2007年05月20日(日)
  「その道は測り知れない」

A市で開拓を始め、今年7年目になるB先生。

都会と違って、因習も深い、偶像の根強い地
で、これからどのようなビジョンというか、
展望を考えておられるでしょう、の問いに、

“まだ開拓伝道に出る前なら、色々な自分なり
の思いやビジョンがあったし、様々言えたが、

すでに丸6年、実際に因習の強い地で、開拓
の働きをして来て、
「神様がされるように、される。神様がされ
るようにして下さい」が今の実感だと。

と言うのは、伝道に対しても、様々な自分の
思いや期待があったが、「何一つ」自分の思
い通りになった事がない。

母教会から二人も、A市への就職試験を受け
た。神様は何でもお出来になるから、ちょっ
とわざをして下さったら、合格できる。
その二人が来てくれたら、教会の土台とされ
て、どんなに力強い事か。
でも、神は御心とされなかった。その二人は
別の地で合格した。
出来たのに、神はされなかった。

又、新しい人が全然来ないわけでなく、ちょこ
っと来られる。しかし、とどまらない。
又、別の教会の方が来たりして、この人々が
続けられるのかと思うと、神は御心とされな
かったり。

不思議に、今、Cさんが忠実に集って下さって
いる。
自分の思い通りになった事は一つもない。神は
第三者であられ、ご自身の意思を持っておられ
ご自身の思われた通りになされる。
その事をこの6年を通して学ばされた。神はご
自身がなさろうと思われる事をなさる。
それにあずかるばかりである。”

「ああ神の知恵と知識との富は、何と底知れず
深いことでしょう。
そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道
は何と測り知りがたいことでしょう。

なぜなら、だれが主のみこころを知ったのです
か。また、だれが、まず主に与えて報いを受け
るのですか。

というのは、すべてのことが、神から発し、神
によって成り、神に至るからです。どうか、こ
の神に、栄光がとこしえにありますように。
アーメン」ローマ11:36

ほんとに神のみ思いは高い。底知れず深い。
測り知れない。人間の思い通りにはならない。
しかし、神のみ思いの通りに成って行くことが、
自分にとっても最善であると信じるられる。

2007年05月17日(木)
  「目標は愛」

教会の車に車検が来た。もう古くなってるので
廃車の予定だったが、経済的な事から、色々
考える。
今年、色々と入り用があるので、1,2年我慢
して何とかだましだまし乗りつないで、入り用が
済み次第、又、考えたらどうか。
一応、車検の見積もりをしてもらうと、これから
故障が色々出てくるだろうが、とりあえず車検が
通るという費用は、思ったより安かった。

う〜ん、我慢して、乗りつなごうか、教会がの
方々の意見は、やっぱり安心して乗れるのが
一番だから、次の中古車を買ったらはと。これ
からの修理やら計算すると、そんなに変わらない
のではと。

ただ単に、お金の事だけ考えるのは違うだろうと、
主はどう思っておられ、御心は何かと祈り続けて
いると、「目標は愛」のテモテの御言葉が来て、
この車の件を通して、神の愛を現して下さるし、
教えて下さると思った。

愛していて下さるのだから、ガタガタなもので我慢
するのでなく、神は豊かな方で、「良いもの」を与え
て下さると。「主の良くして下さったこと」「良い
もので満たされる」詩篇103「良いものをくださ
らないことがありましょう」マタイ7:11

良いものだから、次の中古車を与えて下さるんだな
と御心を知る。

そして、ネットで捜して、質の良い、良いものが見つ
かり遙か遠方だが、目で見ないといけないので、夫と
夜行バスで出かけた。
これらすべてを通して、神の愛を教えて下さる事を見
つめながら。

その夜行バスが眠れず、眠れまいまま朝、現地に到着。
その日に、その車で帰広。体調崩してしまい、数日間
寝込んでしまった。

車は感謝なことに、御言葉通り、良いもの、ふさわし
いものを与えて下さった。本当に感謝。
しかし、体調崩し、寝込んで、これが愛なんだ?と考
えを巡らせた。

そして、わかった。人間が考える愛のかたちは、身体
が守られ、スムーズに行き、何もかもが無事で、順調
なこと。それだと愛されている。
でも、神様の愛の形は違って、体調崩し、身体ガタガ
タでダウン、これが愛なんだ。順境を超越した、もっ
と自由な愛で、順境も愛で、逆境も愛で、片時も離れ
ず、主の愛の中にいる。

それがわかった事が、大きな祝福だった。
愛されている。

2007年05月14日(月)
  「時が来た!」

もう10数年前から、クリススマスやイベントや
育児学び会やら、年に数回必ず顔を出して下さっ
ていたAさん。

突然、試練に次ぐ試練、痛い、苦しい、大変な事態
がどんどんやって来て、切羽詰まり、どうにもならず、
神に頼らざるを得なくなった。

ここのところ、毎回休まずに集会に来て下さっている。
一段落すると、次の試練がどっと来て、一体どうなっ
てるのかというほどだそう。

それが集会に来る度に、その日の御言葉がまさにドン
ピシャ!!毎回毎回自分のためにあると。御言葉から
状況の意味が解き明かされ、指針が来ると。
神様だー。

親しい友人のBさんがずっと神様のことを話してくれ
ていた。
その頃は、「ふう〜ん、そうなん」と、自分に必要が
まるで無いから、聞いても全くとどまらないのだと。
話してくれるのを聞いては、頭を通り過ぎて行った。

その時、何も感じなかった御言葉が、今はもうその
一つ一つが心にドーン!ドーン!と入って来る。
え!こんな事言ってたん!こんな意味だったん!
すごいじゃん!そう言えば、以前に聞いた事がある。
御言葉がまさに生きて、心の必要を満たしてくれる。

「神様に頼らないとやって行けなくて、今は、もう
神様、神様と毎日祈って頼っています」

「ああ、神様の“時”なんじゃ」「はい、“時”です
(笑)」「Bさんも、時なんじゃと言ってました」
「すごい!」感動!!!

10数年間、蒔かれた種が、発芽、実を結びつつある。
神様に焦点が合って、ぐいぐい導かれているAさん。

神様のみわざに驚嘆。神様の力、種の力はすごい。
蒔き続けてくれたBさんに、豊かな豊かな報いがある
ように。

神様のわざを目の当たりに見て、ただただ感謝!!
神の時が来たら、蒔いたものを刈り取るんだ。

御霊のために続けて、蒔いて行けますように。

2007年05月12日(土)
  「従う喜び」

神様に従うことについて、教えられたAさん。

とても嬉しそうな顔で「ちょっとしたサークル
の交流会があったんですが、人と会うのが、気
が進まなくて、嫌で行きたくなかったんです。

人の中に出るのがしんどくて、人を避けたい。
丁度良い口実もあって、行かない方に行かな
い方に心を向けていた。

でも、逃げてはいけないんじゃないかと。
神様がおられるから、逃げないで、神様を信じ
て、しんどくても、嫌でも行こうと思ったんで
す。勇気が要ったけれど、行ったんです。

すると、その集いが、楽しくて、楽しくて、ほん
とに心から楽しかったんです。帰ってからも心が
何だか幸せで、喜びがずっとあって、本当に神様
を信じて、行って良かったと思いました。

この間、学びの中で、神様に従って、神様に触れ
ると心が喜びで溢れて、平安で一杯になって、心
満たされるというのが、全然わからなかったんです。

自分は経験した事がないなあと。でも、ああこの
事なんだなと、その時、わかった。本当に心に喜び
と幸せ感が一杯だったんです。
神様に従うって喜びなんだなあと、教えられました。

自分にとってしんどい事や嫌な事も、逃げないで、
避けないで、従って行きたいなあと思いました」

神様は従う者を祝福して下さる。気が進まなくて
も、従う方を選択する時、喜びと平安を得る。


2007年05月11日(金)
  「動機」

Aさんと話していて、動機について覚えさせられた。

Aさん「職場で、ちょっと仕事がうまく出来ない、
Bさんがいて、仕事がうまく回らず、他から文句も
出て、困っていた。
仕事の必要上、手際よさが求められ、時間的にも押
されて来るし、どうすればよいかを話し合った。
その時に、Bさんの話になって、Bさんのためにも、
仕事がスムーズに行くためにも、色々話し合った。

Bさんの事も出たけれど、Bさんの知らなかった面が
色々理解できてとても有益だった。仕事面の事も話し
合え、心はずっと平安だった。話し合いの後も、平安
に包まれていた。

ところが、次の時は、余りに忙しさの中、仕事がうま
く回らず、焦るし、締め切りが迫ってるし、時間は無
いしで、ミスが出るとつい心の内でイライラしてしまう。

顔は、大丈夫、大丈夫と微笑んでいるが、心ではさば
いてしまっている。こんな時にミスが出ると、大幅に
遅れてしまう。気をつけて欲しい、イライラが募る。

仕事の解決策を話し合う時、Bさんのミスの件が出た。
カバーして行こうと、外側良いように言うが、心に全
く平安が無かった。話し合いの後も、平安が無かった。

動機について聖霊様から示された。外側、全く言葉は
同じだし、態度にも振りにも、いら立ちは出していない。

しかし、言葉の背後にある動機が全く違う。初めのは
Bさんを理解しよう、思いやろうとの動機だった。
Bさんを受け入れ、受け止めて、何とか前向きに、肯定
的に進めて行こうと。

次のは、心にあるイラ立ちを発散させた。クリスチャン
ゆえ悪口は決して言わないが、心では責めてさばいて、
イライラを、理解ありそうな振りの裏に、発散させてい
て、心ではっきりさばいていた。
だから、全く平安が無かった。帰ってからも平安が無い。

聖霊様から気づきを与えられ、動機を悔い改めた時に、
平安が戻った。回復して、喜びが来た」

主は外側の行為でなく、いつも動機を見ておられる。
心が問題だ。
外側、問題なくやってしまうと、自分が自分に欺かれて
しまう。

平安を与えたり、取り去ったりして、実地に教えて下さ
る聖霊様が感謝。間違ったなら、平安が失せる。
いつも、聖霊様の光のもと、心探られて歩めるように。

2007年05月09日(水)
  「まだ見ていないが、すでに見て」

神を信じること、約束を見つめること、見えるところ
でなく約束の御言葉を信じて、見つめ続けることにつ
いて。

今、現在見ていない事、将来与えて下さるであろう事を
約束の御言葉に立ち、信じようとする時、
両親の救いの事が思い出され、大きな励ましとされる。

親が救われたのは、私が救われて38年後だった。
父は亡くなる7ヶ月前に、母は1ヶ月前に、イエス様を
受け入れた。
父は癌の手術を何度かして、転移が発覚、その手術に
臨む前夜に、はっきりと信仰を言い表した。
神様は最善をされる、無駄は一つもない。

父に最初に癌が発覚した時、驚きと底知れぬ不安に襲
われそうになった時、この事は益となる、最善をして下
さっている、神に無駄は一つもないと、万事益を信じた。

そして、真に益であった。父は癌だったから、救われたと
思う。段々高齢になり、癌でなくても、いつかは必ず最期
の時が来たであろうけれど、神様は、癌を与えて救って下
さった。
感謝で、感謝でならない。癌により、天国へ連れて行って
下さり、安らぎと幸せ、最高の喜びの中にいる事を思う時、
喜びでいっぱいになる。母もそのすぐ10ヶ月後、癌で、
父と共に天へ。

38年両親の救いを、ひたすら祈り続けて、救われたのは
人生の最後の最後であった。

両親の救いを見た時に、この時が予め備えられていたんだ
と、すでに神から与えられていたからには、この38年間、
思い煩わず、心配せず、ただただ主を信じて、喜んで、待
っていればよかったのだと。

そして、今からはそうでありたいと。御言葉の約束を与え
られたなら、必ず実現の日を見る、それまで感謝して、喜
んで待っていたいと。

必ず実現の日を見るのだから。

「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを
思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだの
です」ヨハネ8:56

アブラハムは2千年も前に、救い主キリストを見る事
を思って大いに喜んだ。
彼は実際には見ていないが、「彼はそれを見て」
すでに信仰によって見て、喜んだ。

祈り始めてから38年後に、両親の救いがすでに予め
備えられていたことが、大きな励ましとされている。

数々の約束の成就は、まだ見ていないが、「それを見て、
喜ん」でいたい。





2007年05月06日(日)
  「無駄は無い」

新聞を読んでいたら、こんな言葉が出て来た。

「人生に無駄なことは無いのではないか。し
んどい事もあるけれど、何か自分に役に立つ
と思えば、やって行ける」

この世界の言葉だが、神様のことを思った。
信仰人生、色々な事がある。しんどい事も苦
しい事も、辛い事も、悲しい事も、大中小、
様々散りばめられている。
でも、神様が一つ一つを与えておられるので
無駄なものは一つもない。

神の愛に包まれていて、愛によって与えられ
ている。主にしようとしておられる事があら
れて、ご計画の中であり、万事は益となる。

偶然も不運もなく、目の前の一つ一つが織り
込まれた神のご意志とお心の中だ。

それがあるので、安心しておられるし、どん
な中でも希望がある。

運命にほんろうされているだけなら、どんな
に不安だろう。行き着く先もわからず、その
事に意味があるのかすらわからない。

単に思い込みの楽観主義も、更に不安だ。
自分に大丈夫だと、思い込ませようと頑張る。
しかし、確かなものが何もない。確証を与え
てくれるものがない。

神の言葉を与えられているとは、何と大きな恵
みだろう。いのちと霊が宿り、愛があり、確か
な指針があり、自分を委ねて行ける。

日常に起こる一つ一つの事に意味があり、神の
お心と気持ちがあり、そこに愛があり、神を
見い出して行ける。
だから、この1日に喜びがあり、心が神に触れ
るので、生き生きと生きて行ける。

日々、新たに主に出会え、新たに愛を知り、主
のお心に触れて行く、ここに生きることの実感
がある。

Aさん「進むべき道について祈っていたんです
よぉ。すると、その祈った事に対する情報や指
針が、日常の中に出て来る。人を通して、環境
を通して、神様からの反応が来るので、神様を
感じる。祈りの答えが色々な形で、生活の中に
現れて来る。」

無駄どころか、毎日の起こる一つ一つの出来事
や、状況を通して、神からのメッセージがある。

2007年05月04日(金)
  「満たされると、溢れ出る」

孫を訪ねた日。
下に赤ちゃんが生まれたので、ちょっと寂しいかな。
何となく複雑だったり・・。
今まで、全大人の関心が1人に集まり、注目の的だ
ったのが、小さい方へ大人の関心が集まってしまう。

ジュースが欲しい、アイスが欲しい・・ちょっとこ
っちを見て欲しい。
下の子の世話をする時も、ちょと寂しくて複雑・・。

そんな中を訪ねた。
丁度、少し前がお誕生日。大好きな物ばかり買って
行った。
大好きなお菓子の数々、大好きなキャラクターの
ついた服、大好きなオモチャ。
そして、ハビーバースディのロウソク付き、大好き
ないちごのケーキ。
ロウソクに火をつけて、電気を消して、♪ハビーバー
スディ〜♪の歌を歌う。
とっても嬉しそうに、ロウソクをふう〜と消す(^^)
パチパチパチ!!拍手拍手!!

大好きないちごのケーキを皆で食べる。幸せそう〜。
大好きなオモチャに大喜び。わあ〜!!!
大好きなお菓子に、歓声、わあ〜。

今日は、Aちゃん主役の、丸ごとAちゃんデイだ。
大喜び。

すると、下の赤ちゃんの所へ自分で行き、「○君、
握手!握手!」と喜び一杯に握手をする。

皆で「これぞ!信仰の極意!」(笑)「満たされた
なら、溢れ出る」「自然に溢れ出る」

「自分が満たされないと、無理」「満たされた初めて
人を愛せる」「満たされるなら、ねばならないでなく、
〜したい」となる。

聖霊に満たされて初めて、生き生きとした恵みのクリ
スチャン生活が送れる。

満たされない限り、律法の下に自分を置いて、しぼり
出し、カラカラの中をしぼり出すようにして出して
来る愛。ひきつっていそうだ。

まず満たされること、聖霊に満たされること、それが
何より大切だ。

2007年05月03日(木)
  「意識すること」

我が家のマンションに入る入口の暗証番号が、
最近変更になった。8年振りの変更だ。

何度もやってしまう。身体が勝手に動き、以前
の番号をピッピッピと押すのだ。
ウヌ?開かない?? 一瞬、あ、そうだ、と押
し直す。

勝手に手が動くのは、いつも無意識でいる時だ。
他の事を考えていて、思いが他の事にあって、
目の前の事が頭に無い。

すると、無意識で身体が勝手に動く。8年かけ
て培われたものは深いと、つくづく考えさせら
れる。

信仰生活における、古い価値観、この世の価値
観、思考パタンも同じだ。培われたものは根深い。
根深く在る。

新しい暗証番号を押している時は、「意識」し
ている時だ。
入口で、意識した時に、新しい番号を押せる。
その違いは、意識しているか、していないかだ。

信仰生活も同様だ。イエス様を信じて、救われて、
古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなった。

古い人は十字架で、キリストと共に死んだ。古い
私は死んだ。主と共に葬られ、そして、主と共に
新しいいのちによみがえった。

日々、毎瞬、毎瞬、「意識」することがとても
大切だ。
意識する時、新しい暗証番号が押せて、ドアが開く
ように、
古い自分に死んだ、よみがえりの主と一つになって
新しい自分が生きている、それを意識して生きて行
く時、そのように信仰生活が開いて行く。

「私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私の
うちに生きておられるのです」ガラテヤ2:20

「古い人は死んだ」「私はキリストとともに十字架に
つけられた」

思い煩いに襲われそうな時、いや違う、古い自分は
もう死んだ。目の前の事に焦って、イライラしそう
な時、いや違う、私はキリストと共にすでに死んだ、
そこに立つ時、心が静まって行く。

私はキリストと共に十字架につけられた、それを、
毎瞬、意識して、意識して歩めるように。






2007年05月02日(水)
  「祈らされた」

孫のAが新生児検診にひっかかり、先天性代謝異常の甲状腺
障害にひっかかり、再検査との連絡が病院から来た。
祈りの要請が来て、教会の皆にも祈ってもらう。

皆が心配して、祈ってくれる。
障がいかも知れないし、そうでないかも知れない。全くわ
からない中で、祈っていると、

もし障がいだったとしても、神の最善であり、益とされるし、
愛していて下さる、ご計画の中という事を思い巡らしていると、
神をひしひしと感じ、心が平安になってしまった。
どっちであったとしても、それが神の最善なのだと、心から
思えた。
神の下さるものは良きもの、下さるものが一番良いのだ。

Aちゃんママに、そんな事を話すと、「私も病院から電話が
あった時も、全く平安だったんです。不思議な平安で守られ
ています」と。「どうであれ最善をして下さるから、みここ
ろのままに」と思えると。

週始めが再検査の日、「行って来まーす」。結果はその週中
と。どうかな、どうかなと皆も心配して、「結果出ましたか、
どうでしたか」と、聞いてくれる。
結局、連絡が来たのは最後の土曜日。「異常無しでした」。

皆が良かった、良かったと喜んでくれた。
「きっと、カンボジアだから、神様がそうして下さったんで
すよ」
「カンボジアはそれでなくても医療が大変で、何もなくても
大変なのに、こりゃ、もう、一体どうなるんじゃろかと思っ
てたんです」と。
「どうであっても最善はわかるけど、何せ行き先がカンボジ
アだから、何もなければいいなと、願ってたんです」と。

「うわあ、こりゃ、N先生、もうカンボジア行かれんで、帰
って来るんじゃ。国内宣教になるんじゃと思ってから」
「いや、早い、早い」(大笑)

皆が、「この事で、更に、カンボジアのためにずっしり重荷
与えられて、いやあ、祈りました!」
「ほんと、まあ、祈らされましたよ!」

兄弟姉妹方の愛情をずっしりと感じて、心あったかくされ、
心恵まれ、感謝が満ち溢れた。

内外、沢山の祈りを本当に感謝(^^)/

2007年05月01日(火)
  「いつも益」

連休に、孫達や親族に会いに、鹿児島県のN島へ。
到着が夜になってしまい、N島へ入るが、何と
真っ暗。
街灯が無い。全く無い。車のランプを上向き
にしても、まだ暗い。先が見えない。
街って普通に思ってたが、えらく明るいんだー。

とにかく灯りがなくて、どこがどこやらわからない。
ナビも途中で終わり。人家の無い山道もくねくねと。
あちこち行きつ戻りつ、全くわからなくなり、店
に入り、聞く。

親切に、おばあちゃんが口で言ってもわからない
からと、広告の裏に、こう行って、こう、こうでと
地図を書いて下さる。
その地図を頼りに、行くが、三叉路でわからなく
なってしまい、行きかけた道を、どうも違うようだ
とバックしたその時!

みぞに前輪と後輪がはまってしまった!
うわあ、これはダメだろうなと、アクセル踏むが
全くダメ。
車を降りると、こりゃどうにもならない、そして
追い打ちをかけるように、雨が降って来る・・
完全に戸惑いそうになるや、

突然、一台の車が横付けに!現れたのがA先生。
「えー!」「いや、余りに遅いので、教会で待って
おられるのかなと、行きかけて、すれ違った車を見
て、あれ?もしやと引き返したんです」

うわっ、主の導き!すると、二台目の車が通りかかる。
おじさんが下りて来て、親切に手伝って下さる。
家に帰り、大きな材木を持って来て下さり、車をジャ
ッキで上げて、材木を角度を考えて、かませる。
知恵だ。雨の中の作業が続き、材木がタイヤの下に。
雨に濡れながら、親切に助けて下さる。

いよいよ、車を動かす。こちらの車から、ライトで
照らしつつ、力が入る。
ブブーン!動いた!!みぞから脱した!!
わあ〜!やったー!パチパチパチ!!拍手!!!

「万事益」すべての事は益に。助っ人を送って下さっ
て、真っ暗闇の雨の中、心あったか〜くされる。
主が共にいて下さることを、まじまじと感じる。
「神様、有難う!!」
心、ほんわかと暖められた出来事だった。