2008年07月27日(日) 「わたしの平安」
ここしばらく、孫が病気続きだった。 小さな孫Aは、カンボジアで原虫がお腹に入り、夜中に 激痛で苦しんだ。 何せ病院に行けない。症状を見て、あれかこれかと親 が判断する。前の宣教師の先生が残して言って下さった メモを頼りに、これか!と症状を見て、薬を飲ませる。 ふと、こんな素人判断でよいのだろうか??と不安に なりつつ、神様にお委ねで。薬が効いて、おさまった! 次に風邪か熱が出て、嘔吐を繰り返し、次に耳が痛いと。 外耳炎。そうこうしてると、膀胱炎にもなった。 次に孫Bが風邪が移って、高熱、食欲なくて、ぐったり。 国内の孫Cが耳垂れが止まらず、中耳炎から、鼓膜 切開。孫Dがとびひになる。 次から次へと、心痛み、心配し、治れば安心する・・ でも、それなら神様知らない人と同じ。 これだけ続くからには、何を教えようとしておられる のだろうか。 祈っていると、 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。 神があなたがたのことを心配してくださるからです」 Tペテロ5:7 「神が心配してくださる」が心に臨んで来た。 神が「わたしが、ABCDを心配している!!」と 言って下さった。 神が心配していて下さるなら、何の問題があるか。 安堵と平安が心に満ちた。 「平安」で答えて下さった。 「わたしはあなたがたに、わたしの平安を与え ます。 わたしがあなたがたに与えるのは、世が与える のとは違います」ヨハネ クリスチャンしか持つことのできない、「主の平安」 を、どんな状況の中でも、与えて下さる。 この主の平安があれば、どんな中でも生きて行ける。
2008年07月25日(金) 「赦すこと」
赦しの学びをしていた。 一万タラントの借りのあるしもべが、返済不可能で、 主人はかわいそうに思って、赦して、全借金を 免除した。 全額チャラにしてもらったその人が、帰りに、 100デナリ貸しのある人に出会い、ひれ伏して もう少し待ってくれと頼まれたのに、牢に投げ入れた。 それを聞いた主人は怒って、彼が借金全部を返す まで牢に入れた。 人を赦さないと、こうなってしまうと。 一万タラントは6000億で、100デナリは100万だ。 6億の借金をチャラにして貰った人が、千円貸した 人を赦せなくて牢にぶち込む事になる。 人を赦さない心は、牢獄に入る事になる。 自分で自分を閉じこめる。四六時中、憎む相手に がんじがらめにされる。苦しいのは相手ではなくて、 ただただ自分だ。 自分の一人相撲で、心が怒りと恨みの悶々状態で、 楽しい時も全く楽しくなくなる。喜びと平安の全くない 暗闇、まさに牢獄だ。 結局、相手に自分の人生がコントロールされている 事になる。何とつまらない。 そこから、自由になれるのに、自分で牢獄を選んで いる。 どうにもできないのでなく、自分で選択している。 Aさん「わかるう!!その通り、牢獄だー。 怒りと憎しみと悶々で、全然喜びも平安もなく 楽しい時も楽しくなく、その通り!! 赦した時、もう心晴れ晴れ(^^)心すっきりして、 平安で、喜びが来て、すがすがしいといったら!! ほんとに、何を一人で悶々としてたのかと。 バカバカしい(笑) もっと早く赦しときゃ良かったと(笑)」 Bさん「赦そうとしない、すっごい自我なんよねー。 自分を被害者にしてしまうから、そこがサタンの 落とし穴で、自分は悪くないと思ってしまう。 自分の自我が決して見えない。だからずっと 牢獄の中。」 メル友のCさんから、恵みの証しが。 相手からひどく傷つく言葉を受けて、赦せない心 で一杯になり、悶々の数年間。 相手に、もしや癌?の状況が発生し、福音も まだちゃんと伝えてなくて、神様の前に悔い改め、 祈っていると、 「私たちの負い目をお赦しください。 私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しま したから」マタイ6:12 赦して下さい!!の次に、「負い目のある人たちを 赦しました」との主のお言葉。 え?!まだ赦してない!!! 「神様、赦します!!助けて下さい!!」 結果、誤診が判明、すべての事が導かれ、 本物の平安を受けた。苦しみの数年がバカバカ しくてと。 そして、ご夫婦間がラブラブに!! 自分が赦すから、赦されること、教えられる。 赦さなければ、自分も赦されておらず、牢獄の中だ。
2008年07月23日(水) 「二つの声」
Aさんが、ものすごく腹の立つことがあって、 怒りが湧き上がって、もうどうにもおさまらず、 ケーキを二つ買って、一人で食べた(笑) 一言二言祈ったけれど、何も変わらず、祈り は効き目ないと思いながら、二つ共平らげた。 怒りはおさまらないが、でも、考えていたら、 自分の側にも配慮が足らなかったり、もっと ああしたら、こうしたら良かったのではないか、 自分も悪いのではないかと、思えた。 後で、ああ、これが御霊様なのだと思った。 でも、その御霊の思いを、サタンが肉に来て、 いいや、そんな事はない!やっぱり相手が悪い! 悪いのは相手だ!と自分を正当化する。 自我は、そうだ!そうだ!とそっちに走る。 自我は強い。自分が悪いなどと絶対に認め たくない。相手を攻撃して行く。 後で、振り返ると、よくわかる。 怒り狂っている時は、自分の事など吹っ飛 んでる。 自分が悪いなどという発想自体が全然無い。 悪いのは100%相手だ。 いつの時も、聖霊様は働いておられ、「いいや、 そうで無いのでは?」との思いが、フッ、フッ と湧いて来る。 しかし、即、その思いを否定し、打ち消す。 いいや!そんな事はない!サタンがすぐに来る。 人に同情を求め、自己正当化を計り固める。 これは効果てき面だ。 教会へ来ると、気づく。肉とサタンと、御霊の 働きを。 「ああ、そうなんだ。一言二言の口先だけでなく、 心の洗いざらいを神様のもとへ持って行って、 ちゃんと祈る必要があったんだ。 心の底まで神様と交わると、平安が来るよね。 それで、相手に言うべき事はきちんと言わんと いけん。 的はずれなことして、ああ〜あ、ケーキ二つも 食べて、太った!」(大笑) Bさん「そうそう、怒り狂ってる時は、もう全然 わけわからん状態だけど、冷静になって考えた 時に、必ず、自分も悪いのでは?との思いが 来るよね。 御霊様が語って下さってるんじゃ、ほんとに感謝」 Cさん「夫婦喧嘩した時に、もう怒り心頭で、相手 を責めまくって、攻撃して、怒り狂って、時間が たち落ち着いて来て、冷静になった時、 そうやって、相手を責め、攻撃している事自体が 間違ってるし、自分もかなり悪いとの思いが来る。 そして、謝罪の言葉がきれいに浮かんで来る。 これこれ、こう謝りなさいと一言一句きれいに浮 かぶ。ほんと御霊様だと思う。 自我は絶対にそうしたくなくて、断固拒否だけど、 でも、御霊様に従うと、神様の潤いや温もりや愛を いつも感じる」 どんな時にも、必ず聖霊様が働いて助けて下さっている。
2008年07月21日(月) 「肉」
Aさん「肉で行った事があるじゃないですか。 祈りもせず、自分の欲望で、自分の思いで 行って、失敗してしまったこと。 その後で、いろんないわゆるマイナスの事が 起こる時、自分が肉で行ったから、自業自得 だとの思うが来る。」 「え?それって、バチが当たったってこと?」 「そう。バチというか、自分が悪い事をしたから、 悪い事が起きても、神様に頼るのは筋が違う みたいな」 「へ?でも、悔い改めたんでしょ?」 「はい、悔い改めました」「じゃ、赦されてる」 “わたしは彼らのとがを赦し、彼らの罪を二度 と思い出さないからだ”エレミヤ31:34 「罪が完全に赦されてる。刈り取りはして行く けれど、罪が赦されてるからこそ、刈り取っ て行ける。刈り取りは訓練となり、それも又、 益として下さる。」 「完全に赦されてること、嬉しい。でもね、 祝福も見えるんです。今、すごく自分が神様 を求めていて、こんな事、初めてで。 以前は幾らでも、求められる環境にあったん ですが、全く求めが無くて、焦点が合ってなか った。 でも、今、思い通りにならない環境の中で、 神様求めている自分がいる。神様の祝福 を感じていて、嬉しいです」 Bさん「肉って、腐ったものというか、自分の 肉が、相手の肉を引き出してしまうんですね。 肉が、肉を触発して行く。 こちらが肉で対応すると、相手の嫌な部分、 醜い部分を誘発し、どちらもドロドロの醜さ を暴露して行く。 双方の醜さがあらわになるだけでなく、双方 で傷つけ合う。 こちらの醜さ、汚さが、相手の同じものを 引き出してしまう。御霊に導かれて行かな ければ、本当に泥沼ですね。双方でものす ごく傷つけ合う」 「“御霊によって歩みなさい”御霊によって 歩まなければ、とんでもない罪を犯して しまう。」 肉は御霊に逆らい、御霊は肉に逆らう。 “もし私たちが御霊によって生きるのなら、 御霊に導かれて、進もうではありませんか” ガラテヤ5:25 御霊に導かれて歩む時、相手も御霊に よって導かれ、双方で引き上げられて行く。
2008年07月20日(日) 「行き詰まりは、しあわせ」
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせ でした。私はそれであなたのおきてを学び ました」詩編119:71 いろんな人々が、行き詰まったから神様を 求めたと言う。 行き詰まらなかったら、求めていなかったと。 Aさん「小さい時は教会へ行ってたが、神様 離れて、自分の好きな道へ、思うように歩ん で行った。神様は飛んで行ってしまっていた。 いろんな事で切羽詰まって、ふと教会へ行 こうと思った。」 「じゃあ、切羽詰まらなかったら?」 「あ、それはもう帰ってないですね(笑)行っ たままです」 「では、切羽詰まって良かったんじゃ」 「はい!良かったです(笑)」 Bさんが若い時に、熱心に教会へ行き、伝道 活動も、当時の青年方と一緒に懸命にやって いた。 ところが就職して、世に出た途端、世が新鮮で いつしか世の中の楽しみで、生活がいっぱいに なり、神様から離れてしまった。 やがて、結婚して、育児やいろんな事で行き詰 まりを感じて、どうしても教会へ行きたくなった。 転勤、転勤で、全く知らない教会で、外から何度 か様子を伺いつつどうしても入れなかった。 ある時、そっと様子を伺っている自分を、一人の 婦人が見つけてかけ寄って下さった。でも、なぜか 自分は逃げ出してしまった。 すると、その婦人は止まらないで、どこまでも追い かけて下さった。やっと足を踏み入れられるように なり、神様の御前に悔い改める事ができた。 それ以後、ずっと神様に従っておられる。 あの時、婦人が、諦めないで追いかけて下さった ゆえですと。 神様は、どこまでも追いかけて下さるんですねと。 Cさん「ずっと小さい時から教会に行っていて、小 さい事はただ楽しかったんだけど、思春期になる と、何で毎週教会へ行かないといけないのかと、 思うが、もう行くもんだと思ってるので、身体は行 っているが、心は全然無かった。 心は全くなくて、今から思えば、何しに教会へ行っ てるんだろ(笑)と。 でも、そんな中で、学校の友人関係ですごく辛い 事があって、心が苦しくて、苦しくて、どうにもでき なくて、その時に初めて、神様!神様!!と心か ら、もう必死に求めた。 あれがあったから、今がある(笑)あの苦しみが 無かったら、神様を全然求める事が無かったと 思う。試練は辛いけれど、やっぱりそれが無いと 神様求めない。ほんとにあの時、試練があって 良かった、しあわせですと、心から言える」 Dさん「以前も嫌ではないので、聖書のお話聞い ていたが、もう全く頭の中だけの話。実生活は 全く関係なく、結びつかず、自分で生きる、自分 で切り開く、自分の力でやる、自分、自分・・ でした。 そこにガーン!!ドカーン!と自分では完全に どうする事もできない試練が来て、神様のもとに もう飛んで来て、救いと平安と喜びを頂きました(笑) 今思えば、あの試練が感謝で、感謝で(笑)あれ が無ければ、いまだに絶対に神様に出会ってない です!」 自分自身振り返っても、真に神様に出会ったのは 試練の中だ。 「神を求める人はいない。すべての人は迷い出て みな、ともに、無益な者となった」ローマ3:11 神がそう言われるからには、ほんとに、人間て神を 求めないんだ、放っておかれたら、どうなっていたか わからない。 苦しみに会ったことは、しあわせだったと心から 思う。そのつど、何より神様を知って行けるから。
2008年07月17日(木) 「窮地は恵み」
「ほむべきかな。主。主は包囲された町の中で 私に奇しい恵み施されました」詩編31:21 イスラエルが、出エジプトを果たし、荒野に出 たが、エジプトの軍隊が追って来て、前は紅海、 後ろは軍勢、前に進む事も、退く事も出来なく なった。まさに絶体絶命だ。 そんな中で、神様の奇跡を見る。モーセに前進 するように、神は命じられた。モーセが杖を上げ、 手を海の上に差し伸ばすと、神は海を陸地とされ、 水は分かれた。 道なき所に、道ができた。 絶体絶命の所に、道ができる。 Aさん「まさに、それだったです。今回一つの大 きな決断をするのに、状況はもうまるで反対を向 いている。 この世的には、状態は全く整ってなくて、常識は ずれだし、無謀に見える。 でも、祈り続けていたら、神様が前進しなさいと 言われる。進みなさいと。 神様のゴーサイン、導きに平安与えられて、決断 した。 その結果、今、すべてが導かれて、備えられて、 その時は、先は全然見えなかったが、すべての必要 がすでに備えられていたんだと、驚くばかり。 今、本当に祝福されて、幸せいっぱいで、感謝で 感謝でならない。神様は喜びと幸せを下さって、 本当に道が無かった所に、神様は道を造って下さった」 Bさんが「離婚後、初めて撮った家族写真です」と、 とても素敵な笑顔の母子の写真を送って来てくれた。 あの頃は、もう絶体絶命で、何もできず、何も考え られず、朝起きて、ひと息、息をするのがやっとだ った。 ひと息、ひと息、ただ息をする事だけで、精一杯だ った。泣いて、泣いて、ずっと泣いていた。全く、 一寸先も見えなかった。 数年経た今、すべての必要備えられて、神様が進む べき道を造って下さり、神様が心の満足と幸せを下 さっている。喜びもって歩んでいる。 夫婦に大危機を経験した、友人のCさんも 「もう絶体絶命で、泣いて、泣いて、一日中泣いて 暮らした。泣いても泣いても、涙が止まらず、涙が こんなによくあるものだと思った。毎日毎日泣いた。 神様が支えだった。拠りすがっていた。泣いては祈 り、祈っては泣きの毎日だった。ずっと泣いていた。 本当に夫婦に奇跡をして下さって、今、穏やかな、 平安な、喜びの日々が与えられている。 ほんとに奇しい恵みを施して下さった。神様が嬉し くてならない」 三人の幼い子供さん残して、ご主人に先立たれた Dさん 「あの時はもう、私の人生で二度と笑う事はないと 思いました。でも、今、笑えますもの。楽しい、喜 びの日々を与えられています。 この事を通して、神様に取り扱われ、本当に奇しい 恵みを施して下さいました。感謝しかないです」 どうにもできない窮地の中で、主は奇しいわざをし て下さる。恵みを施して下さる。
2008年07月15日(火) 「神の栄光が」
神の御心なら、必ず良きに導かれるとの話になる。 Aさんが泣く泣く、ストレスで体調まで壊して、 この世界の、ある事の役を引き受けた。 長となって、皆の前に立って、まとめて率いて行か ねばならない。 一人一人にそれぞれの意見があり、様々な思惑が ある。勿論反対意見もあるし、それらをまとめて、 一つの形に仕上げるのは、多大なストレスだ。 自分は全然向いてないし、できないし、したくなかっ たけれど、御心によって、このように導かれたことが 今は、感謝です。ほんとに砕かれます。 対人関係においても、様々な事を学べて感謝です、と。 したくはないし、自分からは決して選ばないけれど、 神様によって与えられたことに、従って行く時に、 必ず祝福があり、成長させられる。 真に神様の助けが来るので、周囲も神様を見る。 一人が神様に従うと、周囲も神様の栄光を見て 恵まれる。 Bさんが、少し家計に必要ができて、数時間の パートが与えられるよう、祈り、皆も一緒に祈って いた。 登録をして、数ヶ月経た事、一つの仕事が来た。 パートでなく、フルタイムで、バリバリ営業の仕事。 まず営業は絶対無理と、子供まだ小さく、まず夫 が反対するだろうと、これは御心でないと安心 していた。 すると、何と夫さんが、いいんじゃない、やってみた らと、子供のことも、家事も協力するよ、と。 ガーンで、環境が開いてしまった。 祈っていて、祈りの結果与えられたのが、ものすごく ひっかかって、これは神様から来たと、感じてて、 電話してきて、おいおい泣いた。 絶対無理、フルタイムで、ましてや営業などと。 契約を取って来る仕事だ。しかし、祈って与えられた もの、とにかく、神様に従うと一大決心。 ふたを開けてみると、どんどん契約が取れて、 奇跡が起きた。必ずコンスタントに契約が取れる。 奇跡、奇跡、神様!神様!!と。Bさんは絶対に 自分の栄光にしない。神様が与えて下さった!又、 与えて下さった!!すべて神に栄光を帰していた。 周囲も、神様が与えて下さった!!神様すごい! 神様すごい!と神の栄光を見て行った。 自分に絶対無理なことこそ、神の栄光が現れる、 そして自分に栄光を帰さないから、ますます神の みわざが現される。 「神にとって、不可能なことは一つもありません」 ルカ1:37
2008年07月13日(日) 「わたしの平安」
当時、まだ求道中だったAさん、長子さんの進路で ギリギリな時期に、教会に飛び込んで来られた。 もうプレッシャーとストレスで、親の方が胃がガンガン 痛み、ガチゴチで。思い煩いと心配のどつぼにおら れた。見るからに、ストレスで固まっておられた。 その求道中だったAさんが、はっきりとイエス様を 信じて、救いに入れられた(^^) そして、今回、次子さんの進路を目の前に控えて、 もう余裕、余裕で、平安そのもののお顔。 「いや〜感謝です!!変えられました(笑)神様が 最終的に、子供のために最善をして下さると、信じ れるので、ほんと平安なんです。 仮に、自分の最終的に自分の思いと違ったとしても、 それが子供のために、一番良いのですものね。 神様が決めて下さるからには、ほんと信じれます。 以前、長子の時に、決まった進路が、親の私の思いと 違ったんですよぉ。 でも、その中で、子供がそれは生き生きと、ほんとに 良さを発揮できて、伸び伸びと過ごさせてもらったん です。ほんとに、子供にとって一番ふさわしい所だった んです。 神様が与えて下さるのは、自分の思いとは全く違う けれどまさに、最適、ふさわしい所だと経験しました。 神様に選んでもらい、決めてもらうのが一番確かです。 だから、今回も、どのようになれ、思った所ともし違 ったとしても、子供にとって最もふさわしい所へ導い て下さるので、気持ちがものすごく楽で、安心なん です。これって、すごいですよね!! でも、人間の思いと神様の思って、ものすごく違う んですねえ。 常識的に考えて、いろんな面から判断して、これは こうが絶対良い!と思うんですが、御心は違って る事がしばしばなんですよぉ。 知人が悩みを抱えていて、本人のためには、〜〜 の道が一番良いと思うんですが、ただただ、その人 のために祈ってたんです。 すると、結果的に全然違う選択されて、全く違う方向 に行かれたんですが、でも、ずっと祈ってたから、 その人にはとっては、その道が最もふさわしく、後に は良かったと言えるんだと思えたんです。」 使用前、使用後のように、まあ歴然と違うAさん。 「でもまあ、あの頃とえらい違いじゃ〜」 もうニコニコと満面笑みでAさん 「はい、もう本当に感謝で、感謝で。心が楽で、 どんな結果が出ても安心なんです。神様のお陰です」 “わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは あなたがたにわたしの平安を与えます。 わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは 違います”ヨハネ14:27
2008年07月11日(金) 「愛が大事」
Cさん「人に注意するのって、難しいですよねえ。 言わないといけない事でも、ややこしくなるのが 嫌で、もう黙ってしまう。それって、違うよねえ」 皆が「わかる、わかる」 「言う方がしんどいよね。黙ってたら楽で。 悶着起きるのが、面倒だし、フォローも大変だし」 「でも、“愛をもって真理を語り”と言われるから、 御霊が語れと言われたら、語らないといけないよね。 「放っておくと、肉は、問題起こしたくないから、いっ さい関わらない、事無かれ主義になってしまうよね。」 「きちんと、間違っている事は言わないといけんです ねえ。祈って、祈って、自分が整えられてからでない といけんよねえ」 「私、それで失敗したんですよ。知人が、親族にそれ は世話になって、ようしてもらっとるのに、口から出る のは文句ばかり。文句と不平不満のみ。 はたから見たら、まあ、あれだけようして貰っとって、 どこに文句があろうか、なんですよぉ。 それである時、『あんたねえ、ちょっとは感謝したら!』 と言ったら、それ以後、ぷっつり連絡途絶えて、いっさ い音沙汰無し。 それでね、愛が無かったと反省してる。 まず祈りが無かった。全然祈ってないし、祈って言った わけでなく、言ってる事は正しくても、間違ってたと。 愛から出ていない。やっぱり愛じゃなくて、裁き心で 言ってるから、相手に届かないんだなと。 裁いてるんですよ。 「愛が無かったら、言わない方がいいよね。むしろ、 黙ってた方がいい。肉で言うと、余計問題を大きく するし、実にならない。 “愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバル と同じです”になる。どらや、シンバル。うるさいだけ。」 「言う時は、その人のために祈って、祈って、言わん にゃあいけんねえ。自分だって欠点だらけだし、よく 整えられて」 Gさん「ちょっと商品を取り替えて貰うのに、店員が 物凄く横柄で、もう失礼な態度だったんですよお。 客相手の態度でなくて、もう余りにもひどい」 Kさん「それ、“愛をもって真理を語り”だから、愛を もって注意したらいいいじゃん」 皆で「結局、一番大事なのが愛なんですよねえ」 “愛によって働く信仰だけが大事なのです” ガラテヤ5:6
2008年07月09日(水) 「問題は自分」
「赦し」について学んで、何やかやと語り合う。 一番の落とし穴というか、ネックは、自分が 被害者になってしまって、自分が見えなくな ってしまう。 悪いのは相手であって、自分は被害者、だから 自分は悪くない、自分は正しい。 でも、その心に、赦せない思い、恨み、裁く思い がある。それは罪であり、自らの罪だ。 相手は関係無い。 信仰は、自分と神様の関係がすべてだ。 自分と神様の関係が正しければ、どんな状況 であれ、心は全き平安だ。 人は誰も、その平安を奪うことはできない。 例え、加害者でも、神にある平安を奪う事は できない。 平安が無く、心が苦しく、辛いのは、相手のせい でなく、相手を裁いている自分の罪のゆえだ。 するとAさんが「私、それだ!今日初めてわかった。 色々な対人関係があるが、相手がどう見ても変な 場合、自分はまるっきりの被害者に思ってしまっ てて、相手が悪いとしか見えない。 どう見てもそうしか見えない。でも、自分が全く見 えていなくて、結局、自分は正しくて、正しいから 赦される必要がない。 十字架が要らないと言っているわけですよね。 罪は無いというから、真理も無いし、神を偽り者と することになって、神の言葉も自分の内に無いと いうことになりますよね。」 Aさんが、祈りの中で悔い改めた。 「自分の罪を認めます。自分の方が弱者だという 陰に隠れて、実は赦さない頑なな心があり、裁いて います。この罪を赦して下さい。」 “もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いて おり、真理は私たちのうちにありません” “もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神 を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうち にありません” “もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実 で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から 私たちをきよめてくださいます”Tヨハネ1:9 以前、友人宅に遊びに行った時に、丁度友人の知り 合いも来て、一緒に色々語り合い交わった。 その中で、その知り合いの方が証しをして下さった。 夫がギャンブルにのめり込んで、お金をそちらにつぎ 込んでしまう。 生活費がどうにもならず、生活が成り立たない。 夫婦喧嘩が絶えず、家にいると喧嘩になる。 やがて給料をそっくり使うようになり、離婚を考えた。 悩み苦しんで、心悶々の日々で、藁にもすがりたかった。 教会に誘われたので、心の支えが欲しくて、行った。 聖書の学びをしていた時、突然、心に光りが射し込んだ。 明らかに、どう見ても、誰が見てもギャンブル狂の夫が 悪い。 しかし、夫を裁き、見下し、軽蔑する自分の恐るべき高慢 の罪が、初めて見えた。 夫を責めるだけの自分、喧嘩の絶えない日々、それが 又、夫を更にギャンブルに追いやっていたと、初めて思い が至った。 涙ながらに悔い改め、夫にも謝罪した。 もういいと思えたのに、不思議に、夫のギャンブルが止んだ。 御霊の光に照らされた時、初めて自分の姿が見える。
2008年07月09日(月) 「鋼鉄のごとき」
遠方の主に在る友から便りが届く。 海外在住だ。 日本の伝道は大変ですね。帰国して、実家が 田舎だったので、もうその大変さをつくづくと 肌身に経験して来ました。 こちらで、教会の宣教活動で、一軒一軒ドアをノ して、御言葉を伝えて、参加して奉仕しています。 罪のこと、罪には裁きがあること、主キリストが そのために十字架で死なれたこと、信じるだけ で救われ、天国へ行けること、その福音を 聖書を開いて、伝えています。 救われる人が起こされて行くんですよ。 目の当たりにすると、本当に嬉しいです。喜びです」 御言葉を伝えると、信じる人が起こされるという。 50軒も回れば、必ず一人は救われると。 救われる人が起こされ、加えられて行っていると。 日本は全然違って大変で、まして地方に行くなら、 もう何倍も大変だと。土壌が違うんだろうねと。 固い、頑強な、強固な土地で、地道に地道に労して おられる働き人の方々を思う。 でも、天国へ帰った時、神様は「忠実」を見られる から、よくやったと、天の報いは大きいんだろうな。 「よくやった。良い忠実なしもべ」マタイ25:21 報いは天国だよね。全部の結果は天国で。 最近、20数年祈って、家族が救われた方々を、 続けて目にして、 特に親族の救いは、忍耐を教えられ、「いつでも祈る べきであり、失望してはならないことを教え」られる。 そんな事を話していると、皆が言う「ほんとに自分 が救われたのは奇跡ですね。 何で自分は救われたんだろう?何で信じれたん だろう?」 「二千年前に死なれた人をね。不思議だ。」 そして、もっと奇跡は、自我が砕かれて行くこと。 強烈な自我で、殻は強固で、何をもってしても 砕かれようがない。 互いに話していると、人のは互いに、ものすごく はっきり見える。 「そりゃ自我じゃん」「自我から来てて、肉がそう 動いて、サタンに引っ張られたんじゃ」 「自我が強い」「ああしたのも、こうしたのも自我 から出てる」 自我は鋼鉄の要塞。鋼鉄の殻、何をもってしても 砕けない。奇跡。神様にしかできない。 救われたこと、砕かれること、神の奇跡!! 神のみわざ。まことに生ける神が働いて おられる。
2008年07月05日(金) 「自分の中でぐるぐる」
わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、 わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。 ―主の御告げ― 天が地より高いように、わたしの道は、あなた がたの道よりも高く、わたしの思いは、あなた がたの思いよりも高い」イザヤ55:8 Aさんが「しみじみと、ほんとに経験しました。 全然自分の思いと、神様の思いは違うんですねえ。 思ってもみない、思いになど全く無い、想定外の ことをされるんだなあと。思いの遙か圏外のこと をされる。もう、思い、及びませんねえ」 様々経験して、むしろ自分の思いは違うんだと 思っていたら良いんだと、学ばされました。」 神がはっきりと「あなたの思いと異なる」と言われ るからには、人間が思っている以上に、かなりに、 大幅に違うんだ。違うんだと思っていて丁度良い。 以前の青年会で、B先生から「信仰」についての 学びの中で「自分の中で、ぐるぐる」というのが あった。 神は、自分とは違う存在、全くの第三者であり、 だから第三者なら、その人の意志があり、考えが あり、思い、感情がある。全く別の人格だ。 その別人格であられる方を、信じるのが信仰であり、 だから、別の人格を持たれ、思いを持たれるから、 別人なので、自分とは全然違う。違って当然。 それが、自分の思いの中に、神を取り込み、神と は、ああで、こうでと、どこまでも自分の思いの 中で、ぐるぐるする。 つまり、神と接触していなくて、自分の思い込みの 中で行ったり来たり。思いが強いとそうなる。 自分の思いの中で、ぐるぐる、なので、神とは人 間が理解できる範囲を越えない。必ず人間の理解内、 想定内になる。 しかし、実際の神は理解を越えているから、必ず意外 であり、大きな驚きであり、想定外になる。 御言葉を求めるが、自分の思いがあるばかりだから、 無意識だが、自分の思いに合った御言葉を取って来て、 自分の中で、ぐるぐるとなる。 「すべての事が、自分から発し、自分によって成り、 自分に至る。栄光が自分にあるように」となる。 神に触れてなくて、自分の中でぐるぐるしている だけ。 Cさんが「何か、それ、すごいわかります。ふと、そう いう事を考えてたんです。自分もそうだなあと」。 「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が 健全なら、あなたの全身は明るいが、もし、目が悪け れば、あなたの全身は暗いでしょう」マタイ6:22 ほんとに目が間違っていたら、すべてが目から入るから、 何もかも間違ってしまう。 目が自分の思い込みなら、その思いで、すべてを判断し 見てしまう。自分が見ているその見方が、目が間違って いたら、正反対の方向へ行ってしまう。 自分はこう見えているけれど、自分の思い込みかも知れ ない・・思いは違うことをわきまえて、へりくだって、 明け渡して御霊に導かれて歩みたい。 御霊によらなければ、ほんとに見えないんだ。 自分の思いがあるばかり。
2008年07月03日(木) 「すべて満たしてくださる」
Aさん「祝福があったんです!この間、教会の必要 のために教会債をしたんです。 すると!突然降って湧いて、それより少し多めが 与えられて!ほんとに天から降って来たんです! もうびっくりで、神様すごいなあと、感謝でした」 以前Bさんが、まだ教会へ来始めて、そんなにたたず、 経済的苦境に陥った。Bさんは生まれて初めての経験 で、不安で不安で、思い煩いのどつぼだった。 「絶対に与えられるから、大丈夫だって!」と幾ら言って も、経験がないから、もう恐怖だった。 でも、真実なる神様は、溢れるばかりに満たされた。 それから、何度も、何度も、経済的困窮の度に、奇跡 が起こり、満たされ続けた。 何年かたった時、Bさんは言った「この度もお金が無くて 大変だけど、神様はどのように与えて下さるか、楽しみ だ」。 Cさんも経済的に大変な状態で生活されているが、 全く思い煩われない。 「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが 心配します」マタイ6:34 毎日一生懸命働かれるが、明日の事は全然心配され ない。見事なまでに、神様に委ねておられる。 明日は神様がおられ、御手に握られている。 とにかく今日飢えていない、食べられるし、今日身体 が守られて働けている。だから、今日感謝と。 そうやって、ずうっと、天国へ行く最後の日まで、全く思い 煩いなく平安に過ごされるんだろうなと。 それが神様の喜ばれる、御心なんだなと。 すごい!!世の人は、お金があっても思い煩っている。 本当に教えられ、励まされ、恵まれる。 Dさん「今、なすべき事、御心示されてるんですが、それ に伴う費用が無い。働いて稼ぐという発想しかないが、 状況的に難しくて、でも、皆の証しを聞いていて、ほんとに 必要なら、神様はどこからでも、降って湧いてでも与えて 下さるんだと。 神様がどうやって与えて下さるのか楽しみにします!!(^^)」 以前、Yさん、ある時家に全くお金が無くなってしまった。 とり急ぎ、何が何でも赤ちゃんのミルクと、親の介護の 紙おむつの必要が生じた。 それを買うお金が無くて、未信者のご主人がとりあえず、 友人に借りに行くと言った。 その前に、すぐそばに住む親をのぞきに行った。 Yさんは、夫は借りるというが、とにかく神様に祈ろうと 夫が出ると、すぐに祈り出した。 心を注ぎ出して、すべてを申し上げて、主と交わり、 必要を求めて、切に祈り続けていた。 祈り続けていて30分か40分経た頃、ふと後ろに人の 気配がして、振り向くと、そこにご主人がミルク缶と 紙おむつを両手にぶら下げて、立っていた。 もうびっくりして、「どうしたん?」 親をのぞきに行くと、そこに所長が見舞いに来てくれて、 見舞金をくれた。申し訳なくて頂けないと言ったが、気持 ちだからと言われ、それでとりあえず、ミルクと紙おむつ を買って来たと。 打てば響く即答に、もう驚き、感謝した。 そして、何とその日、大型ショッピングセンターの新築 開店日、食料が桁違いの激安バーゲン。 残りで、驚くほど沢山の食料が購入できた。 「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身 の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて 満たしてくださいます」ピリピ4:19
2008年07月01日(火) 「痛みが恵み」
振り返る時、自分の人生で苦しかったあの事、この事 があったゆえに、神様のもとへ来れた、導かれたよね と話す。 Aさん「人生で、この事が無ければ良かった失敗をして しまった。その苦しみを抱えて、神様のもとへ来れた。 神様に出会って、その失敗を悔い改めて、赦して頂いた。 その時の、平安、喜び、安堵が忘れられない。 痛い、苦しい事だったけれど、それが無かったら、 絶対に神様など求めていない。 神様に出会えて、その後の人生、神様と共に歩めて 感謝してもし尽くせない。」 Bさん「もう限界オーバーになってしまい、自殺未遂 をしてしまって、まだ子供の小さな小さな時だったが、 子供が見ていた。それ以来、子供も情緒不安定で、 自分も育児ができなかった。 何をどうして良いかも、わからず、苦しくて、辛くて、 悶々状態だった。助けと救いが欲しかった。 そんな時に、丁度、知り合いになった友人が教会へ 誘ってくれた。心の支えが、助けが欲しくて教会へ来た。 神様の愛を知って、本当に世界が一変した。自分が 変えられた。もし、すべてが順調で、何の悩みも無かっ たなら、来ていない。苦しんだ事も、感謝だったと思える。 Cさん「友人から教会には誘われてたが、離婚の危機 になって、心底神様を求めた。 その時、自分の自己中心、わがまま、自我の罪深さに 脳天打ち砕かれた。自分の事しかなかった。 愛というものを知らなかった。神様の愛を初めて知った、 犠牲の愛、一方的な愛、与えるだけの愛、自分を捨て る愛、もっと早く神様を知っていたなら・・。 でも、もし離婚になったとしても、人生途上で、自分の 罪に気づけ、自分の姿に気づけた事が感謝でならない。 神様に出会えた事が、もう何にも替えられない」 メル友Dさんも、子供の小学校入学からお母様方と うまく行かなくて、何をしてもぎくしゃくしてと。 しんどい日々が続き、そんな中、親族ともうまく行かず、 あっちもこっちも、そんな頃、教会へ行っている方と 出会いが与えられ、教会へ。 その後も、主婦の立場で、家を抜けて礼拝を守る事 は大変で、しかし、その中でこそ、神様の恵みや守り 愛、導きを知れた。 「何でも自分の思い通りにいっていたら、イエス様を 知ることも、心にお迎えすることもできず、滅びに向 かっていた・・」 本当に、振り返る時、思い通りに行かなかった事、 思い通りでない人生だった事が、感謝で、感謝で ならない。 こんなに素晴らしい神様と出会えたのだから。 思い通りでない人生を、有難う!! いろんな方々の話を聞いていると、「愛されてる!」 神様に本当に、愛されている、と感じる。 「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。 私はそれであなたのおきてを学びました」 詩編119:71 ある著者が言った「神に深く傷つけられた人しか、 神は用いられないのではないだろうか」