈り
を積んでみこころを確信して、仕事に就いた
のに、嵐が吹き荒れてて、職場で問題の山積。

周囲の人は辞めてしまうし、導かれて入った
職場なのに何でこんなに問題がと、混乱。み
こころでは無かったのか、みこころを自分が
取り誤ったのか、辞めたいと悩んでいた。そ
うでなく「試練」と受け止める事がわかった。

「祈ると、“あなたがたの確信を投げすてて
はなりません。それは大きな報いをもたらす
ものなのです”と語られやっぱり御心の場で、
私に必要で与えられ、今の職場で様々な訓練
与えられ、教えて下さる事わかりました!」。

Cさん「あ、自分もだ。御心祈って、神様か
らの導きを確信して、始めた事なのに、もう
ギクシャクギクシャクしてて、まず思うのが、
やっぱり御心では無かったのか?
自分が間違ったのか?という発想。でも、
祈って祈って始めた事なのになあと。

みこころを行って、ギクシャクする中で、主
が、まことの神であることを教え、みわざを
体験させて下さるんだなと思えました。」

「しっかりしなさい。わたしだ。恐れること
はない」マタイ14:27

2007年04月04日(水)
  「私たちではなく、神が」

培われた根深い古い価値観がある。

今この瞬間もこのままで愛していて下さる。私が
神を愛したのではなく、まず神が私を愛して下さ
った。
これがなかなかわからない。このまま受け入れら
れるとは思わない。こんな自分が愛されると信じ
難い。

このままの自分はダメで、神様に従っていたり、
神様を求めていたり、神様に近くいるなら受け入
れられると、漠然と思っている。つまり底の自分
はダメ人間。

Aさん「もう忙しくて忙しくて、する事が山積み
で追っつかない。朝の出勤も早いし、デボーショ
ンがもう取れない。ああダメだと思う。
携帯配信の日々の御言葉は必ず見ていて、命綱。

まずこのままで愛していて下さる。という御言
葉が心に響いた時、デボーション出来ない自分
を、まず神がこのまま愛していて下さるんだと
思った。

愛されていると思うと、すごく嬉しくなった!
ほんとに嬉しくて感謝な思いが湧いて、心に喜
びが来た。重い心が軽くなった。

その時、少しでもデボーションしたいと思った。
『ねばならない』『ダメだ、ダメだ』じゃなく
て、『したい、神様に近づきたい』と心から
思えた。

すごい不思議ですよね。出来ない自分をこのまま
で受け入れて下さっていると知る時、そんなら、
このままでいいんなら、デボーションしなくて
いいやでなくて、したい!と思えるんです。心か
らの自由な、自発的な思いが来る」

愛していて下さる。今、このまま受け入れていて
下さる。だから、神様に感謝して、喜んで従って
行きたい。神様の愛に応えて行きたい。

邪魔をするのが、自分はダメという“この世の価
値観”。「この世と調子を合わせてはいけません」

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを
愛し・・」Tヨハネ4:10

今日も愛されていることを思うと、心がわくわく
する。嬉しい〜!





2007年04月03日(火)
  「慰め」

色々な婦人と接する機会があるが、
最近、子供達が巣立って行った婦人方に
よく出会う。
進学や就職、結婚で他県へ、遠方へと。

「もう寂しくて、寂しくて、体重がどっと
減りました」
「手紙を読んで、涙が溢れた」
「夢を見て、涙、思い出しては涙、涙で」
「うちはもう数ヶ月で親元離れ、巣立つが
も寂しくて寂しくてたまらない」

巣立ちは感謝な事で、大きな祝福であり、
成長であり、前進で、喜ばしい事なのだが、
感情的に、寂しくてたまらない。何だか、
そこはかとなく寂しい〜。

そんな中で、神様は必ず「慰め」を備えて
いて下さる事に気づく。
「慰め探し」をしようと励まし合い、日毎に
神様の慰めを探す。
そして、毎日一つ神様からの贈り物を探す。

慰め探し、贈り物探しをしている中で、目が
神様にしっかり向いている事に気づく。
神様に向かないと、見つけ出せないので。
視点を神に向けることが出来るので感謝。

不思議な慰めを思い出す。
三年前の三月に、父が天に召された。そのすぐ
翌月の四月に、長男に孫が生まれた。皆が神様
の慰めだねと言ってくれた。

二年前の一月に、続いて母が天に召された。
葬式のすぐ後、長女の妊娠が発覚。それも葬式
で無理をして、切迫流産になり絶対安静に。
主は慰めを下さって、奇跡的に守られた。
そして、その年に無事出産。
母が亡くなった事の、主よりの慰めだとわかった。

悲しみや寂しさの時、慰めを備えていて下さる
主に向いて、主からの慰めを受け取って行ける
ように。

「神は、どのような苦しみのときにも、私たち
を慰めてくださいます。
こうして、私たちも、自分自身が神から受ける
慰めによって・・」Uコリント1:4

「自分自身が神から受ける慰め」・・神は豊かに
慰めて下さる。

2007年04月02日(月)
  「私の知らないところで」

遠方のAさんからの便り。

「イエス様の事を証ししたい、話したい、
職場の人が救われて欲しい、その願いが
私の内にはっきりあるのです。

それにも関わらず、どうしても自分には、
語る勇気が無く、どう話して良いかわか
らず、語る言葉が無いのです。

職場の人々ともなかなか話せず、いつも
心に悔いが来ます。又、それでつい避けて
しまったりしてしまいます。

でも、話したくないんじゃなくて、話した
い。どうしてよいかわからず、神様の御前
に出て、『私にはどうしてよいかわかりま
せん。ごめんなさい。助けて下さい』と
祈っていたんです。

すると、祈っていたある日、職場の主任が
突然、『Aさんはどこの教会へ行っている
の?』と聞いて来たんです。
もうびっくり!!でした。

色々教会の事や、神様の事が話せました!
質問もしてくれて、そばにいた人も話に
加わって来て、何と職場で証しができたん
です。
祈りの答えに、弱い者を顧みて下さった
神様に感謝でならなかったです。

翌日には、トラクトも渡すことができて、
快く受け取ってくれました。

祈りに答えて下さり、知らない所で働いて
いて下さる神様を覚えて、御名を崇めました。

私の好きな詩です。

“逆らい続けた かたくなな耳が 愛の御言葉
を素直に 聞きおる 私の知らない所で
知らない間に 神様が働いて下さる 私の祈り
に答えて下さるために

“今まで 重ねしあやまち認め 心から悔いて 
涙流しおる 私の知らない所で 知らない間に 
神様が働いて下さる 私の祈りに 答えるために”

私の祈りに答えるために、私の知らない所で
知らない間に 働いていて下さる神様・・


2007年04月01日(日)
  「万事益」

「すべての事について感謝しなさい」「神がすべて
の事を働かせて益としてくださる」

「今日の御言葉」を毎日配信しているが、ちょっと
したミスをしてしまった。
あっ!だが、「万事益」と拠り頼む。お詫びを入れ
た途端、間髪入れず「いつも有難う」の励ましメール
が届く。驚き、心癒される。次々と励ましが来て、心
潤い、暖かくされる。慰められる。心恵まれた。


すべての事が益とされるとは、何というあわれみ!
慰め。失敗が益とされて、そこから潤いと温もりが
出て来るとは、まさにそこに神が働いておられる、そ
の神様に触れて、また、心恵まれる。

丁度、友人が知り合いの方の証しを送って来て
くれた。
・・・その方の未信者のご主人が、昨年突然
に癌が発覚。
抗癌剤投与で3年、しなければ半年の命との
宣告。抗癌剤投与を始められるが、体調悪化
で、日増しに体力の衰え。

これまで家族のために祈って来たつもりだが、
いかに愛の無い空念仏のような祈りであったか
を思い知らされ、悔い改めて、ご主人の救い
のために切に祈られた。

しばらくすると、死と向かい会っているご主人の
口から、「同じ神様を信じたい」との言葉、牧師
に来てもらい、はっきりと信仰を告白された。
突然の癌発覚であったが、明確な救いへと
導かれ、感謝でならない・・・と。

「生涯阪神ファンの主人にふさわしく、イエス様が
御国の門の前で『すべり込みセーフ!』と言って
おられるようです。恵みの日々を心より感謝して
います」と。

3年前に、同じように癌が発覚し、その事により
はっきりと信仰を与えられて天へ帰った父を思い
出しながら、万事益として下さる神様に恵まれる。