2007年08月30日(木)
  「自我の頑強さ」

自分の中の自我のかたまりの特に強い部分がある。

Aさんが「私、プライドだ。ものすごくプライド
が強い。プライドのためなら死ねますよ(笑)
もう何だってできる。ものすごい力がある。

イエス様に出会って、そのプライドに次から次へと
ダメージが来る。謝らせられてばっかりなんですよ
お(笑)
又、私が謝らないといけない罪を、犯すんですよねえ。

最近もう立て続けてに、友達に謝り、バイト先の
先輩に謝り、姉に謝り、妹に謝り・・(笑)謝って
ばっかり。でも、私が余計な事をするから、謝らざ
るをえなくなる。
そんな時って、謝らないともう平安無くて、心が
しんどくて、苦しくて、追いつめられるんですよお(笑)
ほんともう神様から赦されたい一心だけで。

どんなに相手にバカにされてもいいから、謝りたい
と思うんですよお。こんな事ありえんです。
謝るなどと、今までの人生で全く無かったし、考え
られん。相手を無視して、問題も無視して、
そんなもん、知らんって感じで。

でも、神様知ってから、謝らずにおれない。
すごい変化です。神様が「プライド」のことを言って
おられるのがよくわかる」

「ほんとだ。あっちでも、こっちでも頭下げ回って、
へりくだらされて、プライドを砕いて行って下さって
るんだ」
「でも、ほんとに感謝なんですよお」

Bさん「私、自分は思い煩いだと思う。自分の自我
のものすごく強い部分。
思い煩いを握って放さない。絶対に放さない(笑)

ほんとに頭の中にシナリオが出来上がるんですよ。
いつも。それがなぜか、最悪のシナリオ。これだけ
よくまあ悪い方に考えらっるなと思うほど(笑)
悲観的、否定的、真っ暗闇(笑)ああなって、こう
なって、ああだめじゃ。神様なんか信じててもだめ
じゃ、となって行く。

失望と落胆と、絶望(笑)弱いところなんですよねえ。
でも、弱さの中に恵みは十分だから、その弱い所に
信仰を働かせて行けばよいんですよね。

「恐れるな」「人にできないことが神にはできる」
「ただ、信じていなさい」
信仰を働かせるチャンスなんですよね。信じます!


2007年08月28日(火)
  「今だからわかる」

先日、私たちの教会は26周年を迎え、26才教会
バースディをお祝いした。
記念礼拝をし、食事交わり会をした。

今まで導いて下さった神様に「感謝を献げ」「御名
を崇めよう」と、皆で感謝を語り合った。

その中で、会堂建設時の恵みが、様々語られていた。
又、あの当時ではなく、8年経た今だからこそ見える
恵みがある。

今思えば、パズルのように、一片のピースも欠ける
事なく、一つ一つのピースが完璧に、それぞれの場
所に備えられていた。完璧だ。

要所、要所で特別に尽力下さった方々が、今は転勤、
移転等でその場におられない。それらの方々がおら
れたから建ったわけで、今なら建たないだろう。

すべてに時があり、ピッタリの「神の時」であった。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」

渦中の時は、もう必死で祈り、信じ、献げ・・。
ものすごい怒濤のような大きなうねりの中にいた。

しかし、今思えば、すべてが初めから完璧に神に
よって準備されていたことだった。

「すべてのことが、神から発し、神によって成り、
神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこ
しえにありますように。アーメン」

その中で、信仰や祈り、献げること、それらを練り
に練り、訓練し、成長させて下さった。

「今考えると、この人数で、1億など何と無謀な
冒険をと(笑)神様無しじゃあり得ん」
「あの時の一致と信仰と祈りは、ものすごいもので、
まさに神わざだった」
「アメリカの姉妹達も一丸となって、地球の表と裏
で、24時間連鎖祈祷がほんとに実現した。あの時
の祈りは、聖霊の凄い力に祈らされているという感
じだった」

「今振り返るとわかる。ほんとに自分達じゃなく、
人間のものでなく、大きな聖霊のうねりの中に、乗
せられて行ってるという感じだった」

「何もかもがピッタリと符号してどんどん前進して
行って、建って行った。大きな大きな力の中に置か
れていた」。
建物は勿論感謝だが、あの時のプロセスはすごかった。
すごい力で一丸となった「一致」が強烈だった。

皆で語り合い、今一度、神に栄光を帰し、主の御名を
崇めた。

2007年08月26日(日)
  「相反する思い」

Aさんが身内と喧嘩をしてしまった。

「相手を傷つけるような言葉を言った自分が
悪い。相手が怒ってしまった。

神様信じる以前なら、言いたい事を言えば
スカッとしたのだが、神様を信じてからは
聖霊様が内におられるので、罪を犯すと、
全く平安がなくなる。

はっきり罪だと教えて下さるので、とがめ
も来る。
どんどん平安が無くなってしまって、いて
も立ってもおれず、聖霊様の導きに従って
謝ろうと思った。

心が悶々と苦しいので、このままでいたくな
いし、それに神様のみこころを損ねているか
ら、きちんと正しくしたい。

謝ろうと決心した。でも、その時に別の思い
が来る。謝ったら、相手が図に乗る。軽く
見られて、相手はますますいい気になって、
つけ上がる。こちらがばかを見て、好き放題
にされる。謝らん方がいい。

でも、神様のみこころは、はっきりしている
ので、やっぱり神様に従って謝った。

すると、つけ上がるどころか、向こうも謝って
来た。双方で謝り合えて、心通い合えて、真実
なものを感じた。
その事から、相手は更に次の良き事へと導かれ
生活が建て直された。

いつもサタンが妨害して、反対の思いが来るが、
祝福を奪い取る妨害であって、神様のみこころ
に従って行きたいと思った。
みこころには素晴らしい真実と喜びと平安が
あることを、又、又、体験した」

Bさん「よくここで自分が譲ったら、折れたら、
へりくだったら、相手が図に乗るから、ピシッ!
と言っとかんと!と、来ます。身内が言わんで
誰が言う!みたいな(笑)」

「これぞ、肉なんですよね」(笑)「相手を
批判して、何か良いことになったためしが無い。
一度もないですよ」

「肉の思いが沸き上がる時、気をつけないと
発散させそう」

「でお、神様の法則って、いつも逆で、この
世の思いと正反対ですね」

「自我に死んで、自分に死んで行く時、相手を
生かして行く。自分に死ぬなら、相手に潤いと
温もりといのちをもたらす」

2007年08月24日(金)
  「変えられた!」

何やかや話していた。
Aさん「今も何やらかんやら問題があるし、これからも
問題はあるんだろうけど、大丈夫だと思えるんです。神様
がおられるから道を示して下さるし、将来にすごく希望が
あります!」

Aさんがそう言った時、Bさんがものすごい顔で見ていた。
もう驚きの、信じられないといった、目がテン。

Bさん「ひえ〜、今だれが言った?ひえ〜奇跡!!
奇跡!奇跡!こんな事、言う人じゃないです!信じ
れん。もう現実主義者で、見えないものや未来なんて
信じない。

大丈夫だなんて、何でそんな事がいい加減な事が
言えるんだってな感じで。希望などという先の言葉
あり得ん!!すごい!神様だ!」

Aさん「気持ちがものずごく楽になったんですよ。
神様が何とかして下さる。どんな時にも逃れの
道がある。道をつけて下さる。何があっても大丈夫
ほんとに素直に思えるんです」

Bさん「まああんた!良かったねー!!」

Aさん「Bさんのお陰なんです。一番どん底にしんどい
時にいつもいてくれて。聞いてくれて、神様のことを
話してくれて。Bさんがいなかったら、今の私は無い
です。

教会も一人では行けないじゃないですか。中が
どんな所かもわからず、不安で。一旦足を入れたら
出れなくなるとか(笑)神様がBさんを備えて下さって
たんだなあと。Bさんを信用して、Bさんが言うから
大丈夫だろうと、行けた。

地球上に何億もの人がいて、でも、自分の人生で出会
う人ってものすごく限られてるじゃないですか。
その出会いをも神様が支配しておられて、導いて
下さっていたんだなと。

すべてに神様の支配と働きがあるんだなと、神様を
生活の中に感じます。神様に生かされてるんだなあ
と。だから喜びがあって、心が安らかなんです」

Bさん「ほんとにAさんは変えられた!神様の奇跡
です。ほんとに人は変えられるんですねえ」

Aさんのお顔が柔和で、ほんとににこにこされている。
ほんとに神様に出会われたんだ。すごいなあ。

心を変えられ、価値観を変えられるって、奇跡だ。

2007年08月22日(水)
  「人が気になる」

Aさん「日常生活で、友人関係や、学校、バイト先で
ギクシャク、ゴチャゴチャ、事が起こるんだけど、
よくよく考えてみれば、一つのところに行き着くん
です。

“人に嫌われたくない”それが隠れた動機や行動する
時のおおもとにある。
それを一つ一つのギクシャクした出来事や行動に
当てはめると、全部当てはまる。そこが自分の弱さ
で、そこが問題なんだと。
そこを神様に取り扱ってもらって、祈って行く必要
があるんだなと。気づけて感謝だったです。

人に好かれたいと思うと、人を恐れるし、猜疑心も
湧くし、結局、絶えず人を気にして、人がどう思うか
が行動の基準になってしまう。それが根っこにあって、
それで動いてます」

日本人て、向こう三軒両隣りが、「神」になってる。
皆が、人の目を気にして生きている。人を恐れている。
何か言われないかと。

Bさん「それ、私、私。人に好かれたいです(笑)
だから、何か外側作ってしまうんですよねえ。うわべ
をうまく取り繕って、好かれようとする。あっちにも
こっちにもいい顔しまくりで(笑)八方美人ですよ
ねえ。でも、つまりはすごく人を気にしてるんです
よねえ」

「人を気にすると、人が気になって、気になって、
気がつくと、神様が飛んでしまってる。神様が無い。
人にどう思われるか、人はどう見るか、世の価値観
で生きてしまってて、気がつかない。流されてる。
流されてる時って、流されている事にすら、気が
つかないですよね」

「それで、教会に来たら、我に返るんだ」
「そう!そう!教会に来たら、流されてたとわかる。
立ち返れる。もう、おっとっとと、です。世の価値観
にすごい勢いで流されたー」

「でも、人を気にするんだけど、神様見ていたら、
神様を意識していたら、何か守られるんですよぉ
祈ってると、人が気になるはずなのに、気になら
ないで平安でおれて。不思議な経験します。
神様感じます。

人が気になるような状況や場面がある時、祈る
んですよぉ。すると、後で気がつくんです。
全然人が気にならないで、楽しく過ごせたと。
ほんとに神様が働かれること感じます」






2007年08月20日(月)
  「生きるとは」

「カンボジア」と聞くと、はっと振り返り、
目が行き、敏感に反応する。本屋へ行くと
カンボジアの本に目が行く。

先日、テレビがついていて、用事をバタバ
タとしていた。「カンボジア」とテレビか
ら流れて来て、え!と目をやる。

番組で、タレントがカンボジア訪問をし、
一人のジュニアの女の子を取材していた。
昼間、学校へ行き、下校するとすぐ市場
で働く。家族を養うためだ。毎日働く。

その彼女の夢が看護士になること。鶴の
折り方を教えて上げて、一緒に夢が叶う
よう鶴を折る。彼女の目がキラキラ輝い
ている。
そして、9年目に番組スタッフが追跡取
材をした。カンボジアへ行き、彼女を捜
す。まず観護士になりたかったので病院
へ行く。しかし、いない。
その病院の医師が自分はずっとここにい
るが彼女は一度も見た事がないと。

それで、看護学校へ行く。しかし、一度
も在席した記録がないと。それで彼女が
いた市場へ行き、手がかりをつかもうと
する。誰も知らない。しかし、一人の人
が知ってると言い、服屋で働いていると。

露天の服屋に行くと彼女がいた!パソコ
ン画面で9年前の録画を見てもらう。
全部覚えていて、看護士になりたいと言
う所に来ると泣いていた。

「看護士にはならなかったの?」に、
貧しくて、お金がなくて、とても経済的
に無理。家族も養わなくてはならず働か
ねばならなかった。それで看護士は諦め
たと。目に涙が。

鶴の折り方もしっかり覚えていて、折る
事ができた。彼女はあれから結婚して、
夫と今は4才の息子もいると。家に行く
と掘っ立て小屋のような貧しい家。
しかし、今、家族と共に幸せだと彼女
の口から聞けた。

番組でスタジオに一家を招き、9年前に
訪問したタレントと涙の再会。彼のため
に自分で作った服をプレゼント。

カンボジアの地方の貧しさと、心がある
こと、心が通い合うことがとても印象的
だった。
心からの願い、夢も断念しなければなら
ない現実。
でも、愛する家族があり、幸せに暮らし
ていて心あたたまった。
彼女の生きる姿に、心の触れあいにとても
感動した。

プノンペンから郊外に出た途端、ものすごく
貧しい。地方へ向かうと、小屋のような家
が立ち並んでいた。

カンボジアの精一杯に生きている人々を
見る時、「平和ボケ」した日本で「生きると
は」をとても考えさせられる。

神様の祝福があるようにと、心から祈る。

2007年08月18日(土)
  「礼拝とは」

キャンプで「礼拝」について学んだ。

「礼拝」の意味は、ひれ伏す、おじぎする、奉仕する。
礼拝は「ささげる行為」「神を崇める行為」「祭司と
して」。礼拝とは献げるものであって、受けるもの、
もらうものではない。

自分をささげるのであって、自分がもらうのではない。
だいたい、礼拝で自分がもらおうとする。自分が恵ま
れよう。自分が祝福されよう。自分が得よう・・。

1週間この世でしんどい思いをして、礼拝に出るのは、
慰められたい、癒されたい、疲れを取って欲しい。
新しい力を得たい。だのに、もらうのでなく、尚も
ささげるのか。その通り。

神様を崇め、ひれ伏し、心を、自分自身をお献げする。
勿論、自分は満たされ、恵まれるが、それはあくまで
も結果であって、目的ではない。

「ひえ〜、びっくりしたあ。もらうために来てた」
「自分が恵まれようと来てた」
「来ないと自分がしんどくなるから来てた」

よく礼拝とは、メッセージを聞く事だと思っている。
だから、メッセージまでのプログラムは「前座」だと
思っている。賛美して待ってますから、メッセージに
間に合うように、ちゃんと来なさいよ、ぐらいに。

しかし、すべて一つ一つは心を込めてお献げして行く
もの。賛美を神にお献げし、祈りをお献げし、聖書交
読をお献げし、一つ一つをお献げして行く。

「賛美も自分が慰められるため、いやされるためで
なく、主に向かって賛美すると知りました」

「自分が恵まれよう、自分が祝福受けよう、どこまで
も自分、自分・・自分中心。それが献げることができる
など奇跡で、嬉しい」

「もらうのでなく、恵まれようと受けるのでなく、
献げる礼拝に、意識してあずかりたい」

2007年08月16日(木)
  「悪い者が来て・・」

「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者
が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行
きます」マタイ13:19

ボオッーと御言葉を聞いていると、サタンが来
て、種を取って行ってしまう。だから、芽が出
ることも、実がなることも無い。

右から左に抜けて行く。他の事を考えていたり、
他人事のように聞いている時、全く御言葉が全
く入っていない。

Aさん「あー、この間も、御言葉聞いている間中、
他のこと考えてて、8割方聞いてませんでした。
ぼおっーとしてて、ああ、何してたんじゃろ。御
言葉、サタンにもって行かれたー(^^;)」

Bさん「聖書読む時だってそうですよね。ぽわっ
ーと読んでると、何も入ってない。読んでるつも
りだから、勘違いするけど、何も入ってないです
ねえ。ほんとサタンが来て、全部持って行ってし
まう」

Cさん「祈ってる時も、もうサタンが必ず来て、
祈りを取って行く。祈る途端、他の思いが来て、
祈りが中断、思いがあちこちさまようし、祈りで
なく考えてしまう。」

Dさん「私、祈る以前に、祈りが取られてる。(笑)
このところ祈ってなくて、祈ってないと生活ガタ
ガタするんですよぉ。対人関係がギクシャクギク
シャクするし。

ほんと祈ってると、心が違います。心に余裕があ
って、相手のことも考えてる自分がいる。え?自分
でない自分だと。ほんとに神様が働いて下さるのが
わかる。祈りが取られてること、気づけて感謝です」

「そうそう!祈ってない時はどうもないのに、祈り
始めた途端、妨害が来て、すごい戦いになる。
思いが押し寄せ、思いがさまよう。
ほんとに、サタンは祈りが嫌なんだ。御言葉の
種が心に入る事も何とかして妨げたい」

サタンはすごい。祈りは、思いを入れまくって、
どんどん妨害するし、御言葉は入れさせないし、
ほんと「悪魔の策略に対して立ち向かうことが
できるために、神のすべての武具を着けなさい」
だ。ぼおーとしていたら、やられっぱなしだ。

「邪悪な日に際して対抗できるように、また、
いっさいを成し遂げて、堅く立つことができる
ように、神のすべての武具をとりなさい」


2007年08月14日(火)
  「思い通りでないが・・」

祈りはどんな小さな祈りでも聞かれている。
しかし、答えは祈りの通り、思い通りでない事
もしばしばだ。もっと良いものを与えて下さる。

Aさん「バイトを探してたんですよぉ。すると
すごい条件のいいのがあったんです。かなりの
高額で、まかないも付いてて、これぞ、祈りの
答えと、面接に行ったら落ちて、がっくり落胆
した。

で、もう一つの候補があって、それは時給は
すごく安くて、まかないも無しで、でも、祈って
面接に行ったら、そこに道が開かれて与えられ
たんですよぉ。

すると、早朝出てくれるからと、時給を書いて
あったのより、多く出してくれて、まかないは
無いのに、職場の先輩が何やらかんやらくれる
ので、結局、最初の好条件と同じになったんです。

で、最初のは日曜も出ないといけなかったようで、
後のは、日曜礼拝出れるので、自分が祈ったの
と違う場が与えられたけれど、ほんとに良かっ
たんです。神様感謝です」

祈りの答えは、自分の思っていたものと違うが
神様の答えの方が遙かに良い。
落胆する事は何も無い。目の前の事柄が、
神様パズルで、自分の思いとは違って、うまく
埋められ、形を成して行く。ほんとにパズルの
ようだ。

自分の人生を振り返る時、自分の思いと
プランは全く別にあり、別の方向を向いて
いたが、神様に人生と自分のプランを明け
渡した時に、伝道者の道に導かれた。

その明け渡しを、大きく祝福して下さって、心
を満たして下さっている。心の隅々まで満た
された充足感があり、神様が与えて下さる
ものが最高と心から言える。

神様の与えて下さった、自分にとって最高
の人生を歩んでいる確かな手応え、実感が
ある。

明け渡しの答え、報い、祝福をしみじみと
感じ、感謝。

2007年08月12日(日)
  「種が入らないと・・」

「聞いていることによく注意しなさい」

御言葉の聞き方、聞く態度が、種蒔きの「土地」だ。
御言葉は「種」だ。
御言葉を聞く時に、他の思いが入って来る。
サタンだ。他の思いをどんどん入れて、御言葉を取っ
て行く。奪い去る。
メッセージを聞く時にも、デボーションで御言葉を読
む時にも、祈る時にも、どんどん思いが幾らでも入っ
て来る。

サタンが他の思いを入れて妨害している。他の事を
考えている。
御言葉と思いと、同時進行で聞いていると、「勘違い」
するが、御言葉は全然入っていない。
種が入らないから、実が成りようがない。

又、他人事として御言葉を聞く。傍観者として聞く。
自分の事として聞いていない。映画館で映画を観て
いるように、御言葉を聞く。
目の前を、すう〜っと素通りして行ってしまう。

Aさん「私、それだ!なんかすごくわかる!いつも何か
他人事で、自分の事として全然聞いてないから、だから、
自分の中に御言葉がとどまらないんだと、よくわかる。」

Bさん「同じ。御言葉をほんとにぼおっ〜と聞いてる。
結局何を聞いたのかがわからない。残らない。サタンに
取られてるんですよねえ。自分では聞いてる“つもり”
だけど、全然御言葉が入ってないんですよねえ」

御言葉を聞く時、自分の思いも邪魔し、妨害する。
「そんなん無理」「到底無理」「できっこない」の自分
の思いが、同時進行で起きて来て、それがあると
御言葉が心に入るのをシャットアウトする。入れない。
自分は御言葉を聞いている「つもり」だが、シャット
アウトされて、入ってない。

Cさん「ずうっと御言葉聞いてるんだけど、神様の事が
全然わからなかった。“そんなんできっこない”と御言葉
聞く時に、いつも思ってて、それでだ!それが妨げて
たと、よくわかった」

まず御言葉が入らないよう、サタンは妨害、遮断する。
入ってしまうと、今度は、自我に働いて、御言葉に
従わないよう誘惑する。何とか出た芽を枯らしてしまう。

又、いばらをどんどん生えさせて、せっかく心に入って、
種から出た芽をふさいでしまう。
この世の付き合い、価値観、名誉、賞賛を求める
心、楽を求める心、金持ちになりたい、目に見える
もの、見えないものを所有したい誘惑、いろんなもの
が生えて来て、芽をおおってふさいでしまう。

優先順位が狂ってくると、神様のことが後ろへ後ろへ
追いやられてしまう。いつしか神様から離れてしまう。

「いばらに邪魔されるのがわかる。出て来たいばらを
どんどん抜いて行けるように」

御言葉を入れさせない、入ったら何とか枯らそうと、
常にサタンが妨害している事に、心していよう。

2007年08月09日(木)
  「御言葉を生きる」

神様に出会って、神様を求めて行く時、価値観が
変えられる。

今までの価値観は自分が中心だ。自分に損になる
か、得になるかを考え、損になるならしないし、
得になるならする。
自分にとっての損得、又、人がどう思うかで動く。
人によく見られたい、人の賞賛を受けたい、良い
人に見られたい。
結局、自分が栄光を受けたい。又、自分が満足し
たくて事をする。自己満足だ。
アダムからの原罪があるので、この自己中心から
出られない。

しかし、神様を信じると、新しい価値観が臨む。
自分の思いや、自分の好み、自分の願望、欲望を
遂げて行くのでなく、御言葉に従って行く。

何か問題が起きた時、御言葉はどう言っているの
か、御言葉はどうせよと言うのか、御言葉に聞い
て従って行こうとする。
自分の欲ではなく、神はどう言われるのかに、目
を向ける。

Aさんが「その通りです!今までの価値観、絶対
に自分は損をしたくない。自分の損得で動いて来た。
でも、自分が変えられているのがわかる。

立て替えで、家族皆の買い物頼まれて、買って帰っ
た。かなりの額だったんですよぉ。でも、何か、
御言葉に「与えなさい」とあって、与えようと思え
て、いいよ、いいよと言った。
以前の自分なら絶対に!有り得んです(笑)

すると、何か、家の中が潤ったんです。損得じゃ
ないものが流れて、「今度バイト代入ったら、おご
るね」と言われたり、
「与えなさい、そうすれば、与えられます」の通り、
何と自分の買わないといけない必需品が、与えられ
たんです!もうすごい高いものなんですよ。
神様すごい!

自分の損得でなく、御言葉に従って行く時、周囲に
潤いや温もりが生まれるし、ほんとに御言葉通りに
成って行くこと、体験します!」

自分の思い、自分の欲望でなく、御言葉を行なって
行く、御言葉を生きて行く者に、変えられている事
が感謝!!

2007年08月07日(火)
  「イエス・・について行った」

教会の学びで、

盲人バルテマイが主に目を開けてもらう箇所。

バルテマイの状況はどんなものだったろう。
当時は今のような福祉社会でなく、盲人である
ことは働けず、生活の基盤はなく、社会生活が
不可能。
物乞いで生きて行かねばならず、自分でどうにも
できない。人依存で、人に頼らなければ生きて行
けない。
それは何と惨めで、プライドが傷つくことだろう。

イエス様が来た事を聞いた時、叫んだ。
「私をあわれんでください」と。叫ぶので、大勢で
たしなめた。「大勢で」とあるので、少数では不可能
な、かなりの叫び声だった。

しかし、周囲がたしなめるが、止めるどころか、
「ますます・・叫び立てた」誰も止めることができ
なかった。人に止められて、引き下がる程度の
願望ではなく、心の底からのあらん限りの必死な
一途な願いであった。

彼は目は見えないが、耳は聞こえるので、周囲の
イエス様の噂をしょっ中、耳にしていた事だろう。
どんなに愛深いお方か、真実で力あるお方か、奇跡
をするお方、癒すことのできる方、

彼には信仰があり、イエス様にはそうできると信じて
求めた。
「すると、盲人は上着を脱ぎ捨て」
物乞いの生活をする上で、上着は大切なもので
あった。生きて行く上の無くてはならぬもの、必需品
であった。
しかし、彼はそれを捨てた。もう必要無い。イエス様
が目を開けて下さると信じきっていたからだ。

「あなたの信仰があなたを救ったのです」と、主は癒
して下さった。

すると、すぐさま彼は見えるようになった。
そして、「イエスの行かれる所について行った」

この「イエスの行かれる所について行った」が一番
重要なところだ。
彼はイエス様のことを、ずっと耳にし、聞いていた。
彼の心は、イエス様について行きたかったのだ。

彼の一番の願いは、救い主にすべてを献げて、ついて
行く人になりたかった。そのために目を開けて欲しかった。

Aさんが牧師に「今日の御言葉良かったです!すごく
わかりました!」

イスラエルはあんなにも偉大なる、壮大なる大奇跡を
見たのに、奇跡に次ぐ奇跡をもって荒野で養われたの
に、不信仰ゆえ荒野で滅んでしまった。
何のために、エジプトを出たのかわからない。

9人のらい病を癒してもらった人々は、「やったー!!」
と大喜びで、イエス様を忘れて、有頂天になり世に帰って
しまった。

幾ら奇跡を見ても、身に体験しても、人は忘れてしまう。
イエス様について行くことが、一番の恵みであり特権で
あり、最高の幸せだ。

「イエスの行かれる所について行った」マルコ10:52

2007年08月05日(日)
  「委ねる」ことの意味

学びの例えで使うのに、Aさんに以前の信仰体験
談をもう一度確認した。
「委ねる」ということの、視覚教材みたいな証し
だった。

Aさんは将来の進路のために、訓練として2年ほど、
社会人として、社会で働くよう神様が導いておられ
ると感じた。その事について一緒に祈った時に、

「あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ。主が成し
遂げてくださる」詩篇37:5 の御言葉が与えられた。

もう新年に入っていて、新卒者の就職などすべて
決まっていて、もう時遅しで、今から就職先など無い。


しかし、主は言われた。
「あなたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦
の糧を食べるのも、それはむなしい。
主はその愛する者には、眠っている間に、このように
備えてくださる」詩篇127:2

愛する者には、眠っている間に、備えて下さると。
状況を見回したところ、全く不可能だが、御言葉を
信じようと。

1、就職 2今のバイトを辞めること の難関があっ
た。夏休み明けまで働く条件で、今のバイト先に雇っ
てもらった。3月中で辞めるなど、とても言えない。

まず就職先。祈って、お父さんに進路の事情を話した。
すると、未信者のお父さんが、すぐ翌朝早くに、知り
合いを訪ね、何と就職先を取り決めて来てくれたのだ。
もう時も迫ってて、一刻を争うと、すぐに行動してく
れたお父さん。

まさに、Aさんがまだ朝寝している間の出来事だった。
ほんとに、眠っている間に与えられた?!(^^;)

4月から出勤なので、どうしてもバイト先に言わねば
ならぬ。今日言おうか、明日言おうか、申し訳ないの
と、恐れとでなかなか言えない、どうしても言えない。

いよいよ日は迫るし、もうある日の朝、決心して、今日
言おう!と祈った。

そして、バイト先へ行くと、その日、向こうから「申し
訳ないんだけど、店がつぶれるんよ。閉める事になって、
辞めてもらわないといけなくなったんよ。悪いね」

えー!!こんな事ってある??ないじゃろ!!言う前に、
向こうから。

もう一点あった。将来のために運転免許が必要で、自動
車学校へ入学するのに、電話すると、今日までが学割の
きく、格安値段と言われ、でも今日はどうしてもはずせ
ない用があり、行けない。

すると、向こうから、「じゃあ外回りのついでに、家に
寄って上げますから、印鑑を用意しておいて下さい」と
言われ、格安値段で行けることになった。

これ全部、自分は何一つしていない、何一つ動いていない、
「あなたの道を主に委ねよ・・主が成し遂げて下さる」
うわっ、「委ねる」ことの視覚教材だー。

聞いていたBさん、「ほんとによくわかる。まるで視覚
教材みたいですねえ」(笑)

2007年08月03日(金)
  「都合のよい言葉」

御心を知る事についてと、御言葉を聞くことに
ついて学ぶ時があった。

バラクがバラムに、イスラエルを呪って欲しいと
要請する。イスラエルがどんどん勢力を増し加え
て来る事に、恐れをなしたからだ。

しかし、バラムに、神の啓示があり、「一緒に行
ってはならない。イスラエルを呪ってはならない」
と告げられる。

しかるに、バラムは尚も御心を求めようと言う。
つまり、神の御心は、はっきりわかっているのに、
自分の思いがあり、自分の思いを遂げたいのだ。

Aさんと雑談をしていた時に、親戚にものすごい
偶像好きの人がいて、もうあちこちと巡り歩いて
いる。
それも、自分の言って欲しい事を、言ってもらう
ために拝み屋を巡り歩き、ものすごい執念で、ど
こまでもどこまでも自分の言って欲しい言葉に、
行き着くまで探しまくると。

Bさん「え?それって意味ないじゃん。別に拝み
屋に言ってもらわんでも、自分で決めりゃあええ
じゃん」(笑)

少し前に、Cさんからも全く同じ事を聞いた。知
り合いが占い師や、祈祷師を渡り歩いて、自分の
言って欲しい事を言ってくれる相手が現れるまで、
まさに日本中でも、渡り歩くと。

人間て、アダムからの罪で、結局は、自分が神な
んだ。自分の内にある古い性質、生まれつきの性
質はまさにそれで、クリスチャンになっても、自
分に都合の良い御言葉を探す。結局は自分の思い
を遂げたくて。

バラムが御心がはっきり示されているのに、尚も
御心を求めて行くのと同じだ。自分もバラムの道
になってしまう。

Dさん「自分の欲しい御言葉を探すのって、すご
くわかります。
肉は、神様に従うのでなく、自分の思い通りに歩
みたい。でも、大義名分が要る。だから自分で御
言葉を持って来て、御心を持って来て、肉に気づ
かないと、無意識だったりする。
でも、うっすら何かおかしいなと思ってる」

“人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分に
つごうの良いことを言ってもらうために、気まま
な願いをもって、次々に教師たちを自分たちの
ために寄せ集め”Uテモテ3:3


2007年08月01日(水)
  「神へのいけにえは、悔いた心」

Aさんと話す。
「人間て、というか自分なんですが、過去にもう
神様の大きなみわざと、奇跡や、数え切れない
恵みを見ているのに、目の前にちょっと苦しい事
が来ると、すぐに不平不満を言う。

過去に奇跡を見ているのに、目の前に来た問題
に、神様を信じようとしない。ほんとに不信仰で、
神様にもう申し訳ない。
人間て何なんでしょうね。どこまで行ってもほんと
どうしようもないですね。

昔、荒野のイスラエルを見て、この民は何だ!
出エジプトという大奇跡を見たすぐ後に、水が
無い、食べ物が無い、不平不満ばっかり!
助けの手を延べられ、みわざを見ては、すぐに
不平不満、何と愚かで、自己中心で、不信仰な
と思っていたんですが、イスラエルの民は自分だ
と気づかされました」

「奇跡に次ぐ奇跡を見ても、神様のみわざを見て
も、どれだけ奇跡を見ても、ほんと自我が強くて、
この頑固な自我が砕かれない限り、だめですよね」

「砕かれることが感謝ですよね。砕かれる事しか
ない」

「ほんとに砕きが恵みです。ずうっと人を見下して、
さばきまくっていて、それが全然気づかなかったで
す。ほんとにわからないんです。
自分が、あの荒野のイスラエルだという事もわから
なかった。
自分が正しいと思っているから、全然見えないんで
すよ。いろんな事を通して、砕いて下さって、すると、
自分がとんでもない間違いをしていると、気づくん
ですねえ。

砕きしかないです。あのまま行っていたら、どうな
っていたかわからない。恐ろしいです。赦されて、
赦されて感謝しか無いです。

“神へのいけには、砕かれたたましい。砕かれた、
悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれま
せん”詩篇51:17

この言葉がもう有難くて、有難くて、救われた思い
でした。感謝しか無かったです。

Bさん「私も、この間、友達とギクシャクして、やや
こしくなって、争いみたいになって。でも、相手が
悪いとしか見えないんです。どう見ても悪いのは相手。
自分が悪いなどと発想もないし、絶対に正しい。

そんな中、祈っていたら、自分のすごい傲慢さが
わかって。
悔い改めて、接したら、相手の良さがものすごく
見えて来たんです。自分が恥ずかしくて、恥ずかし
くて。相手は全く同じだから、自分が変えられたん
だなあと。

神様の前にへりくだる時、神様の愛をひしひし感じて、
ほんとに嬉しいです。心に喜びが溢れています」

砕かれることが感謝だと、でないと、自分の思い
の目でしか、御言葉も見えない。