2007年10月30日(火)
  「時がある」

「天の下では、何事にも定まった時期があり、
すべての営みには時がある」伝道3:1

厳粛な「神の時」が、あることをしみじみと
教えられる。

Aさんが、子供の進路がなかなか決まらない。
Aさんに、大丈夫なんだろうか。不安がどっと
押し寄せる。
重い煩いに襲われる。ほんとに進路が定まるん
だろうか。
一生、ひきこもりってしまうんじゃないか。
わけのわからない恐れに飲み込まれそうになる。

最悪のシナリオを自分で作って、結末まで作って、
自分でどつぼに陥る。

「そうそう。何か最後まで出来上がってるんよね。
シナリオが(笑)、それも最悪で(笑)絶対にそう
ならんのに、出来上がっとるんよね」

神様は「ただ信じていなさい」と言われる。
神の時に、みこころが成就することも頭ではわかる。
教理的にはしっかりわかる。

現状を見ては不安に落ち込み、神様を見ては、
そうじゃない、信じようと思え、平安になる。又、
現状を見ると、恐れと不安・・その狭間を行ったり
来たり(笑)
その間、神の時がある、時がある。神の時が満ちた
なら成就すると、その事がいつも脳裏をかすめる。

やっぱりその通りに、神は真実であられ、神の時に
進路が定まった!神の時があるのだ。
今、喜びもって歩めている。

神の時がある。待つこと、ひたすら待ち望むことを
教えられる。

三原開拓宣教、5年間、じっと忍耐の時だった。
ちょこちょこっと人が来るが、続かず、何も動きの
ない、ひたすら待ち望む期間だった。

その間、ずっと祈りに祈る中で、神の時がある、
それが神様からの答えだった。

全く何も動かない中で、ひたすら時を待つ中で
信仰が試され、訓練され、教えられる。

そのような忍耐に次ぐ忍耐の時を経て、今、
Bさんが忠実に集って下さっている。
様々なコンタクトが与えられ、親しく交われる
地元の人々が与えられている。
神の時が来れば、本当に門が開かれ、道が
見えて来る。

Aさん「神の時なんですね。神の時があるんです
ねえ。身を持って教えられますね」

神の時でないなら、どんなに焦っても、何一つ動か
ない。全く動かない。
しかし、神の時が来るなら、ひとりでに門が開き、
神が動かれる。神が働かれ、神がされるので、
神の栄光が現れる。

ただ待ち続けよう。神の厳粛な時がある。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」
伝道3:11

2007年10月27日(土)
  「自分が問題」

Aさん「私、神様信じる以前の癖で、つい友達に同調
して悪口を言ってしまう。
どうやっても、乗って、言ってしまうので、ずっと祈
ってたんです。悪口言わないようにって。
すると、ほんとに祈りに答えられて、悪口が止まった
んです。

その時、友達に乗ってじゃなくて、自分が首謀者で
で、どんどん言ってるって気づいたんです(>_<)」

Bさん「でも、Aさんすごいよ!何かどんどん変え
られて行ってる!」

Aさん「変えられたんですよ。以前は何か不都合があ
ると、すぐに環境の方を変えていた。
バイトはすぐに辞めてたんです。数ヶ月で辞めて、幾
つ替わったかわかりませんよ。次々と転々とする。

でも、神様に出会って以来、それが無いんですよ。
ずっと一つところで辞めないで、何があっても、今、
とどまれてる。奇跡ですよ。」

Cさん「環境を変えないで、自分を変えて行ってるか
らすごい。神様ですよね」

「以前は都合が悪くなると、即、辞めていたのが、さっ
と環境変えていたのが、今は、自分の方を砕いて、
間違っていれば、ちゃんと謝罪して、修復するんだ
ものね。
対人関係の、嫌な思いにも、しんどい思いにも逃げ
ないで、向き合ってる。
そのしんどさに、逃げずに、ちゃんと向き合ってるの
がすごい。」

「環境を次々と変えても、自分は同じ。全然変わら
ない。だから、どこへ行っても、環境が変わったと
しても、同じ事を繰り返すよね。だから、転々とし
てたんだよね。

神様すごい!逃げないで、ずっとそこにいると、
神様が訓練して下さって、自分を造り変えて下さって
対人関係においても、自分には対処無理だと思っていた
のが、神様に従って行くと、考えられないような心の
通い合いが生まれている。

結局相手じゃなくて、自分が変わるからだよね。
相手でも、環境でもなく、自分の問題なんだよね。

いつも教えられるけれど、環境の問題ではない。
自分が問題だ。

そこに気づけたら、自分には出来ないけれど、
まず祈って行けるものね」




2007年10月25日(木)
  「災いではなく、平安と将来と希望」

クリスチャンにとって、災いはなく、悪い事もなく、
すべてが益となり、祝福であることを話していると、

Aさんが「振り返る時、本当にその通りです!!
時を経て、振り返って見て初めてわかるんですね。

子供の事で、一番しんどいどん底の時があった。
子供が自分のしたい事がわからず、どこへ進んで
良いのかもわからず、子供自身が苦しい、悶々の
日々だった。

自分が押しつけをしてしまい、過保護にしてしまい、
子供が親の言いなりで、自分の気持ちがわからない
子に育ててしまったと、悔いて悔いて、落ち込んだ。

子供の事が一番痛く、心配で心配で、これから将来
どうなるのだろうと、一寸先も見えない不安と恐れ、
思い煩いのどん底の日々だった。

神様に委ねようとするが、委ねられない。委ねたいの
だが、委ねる事ができない。自分が子供を握ってしま
っていて、放せない。自分で必死に何とかしようとして
いる。でも、どうにもできない。

悶々の苦しい日々が続き、とうとうどん底で子供を
手放したのだと思う。神様に委ねざるを得なくなっ
て委ねたのだと思う。

自分がこうしてしまったのだから、とにかく子供に
もう押しつけはすまい、どうなったとしても見守ろ
うと思えた。見守ってやることができた。

そう出来たのも、自分が委ねる事ができたからだと
思う。すると、子供は自分で賜物を見つけた。

その時も、今までと全くの方向違いに戸惑ったが、
とにかく子供の気持ちを尊重してやろうと思えた。
その道を応援した。

すると、子供は生き生きとして、喜んで楽しそうに
歩み始めた。幸せそうだった。

振り返る時、一番どん底の苦しみの中で、自分自身
は神様を知った。あの苦しみが無ければ、今も神様が
わからないままだと思う。
神様が近くなった。苦しみのお陰だ。
そして、子供は賜物の人生を見い出した。

こんなに素晴らしい、何ものにも替えられない大き
な祝福を得た。本当に苦しみは仮面をかぶった祝福
だとわかる。

これからも不都合な事、悪い事、マイナスな事が来る
だろうが、素晴らしい祝福だと思える。
神様にあって、いつも希望があり、期待がある。
本当に感謝しかない。

「わたしはあなたがたのために立てている計画を
よく知っているからだ。
それはわざわいではなくて、平安を与える計画で
あり、あなたがたに将来と希望を与えるための
ものだ」エレミヤ29:11

2007年10月23日(火)
  「祈りって答えられてる」

数ヶ月前に、神様にしっかり出会って、信仰与えられた
Aさん。

「神様って、小さな、小さな祈りに答えて下さるんで
すね!」顔を輝かせて言われた。

「こんな者の祈りに、それが一つ一つ小さな祈りまでも
答えられるんですよ!!もうびっくりで、嬉しくて、嬉
しくて!!本当に神様に出会えて感謝です。こんな感謝
はありません」

「その答えが私が願った通りじゃないんですよ。でも、
答えられてるんです。願った通りに答えられなくて良か
ったなあと。

又、願った事が、止められる事もあって、それが答えな
んだとそれも感謝なんです。
いろんな痛い事とか、悩み事とか、しんどい事とか、
もう様々起きるんですけどね、ああ、自分の成長のため
なんだなと思えるんです。

いろんなしんどい事、起こる度に、自分自身がもっとも
っと成長させられたいなと思います」

「えっ!!すごい!!!そんなふうに思えるなんて。A
さんすごいなあ!!」

Bさん「ほんと、そうですよ。だいたい祈りが聞かれ
ない、幾ら祈っても何も変わらないと、神様を責めて、
文句タラタラになりますよ。すごい!」

祈りはすべて聞かれていて、止められるのは答えで、
「ノー」は答えだし、思いと違うように、祈ったのとは
違うように、答えられている事が一杯ある。

でも、それが答えだと受け取れずに、祈りが聞かれて
ないと思ってしまう。
自分の思いと神様の思いが異なる事は、かなり多い。
自分はこれが絶対だと思い、祈るが、神様のお心とは
異なる。

「ノー」の答えもよく見ていないと、わからない。
神様から、何の応答も反応も無いと思ってしまう。

違う形で答えられていて、自分の求めと、形が違うから
答えられているとわからない。

よく経験するのが、状況を変えて欲しいと願うが、状況
でなく心を変えて、「主の平安」を与えて下さること。
状況の変化ばかりにしか、心が向かないが、そうでなく、
祈りに答えて心を変えていて下さる。
主の平安さえあれば、どんな状況でも生きて行ける。

有名な詩の通りだ。

「求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞かれた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中で言い表せない祈りはすべてかなえられた
わたしはあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ」




2007年10月21日(日)
  「従って良かった」

Aさんが神様に従うことの祝福を話して下さった。

「留学生達が、子供の学校に来ているが、あと一人
どうしてもホームスティ先が無かった。
先生も困りに困られていて、子供も何とかならないか
と気をもんでいた。

自分の家はとにかく狭いので、知り合いとか打診して
みるが、道が開かれない。
どうしても、どこにも門が開かれず、自分の家は狭く
て無理と思うし、口に合う料理ができるのかと思い煩
いそうになるが、すべての事、神様が何とかして下さ
ると大決心をした。

何より夫が、OKを出してくれて、神様が導いていて下
さると確信できた。
子供もほっとして、喜んだ。

口に合う料理をと、あちこち友人に助けを求め、料理
を教えてもらって、知恵が与えられた。
神様に導かれて食材も整えられ、助けられた。

夫が心を砕いてくれて、あれやこれやと、配慮し、
手配し、滞在が楽しいものであるようにと、一生懸命
になってくれる姿を見て、もう感謝で心が一杯になった。

なかなか夫に感謝の言葉が言えない自分が、素直に
有難う、さすがお父さん、お父さんすごい、と感謝の
言葉が言えて、それも心から湧き上がって来て、本当
に神様を感じた。

子供達も喜んであれこれ考え、一生懸命に、お世話し、
対応した。

滞在期間、無事にお世話できた事が感謝だったが、更に
感謝だったのが、家族の祝福だった。
家族が一致し、心がひとつにされて、喜びと温もりが与
えられた。

何とか犠牲を払おうとしたら、何倍もの報いが、祝福が
溢れ返って、神様を知った。ほんとに神様の祝福を感
じた。どうしようかと思ったが、神様の導きにあずかれ
て、従って本当に良かったと心から思った。」

聞いていたBさんも「従ったから神様が祝福して下さっ
たんですねえ。まあ、いいお証し聞けて恵まれました」

「はい、すごい喜びと感謝で心を一杯にして下さいまし
た。何より神様が知れて嬉しいです。」

2007年10月19日(金)
  「神のことばは生きていて」

「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、また
いのちです」ヨハネ6:63

「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについて
のみことばによるのです」ローマ10:16

みことばに霊といのちがあって、みことばから信仰が生まれる。

Aさん「毎日の生活の中で、ほんとに御言葉が心にある時、
自分が変えられるのがわかります。御言葉の力はすごいですね。
経験します。

昨日も、対人関係で様々な事があって、問題があって、もう
心が暗くなって、どどっーと深みに落ち込みそうになり、でも、
神様!と見上げた時、

「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」ローマ8:
28

の言葉が、心に臨んで来たんです。
そして、学びであったように、その御言葉をずうっと心の中で、
何度も何度も反すうし、御言葉を思い、繰り返していたんです。

すると、不思議に心の思い煩いや落ち込みや暗さが消えて、
心がすうーと平安になって、神様を信じていようと思えたんです。波風立っていた心が、なぎになって、心が落ち着いて、
ほんとに驚いて、神様だ!と昨日もほんとに感謝だったんです。

Bさん「あ、私もだ。自分の行く手が阻まれて、全く思うように
ならなくて、落ち込む事態って、生活の中でよくありますよね。
いつも語られるのが

『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、
信頼すれば、あなたがたは力を得る』イザヤ30:15

すごい心が騒ぐんですよ。すぐにどおーっと暗くなって、不安に
なって、心がガタガタっとなる。どうしよう!って思う。
思うと同時に、不安が不安を呼んで、もうお先真っ暗になる。

でも、その時に、神様に立ち返って、静かにし、落ち着いて
信頼しなさいと、その御言葉を心に思い、じっと思い、何度
も繰り返してその御言葉を握る時、状況は不安材料山積
だけど、『そうだ。神様を信じて行こう』と思えるんですよぉ。

すると、心が明るくなって、平安になる。信じていればいいんだ
と思える。神様が必ずよくして下さると。
今までずうっと信仰生活送ってきて、振り返る時、ほんとに
その通りで、ずっと思いを越えて良くして下さった。
これからも良くして下さる神様を信じて行きたい。」

Cさん「不安と思い煩いで暗い心が、御言葉を握って、信じて
いると、心が変えられて平安になりますよね。経験します。
状況何も変わらないのに、今の今まで不安のどつぼだった
のに、全く周囲同じ中で、平安が来る。

そして、教えられます。御言葉がふっと臨んで来て、自分が人を
さばいてたり、見下してたり、悪い思いを持っている時、気づ
かせられる。

「なぜ、あなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分
の目の中の梁には気がつかないのですか」マタイ7:3

御言葉がすごく心に刺さって来て、自分ではよく意識できて
なかったんですが、心の中ではっきり人をさばいている事が
示されて、悔い改めることができました。

順境の時にはわからない、逆境、試練の中で、御言葉がいかに
力があり、支えであり、指針であり、慰め、励ましであるかを
身にしみて知る。

2007年10月17日(水)
  「夫婦の祝福」

婦人会で夫婦の学びをする。

わいわいがやがやと、大笑いの交わりがいつもながら
楽しい。まず自分の夫の長所、良い所、好きな所、素
晴らしい所を言い合おうということに。

「神経が細やか。うちは私がおおざっぱで、主人がよく
気がつく。私が気がつかないところまで、気がついて助
けられて、感謝。
この間、饅頭を3つ100円で買った。普段、自分のため
に買う事などないのに、食べたくなって買った。
2つ食べてしまった。主人が帰宅してそれを見て、2つ
食べたんかと言った。

「そりゃいけんわ。4人家族で1人で2個も食べちゃ
いけん」「何度も、2つも食べたんかと言われた」
「あんたまあ、3つとも食べときゃ良かったねえ」
「もう饅頭買わん」「何の話じゃ。良いところを話して
るんよ」(大笑)

「うちの主人は子供が落ち込んだり、ショックな事が
あるとそっとさりげなく小さな観葉植物買って来て置
いてたりする。
すごい繊細でやさしいなあと。

私がどーんとしてるから、私には何言っても傷つかんと
思ってるふしがある。実は傷ついてるのに(笑)
今、職場なんかでも、熟年で、みな家庭内別居ですよ。
もう全然夫に関心がなくて、老後ぐらい自分の好きな事
をする!と宣言してる。束縛されたくない!と。
だから、夫婦がそれぞれ好き勝手な事をしてて、夫婦の
意味が無いですよね。

私も好き勝手してた。もし神様知らなかったら、離婚し
てる。ほんとに神様を知れて良かった。神様に従って行
くと、ほんとに祝福されて、今、夫に愛情がある。良い
夫婦にして下さってると思う。老後更に良い夫婦に建て
上げられたい。」

「前の教会で、もう行け行けで、周囲を振り払って、
とにかく神様、教会だった。自分もわかってなくて、
主人を深く傷つけた。
あんたはもう何がどうあっても、教会なんじゃろと言
われて、いいや、お父さんのどうしてもの都合があれば、
いいんよと言った時に初めて、主人はどっと張り巡らし
ていた肩の力が抜けて、安心したようで、行って来いと
穏やかに言ってくれた。

自分が信仰だと思っていたのが、実は自我を振り回して
いた事に気づかされた。その時から本当の意味での証し
が始められた」

アダムの罪以来、自己中心で、自分が神だ。放っておく
と自分の好きなようにしたい。
双方が自分の好きなようにしているなら、分裂となる。

自分に死んで、自我に気づいて、犠牲を払い、与え、
相手を生かして行く時、自分が生きる。砕かれて、
二つのものが一つとされて、建て上げられて行くのは
何という恵みで祝福。

夫婦の祝福を学び、「素晴らしい夫を与えられていて
感謝です!夫を大事にします!!夫に感謝です!!」と、
「ほんと楽しかったー!!」と皆で帰宅。
皆で大笑いの楽しい楽しいひと時であった(^^)/

2007年10月14日(日)
  「求めたものは得られないのに、願いは聞かれた」

「大事をなそうとして力を欲しいと神に求めたのに
慎み深くあるように弱さを授かった

より偉大なことができるようにと健康を求めたのに
より良きことができるように病弱を授かった

幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと弱さを授かった

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと生命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞かれた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中で言い表せない祈りはすべてかなえられた
わたしはあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福
されたのだ」

(ニューヨーク・リハビリテーション研究所の
壁に書かれたー患者の詩)

「私、この詩の通りです」とAさんが言った。

自分の求めたことは、ことごとくがその通りに叶え
られず、その通りに与えられなかったが、でも、祈
りは見事に聞かれ、答えられている、と。

自分の環境はこうであればよいのに、境遇がこうで
あれば・・様々なことを願い続けたが、外側のもの
は何も変わらずそのままだが、自分自身が変えられた。

心が変えれて、環境を受け入れられるようにされた。
こうでなければよいのに、ああであればよいのに、
違う自分であればよいのに、その自分を受け入れる
ことができるようにされた。

すると、心に平安が来た。状況は変わらず、何も思う
ようになってはいないのに、自分は幸せだと思える。
感謝が心に湧いて、心が安らかで、喜びがある。

求めたものは与えられていないのに、自分は満たされ
て生きて行ける。自分の本当の願いが叶えられている。




2007年10月11日(木)
  「古い価値観」

何やかやと皆で雑談。

Aさん「生活の中で、何か平安が無くなって、心が暗く、
重くなって、生き生きした歩みから離れて行くんですよお。

今日、学びしていて、それって、『比較』から来てるんだ
とわかった。そこからそれて行くんだなあと。
すぐ事あるごとに、人と比較してしまって、影響を受けて
しまうんですねえ。
人が物事がうまく行って、脚光を浴びていると、自分は
ダメだと思ってしまう。何となく落ち込んでしまって。よく
考えたら、何の関係も無いですよねえ。

祝福してあげればいいものを、やっぱり自分の根に競争
心があって、イエス様に出会う前は、ずっと勝ち負けの
価値観で生きて来たから、とにかく負けたくないんだな
あと。悔しくて負けたくない(笑)

でも、平安無くなるし、喜びも無いし、比較からは何も
生まれない。落ち込むだけ。下手すると自分が上に立っ
て、優越感を感じてる。優越感が心地いいんですよねえ。
ほんとに虚しい。気づけて良かったです!」

クリスチャンは与えられている賜物が皆、全然違ってて、
皆それぞれ独自だから、競争ができない、競争にならない。

横の人は全く関係なく、神様から自分に任された賜物を
忠実に使って仕えて行く。神様と自分の、縦の関係で、
神様を見つめて、与えられたものを管理して行く。

「それ!すごい平安になります」

Bさん「でも、この世の価値観て、ぼお〜〜っとしてると、
すごい影響受けて、すぐそっちに流されますよね。気づか
ないところが恐い」

「悪口言わないよう祈って下さい。この世は悪口だらけ。
どこへ行っても悪口ばっかり。気づくと一緒に乗ってし
まってる。
特に、普段から自分もよく思っていない人の事が出ると、
もうしてやったりと、溜飲を下げる(笑)すごい罪だー。

Cさん「悪口というか、どんどんとにかく何にでも批判
する人がいて、それを聞いてると、最もだと思ってしま
って、影響受けてこちらもいろんな事に段々批判的にな
って、その内、平安全く無くなって。
もろに影響受けてるんですよねえ」

Dさん「あるある、聞いてると、そういう風に思えて
来るんよね。でもその時、神様も御言葉も飛んでるわ(笑)
心で祈ってたり、神様しっかり覚えて、御言葉を心に
持っておくことですよね」

「御言葉があると、すごい心が守られる。御言葉が無い
と、思い煩いや先行きの不安や、心が沈んで、真っ暗に
なりますね。
はい、御言葉が来ると、何か希望が持てて、そうだ、信
じようと思えて、心が明るくなる。神様に目が行ってる
んですね」

自分の中にも、肉の古い価値観があるから、むくむくと
反応し気づかないまま、神様からそれている。
平安取り去り、御言葉示し、常に導いて下さる聖霊様に
感謝だ。

2007年10月09日(火)
  「主の平安」

ミャンマーで亡くなられた戦場カメラマンの事が知り
たいと、テレビをつけたら、突然カンボジアが出て来た!

偶然で、新聞を見ると番組に出ていて、チェックして
いなかった。そのまま見入った。

いろんな人が「見たよ!」と。日本人の小児病院勤務の
女性看護師さんが、病院に来れない子供達を、こちらから
家々を訪問して看護していた。朝から晩まで休む間もなく、
それこそ献身的に労しておられた。

家を訪問するが、それが物凄く貧しくて、小屋のような
家で、子供たちは食べる物が無くて、飢えている。
施設にいたら、食べられるので預けてくれと頼むが、
親が自分の世話をさせるために必要なので、子供を
置いておく。
後ろ髪を引かれる思いで、次の訪問先へ急ぐ。まだまだ
訪問しなければならない。

母親が、5,6人育てている家でも、ひどく貧しい。
一つの鍋の野菜汁みたいなのを分け合って食べている。
働いても働いてもお金にならないと、母親はどうにも
ならない現状を背負っている。

とにかく貧しい。食べ物が無い。薮の中に赤ん坊が捨て
られていたと病院へ。看護師さんが命とりとめ寝かされて
いる赤ん坊を、時間があれば抱く。スキンシップのために。

赤ん坊の面倒を見てくれる里親を絶対に探し出すと、自分
に出来ることはそれしかないからと、看護師さん。

エイズにかかっている子供たちが、投薬治療を受けていた。
一生薬を飲み続けなければならないそうだ。

男性の出演者が、「知らなかった」と言った。カンボジア
がこんなだとは。驚きで、ショックで、自分は何してるん
だろうと。

今までカンボジアに関して様々、見聞きしていたので、そう
なんだろうなと、まさに現状なんだろうなと見ていた。

ベンツを乗り回して、大金持ちの政府関係者。日本の金持ちで
も比ではないそうだ。片や、首都でも、夜に裸のまま、物乞い
している子供たち。余りにも落差が大きすぎる。

地方へ行くと、病気になっても、薬も治療もなく、病気になる
と諦めるそうだ。亡くなって行くと。

教会のある青年は、病気になり、見舞うと野戦病院のような
粗末なベッドで、高熱で苦しんでいた。何の治療もなされて
いない。
何もできず、何の手だてもなく、一緒に訪問した宣教師さんと
共に天の御父に祈りを献げたと。祈った時、その青年の顔が安
らかそうに平安になったと。

薬も治療も無い中で、今はその青年はおそらく天国へ帰って
いるだろう。
今、死を迎えようとしている人を、目の前にして、死を乗り
越えた「平安」を与えることのできる、お方を思った。

人間はいつか死に臨む。何十年かの違いで、必ず皆、死と向き
合う。
薬も、物も、お金も与えることのできない、死を前にした
「主の平安」この平安を今、手にしていること感謝。主ご
自身を得ている、ことの感謝。死の陰の谷も主と共に越え
ることができる安堵。

その先には、永遠に朽ちることのない平安と喜び。
何という救いだろう。何ものにも替えられない「平安」
という宝を得ている。

「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っている
ことのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っていま
す」ピリピ3:8

2007年10月07日(日)
  「恵みに気づかない」

田原米子さんのビデオを以前に何回も見たが、米子さん
はお母さんが亡くなった虚しさから、電車に飛び込み
自殺を計り、未遂に終わった。

その時、両足と左手を無くし、右手の指が三本残った。
今度こそ、必ず確実に死のうと思ったが、そんな時に、
イエス様を信じ救われた。

信仰与えられたその時に「指三本しかない」が「指が
三本もある!」に見方が変わった。
大きな変換で、米子さんの人生が大きく方向変換した。
心の目の視点で人生が変わる。

「日ごとの糧をきょうもお与えください」
仕事に就いていると、定収入が入る。自然に必ず
毎月入って来る。日毎の糧を祈らなくても日々
与えられている。
しかし、働く力と働く事のできる健康を与えて
下さっているのは神様だ。自分で稼いだかのよう
に勘違いする。

様々な恵みに気づかない時、感謝が無い。あって
当然であり、粗末に扱ってしまう。
苦労の末に得たものはその価値がわかるが、
降って与えられると、その恵みがわからない。
与えられているものを大切にできない。生かして
行く事ができない。生活がマンネリで倦怠で
感謝がない。生き生きしたものが無い。

Aさん「恵みに気づかないこと、わかります!
夫をもっと大切にして行かなければならない事に
気づかされます。」

Bさん「仕事が与えられていること、当然じゃない
ことに気づく。神様が与えていて下さることが
本当に感謝です」

Cさん「目が見えて耳が聞こえること、当然と
しか思っていなかったけれど、もし目が不自由
だったら、もう何も要らない、この目を開けて
欲しいと、この目さえ見えたらと、バルテマイ
のように思いますよね。
感謝していなかったなあと。」

Dさん「感謝がないと、人と比較して羨ましく
なったり、いつも隣ばかり見て不満タラタラで、
虚しい生き方になりますよねえ」

神様との交わりに生きると、小さな一つ一つが
感謝で、新鮮で、生き生きとして、どんな境遇
であろうと、自分は幸せに生きれる。
御霊が恵みに目を開いて、一つ一つ気づかせて
下さるように。








2007年10月05日(金)
  「蒔いたものを刈り取る」

献金について聖書から教えて欲しいとAさん。
「すごい出費を渋るんですよぉ。欲がどんどん
出て来て。今月十一献金できなくて、何か自分の
経済管理がガタガタなんですよ」

「十一献金の意味知ってるん?」「知らないん
です。でもするもんだと思ってて」
聖書から十一献金の意味と祝福を学ぶ。すごく
納得して、Aさん「神様に従いたいです!」

「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊か
に蒔く者は豊かに刈り取ります」Uコリント9:6

蒔いたものを刈り取るのが、聖書の原則で、豊か
に蒔くと豊かに刈り取る。蒔かないところから刈
り取りようがない。

Aさん「蒔かなきゃ刈り取れないというのはよく
わかる。今までの信仰生活でも、神様は実証して
下さっている。
献げて手元に無くなると、ほんとに入って来るん
ですよ。突然バイトの時間が増えて、収入が増えた
り、全然無くなった時は、突然おじいちゃんが、お
小遣いくれたり、本代が必要で困った時は、親が快
く出してくれたり、ちょっと振り返るだけでも色々
な神様のみわざを見てます。

神様から目が離れると、すごい欲が出て来る。出す
のをケチり始める。損得勘定で考えて、物事に当た
ってしまう。損をしたくない。

欲で十一献金できなかったら、ほんとに不必要な出費
がどんどん出て来て。品物を間違って買ってしまって、
全くもって無駄な出費をしたり、思わぬところに、ど
うでもよいようなところに、だらだらとお金が出て行
ってしまって、結局、よく考えたら、こんなんだった
ら、十一献金できてたんですよ!(笑)
ああ、神様の祝福、逃したんだなあと」

いろんな人も証ししていた。献金を渋っていたら、結局
病院通いで消えて行ってしまった。日頃健康が与えら
れている事がどんなに感謝かと思い知った。
神への感謝もなく、当たり前で、どんなに高慢だった
かと悔い改めた。

ある人は、御霊に献げるよう導かれていたのに、自分
の欲でどうしても献げられずに、ぐずぐずしていたと
ころ、交通違反で罰金となり、はっきり神の御手を感じた。
欲に囚われてしまう事から守るために、神は献げるよう
示していて下さったことがわかった。

ある人が集会で、とても恵まれて、献金の時に、力一杯
精一杯献げたいと思った。御霊の導きのままに精一杯
の献げものをした。
全部献げてしまい、帰りの電車賃も無かった。しかし、
どうしても献げたかったのだ。神に祈り、委ねていると、
集会後の交わりで、ある人が何とその日、同じ方向に用
があることが判明し、途中にある家まで乗せてもらえる
事になった。神をほめたたえた。

そんな話もしていたら、後日、Aさん「同じ事が起こった
んです!!思いきって蒔いたら、本当に祝福を刈り取り
ました!!神様すごいです!」

“神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、
すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる
恵みをあふれるばかり与えることのできる方です」
Uコリント9:8

2007年10月03日(水)
  「御子のかたちへと〜益」

毎日の生活の中で、不都合な事、マイナスの事、
痛い事、苦しい事、辛い事、無ければよいのに、
何でこんな事が、という事が様々起こる。

一つ一つが「仮面をかぶった祝福」だ。
神は「あなたの一生を良いもので満たされる」
詩篇103:5と言われ、神は良いものしか送
られない。
痛いこと、苦しいことは、悪いものでない。
必ずそれら一つ一つを用いて成長として下さる。

「すべての事を働かせて益としてくださる」
ローマ8:28 の益は、自分の都合良いよう
に物事がなる事ではない。そんな次元の事では
ない。
「あらかじめ知っておられる人々を、御子のかた
ちと同じ姿にあらかじめ定められた」29’
ように、御子のかたちに変えられるように、益
とされる。

今までの痛い事、苦しい事の一つ一つは真に益
だ。もしそれらが無かったなら、どんなに高慢
になっていただろう。何もわからないまま。
本当に感謝しかない。

猫とねずみの寓話があって、猫は天国になんて行
きたくないと言った。なぜなら、天国にはねずみが
いないから。

天国は聖い所、罪もこの世も無い。そんな所へ本当
に行きたいのか。行って退屈ではないのか。

Aちゃんとそんな話をしていたら、「その話、
すごいズキッ!!グサッ!!と来る」(笑)

イエス様と再び会うことが、天国が慕わしいこの上
ない喜びとなるように、変えて行って下さる。

そのために、一つ一つの痛いところ、辛いところを
通りながら、御子のかたちへと変えられる。

痛いこと、苦しいことは、悪いことではなく、御子
のかたちへ変えられるための「仮面をかぶった祝福」だ。

そのように見て行く時、そこに信仰が生じて、その
信仰から希望が与えられる。どんな痛い中にも希望が
ある。

2007年10月01日(月)
  「心が変えられる」

家族の反対に会いながら、遠隔地で一人で信仰を
守っておられるAさんに会った。
牧師先生が定期的に訪問し、御言葉の学びをして
おられる。

大変な状況の中で、信仰が守られていること自体が
奇跡に見える。
目の前の状況は、困難、問題だらけ、行き詰まりの
ように思える。
その状況と問題を見ていると、どんどん心が沈んで
落ち込んで行く。そして、どんどん否定的、悲観的
になりる。

「お先真っ暗の、最悪のシナリオが出来上がってる
んでしょ」と笑うと、「そうです!そうなんです!」(笑)
「最悪のシナリオを自分で作っていて、自分で落ち込
んで行く」「わかる、わかる」(笑)

「でも、神様を見上げた途端、希望が見えるんよね」
「そうです。そんな落ち込みの中で、聖書を開いて、御
言葉が心に入って来ると、ああ、そうじゃない、神様が
おられると、心が楽になって、平安が来て、希望が持て
るんです」

「御言葉ですよね!」鍵は御言葉だ。御言葉が臨ん
で来る時、不思議だが、ほんとに心が変えられる。

「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、
またいのちです」ヨハネ6:63

御言葉には霊といのちが宿っている。不安から平安へ、
失望から希望へ、落ち込みから喜びへと変えられる。

どんなに状況が悲惨で、過酷でも、状況自体は問題
ではない。その状況の中で、心に全き平安が与えられる。
それは主から来る、主の平安で、状況に全く関係が無い。
クリスチャンにはこの平安が与えられている。

「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。
わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは
違います」ヨハネ14:27

この平安は世には絶対に無い、主からのもので、
クリスチャンだけが持っている平安だ。
この平安がある時、どんな環境、境遇、状況の中
でも生きて行ける。

現実の問題自体の重荷より、それをどっと取り込んで
否定的、悲観的、妄想をどんどん膨らませ、大きい
巨大な怪物、亡霊を作ってしまう、その重荷の方に
疲れ果ててしまうことに気づく。
サタンがどんどん否定的にし、膨らませる。

神様に視点を置く時に気づけ、御言葉に心を向ける
時に気づける。
そして、状況は何も変わらないのに、心が変わる。
心に平安があるので、苦しい状況を乗り越えて行く
ことができる。