2007年11月28日(水)
  「へりくだり」

Aさんがこのところずっと自分の自我について、
神様から語られていた。

強烈な自我があること、対人関係で様々な
厳しい、苦しい、辛い状況があるが、自分の
自我がどんなに強いか、神様が教えて下さっ
てるんだと思うと。

目の前の問題が苦しくて、どうこうでなく、神様
に視点が向いて、神様を通して状況を見るこ
とができて、感謝だった。

この状況があって、すべては神様から来ている、
では、神様は何を教えようとされているのだろう
かに、目が行ったのだった。

その時、対人関係、皆にごちゃごちゃ、ドロドロと
問題があるが、自分の自我がいかに強くて、自分
というものがいかに強いかに思いが至ったと。

ある対人関係で、本来は相手に責任があり、相手の
仕事なのだが、相手もいっぱいいっぱいで、できない。
そのいら立ちから、Aさんに当たり散らされた。
Aさんができていないと。

最初は自分を棚に上げて、一方的に責められることに、
反発心でいっぱいになった。
が、ずっと神様から教えられている、自我だと気づき、
自分を捨てることを示され、素直に自分ができないこと
を詫びた。

すると、一瞬相手の顔が変わった。態度が一変し、
潤いと温もり、暖かい空気が、その場に流れた。
「神様だ」とびっくり!し、教えられた。

Aさん、へりくだったんだ、そこに神様が働かれた。

Bさんが「Aさんすごい!私なら絶対にできん。くそお!
こんちくしょう!と怒りとさばきで相手を責めまくるわ(笑)
これが自我なんですよね。
相手を責める、責める、さばきまくる(笑)
Aさんえらい!見習わんにゃあいけん」

以前、Cさんの出来事を思い出した。
職場で、先輩が、台所の用品を割ってしまった。
Cさんは一番下っ端で、新入りだ。

上司から「あら?あれは割れてしまったの?」と
Cさんが割ったと間違われていた。
Cさんはとっさに「すみません」と言った。

しかし、その時、そこにいた先輩は黙ったまま。自分が
したと言ってくれなかった。
Cさんのしわざになってしまい、最初、怒りと不満で
心が波立った。

しかし、イエス様の十字架を思った時、自分は
一体どういう者かに思いが至った。
何の罪も無いのに、十字架にかかられた。イエス様
の十字架がほんとに身近に感じられた。
へりくだって、死に至るまで従われた主を思った。

心が恵まれた。弁解もせず、そのまま自分が割った
ことになっていいと思えた。

「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下に
へりくだりなさい。
神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くして
くださるためです」Tペテロ5:6

2007年11月25日(日)
  「状況でなく自分」

「神様信じる前は、自我など全く気づきま
せんでした。
自己中心に歩んでいて、別に何の感覚もなく、
相手が悪い、周囲が悪い、環境が悪いと思っ
てました。自我など考えることもしなかった。

神様信じた後も、自我っていうのが、ぼんや
りしていて、認識できていなかった。
やっと最近です。ほんとに自分の自我が強く
て、強くて、頑強で、自分ほど我の強い者は
ないと思うほど。

それで、目の前に次から次へと痛い事を起こ
されて、神様は自我を砕かれたいんだなあと
わかります。

対人関係、家庭、仕事、もう様々、痛い事、
苦しい事、辛い事ばかりなんですが、自分視
点でなく、神様視点で見ると、ものすごく痛
いけれど、感謝な事なんだと思えます。

これがわからないと、あれをこうして下さい、
あれをああして下さい、もう自分の都合の良
いように、祈りますよねえ。

単に、目の前の痛い事が、無くなれば良いだ
けで。
そうじゃなくて、自分の自我を砕かれたいん
だとやっとわかりました。

厳しい対人関係があって、その場へ行く時、
身体が反応して硬直する。思っている以上の
ストレスなんだと思う。
でも、自分の自我の強さを、いかに自我が強
いかをひしひしと教えられています。」

「何かがないとわからないですよね。行き詰
まりや圧迫や自分でどうにも出来ない苦しい
事とか、どん底を経験するとか。

自分自身もどん底を経験して、何もかもがもう
自分の力でどうしようもなくて、神様に出会え
て、本当に神様がわかった。

それまでは、御言葉も聞いてはいるんですが、
スースーと通り過ぎて、何もわかっていない。

御言葉が真に語りかけて来て、心に迫るのは
苦しい時ですよね。苦しみは嫌だけれど、恵み
なんですね。苦しみが無かったら、私は絶対
神様に出会えなかった。」

「神様に出会って、自分は変えられました。
ものすごい自我が強いのに、それすらわからな
かった。今も自我は強いが、気づきが与えられ
る事が感謝でならないです。」

目の前の苦しい状況が、どうにかなれば済むん
じゃなくて、目の前の問題も神様から来ていて、
自分が変えられて行く事を望んでおられる。



2007年11月22日(木)
  「・・でも」

神様は約束を与えて下さる。

しかし、しばしば現実に見えるところと、
約束の御言葉が、相反する。全く正反対だ。

神は「〜を与える」と言われるが、目に見
えるところ全く与えられていない。
与えられる気配もない。目に見えるところ、
否定的材料ばかりだ。

神は与えると言われる。「でも」現実はどうだ?
目に見えるところは?

そちらを見て行くと、不信仰になって、どん
どん落ち込んで行く。暗闇の中に沈み込んで行く。

しかるに、現実を見ると、これが一体どうなる?
「でも」見えるところではなく、目に見えない
神を信じ、御言葉を信じてゆく。
御言葉の方を選び取る。
そっちの方へ向かうと、神様のみわざを見る。

Aさんが、祈っていた事があり、神は与えると
言われる。ただ信じていなさいと。
しかし、現実は正反対だ。

全く手にできないどころか、どんどん遠のいて
行く。大丈夫なんか。一体どうなるのか。
目に見えるところは、全く相反する。

「でも」神様を信じて行こうと思う。祈って
行こうと思うと、目に見えるところを見ると、
揺らぎそうな中、「でも」信じよう。

「・・でも」信じよう、「・・でも」信じよう、
を続ける中、神様は約束通り与えて下さった。

ペテロの「夜通し働きましたが、何一つ取れ
ませんでした。でもおことばどおり、網をおろ
してみましょう」

「でも」おことばどおり、現実が正反対であっ
ても、神の言葉を、約束を、絶えず選び取って
行けるように。

2007年11月21日(水)
  「弱点」

狡猾サタンが、私たちの一番弱いところを的確
に知っていて、そこを常に狙っていると、学ん
でいた。

自分の弱い部分を把握する事が大切で、その
ところを光に出して、いつも祈っていること。
そうするなら、サタンの誘惑に気づかせて下
さる。

Aさん「ちょっとした発表の機会があったんで
すけど、完璧に準備しないと、気が済まなくて。
すごいストレスとプレッシャーで、身体に来て、
お腹が痛くなったんですよぉ。

何でかなと考えると、人に良く見せたい、評価
されたい、すごいと思われたい、人が神になっ
てるんですよ。
いつもここで、これが自分の弱さだなあと。

いつも神様でなく、人を意識して、人の関心
を得たくて、神様が飛んでしまう。

自分の弱いところに、サタンが来るんですよねえ。
優先順位でも、神様でなく、人が一番に来てる。
だから、神様に献げるべき時間を聖別できないで、
人のお世話をしてしまう。
人に良くみられたい、良い人だと思われたいん
ですよねえ。

でも、結果的に、何の益もないんですよお。
人のお世話しても、たいして役に立ってなくて。
何だったのかなあと。神様後回しにすると、虚
しいんですよねえ。

どうしても、人の歓心を買おうとしてしまう。
人ではなく、神様を第一にすること、教えられてい
ます。

サタンに気づく時と、全然気づかない時があり
ますねえ。後で気づく時とか。

あああ〜サタンだと思うんだけど、穴にはまって
しまって、あ、やっぱりはまったかと。
祈ります!!」(笑)

Bさん「私、プライドと虚栄心です。人前でいい
かっこしたいんですよねえ。

ある頼まれ事があって、皆に、Bさん巧いじゃない、
Bさんなら出来るよ、大丈夫よと、皆に言われ、
いえいえ私などは、と言いながらも、得意分野だし、
よし!と思って、やったら、大失敗してしまって。

大ミスしてしまって、ものすごく教えられ、砕かれ
ました。自分の高慢を思い知らされて、悔い改
めました。
自分にはできないと、へりくだらされました。

でも、すごい益として下さって、その事通して、
色々な素晴らしいみわざを見たんです」

いつも、おんなじ所に来ていて、でも、祈っていた
ら来た時に、御霊が気づかせて下さる。
すぐに、神様!と叫べるように。

2007年11月19日(月)
  「妨害」

Aさんが、神様によって、バプテスマの決心に
導かれた。
いつも信仰の前進の要所には、サタンが妨害し
に来る。

バプテスマについて祈ろうと思った途端、祈れ
なくなったと。
祈ろうと思ったのに、バプテスマが飛んで、しば
らくバプテスマは行方不明になってしまった。

「で、あのバプテスマの祈りはどうなったん?」

「はあ、全然忘れてというか、飛んでた。バプ
テスマの決心のために祈ろうとした途端、祈り
の無い生活になってしまった。なんじゃ、それ
です」(笑)

「それ、信仰告白の時と、全く同じじゃん」
「あ、ほんまじゃ」(笑)

信仰告白のために祈り始めた途端、全くやる気
がなくなって、当分、保留状態になった。
それまで、神様の恵みに応えたい、従いたいと
思っていたのに、やる気満々だったのに、全く
やる気失せてしまった。

信仰告白の決心しようと決めた当日も、ぐずぐず
ぐずぐずしていて、礼拝に遅刻する始末。
でも、家にいても全然平安無いし。とにかく行こ
うと教会に来て、途中で止めようかと思ったが、
信仰告白ができた。

「それって、サタンじゃん」「そうです!サタン
が妨害して来てると思うと、全部つじつまが合う」

「信仰告白、ギリギリ最後まで、サタンは執拗に
妨害した」

「バプテスマを真剣に祈り始めたから、サタンが
来たんじゃ」

「そうなんですよ。それまで祈れてたのに、真剣
に決心しようと祈り始めた途端に、生活から祈り
が消えた(笑)
サタンにまんまとやられていて、それもわからな
かったんですねえ」

「すごい、妨害に来るんですねえ」
「信仰に前進して行かれるのが、嫌なんだろうね。
とにかく足を引っ張りたい」

「教会に来る度に、サタンだと気づくんですよぉ。
でも、日常に帰ると、流されてしまって、サタン
に気づかない」

「それで、サタンて、また、有ること無いこと持って
来ますよねえ。
心に、事実で無いことまで吹き込めるから、何でも
あり状態。

以前に人から被害を受けた事があって、それはその
人が謝ってくれて、一件落着。
でも、同じ事態が起きた時、もうその人のしわざだ
と思って、心の中では怒り心頭。
でも、それは誤解で、全然その人は関係無かった。

サタンは思いの中に、妄想を吹き込んで来るから、気
をつけないといけないと、教えられたんです」

「心に思い煩いや、落ち込みや、失望やら、焦りやら
吹き込んで来るから、心を見張って、サタンを意識し
ていないと、思いがどこへ行くかわからない。
祈ってよう」

2007年11月15日(木)
  「積み上げられた祈り」

救われてから、事あるごとに、お母さんに証して
きたAさん。
ご高齢で、今までの根強い宗教もあり、なかなか
入らなかったお母さん。

更にお年が加わり、認知症も出て来られた。Aさん
の事を認識できる時と、出来ない時と、まだらにな
って来た。お身体はとてもお元気だ。

とにかく、入所中の施設を訪ねては、神様のことを
伝え続けた。
わかっているのか、いないのかも、わからない状態
で、話をし続けた。

すると先日突然、認識されて「キリスト」と、ご自
分の口で、はっきりと言われた。

もうびっくりで、まだはっきりしている事は、あな
たはキリスト教、私は私という感じでおられた。だ
から、大変な驚きで、希望が与えられ、続けて伝え
て行きますと。

話を聞いていて、友人の事を思い出した。
友人Bさんが救われて、もう40年近く、やはりお
母さんに伝え続けた。
どうしても救われて欲しい。一緒に天国に行きたい。

話は聞いてくれるし、教会へも来てくれるが、自分が
罪人だと、どうしても認められなかった。
良い方で、若い頃からずっと周囲のお世話をされ続
けて、自分を後回しにして、人のお世話をし続けて
来られた。

皆から、良い人、良い人と言われるし、自分でも良
い事をされ続けて来たので、どうしても自分が罪人
だとわからない。認められない。

Bさんも祈りに祈りながら、証しし続けるが、その
ところがどうにもならない。
段々、高齢になられ、お身体も弱って来られた。

そんなある日、Bさんも同じ部屋にいた時、突然お
母さんが寝ていたベッドの上に正座された。
「神様」と自分で、祈りを始められ、Bさんはびっく
り仰天したと。

「神様。私は罪人などではないと思っていました。
でも違います。自分は本当に高慢な高慢な者です。
私は本当に罪だらけの罪人です。神様、私の罪を赦
して下さい。私を天国に連れて行って下さい」と、
祈られた。

Bさんは、もうただただ、びっくりするばかりだっ
たと。そして、その翌日、天に召されて行ったのだと。
もう、目の前で奇跡を見たようだったと。

家族の救いは、なかなか時間がかかる。延々かかる
事もしばしばだ。
しかし、祈りに祈り続けて来た、積み上げられた祈り、
その祈りに神様は答えて下さった。

聞いて、神様の栄光を拝した思いだった。

2007年11月10日(土)
  「苦しみ」

『苦しみに会ったことは、私にとって
しあわせでした。私はそれであなたの
おきてを学びました』詩篇119:71

Aさん「私、一番最初、この御言葉に触れた時、
苦しみに会って、おきてを学ぶって、何だかもの
すごく冷たい感じに聞こえたんですよねえ。

「おきて」っていうのがすごく冷ややかな感じで。
それも苦しみの中で、学ぶっていうのが。何か
冷た〜い感じに思えたんです。

でも、今、わかります。次から次へと苦しい事ばか
り、ひっきりなしに続くんですが、自分は、自我が
ものすごく強くて、この自我が問題で、これが砕か
れないといけない。

自我が砕かれて、学ぶべきものは、神様のおきて
なんだと。
苦しみを通って、神様のおきてを学べる事が、もの
すごく感謝で、これが無ければ、どこまでも高慢に
なって、自分は恐ろしい事になってしまうって。

神様のおきてを学ばなければならないんだと、本当に
思います。
それを学ぶには、苦しみしか無いんだなあと。
苦しみは辛いし、しんどいけれど、その中で神様の
おきてが学べるんですよね」

Bさん「Aさん!今日は冴えてる!今日のコメント
すごい!私も胸にグサッ!!と来た(笑)
私も自分はものすごく自我が強いと思う。砕かれない
といけないのが、この自我なんだなあと。

目の前に、痛みや悩みが色々と起きるんだけど、感謝
なんですよねえ。
今まで振り返って、自分が変えられて来たのがわかる。
神様知る前は、とにかく自分、自分で、自分の思い
通りで、何とも思わず、それが普通で、当たり前だと
思っていた。

どうやっても思い通りにならない事態が目の前に起
きて、どん底まで行って、神様に委ねるほか無くな
って、委ねた事を通して、初めて頭で知っていた神様
が現実になった。

苦しみに会ったことがしあわせだってこと。何かわかり
ます。本当に苦しみ通して、神様知れたからしあわせ
です!!」

苦しみに会わないと、何もわからない。
それほど自我が強くて、高慢で、自分が高慢であること
にすら何も気づいてなくて。
ほんとに苦しみが感謝だ。苦しみの中で神様に出会う。
しあわせだと心底思える。

2007年11月07日(水)
  「自我」

信仰生活の行き着く所、結局「自我」だなあ。

この自我が砕かれない限り、御言葉もわから
ない、神様もわからない。

Aさん「自分の問題が自我だと思います。もの
すごく強い自我があって。
職場で様々な問題があるんです。いろんないざ
こざや衝突やら、もろに自己主張する強烈な人
がいたり。
仕事ができない人を批判したり、仕切ろうとす
る人、でも、それをその人がいなければいいと
思っている自分。

その人の存在を否定し、抹消している事であって、
すごい罪ですよねえ。
神様がその人を私の前に置かれて、自分の内側を
教えて下さっているのだと思った。

その人がいなければ、そういう対象がなければ、
内側は強烈自我なのに、その自我に気づく事もな
い。自分がこんなにも自我が強い事を教えられて
いる。

神様はいろんな人を目の前に置いて、結局は、自分
自身の本当の姿を教えたいと思っておられる。いか
に自我の強い者であるかを。

それを相手を責め、周囲のせいにしているなら、は
なはだしい的はずれですよね」

Bさん「私も同じです。ものすごい自我が強い。思
い通りでない状況、苦しい事態がずっとあるのも、
砕かれてるんですねえ。
でも、砕かれないと、どこまでもものすごい自我で
すよ。苦しみと悲しみが今あるけれど、でもほんと
に感謝なんだと思えます」

Cさん「子供の事がすごい感謝だったんですよぉ。
就職活動していて、なかなか無くて、次々落ちるし、
もうお先真っ暗で」

Dさん「で、最悪のシナリオを書くんじゃろ」「そう
そう最悪のシナリオが出来上がってる(笑)」
「もうどうなるんじゃろかと、ものすごい不安と恐れ
で、真っ暗闇に落ち込む」

「教会へ来ると、絶対大丈夫!与えられるから!と言
われるんだけど、ほんまかいな?大丈夫なんかいな?
と思って。(大笑)だけど、信じて行こうと思える。」

Eさん「Dさんすごい正直!可笑しい〜」(大笑)

Dさん「その大丈夫かいなと不信仰になる時、ものすご
い自分の自我を感じる。信じようとしない強烈な自我が
ある事がわかる」

「でも、信じようと思えるんだ?」「そう、教会へ来て、
御言葉聞いていると不思議にそう思える」

「で、毎回、毎回、ほんとに祈りに答えられて、見事に
導かれるんよね。それで不信仰を悔い改めるんよね」(笑)

「そうなんよ。その度に、自我の強い自分をわからさ
れる」

2007年11月05日(月)
  「絶対に大丈夫」

遠方の友からの久し振りの便り。

「子供が、自分の進路に向かって旅立ちました。
神様に感謝でいっぱいです。」

子供さんの事についても、本当に心配な時期が
あって、祈りの要請が来て、一緒に祈りにあずか
った。
子供の意志は止められず、どうにもできなくて、
ただ祈るばかりの日々も。

不安や思い煩い、心配に心をさいなまれつつも、
できる事はして、あとはもう神様にお委ねするばかり。

ひたすら祈っていると、神様は不思議をされて、
その事態が良きに導かれた。
真に神の守りのみわざであった。
祈りが聞かれた事を、目の当たりに見た。

子供の小さい時から、育児で悩みに悩みながら、
ずっと祈りの中で育てて来たAさんだった。
紆余曲折を通りながら、でも最終的に落ち着く
べき所に落ち着かせて下さった。

Aさん自身にも、苦難、艱難、様々な苦しみが
あったが、でも、本当にすべてが益とされて、
あるべき所に、すべてが導かれて行った。

ヤコブが年老いて、エジプトの食糧を得るために
ベニヤミンを連れて行かねばならないと告げられた
時に、

「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフ
はいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、
ベニヤミンも取ろうとしている。こんな事がみな、私
にふりかかって来るのだ」創世42:36

何もかもを失い、四方八方失意に取り囲まれて、
災難が、どおっと降りかかって来るように見えた。
どこを見ても、失望落胆、絶望・・

命であったヨセフを失い、ヨセフの代わりに
愛情を注いぎ、命となっていたベニヤミンをも
取られる。どんなに心真っ暗であったろう。

しかし、実際は、そうではなかった。
全部がおさまるところに、おさまって行くと、
何とヨセフは生きていて、シメオンもベニヤミン
も共におることができて、飢饉の中、豊富な食糧
により、皆の命は救われ、皆で住む事ができた。
夢のような話だ。

失意や落胆の中を通るけれど、実は、神の素晴
らしい計画の中であり、必ず平安なところへ導き
出して下さる。

神様にある時、どんな時にも将来と希望がある。

「あなたがたのために立てている計画・・それは
わざわいではなく、平安を与える計画で、将来と
希望を与えるためのもの」

神様にあるなら、何があろうと、絶対に大丈夫だ。



2007年11月01日(木)
  「折りにかなった慰め」

Aさんが体調とても不調で、病院通いし、ダウンして
いた。ずっと病気と縁が切れないのかなあと、思うと
心が落ち込んで、沈んで暗くなっていた。

そこへジャストタイミングで、Bさんのお手紙が届いた!
ピッタリで、神様の愛をひしひしと感じ、引き上げられ、
非常なる慰めと励ましを受けた。涙が出そうなほど嬉
しかった。
Bさんを通して、神様が臨んで下さったことが更に嬉し
かった。神様からの愛だった。

沈んでいた落ち込んでいた気持ちが、神様を見上げ
る事ができて、前向きになれて、気持ちが元気にな
れた。

Bさんは、それを聞いて、神様のみわざに驚いた。
かなり前に、9月に、Aさんからお手紙をもらって、
出そう出そうと思いつつ、返事がなかなか書けなかった。

遅くなってしまって、やっとお手紙が書けて、でも、
今頃出すの悪いなあ、どうしようかなあと、ちゅうちょ
しつつ出した。

この「時」の遅れが、ドンピシャで、「神の時」で、
神様のみわざがなされ、栄光が現われた。その事に、
身近に神様を感じた。

神様が生きて働いておられること、細部に至るまで、
信仰生活のすべてを、導いておられる事をもろに感じた。

実はBさんも、丁度その週、忙しくて外側の事で
いっぱいいっぱいになり、デボーションが飛んで、
バタバタバタバタ動くばかりで、マルタ状態だった。
平安なく、律法主義の中に落ち込んで、自分で
動き回っていた。

座する事なく、神様を離れ、どんどん離れて、
自分の力で動き回ってしまっていた。
離れると、なかなか帰れなくて、数日間流されっ
放しだった。

自分の手紙が、Aさんに用いられた事、慰めと
された事を聞いた時、初めてその週、祈る事ができた。

自分みたいな罪深い者が、神様に用いられた事に
畏れを感じ、ほんとに嬉しくて、神様の愛を感じた。
神様のもとに帰れた。

Aさん、Bさん、どちらも引き上げられた。聖霊様を感じ、
本当に神が生きて、働いておられる事をもろに感じた。