2007年09月24日(月)
  「目を上げて」

この日曜にカンボジア派遣式をした。
このために皆が祈りを積んで下さって、愛と祈りで送り出せる
ようにと願っていた。

礼拝では、N宣教師のメッセージ、その後、派遣式。
終了後、食事歓送会をした。皆で思い出を語り、贈る言葉を
語った。
「N宣教師は子供の頃から自立していて、小学生の頃、黒い詰め襟
の制服にランドセルを背負っている姿は、小学生でなく、サラリ
ーマンがランドセルを背負っているようだった」(大笑)

「小学生の時に、青春切符で、時刻表片手に列車を乗り継いで、
長野まで一人旅をし、その自立さ加減にびっくりしました」(笑)

小学生の頃からの、カンボジアへの夢が叶って良かったね(^^)/と
皆が。別れは寂しいが、カンボジアへの働きがなされて行く事が
感謝。

皆の愛に包まれて、何とも温かいあったか〜い派遣式であった。
お祈りに本当に感謝。

N宣教師のメッセージが「わたしの示す地に行きなさい」
私たちもそれぞれの場所で、主の示されること、みこころを
行うことが大切。

「祝福」と聞くと、クリスチャンでも、良いことが祝福と思う。
家内安全、交通安全、無病息災・・人生に悩みがなく、問題がな
くすべてが順調、順風満帆が祝福だと思う。
病気をせず、健康で、歩みも順調、そうすると、神に祝福され
ている。
逆に、問題だらけ、悩みだらけ、病気続きで、倒産、経済的
困窮や悪いことが起こると、祝福されていないと思う。

この世の価値観だ。クリスチャンでも、この世の価値観、肉
の価値観が根深く巣くっている。

カンボジアの地方へ行った時、教会の青年を訪問した。そこは
薬も医療もなく、野戦病院状態で、何の手当もなされていない。
高熱に苦しんでいる。日本なら、治療によって治る。
地方の人々は病気になれば諦める。寿命がここまでだったと。
祈ることしかできず、地元の宣教師と一緒に祈った。
その苦しんでいる青年の顔が平安そうになった。彼はもう今、
恐らく天に召されているだろう。

日本なら完全に治る。では先進国は祝福されていて、発展途上
国は祝福されていないのか。
「祝福」とはそうではない。祝福とは、病気、健康に関係なく
神が共におられること。いつも共におられ、永遠に共にいて下
さる。

状況ではなく、「さあ、目を上げて」、状況から目を上げて
神を見上げること。視点の問題だ。神を通して状況を見ること。
「祝福」の価値観を、神の価値観に変えること。

「目を上げる」こと。その時、状況に関わらず、必ず心に平安
が来る。状況が変わらず、同じであっても、心には平安が臨む。
この神が共におられることが、祝福だ。




2007年09月23日(日)
  「良いもの」

カンボジア派遣式に際して、皆で色紙を書いた。
2枚あって、真ん中に宣教師夫妻の似顔絵と、もう
1枚は、子供達の似顔絵を末娘Aが描いてくれた。

夫妻の似顔絵の色紙はいっぱいに埋まって、子供の
似顔絵の色紙の方に皆で書いていた時、
たぶん、そこに色紙とペンが揃って置いてあった
ので、孫が知らぬ間に、その色紙に線状の落書きを
した。

色紙を仕上げようと、見て、え!!(汗)
孫がつまり自分と弟の丁度顔の部分に線をぐるぐる。
とっさに、顔は、ちとまずいだろう。

娘Aに、「もう一度、ちょちょっと同じものを描いて
くれる」と言うと、「う〜ん、同じものは二度と描け
ないんよ。すぐには描けない。」そりゃそうだ。心が
こもってるものねえ。浅はかな発言であった。

これは違う。そういう事ではないのだと。それで祈る
と、やはり「わたしだ」と言われ、そこに神を見よと。

落書きで、ぐちゃぐちゃになったのではなく、「わたし
だ」これがメッセージだと。

孫のサインということで。自分の似顔絵と弟の似顔絵に
サインを入れてくれた(^^)

カンボジアでこれから様々な事が起こる。デング熱や
原虫赤痢、マラリヤ、腸チフスには必ずかかるだろう
し。何があるかわからない。

でも、その時に、落書きとしてではなく、サインとして
見て行けるように。そこに神を見て、祝福を受け取って
行けるように。

「あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さ
は、わしのように、新しくなる」詩篇103:5

何が来ようと、主は良いものしか与えられない。すべて
が良いものなのだ。感謝。

2007年09月21日(金)
  「わたしだ」

一家でカンボジアへ発つ最後だからと、孫Aをハーモニー
ランドに連れて行くことに。
ハーモニーランドとはキティちゃんワールド。Aは
ディズニーが大好きなんだけど、ちょっと遠くて無理
なので、ディズニーランドならぬハーモニーランドと
あいなった。

大分で長男一家と合流予定。
当日朝になてって、前週旅行で出ていた末娘との手違い
で、夜出発と勘違いしていたらしい。
色々な都合で朝出発。夜だと思っていたので、予定を
入れていて無理。仕方なく出発。

楽しい家族の交わりだったのに、色々な思いが来るが、
「すべてのことについて感謝」の通り、感謝した。
状況が見えるところ、残念でガッカリだけれども感謝
した。必ず良くして下さる。もし行けなくても良くし
て下さると信じ、感謝を献げ続けた。

すると、まず心が守られる。思い通りでなく残念な
事態だが、神様を見上げて、心が平安に守られる。
様々な感謝で溢れる。
そして、結果的に末娘は新幹線で来れて、夕食前に
合流、ほんとに感謝!!だった(^^)/

そして、夜寝る前、天気予報は晴れのニコニコマーク。
明日は晴れで良かったと、皆で床についた。

翌朝、何となく曇り空。そうこうしてるとザーと雨
が降って来た。天気予報はどうなったんだ。
遊園地のような乗り物もあり、晴れだといいのだが。

しかし、今日まで祈って来た。皆も最後の団らんの
ために祈ってくれている。祈った結果がこうなのだ
から、これは神様のみこころと感謝した。

もし、雨であったとしても、祝福して下さる。雨で
しか無い祝福がある。晴れでも雨でも、みこころの
ままで良いと思えた。心は平安に守られていた。

すると、どんどん晴れ間が見えて、何と晴天に。
目一杯遊べて、最後の団らん、楽しい楽しい最高に
幸せな時とされた(^^)/心満たされて。

「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」
マタイ14:27

人生、日常、向こうから来る不都合は、すべてイエス様
だと思えた。幽霊のように見えて、不都合なマイナス
の事に見えるが、実はイエス様なんだと。

見えるところどうであれ、その事態は「わたしだ」と
言われるイエス様、信仰の目で見ることを教えられる。

すべてのことについて感謝して歩めますように。

2007年09月19日(水)
  「エホバ・エレ」

カンボジア宣教の証しを聞く。
すべてが備えられている事に、神のみわざを見る。

まず住まいを探し、家財道具を整えなければなら
ないところ、丁度入れ替わりに帰国されるA宣教
師から、住まいや家財道具一式をそのまま安く
譲り受けることができた。

見知らぬ地で、家探しから大変だ。それがそのまま
備えられていた。生活の必需品が数々入り用だが、
冷蔵庫、洗濯機、テレビ、車、クーラー、食器棚
・・様々を譲り受けた。
宣教開始時に、神のご愛、慈しみ、ご真実を見せら
れ励まされた。

クリスチャン経営の語学学校も紹介して頂いた。
住まいのすぐ近くに、教会も備えられていた。
その宣教師さんはベテランの先生で、カンボジア
での生活や宣教のノウハウを色々教えて頂ける。

日本でカンボジア語の個人的学びをしてもらった、
カンボジア人留学生が、先に母国に引き揚げていて、
首都で再会、良き交わりを持てている。
必要な情報や、助けも与えられ感謝。

カンボジアは医療面で難しく、深刻な病気は即、
隣国タイへ飛行機を飛ばさなければならない。
1回が大変な高額。海外保険が必需品で、祈りの
課題であった。

すると、日本で英会話を習っていた折り、隣にいた
方が保険代理店の社長さん。その方が大変好意的
で、非常に尽力下さって、ふさわしい良い海外保険
が与えられた。

たまたま隣におられた方であり、カンボジア宣教へ
と何も見えない中を、御心に従って、一歩を踏み出
した時に、すべての必要が備えられていた事を見い
出す。

出だしに、主のすべての備えを、素晴らしく見せて
下さった神は、これからも、色々な事が起きるであ
ろうけれど、必ずすべての必要を備えていて下さる
と、信じることができるので感謝!!

「主の山の上には備えがある」創世記22:14

2007年09月16日(日)
  「あなたの手を握り」

若いAさんが教会へ来始めてから、丁度1年が経過。
端で見ていて、心が神様を求めているんだなあ。

御言葉に自分の心を照らし出されながら、御言葉に
従って行く。
神様に従うので、どんどん変えられて行く。
今、置かれている環境の中で、あっちからもこっち
からも痛い事が臨むが、どんなに痛くても、神の言
われることに従う。

自分の非を示されると、謝罪する。すると、御霊が
働かれて、実が見える。
へりくだると、そこに主が働かれ、相手との関係が
正される。
祈りが答えられる。

Aさんを見ていて、「従うこと」の大切さを教えら
れる。身をもって従う時、実を結んで行く。

イエス様を信じたので、公けに信仰告白をしようと
決心した途端、サタンが妨害に来た。

なぜか、したくなくなってしまった。あれほどした
かった気持ちがどうしてか、失せてしまった。
サタンに対抗するには、感情は無視して意志で従う
ことが必要であり、意志で従うことを選び取る。

聖日当日まで、妨害が来て、家でぐずぐず、しかし、
御霊の導きも力強く、礼拝に来ることができた。
招きに一歩を踏み出しても、まだ妨害して来る。
「まだ間に合う、止めろ」と。

しかし、主の助けにより、信仰告白が無事出来た!

そして、続けて祈っていると、イエス様を信じる
以前の虚しい生活に絶対に戻りたくない。
光に導き出されて、闇には帰りたくない。
神様に触れて、愛がわかる。愛されていることが
わかる。喜びがある。その愛は何にも代えられない。

若い生涯、神様に導かれて、神様のみこころの道
を歩みたい。自分の思いで、自分中心に歩む歩み
はただただ虚しい。

生涯を神様に献げたいと、続けて献身の決心ができ
た!何と感謝!神様主導の力強い導きに感謝!!
若い生涯が、神様の器として、神の栄光のために
豊かに祝福されて用いられますように!!

私も若い時、献身なんて絶対に不可能だと思ったが、
献身が与えられた。ほんとに自分では絶対に出来ない、
自分がしたのではなく、させられた、与えられたと
いう感じ、自分では絶対にしなかった。
何でできたのか、わからない。

「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなた
の手を握り、あなたを見守り・・」イザヤ42:6

神様が握っていて下さったから、としか思えない。
自分では絶対にできなかったから。
これからも握っていて下さることが、すべてだ。
これだけだ。

2007年09月13日(木)
  「心配無用」

Aさん「ふっと神様から目をそらした途端、どっと、
サタンの思い煩いに飲み込まれそうな、重ね重ねの
状況です。神様は「恐れないで、信じていなさい」と
言われる。

いつも御言葉を見ては、心に刻んで、神様を信じて、
御言葉に立とうと。
ふっと、神様から目が離れ、ぼおーとしていると、
サタンが来て、ものすごい悲観的な、ネガティブな
結末を見せるんですよ。
シナリオが出来上がっていて、そうなると、思わせ、それを
土台に行動させようとする。すごいサタンの攻撃と誘惑
が来る。

「そんなにサタンが襲って来るのは、祝福が待ってる
証拠だ。それを得させたくないから。」

Bさん「あ!そうなんですよね!私も、なぜか知らないが
心が沈んだり、落ち込んだりして、祈る気分になれない
んですよお。あ、サタンなんだ。今、わかった!

この前の、すごい祝福の前も、こんなだったんですよ。
全く同じ感じ。心に何の感じもなくなって、喜びも平安も
感じないし、何か気持ちがしなえて。サタンなんだ!
言いなりになってたらダメですよね」

Aさん「先日、目の前の状況に落ち込む事があった
んですが、ほんとに、神様が働いて下さって、その
状況ゆえに、返って、プラス方向に行った事態が
あったんです。

何も落ち込む事なかったし、何の心配もなかったんだと。
返って良いことになって。ほんとに神様良くして下さい
ました。神様はどのようになっても、良くして下さいます
よね。
神様がいて下さるんだから、信じて行きます」

御高齢の独り身のCさんは、明日のことを全く思い煩
われない。皆がもう驚いて、恵まれる。

お身体も不調だったり、経済的にも大変で、先の
事をちょっと考えただけでも、もう気に病んで、病気
になっても不思議はないほどだ。

しかし、全く心配されず、いつも口から出る言葉は
感謝!感謝!とにかく今日は飢えていない、糧が
与えられていて、身体も守られ働ける。
今日、何の心配も無いのだから、感謝と。
明日は明日に委ねて、その又、明日は又、明日に
委ねて、一生涯、神様に委ねておられる。

いつも周囲がものすごく恵まれて、教えられ励まさ
れている。
神が、衣食住は何の心配もするなと言われた。今日
生かされていることを感謝しよう。

「だから、あすのための心配は無用です。
あすのことはあすが心配します」マタイ6:34

「きょうあっても、あすは炉に投げこまれる野の草
さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、
まして、あなたがたに、よくしてくださらないわけ
がありましょうか。信仰の薄い人たち」
マタイ6:30

2007年09月11日(火)
  「受け止める」

Aさんが「子供がとにかく帰宅するや、ドバッーと
玄関からして喋りまくる。すごい勢いで喋るは、喋
るは。もうずうっ〜と喋ってる。
それが学校の愚痴と不平不満ばかりで、いい加減うん
ざりする。

言葉は力がある。ネガティブな言葉は、否定的な方向へ
心を引き込んで行く。聞く方もしんどくなる。心が重〜
く沈んで行く。それでなくても、こっちももう疲れてて、
いい加減しんどいのに、もう鬱陶しくなる。聞きたく
ない。

『学校が問題じゃ』としきり子供が言うが、心の中で
『あんたが問題なんじゃ!』と、ぶつぶつ言っている自分。
もう聞くのもいい加減嫌で、全然受け止められない。

教会へ来て、学びをしていて、『大変じゃね』と受け止め
てやれない自分の自我に気づいた。自我なんですよね。

私が受け止めないから、ますます子供がエスカレートして
自己主張して来ることにも気づかされた。
今日は帰ったら受け止めてやります。気づかされて感謝
です」

Bさん「Aさんの証しで、すごく気づかされた。
自分も同じだ。仕事先で、対人関係にひびが入って、
しんどい状態が続いてた。

相手が気分を害していて、なぜかと考えていたら、相手
の言うことを、ちゃんと聞いていなかったことに気づか
された。

目上の人に対して、いい加減な対応をしていて、ほんと
に失礼で、自分が悪かった。自分の非だ。
悲しくて、この事について、祈っていたら、ほんとに
神様が祈りに答えてくれて、状況が好転したんです。

感謝で、感謝で、嬉しくて。失敗も、神様が働いて、
いいようにして下さるんだなあと。失敗通して、神様を
知れて嬉しかったです」

相手を受け止める時、強固なる自我があることを知らさ
れる。自分に死ぬことを学ばされる。

2007年09月09日(日)
  「愛している」

9・11から6年目だ。
「ユナイティッド93」の映画を見た。
ほとんどドキュメンタリーみたいな映画だ。

2機がWTCに、1機はペンタゴンに突っ込んだ。
4機目のUA−93便は、テロリストの目的を達し
ないまま、ペンシルバニア州シャンクスヴィルに墜
落した。

サンフランシスコに向けて、いつものように離陸
した93便に、4人のテロリストが搭乗していた。
トイレで爆弾を装着し、パイロットを殺害し、コク
ピットを乗っ取る。飛行機がハイジャックされた。

混乱の中で、乗客たちは携帯で家族と話す中で、
3機の自爆テロを知った。それらがターゲットに命中
したことを。
自分たちの乗っている飛行機も、自爆テロが目的だと
悟る。家族に電話で別れを告げる人、祈る人・・。

こちらの方が人数は多い、何とかテロを阻止しようと、
乗客たちが立ち上がる。武器になるものを集め、体格
の良い男性たちが先頭に立ち、乗客皆でコクピットへ
なだれ込もうと。

以前に「レッツロール」の本を読んだ。
「このまま多くの犠牲者を出していいのか」乗客乗員
らは立ち上がり、阻止すべくテロリストたちに猛然と
立ち向かった。
それは乗客の一人、トッド・ビーマーのかけ声が合図
だった。「レッツ・ロール」(さあ行こう)との。

コクピットになだれ込み、操縦桿を取り戻す。しかし、
「高度を上げろ」「だめだ、上がらない」「上げろ」
「だめだ、上がらない」
どんどん降下し、目の前に迫り来るペンシルバニアの
大地。突然、映像が消えて、画面は真っ暗になる。

ペンシルベニアに墜落し、テロリストの目的を阻止した。
乗客乗員は全員亡くなった。
ホワイトハウスへの激突をとどめ、更なる大きな犠牲
をとどめた。

身代わりの死、十字架を思い、感動した。

もう生存不可能で、自らの死を悟った一人一人が家族へ
電話をする。極限状態の、その最後の言葉が、みなが
みな「愛している」だった。

「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。この中で
一番すぐれているのは愛です」Tコリント13:13

2007年09月07日(金)
  「もものつがい」

Aさんが「私、イエス様のことを信じる前は、
プライド命だったんですよぉ。もうプライド
のためだったら何だってする。
プライドのために勉強してたし、それもすごい
力があって出来るんですよね。
プライドのために毎夜遅くまで勉強できるし、
いい点取るために、がむしゃらに出来る。
すごい力ですよ。全部、プライドのためにやってた。

友達との関係も、すべてプライド。絶対に負け
たくなくて、もう人生勝ち負けですよ。まさに
勝ち組、負け組(笑)
だから悪いと思っても、絶対に謝れない。謝っ
たら負けになると思ってしまって。
謝るのは、自分が下になることじゃないですか。

「そりゃ、へりくだることだもんね」
「その、へりくだりなんて全く無い!」(笑)

「もう見下すことと、優越感感じることが
生きる喜び(笑)でもね、上には上がいるから、
今度、自分より上の人を見ると、嫌なんですよ。
劣等感で落ち込む。これすごい自我ですよねえ」

「神様に出会って、そんな自我に気づけて本当
に良かった。神様知らなかったら、どうなって
たかわかりません

絶対に謝らなかった自分が、不思議だけど謝れ
るんですよぉ。あっちでも、こっちでももう謝
罪ばかり。でも、自分の心は平安で嬉しくて。

すごい幸せで。神様おられるの、ほんとわかり
ます。気持ちが楽で、喜びがあるんです。プラ
イドの人生って、すごい虚しい。そんな生き方
したくないと」

Bさん「謝ること通して、砕かれて行ったんだね。
人によって違うけれど、ほんと一番強いところ
が砕かれるよね。
ヤコブがもものつがいを打たれた、自分にとっ
てのペヌエルだよね。
その人がヤコブに勝てないほど、強かった。
ほんとに自分の自我ある所って、強い。
もう命そのものだよね」

「痛いけど、しんどいけれど、そこの所が砕か
れることがわかるよね。その砕かれることが嫌
だけど、感謝だと思える」

“ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを
見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったの
で、その人と格闘しているうちに、ヤコブの
もものつがいがはずれた」創世32:25

もものつがいがはずれた。ヤコブは砕かれた。
あれほどエサウとの再会を恐れていたヤコブが
砕かれて、全く変えられて、自らが先頭に立って、
エサウに会いに向かった。

2007年09月05日(水)
  「信じていたい」

なかなか神様を信じていることができない、
との話になった。

Aさん「目の前に心配事が起こると、右往
左往して、神様が吹っ飛ぶ。自分が何とかし
なくちゃと、自分が、自分がと、全部自分が
背負い、疲れ果てて、撃沈する(笑)

なぜか必ず神様ぶっ飛ぶ。それまでは、ルン
ルンで神様感謝、感謝の毎日だったのに、突如
の不安事態が勃発した途端、どうにかしなくちゃ
と、自分が立って、でも事態は全くどうにもならず、

どんどん落ち込んで、神様のかの字も無くなって、
思い煩いにどんどん落ち込んで、自分でシナリオを
作ってる。それも最悪の、冷静に考えたら絶対起
こりそうにないシナリオ。でも、自分的には迫真の
真実味を帯びてて」(笑)

「うん、わかる、わかる。目に見えないことは、
どうしても信じれないんだ。目に見えることしか
信じれないんよね。目に見えることって、絶大な
影響力があって、凄い勢力があるから、目に見え
ないものは飛んでしまう」

「事態が好転すると、神様感謝で、また、悪い方
に傾くと、もう不安で、不安で、いても立って
もいられなくなる。

結局自分の不信仰で、信じていないんだなあと。
目に見えることは信仰要らない。見えないことを
信じるから信仰であって。
でも、見えないことって、なかなか信じられん
のんよね。御言葉をずうっと見続けていたら、
何か守られる気がする」

Aさん「ずうっと同じことを繰り返してる(笑)
今まですべての事、導かれて、一番ふさわしい
ものを与えられて、神様に申し訳なくて、信じて
おれば良かったと、それが毎回、毎回。

又、同じ事をしている(笑)信じていれば良か
ったと、言っている自分を見つめて、すでに得
たりと感謝して行ったらいいんだ。」

「ずうっとおんなじ事、御言葉から学んで、何度
も何度も学んでいるのに、何でなんでしょうねえ。」

「でも、ペテロも波を見た途端、即、沈んだ。」

「毎回、絶対に良くして下さって、最善をして下
さる。もう信じていたい。御言葉書いて、ずっと
持っとくことにします。しょっ中、御言葉見て」

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの
義の右の手で、あなたを守る」イザヤ41:10

「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、
落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」
イザヤ30:15

「恐れないで、ただ信じていなさい」
マルコ5:36

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」
詩篇46:10

2007年09月03日(月)
  「物差し」

Aさん「教会へ来始めてから、少し経て、段々聖書の御
言葉を知り始めると、自分は真理を知っていると高ぶり、
知らない人々を見下している自分に気づくんですよお」

Bさん「そうそう。すごい真理を知ってるから、御言葉は
正しいから、以前見えなかった様々なことが見えて来る。
それを持って、人をさばくんよね。真理は両刃の剣で、人
に向けると恐ろしい。とんでもない事になる。

Cさん「恐ろしい霊的高慢に陥る。それなら知らなかった
ら、さばかないわけですもんねえ。」

Aさん「そうなんですよ。真理、正しいことを知ってるから、
その物差しを人に向けて、あれも出来ないじゃん、これも
出来てないじゃんと。自分は棚上げで、出来てないんですよ。
だのに、人をさばきまくる。わけわかららん(笑)」

高慢の手が、御言葉を持つと恐いですよねえ。それで、バッ
サバッサ、人を突き刺し、斬りまくる。見下すは、蔑むわ。
愛なんぞ、どこの世界の話か。愛なんて全くない。
ほんとに一つ間違うと、正反対の方向へ行ってしまう。

それなら、人を見下し、さばき、自分を誇り、自分が優越感
に浸るための御言葉じゃ。
それが、パリサイ人で、自分がまさにそれですよねえ。」

「気づいてるからすごい。パリサイ人は気づいてなかった。
自分は正しいと信じきってた。行動は正しいんだけど、その
源は自分の力、肉だし、動機が自分を誇るためだし」

「神よ。私はほかの人のように○○ではないことを感謝します」
あんな罪人ではないことを感謝します。

「神様から罪を示されたら、人の罪なんぞ見えなくなる。
人どこじゃない、人の罪なんぞどこでない。自分の罪が
ただただ測り知れず大きくて、悔いくずおれる。
あの取税人のように、神様と自分だけしかなくなる。」

「人の罪が見えるのは、自分の罪が見えて無くて、自分が
見えてないんだよね」

一番恐ろしい霊的高慢から守られるように。

2007年09月01日(土)
  「成長の秘訣」

御言葉の学びの中で、「成長するにはどうすれば
よいか」というものがあった。

一つは「信仰は聞くことから始まり、聞くことは
キリストについてのみことばによるのです」ローマ
10:17

つまり信仰は、御言葉から来るので、信仰の成長の
ためには、どうしても御言葉が必要だ。必要不可欠
で無くてはならないものだ。

しかし、御言葉を聞けばよいというものではなく、
どう聞くか、聞き方が問題だ。物理的に聞いていて
も、心に入らないなら、成長はあり得ない。

種蒔きの例えの通りで、固い土地なら、聞いている
「つもり」で右から左で、心に入ってはいない。
心に入らないなら、結実はあり得ない。種と土地、
御言葉と心が一つになって初めて、実を結ぶ。

よく耕された、素直な、従いますという心で聞く
事が大切だ。他人事に聞いていては、全く心に
入っていない。聞いている「つもり」が又、くせ
ものだ。御言葉が植わらないから、信仰が起こり
ようがない。

素直な、従いますとの心で御言葉を聞く時、御言
葉が心に植わる。心に植わった御言葉から信仰が
起こされて来る。

二つ目は「御霊と御力の現れ」。
「私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵
のことばによって行われたものではなく、御霊と
御力の現われでした」

「それは、あなたがたの持つ信仰が・・神の力に
ささえられるためでした」Tコリント2:4

パウロは神にどんな中でも従って行き、身を持っ
て、現に神が生きて働いておられる事を証しして
行った。パウロの神を信じて生きる生きざまその
ものが証しであった。

単なる言葉ではない、そこに御霊の力が働いた。
私たちも、御言葉に従って行く時に、その言葉
から御霊の力が臨む。人々はその御霊と御力を
見る。パウロが身をもって御言葉を生きた事に
よって、神の力が現れた。

私達が信仰に成長して行くには、御言葉を心の
耳で、従いますとの姿勢で聞き、語られた御言葉
に従うこと、行なう事。
これをして行くなら、御霊の力が臨み、周囲も神
を見る。

Aさんが、どんどん恵まれて行く。Aさんに
御霊の現れ、御霊の御力を感じる。砕かれて
行く。
それは何やかや言いつつも、Aさんは必ず神の
語られた御言葉に従って行く。どんなに嫌でも
最終的に従う。

それゆえ、恵みに恵まれて行く。御言葉を聞く事
そして、従うことが、まさに成長の秘訣だ。