2007年07月26日(木)
  「主にあって、光」

Bさん「職場では叱られて、友達とは喧嘩になって、
もう次から次へと、問題続きだったんですよぉ。

それで、周囲の友達に相談したら、皆、同じ事を
言うんですよ。無視しろ。相手が悪い。

ところが教会に来て、神様に祈ると全部正反対、
職場では、自分の失敗はきちんと謝る。友達とは、
自分の非もよく考え、謝るべきは謝る。

結局、神様に従って、示される通りにしたんです
よお。すると、思いを越えて素晴らしい事をして
下さったんです!!

職場ではすごく良い関係になって、嬉しくて嬉しく
て、そして、友達とは和解できて、相手が心開いて
色々な事も話してくれて、自分を信頼してくれてい
る事がすごくわかって、もう喜びが溢れました。
ほんとに自分の非がよくわかりました」

「神様を知る以前は、絶対謝れない。謝ると負け
みたいで。対人関係も勝ち負けの世界でした。
相手に負けたくない。弱みも見せたくない。
もうしんどい、しんどい。突っ張っていきり立っ
ていないといけないから(笑)

いろんな対人関係の中に、妬みやプライドや密か
な敵対心がある事も、自分では絶対に認めたく
ないから、気づかない。

それに気づくようになって、御霊様が気づかせ
て下さるんですよね。悔い改めて、相手にも謝れ
るようにされて、本当に感謝で一杯です」

認めたくない感情は、自分で封印して、心の底
に押し込めているから、気づかない。
御霊の光によって、気づかせて下さる事が感謝だ。

「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は
主にあって、光となりました。光の子どもらしく
歩みなさい」エペソ5:8

2007年07月24日(火)
  「視点」

Aさん、新しくバイトに入った時に、職場の
人間関係があり、一人の人が善意で(?!)
様々な情報をくれる。
別に情報だともわからないまま、新人なので、
言われるまま聞いていた。

すると、自分では気づかなかったが、それが
先入観となって、人を見ていた。
そういう人だと、決めつけて見てしまっている
ので、そう見えてしまう。そうしか見えない。
先の情報が、後の情報を遮断してしまう。

こちらのミスで注意される出来事があった時、
先入観があるので、きつく、嫌味に見えて、
やっぱりそうだと更に塗り固める。

ところが、その対人関係と職場での一つ一つの
事柄が導かれるようにと、神様に祈り出した。

祈りは大きな力だ。祈りは本当に働く。祈って
いると、神様が、ミスはミスで、きちんと謝る
ように示される。
自我はそれでなくても、失敗が痛くて、もう触
れたくない。しかし、御霊は示されるので、きち
んと謝った。

そして、祈っていると、いつも指導してもらって、
助けられている事の感謝を告げるようにと促される。

でも、祈っていると、自然に感謝の言葉が口を
ついて出た。
御霊に示されるままに、従っていると、相手が
優しくなって、親切にこちらを気遣ってくれるの
がわかる。本当に良い人に見えて来る。

仕事にはきちんとして、実は優しい、親切な良い人
だとわかった。
同じ一つの出来事が、それ以前は嫌味に、当てつけに
見えたのが同じ事が、そうじゃなくて、思いやりであり、
配慮だとわかった。

自分の目が変わったのだ。祈って、神様に従おうとし、
従って行った時に、自分の心が変えられた。全く同じ
事が、正反対に見える。自分の見方次第だ。

Aさん「神様に従う事の祝福は本当にすごいです!愛
が見えて来るんです!」

先入観は、判断を間違ってしまう。常に、神様の御声に
耳を傾けて、神様の判断を仰いで、従って行きたい。

2007年07月22日(日)
  「親族の救い」

先日、知人のご高齢のご親族が亡くなられた。
まさに天寿を全うされた、というお歳だった。

亡くなられる前に、イエス様を信じられ、一緒
にお祈りできたと聞いて、心から感謝した。
今は天で、平安と幸いの中におられることが
感謝だ。

感謝な報告を聞けて、祖母の事を思い出した。
祖母は99歳で亡くなった。
ずっと、田舎で農業をしていたので、元気で、最後
まで、いわゆる認知症の症状は全く無く、意識も
しっかりしていた。亡くなる前まで、針をもって
手芸のような事もしていた。

私は若い時に救われ、ずっと田舎の祖母と文通を
していたが、その中で罪のこと、十字架の身代わ
りの死、罪の赦し、天国のことなどずっと書き続
けた。
日常の中での、神様のみわざや証しなども、ずっ
と書いて送った。

数年後のある時、祖母からの手紙に、イエス様が
自分の罪の、身代わりに十字架で死んで下さって、
こんなに有難い事はない、自分も信じている、と
書いてあり、もうびっくりして、大喜びし、感謝
で溢れた。

十字架の身代わりの死を、ちゃんと理解していた
事に驚き、神様の働きに感謝でならなかった。

結婚してこちらに来てからは、もう会えないので、
やはり手紙で、神様のして下さったこと、感謝な
ことを、事あるたびに書いて送っていた。

やがて、老衰で段々弱って来たとの連絡を受け、
最後、意識がもうろうとなって来ていると聞き、
もう最後かもしれないと会いに行った。

まず実家に寄ると、親が、祖母はもう意識がなくて、
行っても、もうわからないからと、一昨日も、もう
わからなかったと。
とにかく、そこから田舎の祖母のもとへ向かった。
道中、祖母の最期を、もう一度救いの確認を与えて
導いて下さるように、祈りに祈りながら。

行くと、目が開いていて、何と意識がちゃんとあって、
言う事もはっきり理解できて、これは神様!だと、
神様をもろに感じた。

夫が、もう一度福音をきちんと話し、イエス様の十字架
の意味を話した。祖母は大きくうなずき、信じていると。
祖母の救いがはっきりわかり、再確認できて、一緒にお祈
りした。
すると、はっきりした声で「有難う!有難う!!」と言っ
てくれた。
私達にも、祖母の救いをはっきり確信できる恵みを、主が
与えて下さった。

意識がはっきりしてて、話せて、私達の事もわかったと
言うと親族が皆、非常に驚いた。

数日後、天に召されたが、心は本当に平安で、祖母が主と
共に天で安らぎと幸福の中にいる事が確信できた。

今も、あの時、話せたのは、祖母の意識が戻ったのは、神様
のみわざ、主の奇跡と心から感謝で一杯だ。
親族の救いは、ことさらに嬉しい。

2007年07月20日(金)
  「祈りの答え」

Aさんが体調が優れず、持病を持たれ、お身体
大変で、教会へもなかなか来れない。

何か慰め、励ましがないかと祈っていたら、B
先生の書がいい!と思いが与えられる。

丁度出会う機会があり、お願いすると、喜んで快
く引き受けて下さり、御言葉もお委ねする。

すると、祈りの中で「わたしがしていることは、今
はあなたにはわからないが、あとでわかるようにな
ります」ヨハネ13:7 の言葉を書いて下さった。

その色紙をすぐAさんに郵送した。
すると返事が来て、ピッタリのタイミングでしたと。

その日も体調が悪くて、とてもしんどくて、夕食を
作るのもおっくうでいたところ、そこへ丁度、郵便
物が届いた。

ヨハネ13:7の言葉を見た時、神様のご計画は
絶対で大丈夫だと思えた。信じて行こうと、心から
思えた、と。

Aさんの心が瞬間、神様に焦点が合い、引き上げられ
温められた。神様を信じて行こうとする信仰が起こさ
れた。Aさんが、御言葉により変えられた。
御言葉は、霊であり、いのちであり、力だ。

「でも、その御言葉を見て、神様のご計画というこ
とを悟れたAさんもすごい。信じて行こうと思えた事
もすごい」

Cさん「祈りがあったからですよ。祈りに神様が働か
れたんですよね」

祈りの答えを目の当たりに見て、御名を崇め、感謝した。

2007年07月17日(火)
  「弱み」

Aさん「今までの人生、勝ち負けだったんです。
人に負けたくない。弱みは絶対に見せたくない。
人に勝ちたい。人の上にいたい。人より強くあり
たい。

神様が無いから、人しかいないので、常に人を見て
生きているので、人が気になって気になって仕方が
ない。
人にどう見られるかが、それが価値観だから、人目
を意識して、きゅうきゅうとしている。人が見てい
る自分を生きていて、全然、本当の自分を生きてい
ないですよね」

「人が気になるのは、人との比較なので、必然的に
優越感と劣等感を行ったり来たりする。
優越感を持つのは、つまり劣等感がある証拠で、
劣等感があるから、優越感に浸りたい。

でも自分より優れた人など、幾らでもいるから、必
ず劣等感に陥る。人との比較だと、どちらかをグル
グル、グルグル、根は高慢。」

「ほんとに高慢ですよね。人を見下し、馬鹿にして、
自分は優ってると思ってる。何か恐ろしいですよね。
全然優ってなどいないのに。思い込みの世界」

Bさん「私も以前は、もう人が気になって、気にな
って仕方が無かったです。
でも、神様意識して、信仰生活送っている内に、年と
共に、人が気にならなくなって来たんです。神様が知
って下さってたらいいやと思えるんです。何だか解放
されました。

人との間で、色々な事もあるんですけどね、ああ、こ
れもあれも神様がご存じ、神様が知って下さってるか
らいい、と思えるんです。そして、心が平安なんですよ」

「人が見てる自分を意識して、生きていて、本当の自分
を生きていない。虚栄心や体面や見せかけで生きている。
そんな人生、ものすごくつまらない。自分の足で立って、
自分を生きて行きたいよね」

Cさん「人に絶対に弱みを見せたくない。強い自分で
ありたい。だから、いつも突っ張ってて、でも、人の
いない所で泣いたりする。人に弱みを見せたくない、
というのが一番自分の急所だと思う。

弱さをそのまま出して、泣きたい時は泣き、嬉しい時は
喜び、腹が立つ時は怒り、もっと素直に自分を出して、
生きて行く者にされたい」

弱みは感謝で、弱さの中に恵みが十分で、弱さの中に
神の力が現れる。

だいたい弱さを認めることができないので、絶対に認め
たくないので、認めないので、神様から砕かれて初めて
弱さを認める。そして、自由にされる。

「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」
Uコリント12:9

2007年07月15日(日)
  「愛は恐れを締め出す」

今年のカンボジアはデング熱が大流行と聞く。
当たり年だそうだ。
死ぬ病気ではないが、高熱が続いて大変なよう。
必ず、大人も子供もかかるそうな。
風邪みたいなものと。

昔、子供が小さい頃、はしかだ、おたふく風邪だ、
水ぼうそうだの、次から次へと誰かがなる。あち
こちから貰って来る。

そんな時に、小さい内に済ませておいた方が軽く
て楽と聞き、もうどうせなるなら、済ませておこ
うと、移るように敢えて接触させていた。

しかし、幾ら接触させても、移らない時は全く移
らない。兄弟でも、移らない時は移らない。
移って自然、当然なのに、不思議だ。
移ったり、移らなかったりを見て来た。

ここに主の完全な御手を教えられた。主のお許し
無しに病気の一つもならない。御心だから病に
なり、御心でないなら、どんなに伝染する状況
でもならない。

サタンや自然にほんろうされているのでなく、
主の御手に支配されているとは、何と安全で安心
で平安な事だろう。

もし病気になっても、主の御手の中であり、主の
ご計画の内であり、すべての備えもあり、更に
主の素晴らしさを知れることになる。

「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許し
なしには地に落ちることはありません」

何があろうと、御父の支配の中、それは愛、極み
までの愛、最善、御父に視点を置く時、平安に満
たされる。

不思議に恐れから守られる。神様の愛を覚える時、
恐れから解き放たれる。

「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め
出します」
神様を思う時、愛の中に憩う時、恐れがなくなる。
不思議だ。全くの神様ゆえだ。

2007年07月13日(金)
  「神のみこころは、愛」

Aさんが「バイト先で、上の人が口をきいてくれない。
何か自分が失敗をして、迷惑をかけたんだと思うが、
自分は全くわからない。
自分も辛いが、でも、相手の方がもっとしんどいだろう
なと思えた。そう思える自分に驚いた。イエス様に
よって変えられている事を思った。

その人に以前の自分を見るようだった。しんどい
歩みをしていた。神様に出会って、そこから救われ、
恵みの中に入れられた、その恵みの大きさを思った。

祈っていたら、何をしたかもわからないが、自分から
謝ろうと思えた。世の価値観なら、自分の正当性を
主張するばかりだ。自分は正しい、間違っていない、
相手が悪いと。

自分が正しいのに、謝るなどと、世の価値観の辞書に
は無い。
でも、神様の価値観は全く違う。へりくだりなさい
と言われる。祈ると、いろんな場合に、御霊はへり
くだれと示される。

Cさんも経験した「自分が入ったばかりに、元から
いた人の部署が変わる事になり、自分のために、相手
が不本意な位置になった。勿論相手は嫌だろう、口を
きいて貰えず、無視された。

しかし、こちらは無視されても、欠かす事なくきちん
と挨拶をし続けた。ある時、余りにも嫌味な態度で
来たので、もうカチン!と来てしまって、もう我慢な
らず、一言言ってやろうと、言いかけた。

その時、自我!と気づき、神様!と心の中で助けを求
めて叫んだ。一瞬だったが、神様を呼び求めた時、口
から勝手に言葉が出て来た。
それは「ごめんなさい」だった。自分でも唖然とした。
「ごめんなさい。私が来たばっかりに位置が変わって
しまって」と。

すると、その人は明らかに良心の呵責を感じている表
情がもろに出て、「いえいえ、そんな事ないわよ」と、
非常なとがめを感じている顔だった。
そして、それ以後、全くわだかまりが無くなり、普通
に気持ち良く交流できるようにされた。

「正しい」だけで進むと、御心を誤る。自分は正しい
のだから、と突き進んで行くと、時に、正反対の方向
へ行ってしまう。
神の御心は「正しさ」でなく「愛」だ。愛はへりくだりだ。

「正しい」だけが御心なら、イエス様は十字架にかか
る必要は無かった。完全に正しいお方なのだから。
でも、十字架にかかられたのは、愛ゆえだった。十字架
が基準である事をいつも教えられる。



2007年07月11日(水)
  「力強い御手の下にへりくだる」

「ですから、あなたがたは、力強い御手の下に
へりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、
あなたがたを高くしてくださるためです」
Tペテロ5:6

Aさん、バイト先で、よくミスをしてしまい、
それが皆の前で注意される。
皆に自分の足らなさ、弱さを知られてしまい、
プライドがとても傷つく。ものすごく自分が惨
めになる。

でも、傷ついて、痛いけれど、注意受けた点を
懸命に直そうとしている自分に気づき、ほんとに
自分が変わったと。

以前なら、まず、そんなにゴチャゴチャ言われる
職場すぐに辞めていた。バイト先など幾らでも
あると。もう幾つも辞めましたよ(笑)

そして、細かく言う相手が悪い、相手がいちいち
うるさいと、相手を責めていただろうと。

ミスする自分、できない自分を認めるのが、ひどく
痛いけれど、成長したい自分、変えられたい自分
がいる。
以前の友人に会うと、ものすごく変わったと驚かれ
ると言う。

自我が砕かれている。叱られて、どんどん足らなさ
を指摘されて、それはものすごく惨めで、惨めな自
分を認めたくないけれど、でも、神様が高慢な自分
を砕いておられると思うと、痛いけれど、嬉しい。

目の前にいるのは人だけれど、その背後に神が
取り扱っておられる。
人の前にへりくだるのは、神の御手の下にへり
くだること。神が、高くして下さるためだと。

「欠点、足らなさなを指摘された時、へりくだり
ます。そのまま認めて、受け入れて、自分を変え
たいです。自我には痛いけれど、成長できるの
が嬉しい。
神様がここに働いて下さっていて、関与して下
さっているのが嬉しい」

「Aさんすごいー!!だいたい人に注意されると、
カチンと来て、『あんたに言われたくない』
だもんね」(笑)

2007年07月09日(月)
  「幸せとは」

先日、Aさんが
「ちょっと目の手術をしました。術後、見えにくい
ですが、大丈夫で、段々良くなるとの事です。

手術をするまで、生まれて来て今まで、目が見える事
など全くの当たり前でした。当たり前としか思った事
がなく、目が見えることが、こんなに恵みで感謝であ
る事を初めて知りました。

恵みが全く見えていないんですね。悪くならないとわ
からないんですよね。でも、気づけて本当に感謝です」

孫が、風邪で40度の熱が出て、1週間かかってやっと
平熱に。熱が下がった途端、頬が腫れて、おたふく風邪
と思いきや、耳下腺の腫れで、しばらくすると引いた。

引いたと思うと、次は咳込み出し、どんどん咳がひどく
なり、病院へ行くと、喉頭炎と。
同時進行で下の子が、おむつかぶれ。ちょっと痛そうな
ので一緒に連れて行くと、菌によるかぶれだとか。

次から次へと大変だが、しかし、これが某カンボジアな
らどうなるのだろう??
すぐそこに病院があり、熱だ、腫れただ、咳だという度
にすぐに行ける、こんな感謝な、有難い事はないと、も
う感謝の方が先に立ち、感謝に溢れる。

N宣教師が、奥地の教会に見学に行くと、医療、教育
は無く、もし急病や何かがあった場合、そこから首都
まで大河メコン川を渡り、8時間。しかし、首都に行
ったとて、医療レベルが低く、らちがあかない。

じゃあどうなるのか。そこの人達は諦めるのだそうだ。
寿命がそこまでだったと。皆で「ええっー!」と、
しーん。余りにもシビアで、ショックだ。

「無い」時に初めて知る、恵み。朝起きて、普通に生活
できている事が、どんなに恵みで感謝な事か、健康を失
って知る。

何の変哲もない日常、平凡な日々が最高の幸せという。
よくドラマで、犯罪に手を染めた人の、幸福な昔の回想
シーンが出て来る。それが決まって、家族団らん、皆が
笑っている。それが幸せなのだ。

平凡な日常が最高の幸せ。だいたい気づいていなくて、
当たり前。
恵みの一つ一つに気づけたら、どんなに感謝が満ち、
溢れるのだろう。

2007年07月07日(土)
  「懲らしめ」

先日、1才のA君が、大人に「ペン!」とほんの
少し叩いた。
すると、A君ママが「大人の人にいけません」と
叱った。

A君は叱られると、泣き出した。「ちゃんと謝り
なさい」とママが言う。続けて大泣き状態だ。
「泣いてもだめ!ごめんなさいを言いなさい!」
と叱る。

しかし、A君は大声で泣き続ける。しばらく待つが、
ごめんなさいが言えない。
謝るようママは迫る。尚も泣くばかりで言えない。

1才の子供だが、自我があって、頑なな心があって
ごめんなさいを言わない、のがわかる。
紛れもなく自我から来ている。罪の性質がある。

ママは、尚も謝るように言うが、それができない、
自我がそうさせないのだ。

A君ママは、別の部屋へA君を連れて行き、お尻を
しっかり叩いた。
すると、A君は、心素直にされ、「ごめんなさい」
が言えた。

神様と私達の関係を見るようだった。まず御声をかけ
て素直に従順に従うように、招いて下さる。
そこで、従えれば、それが一番良いのだ。

しかし、自我があって、従えない。どうしても頑な
な固い心があって、従えない。
すると、神様はむちを持って来て、懲らしめられる。

痛い目に会うと、さっと従うのだ。痛い目に会って、
自我が砕かれないと、従えない。何と頑なな心だろう。

しかし、これら一連の、神様の動機は愛そのものだ。
A君ママが愛するゆえに、A君のお尻を叩くように。

A君はちゃんとわかってる。それ以後は、つい口ぐせ
で「ペン」が出てしまうようだが、「ペン」と出た
途端わかってて、さっと表情が変わり、神妙になる。

神様が自我を砕いて下さる時、心素直に従える。
自分から進んで従ってゆけたら、どんなによいだろ
うに。

「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の
聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです」
ヘブル12:10

2007年07月05日(木)
  「祈って・待つ」

時間を取るデボーションと共に、1日神様と対話しな
がら生活することを話していた。

「神様、おはようございます」から始まって、掃除しな
がら、道を歩きながら、お皿を洗いながら、神様と対話
しようと。

Aさん「1日、思い出しては、神様に祈ってます!お風呂
やトイレでも祈って、思い出しては、あ、神様〜と、お話
してます。今まで無かったことで、ほんとに感謝です。

だって、今まで全部自分でやってましたから。祈る事も
なく、自分で思ったまま動き、自分で思ったように喋り、
考え計画し、神様が無かったです。

でも、生活の中に神様が来て下さって、何かあるとすぐに
動かないで、“祈って、待つ”んです。変わりました。
この“待つ”が、みそですね(笑)

待っていると、不思議に生活の何やかやを通して、神様
から示唆が来るんです。あれはああしたら、これはこう
したらいいなと、それが、わかるんです。

“待つ”が、なかなか難しいですね。待てなくて、自分で
動きたくなってしまう。今、祈って、待つことを教えられ
ています。」

Bさん「朝起きて、神様おはようございますと、毎日毎日
デボーション与えられて、感謝でいっぱいです。

朝は体調の加減で、身体が重く、しんどいんですが、
お祈りしていると、ます心に喜びが来て、身体がすっきり
してくるから不思議です。」

Cさん「Bさんすごいですねえ!毎日デボーション持てて!」

Bさん「いやいや、私、この年になりましてね、やっと
毎日持てるようにされたんですよ。喜びの源です。祈った
日と祈らない日って、全然違いますよね」

Dさん「つい祈るのが面倒になって、祈りが飛ぶんです(笑)
祈った日と祈らない日、全然違います!!祈らなくなる
と生活がダレてきて、対人関係はギクシャクするは、問題
がガタガタ発生する(笑)祈ると、祈りが答えられ
るのが、ものすごくわかります」

Fさん「祈り合えるのがいいですねー。皆で祈り合える。
祈ってもらってると思うと、ものすごく心強いです。
互いに祈り合えるのが、すごい感謝だなあと思います」

2007年07月03日(火)
  「認めたくない」

自分の弱さは、なかなか認められない、と話す。
認められないというか、認めたくない。

Aさん「弱さの事を、神様が何か言っておられ
るのが、ちらほらっと見える。
でも、嫌だから考えない。心の押し入れに押し
込めて、見ない。
でも、日常の中で、弱さをしっかり見なさいと
言っておられると思う。何で認められないのか。
認めると、自分が惨めだから」

誰もみじめになどなりたくない。イエス様が罪
をあらわにし、明るみに出して行かれたので、
人々から憎まれた。
罪など知りたくないし、認めなくない、放って
おいて欲しい。

なかなか神様の愛がわからない、と言う人に
よく出会う。

Cさん「神様の愛が信じられないと言うより、
余りにも惨めで、自分の本当の姿が認められ
ないからじゃないか。
余りにも惨めで認められない、認めたくない。
自分の惨めで哀れで、裸である本当の姿を認め
ないと、十字架の必要が無い」

自分が良い人だと思っているから、十字架が
ピンと来ない。頭でしかわからない。罪がわ
からないと、十字架もわからない。

Bさん「わかる。自分の姿を認めたくないし、
非も認めたくない。だから、人を責めて行く。
自分を正当化して、周囲を責めていたら自分
を見なくて済む。
自分は正しくて、いつも人が悪い。人を批判して
自分を棚上げにする。罪は認めたくない」

「暗闇の中だ」「暗闇の中は、いつも自分が正
しい。自分が正しいと思っていたら、まさに
暗闇の中にいることだ」

「弱さを認めたくない自分に気づけるって感謝。
それすら気づかず、何ら問題無しと生きている」

自分の本当の姿を見て行かない限り、認めない
限り、成長が無い。結局、神様のことが何もわ
からない。
自分の惨めな姿を認めない限り、神様の愛はわか
らない。

“自分は富んでいる、豊かになった、乏しい
ものは何も無いと言って、実は自分がみじめ
で、哀れで、貧しくて、裸の者であることを知ら
ない”黙示3:17

2007年07月01日(日)
  「良いわざにあふれる者に」

Aさんが、祈りが聞かれましたー。

「仕事場の上司が厳しくて恐くて、すごい苦手で、
ずっと祈ってたんですよぉー。
すると、仕事で自分のミスじゃないかという事態
が発生して、どうしていいかわからず、神様ー!
と心の中で。
そこへ丁度、その祈っていた上司が来て、恐くて
叱られるかもと思うが、正直に言おうと思って、
状況を話して、どう対処したらよいのか尋ねた。

すると、怒るどころか、ものすごく優しくあったかく
対応してくれて、それを調べてくれたら、結果的に
間違ってなくて、合ってて、自分のミスでも無いこと
がわかった。
恐いと思っていたら、自分が勝手に思っていただ
けで、ものすごく暖かい良い人で、あ!これって、
ずっと祈って来た祈りの答えだ!とわかって、又、
又嬉しくなった」

Bさん「自分が変えられたことが、わかって嬉し
かったー!
イエス様を信じる前は、どうしても損得で生きて
いる。損はしたくないし、得はしたい。与える
より、受ける方がどうしても嬉しいし、何かもら
うと嬉しい。

出費があると、惜しむ心だったり、嫌々だったり、
友達が何か出さないといけない時『嫌だ』と言う
んだけど、自分も同じようなもので。

“ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いら
れてでもなく”と御言葉にあるが、ほんと出費の
時、この心情。

それが、与えることが嬉しくなって、自分が変え
られていることを発見した。出費が必要な時も、
喜んで出している自分がいた。以前は無かった。

“受けるよりも与えるほうが幸いである”使徒
20:35 が実感できた。いろんな方面に
どんどん出費する事ができて、それが心に喜び
がある。嬉しい。
こんな心は以前は全く無かったし、神様にしか
できない。神のみわざだ」

“神は、あなたがたを、常にすべてのことに
満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者
とするために、あらゆる恵みをあるれるばか
り与えることのできる方です”
Uコリント9:8

“ばらまいても、なお富む人があり、正当な
支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者
がある。

おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤さ
れる”箴言11:24