2008年10月30日(木)
  「主の良くしてくださったこと」

今日Aさんに出会うやいなや、

「与えられたんですよー!!」(^^)/

「え?どうやって?」

実はAさん、所持金が数えるほどになってしまった。
困った、困った、色々必要があって、どうしよう。

「祈りよ!祈り!」「そうですよね。今までずっと
祈って与えられて来た。祈ります!」

丁度、貧しいやもめが、レプタ2つ投げ入れた
箇所を学んでいた。

イエス様はやもめの献金を喜ばれた。

そして「どの人よりもたくさん投げ入れました。
乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部
を投げ入れたからです」

やもめは、生かされていること、守られている
こと、愛されていることの感謝が溢れて、何も
かも持てる全部を献げた。
あとの生活は神様を信じ、神様にお委ねして。

その献金と、その心をイエス様はじっと見て
おられた。

Aさんは、礼拝での献金の時に、今まで神様
がどんなに良くして下さったか、どんなに愛して
下さったか、感謝が溢れたそうだ。

振り返ると、必ず必要な時に、すべての必要
を与えて下さった。心に平安と喜びを下さった。
自分を祝福の器と用いて、家庭を祝福して
下さった。家庭が変わった。

本当の愛を知り、生きる目的を知り、自分を
根底から変えてくれた。
余りの祝福と恵みに、感謝が溢れて、その
僅かばかりの全所持金をすべて献げた。

前回お金が無くなった時、祈って祈っていたら、
机の奥から、全く忘れていたデパート券が
出て来た。
その前は、祈りに祈っていると、昔入れた
ままの貯金箱からお金が出て来た。

「今回も何かあるかもよ!」

その言葉が心に残り、帰って沢山持って
いる通帳を銀行で一つ一つチェックした。

すると、○千円のお金が入っていた!

「わあ、すごい!良かったねえ!!(^^)/」

そんな祝福を聞いていて、


しみじみと、自分自身にも神様は今まで
どんなに良くして下さったか、に思いを馳せる。

数え切れない恵みと祝福が、洪水のごとく
溢れた。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
あなたの一生を良いもので満たされる」
詩編103:2


2008年10月28日(火)
  「神の時」

青年の特別集会に、久し振りにAさんが来会。
以前に来て下さっていて、ずっと祈っていた。

今回は自分から、集会の日時を尋ねて、来よ
うと思って、来ましたと、来会感謝。
皆で大喜び(^^)/

同じく、最近、Bさんが続けての来会。
ずっと以前に、教会に行ったことがあったが、
よくわからず、途中で行かなくなってしま
いましたと。

聖書に関心はあったが、何か自分の内でも
ピントが合わず、よくわからなかった。

何年も経て、そんなこんなしていた時、親の死
を迎えて、色々考えるところがあり、教会へ行
きたいと思った。

それで、丁度引っ越したところ、近くにあった
のでと来て下さった。
聖書をきちんと初歩から学びたいと、心を定
めて来て下さっている。

Cさんは、クリスチャンホームに生まれ、育ち
余りにも恵みの中過ぎて、その恵みがわから
なかった。

「一世の人たちは、この世の虚しさを知って、
この世が虚しいから、イエス様のもとへ来た。
でも、二世は最初から、恵みの中にどっぷり
なので、それが恵みだとわからない」

「神様信じてるし、天国へ行けるし、いい
じゃん。それ以上の何が必要なん、と思っ
てました」(笑)

「この歳になって、やっと、神様知りたい、
もっともっと、神様の素晴らしさ知って行き
たいと心から思えています」

つくづくと、しみじみと、「神の時」がある
のだなあ、と教えられる。

「天の下では、何事にも定まった時期があり、
すべての営みには時がある」伝道3:1

「神の時」・・神の主権と支配の中で、不思議
をされる。神が、神の時に、状況を按配され、
神が心を開かれる。

「神のなさることは、すべて時にかなって
美しい」3:11

今祈っている、B,C,D,E,F・・さん方、
必ず、神の時に、神が臨まれ、心を開かれ
ると、励まして下さった(^^)/

「私は主を待ち望みます。私のたましいは、
待ち望みます」詩編130:5

「ですから、あなたがたの確信を投げ捨て
てはなりません。
それは大きな報いをもたらすものなのです。

あなたがたが神のみこころを行なって、
約束のものを手に入れるために必要なの
は忍耐です」ヘブル10:36

2008年10月26日(日)
  「気持ち」

献金の学びをした。

まず献金は大きな祝福であり、特権であること。

「ばらまいてもなお富む人があり、正当な支払い
を惜しんでも、かえって乏しくなる者がある」
詩編11:24

「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに
蒔く者は、豊かに刈り取ります」Uコリント9:6

「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち
足りて、すべての良いわざにあふれる者とする
ために、あらゆる恵みをあるれるばかり与える
ことのできる方です」9:8

ほんとに示された通りに献げて行くと、え?
何でこんなに献げられたのだろう?というほど
与えられて、又、献げることができる。
本当に溢れるばかりの恵みを経験する。
これは献げなければ、経験できない。

献げる心が大切。
十字架の贖い、御父のご愛、慈しみ、日々の
すべての必要へのご配慮、神への心からの
感謝を持って、お献げするもの。

月々の経済生活を献金を聖別して、スタート
させること。
聖別とは、神のために別にして取り分けること。

「あなたがたの贈り物を前もって用意していただく
ことが必要だと思いました・・好意に満ちた贈り物
として用意しておいてください」9:5

あらかじめ、聖別して、用意する。献げる心を整える。

A、B、Cさん「あー、そんなの全然していないわ。
献金になったら、バタバタ財布開いて、中にある
物を献金袋に入れている(笑)移してるだけみた
いな。
献げる心が全然備わっていない。祈って備えて、
献金をお献げして行きたい」

献金はお金への執着から守られる。
人間の貪欲は底がない。幾ら持ってもこれでいい
ということがない。貪欲は、満たされることが決し
てない。貪欲の罪は、不幸せで、悲惨だ。

貪欲は罠だ。「金持ちになりたがる人は、誘惑と
わなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚か
で、有害な多くの欲とに陥ります。

金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。
金を追い求めたために、信仰から迷い出て、
非常な苦痛をもって自分を刺し通しました」
Tテモテ6:10

神は、この世の誰も、何ものも、決して与えること
のできない、心の満たしを与えて下さる。神から
のみ来る。

「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受
ける道です」Tテモテ6:6

神は満ち足りる心を下さる。世の中の何ものも
与えることのできない平安と喜びだ。何と幸せ
だろう。

人間は誰しも弱い。富が幸せを与えてくれると
錯覚し、勘違いし、富が偶像になってしまう。
神に、忠実にお献げする事によって、心が金銭
にではなく、神にあるようにと、心が守られる。

神から任された金銭を、神に喜ばれるように、
どのように使って行きましょうかと、祈れるなら
OKだ。

富も時間も労力も賜物も、神から管理を委ねら
れている、私たちは管理人だ。
所有者ではない。所有者は神。かの日に、報告
を求められる。神のお心に従って、喜ばれるよう
に、賢く使って行けるよう、祈って行きたい。

献金を思う時にいつも、以前の強烈なインパクトが
忘れられない。

Dさんが3人目の出産のために、2人の小さな子供
連れで帰国して来た。
国際結婚で、ご主人は外国人。出産直前になって、
突然ご主人から離婚の申し出。
まさに青天の霹靂。呆然。無かった。全くわけがわか
らない。話し合いにも全く応じない。

パニックの中で、Dさんは色々考えた時に、自分が
いかに結婚生活いおいて、自己中心で、わがまま、
相手の事を考えていなかったかを思い知らされた。
異国の地で、ストレスを夫にぶつけいつも当たって
いたと。

自分の罪です。脳天打ち砕かれました。神の無条件
の愛、一方的な愛、与える愛、犠牲愛、知らなかった。
もっと早く、神を知り、神のご愛を知っていたらと。

今までの事を謝り、もう一度だけチャンスを与えて
欲しいと願うが、ご主人は拒絶。
そんな状況の中で出産。もう祈るしかなく、祈る
ばかりだった。心労のため、母乳は全く出なかった。

この事がどうなったとしても、人生の途中で、自分の
自己中心に、自分の姿に気づけた事が、本当に感謝
ですと。神様に感謝しかないと。

丁度その時に、教会で新会堂建設をしていた。
皆で、祈りに祈り、献げに献げていた。そんな中で
Dさんが、新会堂にと献金を持って来てくれた。
Dさんは経済的に極めて厳しい状況。

それを知っているので、「でも今、Bさんが大変じゃ
ない」と、「Bさんこそ必要だし」と言うと、「これ
は私の気持ちだから。どうしても神様にお献げしたい」と。

経済的に大変な中で、もう考えられないほど大変な
状況で、「私の気持ちだから」と献げたBさんに、
もう恵まれた。

献金は、神様への「気持ち」であること、心からの
感謝であること、この時のBさんの事がいつも思い
起こされ、献金の度に、教えられ、恵まれている。





2008年10月24日(金)
  「どこから落ちたかを」

Aさん「神様と近く、喜んで、平安に歩め
ている時はいいんですが、ちょっと流されて
神様から遠のくと、サタンが来てやられる。

すごく平安に、喜んで生活していたのに、
気づくと、思い煩いと不安と、古い生まれ
つきの価値観に戻って、世に流される。
平安が全くなくなってる。

教会に来て気づく。気づけるから感謝。
「どこから落ちたかを思い出し、悔い改め
て初めの行ないをしなさい・・」黙示2:5

どこから落ちたのかを考えると、いつも
必ず原因がある。落ちた場所があり、
思い当たる。
自分の弱さの部分に、知らず知らずに
サタンが誘惑して来て、それに乗って
行っている。
振り返ると、わかる事が感謝です。

幾ら恵まれていても、日々に神様に頼
って歩まなければ、すぐ自分の力に頼
ってしまう。

自分の力で何とかしようとして、どんどん
神様から離れてしまう。

先週、ちょっと事故でけがをしたんですが、
感謝でした。神様が気づかせてくれた。
あれは、神様が与えて下さった。

あのまま突っ走っていたら、古い性質がどん
どんのさばって、流されて行っていた。
ストップをかけてくれた神様に、ほんとに
感謝です」「愛されてる」(^^)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認
めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっ
すぐにされる」箴言3:6

主の支配と主権の中で、一つ一つの目の前
の事が起きている。
偶然など一つもない。起こる出来事を通して、
教えられる。又、自分の高慢や不信仰を示
される。

いつも悔い改めて、新たに御心に従って行
けることが感謝。

「でも、教会に来ると、鏡のように自分の
姿が見えて感謝です。
いつもなら、恵みの証しなど聞くと、心が
すごく共感して、嬉しくて、喜びで一杯に
なって、アーメンなのに、神様離れて、世
に流されてると、ぼお〜としてて、何も感
じない自分がわかる。
だから、こりゃおかしい、自分のおるべき
所が違うとわかって、立ち返れる。」

教会に来る度に、「流されていた」ことに
気づけることが大きな恵み。



2008年10月22日(水)
  「神のひと言葉で」

遠方の友から、素晴らしい恵みが送られて来た。

「宣教師のA先生が、定年後、退職後のために
積み立てられていた株式があった。

それを昨年、祈られ、新会堂建設のために
株式を売って、献金と教会債として差し出された。

もし、それをそのまま持っていたら、今年
資産価値として、数百万下がっていた。

主を信頼して、お献げしたら、無利子の
教会債として、老後のため手元に残されたと。

神が共におられるなら、大丈夫。神は決して
私たちを見捨てられないとのメッセージ。

いつ何がどうなるかわからない、混沌とした
世の中で、ある日、頼っていた貯蓄や資産が
紙きれになってしまう事もあり得るし、
年を取れば、健康も損なわれる、しかし、
主に信頼するなら、大丈夫と。

大事なものは一つだけと、御言葉から励まされ
感謝だった」と。

本当にすごい世の中になっていて、何がどう
なるかわからない。
ほんとにある日突然、資産が紙きれになると
いうのが、今、現実に起きている。

エリザベス女王の投資資産60数億が消えて
しまったと、新聞に出ていた。
それも有能で優秀な専門家に委ねていたと。

混沌としたこんな世で、絶対に揺るぐ事のない
永遠に変わる事のない、唯一確かなお方を
知っているとは、何と幸せな事だろう。

主が与えて下さる平安は、世がどんなに荒れ、
不安の嵐が吹きすさぶ中でも、決して変わらない。
主を信じ、御言葉を信じることのできる平安、
こんな安らぎどこにあろう。

“金銭を愛する生活をしてはいけません。
いま持っているもので満足しなさい。
主ご自身がこう言われるのです。
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなた
を捨てない」”ヘブル13:5

“あなたがたが年をとっても、わたしは同じよう
にする。あなたがたがしらがになっても、わたし
は背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、
わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう”
イザヤ36:4

“私が若かったときも、また年老いた今も
正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物
を請うのを見たことがない”詩編37:25


「わたしは決してあなたを離れず、また、
あなたを捨てない」
この一言で生きて行ける。老後の不安も無い。
混沌、不安、怒濤のまっただ中の世の中で、
神の一言葉で生きて行ける、何という幸せ!!



2008年10月20日(月)
  「わたしは、いつも、あなたがたとともに」

教会へ向かう途中のこと、交差点内で車が事故
を起こしていた。

大変そうだなあ、通行阻んでて、除けて通れる
かなあと思っていると、その車、教会のAさんの
車と同車種。

そしてよく見ると、何とAさん。びっくり!して、
車を邪魔にならない所へ置いて、息子と走り寄る。

Aさん、車の中に座り込んだままで、車の前部分
は大きく破損。「けがは?身体は大丈夫?」
双方、身体は全くどうも無いとの事で、ひと安心。

何だかぼお〜としてて、青信号だと思い、右折
してしまったら、直進車とぶつかったとの事。
こっちが悪いんですと。

警察呼んで、待ち状態。
「どうしましょうか」に、息子が「レッカー呼ぶ前に、
まず保険会社に先に連絡したらいいよ」と、テキ
パキと次々なすべき事を。さすが男の子。

初めての事故だと、もうびっくりして、わけわから
なくなりそう。
その内、教会の男性達も来てくれて、心強い。

近くの交番の巡査さんが到着。事故調査。「調査
書とりましたので、後は双方で話し合って下さい。」
双方が保険会社に、ずっと携帯で連絡取っている。

Aさん「一応処理終わって、レッカー来るまで50
分かかるそうで、もう大丈夫だから、行って下さい」

いや、最後まで見届けるまで、行けない。
自分が突然事故を起こしたら、どんなにパニックに
なるだろう。知り合いがそばにいてくれたら、どんな
に心強いだろう、と思う。

その内、レッカー車が来て、Aさんの車、全く動か
ず教会の男性も手伝って、皆で押して乗せた。
相手の車もレッカーで、修理に。

巡査さんが掃除して下さって、処理がすべて無事
済んだ。

相手の方、予定があられただろうに、まことに申し訳
なかったが、許して下さった。
「こればかりは仕方がないから、車が直れば、うちは
もういいですから」と。

Aさんの車は、結局、廃車に。身体が守られた事が
驚くべく感謝。

ただただ、許して貰う立場で、相手に許して頂く
しかない。
それを思う時、主は十字架で、無代価で全面的
に赦して下さった、驚くべき恵みを改めて思う。
感謝しかない。

最後まで、Aさんと共にいようと思った時、主が
私と、どんな時にも、共にいて下さるという事実
を実感した。

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、
あなたがたとともにいます」マタイ28:20

2008年10月18日(土)
  「ヨルダン川」

この日曜カンボジア宣教1周年で、礼拝時に
スカイプでリアルタイムで、カンボジアから
映像と音声が入り証しが聞けて、便利な時代
になった(^^)

その証しは
・・・「ヨシュア1:2のヨルダン川を渡って、
わたしの示す地へ行け。で、自分にとってカン
ボジアへ来る事はヨルダン川を渡る事だった。
ほんとにヨルダン川を渡ると、すべての必要が
備えられていた。

丁度帰国する宣教師さんから、家も家財も何
もかも譲り受ける事ができた。すべての必要
が備えられていた。
現地でそれらを一つ一つするのは、大変な
労力であり、作業だ。

それはヨルダンを渡る前でなく、渡る決心を
し渡ってからであった。

渡ってから、様々な事に遭遇した。苦しい事、
しんどい事、悲しい事、何でこんな事がと思
うこと・・
しかし、それらすべての面で、主の備え、助け、
支えを経験する日々であった。

「わたしが・・与えようとしている地」である
こと。

「足の裏で踏む所はことごとく・・あなたに与
えている」

「わたしはあなたとともにいよう。わたしは
あなたを見放さず、あなたを見捨てない」

「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない」

語学の学びをしながら、働くべき地を祈って
いたら、次のヨルダン川を示された。
それはバッタンバンという地方の地で、教育も
医療も無い地。
しかし、はっきりと示され、ヨルダンを渡れと。
それを渡る時、又、すべての必要が備えられて
いる事を見れると信じて、ヨルダン川を渡り
ます」・・・。


ヨルダン川は自我の死の意味で、自分にとって
のヨルダンは何か、婦人学び会で皆で考えた。

最も自我に触れ、痛いところ、逃げたいところ
そのヨルダン川を渡って、乳と蜜の流れる地
へ行けと、神が言っておられる。

Aさん「いつもいつも罪を犯しては悔い改め、
同じ事を繰り返している。神様がよくはわか
らない。こんな信仰生活でいたくない。

もっともっと神様を知りたい。自分のヨルダン
川は献身。献身を祈りの課題に祈って行き
たい」
Bさん「自分のヨルダン川は、ある対人関係。
きちんと向き合うよう示された。ないがしろ
にしないで、向き合って、御心に従いたい。
ヨルダン川を渡ります」

Cさん「自分は、示されている御言葉に従う
こと、一つ一つ自我に死んで従順に従って
行くこと、それを示されました」

自分にとってのヨルダン川は何?生涯示
される、目の前のヨルダン川を渡って行け
るように。


2008年10月16日(木)
  「同じ時間過ごすのに」

Aさんが、「思い煩い」から「信仰」へと
導かれた祝福を話してくれた。

難病の持病を持ち、いつも身体的負担が
ある。良くなることはなく、病と一生うまく
付き合って行く感じだ。

実際、身体はしんどくて、辛い。家事も
思うように出来ない。イライラしたり、
又、人にはわかってもらえないと、
自己憐憫に陥ったり、しんどい状態
だった。

そんな中、更なるストレスから、身体に
更に異常をきたした。
持病の上に、更に身体に負担がかかり、
そのための通院も増えた。

どんどん落ち込んでしまい、身体の不安
にどっと襲われる。一生治らないのでは、
不安が不安を呼び、思い煩いでいっぱい
になる。
心は暗く、重く、沈んで行った。

思い煩いで心は重苦しく、見る景色も
どんより、心は苦しくて、しんどくてたま
らず、とうとう心身許容量オーバーに
なった。

もうどうにもならず、ギブアップ状態に
なった。
この苦しみから救われたい、助けが
欲しい。神を見上げ、助けを求めた。

いつも学んでいる、神にはご計画がある。
今はわからないが、最善をして下さって
いる。
もうどん底で、苦しいだけで、どうにも
ならない。委ねようと思った。

そんな時、十字架にかかる前の主が
力いっぱい鞭打たれて、身体は裂かれ
て、血まみれになり、ぼろぼろになって
おられる映像を見た。

イエス様を鞭打っているのが自分だと
わかった。自分の不信仰がイエス様を
鞭打って痛めつけている。

悔い改めて、信じようと思った。
その時、心が変わっていた。
あんなに苦しく、辛く、暗くて、もう
一歩も前に進めなかったのに、心が楽
になり軽くなり、平安になっていた。

信じて行こうと思えた。どうなろうと
お委ねしていようと思えた。
心が180度変わってしまい、暗さも
苦しさも辛さも失せてしまった。

感謝と平安が心を支配した。
すると、身体の状態が良い方へ向いて
来た。

「同じ時間を過ごすのに、全く違うます
よねえ。
暗い苦しい心でいるのと、平安で楽な
心でいるのと。状況自体は同じなわけで、
信仰に立つとほんとに恵みの中に入れ
られること体験しました。感謝でいっぱ
いです。
思い煩っていて、全然イエス様を信じて
いなかった事がわかりました」

そのまま主のもとへ行って、助けを求め
る時、思い煩いの不信仰を信仰に変えて
下さる。



2008年10月13日(月)
  「生ける神があなたがたのうちにおられ」

祝日を利用して、他教会から会堂見学に来られた。
これから建築されるとの事で、参考にと。

会堂建設のプロセスを、牧師がお話した。
それを横で聞いていて、改めて、今一度、まことに主
が神であられることを、神の御力、奇跡、私たちへの
ご愛、慈しみを思い、心が感謝と喜びでいっぱいにな
った。

皆で建設に一致して、具体的に土地捜しから始まった。
皆がここが良いと思った土地に決定。すると、その不動
産の方がミッションスクール出身で助けになりたいと、
尽力下さり、何百万も下げて下さった。

土地代5300万を皆で献金。4000万集まり、残りの
1300万は、その不動産の方が取引銀行に紹介して
下さった。その取引銀行が、後の建物融資につながり
後で見ると、すべてがパズルがつながるように完璧だ。

その銀行の副支店長さんが、兄弟が牧師との事で、
力になりたいと、至れり尽くせりの誠意で対応して下
さった。結局、融資が下りて土地が購入でき、建物
融資も下りた。

大阪のクリスチャンの建築会社に設計依頼、ニュージ
ーランドからのクリスチャンボランティアに建築をお願
いした。

基礎工事だけは、地元の業者でとの話になった、その日に、
ミサワのクリスチャン専務さんから電話が入った。
実は土地捜しの時に、ミサワと出会い、専務さんと出会
いがあった。好意的で土地捜しておきますと言って下さ
っていた。
「その後、土地どうなりましたか?」と。土地を購入した
と話すと、「では、基礎はうちでやりましょう」と言って
下さった。

後で、何で、あの日に電話されたのかと伺うと、
頭の上の方で、「主が電話せい、電話せい」と言われた
んですと(笑)

不思議な事が次から次へと起こり、進んで行った。
ボランティア方は、朝早くから祈って作業をされ、祈り
で会堂が建てられて行った。

そのボランティア方は、皆、深く主を愛する方々だった。
一組のご夫婦は、土地、家、家財すべてを売り払い、
その費用で全世界を回り、具体的助けをしながら、福音
を伝え証しをされていた。そんな方初めて見て、もう
驚いた。
湾岸戦争時も、帰国せず、イラクにいてクルド族を助
けていたと聞きびっくり。銃撃、爆撃、あんな恐ろしか
った事はないと。本物だ。
教会に建設と共に、素晴らしい霊的恵みをもたらして
下さった。

「会堂は聖い宮で、神ご自身が建てられる。建てておら
れるのは神ですねえ。会堂建設には神の奇跡と不思議
が次々起こります」ミサワのクリスチャン社長さんが
言われた。その通りだった。

何より感謝だったのは「祈り」が、教会に天から授け
られたこと。皆で祈った、祈った、これ以上祈れない
ほど祈った。人生こんなに祈った事はない。
道を歩きながら、雑事中も、家事をする時も、祈って
祈って祈りまくった。

アメリカ転勤の婦人達が夜を受け持って、24時間
連鎖祈祷、時間を決めた一斉祈祷、小グループで
の祈り。
皆が精一杯献げた。最後などは、もう献げるものを
献げ尽くして、皆が家中の小銭をかき集めて来たと
丸わかり。500 100 50 10 5 1円
玉ばかり。それが10数キロあった。びっくり!!

献げるものが無くなった後は、痛みと犠牲の伴った
ものを献げようと、皆が何かを犠牲にして献げた。
タクシーはバスに。バスは歩きに。

皆でこんなに祈った事はない、こんなに献げた事
はない、人生でこんな恵みにあずかれた事が
何にもまして感謝だった。

そんなこんなを思い出し・・気持ちが新たにされ
恵まれた。



2008年10月10日(金)
  カンボジア訪問D孤児院

カンボジア視察4日目孤児院を訪問した。

郊外の何も無い平原の中に、それは建っている。
宣教師方により運営。50余人の子供達がそこ
で生活している。綺麗で立派な建物だ。
スタッフ方が主のために、子供達のために
懸命に労しておられる。

門を入ると、子供達が嬉しそうに恥ずかしそう
に、集まって来て、私達を囲む。出迎えてく
れる。

子供達が全員で、賛美を歌って歓迎してくれる。
純朴そうな子供達で、とても人なつっこくて、
手をつないで来る。

そこでは、教育が施され、礼拝堂があり礼拝
もなされている。子供達が部屋に案内して
くれる。数人づつの部屋に、ベッドがあり、
机があり、清潔な明るい綺麗な部屋だ。
ぬいぐるみも置かれている。子供達が愛され
ている様子が伝わって来る。

子供達が生活の様子など話してくれて、
交わっていると、一人の少女が「Do you love 
Jesus?」と語って来て、びっくり!して思わず
「イエス様を知ってるの?」と聞く。
その少女は、笑顔でうなずいて「イエス様大好き」
と言った。

カンボジアへ行く前に、主に在る友が
恵みのお分かちと、ショートメッセージの
文章を送信して来てくれた。

それがヨハネ21:「あなたはわたしを愛し
ますか」だった。
羊を愛するかと言っていない。周囲の人を愛
するかと言っていない。「わたしを愛するか」
と問うておられる。

丁度、訪問直前だったので、カンボジア訪問
中もずっと「わたしを愛するか」の御言葉が
響いていた。

で、その少女の口から、「Do you love 
Jesus?」に二度びっくり!!

イエス様が私に「あなたはわたしを愛する
か」と言っておられるのがわかった。
まさに主からの語りかけだった。

それをもって帰国し、今一度、祈りの中で
自分自身をお献げした。個人的な祝福があった
事に感謝。

少女と一緒に賛美した。心に喜びが湧き
上がった。お別れの時間になり、皆が「今度
いつ来てくれる?」「いつ?」と言った。

どうか子供達の上に、スタッフ方の上に
豊かな祝福がありますように。祈り心で、
孤児院を後にした。

皆、わけがあって、親と暮らせない子供達。
測り知れない痛みと悲しみを抱えている。
エイズで両親共亡くなった子供達や、親が貧
しくて育てられない子供達、様々な背景を
持つと聞く。

通りすがりの者の訪問を、心から歓迎し、
喜んでくれた子供達。心温められたひと
時だった。




 



2008年10月08日(水)
  「豊かな生活」

カンボジア・タケオ集会の報告だ。

「集会の村までプノンペンから、皆でトラックの荷台
に乗って行く。
ガタガタ揺られて、ほこりで目が開けられない事も。
村には電気、ガス、水道、下水道もない。
「トイレは?」「その辺でしてきて」との答え。

各家には、大きな水がめがある。そこに雨水が
溜められて、料理、飲料、水浴び、洗面、すべてを
その水でする。

現地伝道者と野宿した時には、外に蚊帳をつって
寝た。デング熱やマラリヤの恐れがあるからだ。
時々、不衛生状態からも、伝染病がまんえんする。

こんな中で、伝道や集会が行われている。
電灯は無いので、車のバッテリーをつないで点す。

日暮れて暗い中、蛇が出没するに関わらず、多くの
子供たちが集まる。大声で賛美する。
ゲームにも目を輝かせ、皆、集会が楽しみだ。

何も無いひとつの村でも、多くの子供達がキリストを
信じ、救われている。
一見何もないように見える。しかし、何も無くとも、
神を賛美する生活をする事はできる。本当の意味で
豊かな生活をすることができる。
何も無い中だからこそ、神を近く知る機会とされる。」
・・・・・・・・・・・
知り合いに転送していると、

Aさん「“タケオへ自衛隊派遣”のことは何となく覚
えています。
霊の目でご覧になったN先生の報告を読み、祈りの
課題として覚えることができるようになるなんて、
当時の私には全く考えられませんでした。
救われる前の言動心情を思い出す度に、現在の自分
がいかに変えられたかを実感します。救われて御霊
さまをいただいているな〜という感謝で胸がいっぱい
になります。

Bさん「開封してみて、まずはプロの新聞みたいで、
びっくりしました。そうなんですね、戦後生まれの戦争
を知らない子供達が出てきている。
なんか私達みたいな感じですね。そこでイエス様が
伝えられて、救いの福音が受け入れられて・・・。

ほんとに感謝です。最後のパラグラフ、そう、何も無い
からこそですね。いらない荷物、捨てればいいものを
後生大事に持っている、何んだろうね、これはって
思いました。カンボジアの先生一家のためにお祈
りします。

会社の年金もあるので、世界経済の怒涛のような
変化、目減りもいいとこです。なんだろうなあって、
ちょっとビクつきましたが、いいタイミングで、遠き
国から適切なメッセージでした。」

Cさん「カンボジアで、よく生活して伝道しておら
れるなあ、と思います。
その生活の凄さは想像もつきません。ただ、神様が
共におられる、ってことは間違いないですね。
締めくくりの言葉は、考えさせられました。」

Dさん「本当の豊かさとは、物質の豊かさではない
事は、わかっていたつもりなのですが、日常の生活
にどっぷり浸かって、見失っていたことに気がつき
ました。」

神様を知り、神様の愛に包まれ、神様と共に生きる
こと、これが最高に豊かな生活だと、心から思う。

2008年10月05日(日)
  「即答」

祈りの学びをしていた。

すぐ答えられる祈り、ノーという答えの祈り、
待ち望め、祈り続けなさいという答えの祈り、
形の違う答えが来る祈り、神様からの沈黙
という答えの祈り・・

どれかの答えが来ると。
沈黙も答えであり、動機が間違っていないか、
二心で祈っていないか・・
こちらサイドの心の内を探り、軌道修正される
必要がある。

すべての祈りは聞かれている。ただ、自分の
願い通りの答えが来るとは限らない。

神の思いと人の思いは、しばしば異なる。
人はこれが絶対良い!と思うが、神はそれより
遙かに良いものを与えて下さる。

「目が見たことのないもの、耳が聞いたことの
ないもの、そして、人の心に浮かんだことのな
いもの。
神を愛する者のために、神の備えてくださった
ものは、みなそうである」Tコリント2:9

★「すぐに答えられる祈り」の証しが面白かった。

Aさん「お金が無くて。でも、神様見上げてると
すごく平安で、何の思い煩いもなく、お金が無く
ても喜びがあるんですよぉ。

ところが、神様から目を離した途端、お金が
無い事が、何でなん!と腐ってくる(笑)
すごい惨めになって、この状態は何なんか!と(笑)

全然お金が無くなって、祈ってたら、突然貯金箱
を思い出して、全然忘れてたんですよ、捜し出
すと、数千円あって!やったー!!
神様有難う!!(^^)/生き延びれた。
すごい嬉しかった。

又、お金無くなって、ああ、寿司食いてえ〜と
神様、寿司食べたい!と祈ったんです(笑)
そしたら、その日、帰ったら何と海鮮丼!
いくらやサーモンやら到来物があったんです!

うわっ、即答!!(笑)打てば響くように答え
られてる!

Bさん「ちょっと職場で、大切な預かり物をして、
ティッシュにくるんで、ポケットに入れて、でも、
忘れてしまってたんです。

あ!と気づいた時は、捨ててしまっていた後の
祭り。もう真っ青で、うわあ、どうしよう!状態で、
もう必死に祈って、神様何とかして下さい!!

ごみ収集車が行ってしまうと、もうアウトで、とに
かく、ごみの行方を追いかけると、何と、その日に
限って、どういうわけか、その部署のごみだけ、別
に取り分けてあった!!
そんな事は、あったためしが無いのに。
あったー!その大切な預かり物があったー!
もう、ほお〜と安堵、神様感謝!感謝!でした。
もう必死で祈りました(^^)」

「うわ〜すごい!神様のあわれみだー!!」

「はい、あわれみです。感謝です。」



2008年10月03日(金)
  「しあわせ」

カンボジアからお客様を迎えた。
カンボジア人ではなく、カンボジアで宣教を
しているご夫妻だ。

カンボジア談義で盛り上がり、とても楽しい
時が与えられた。

冬が無くて、年中真夏のカンボジア。いつも暑い、
暑いと汗ダラダラでいるのが、日本に来て、
汗をかかず、サラリと過ごせて快適ですと(^^)

秋があるのはいいですねえ〜(^^)
四季は、日本にいると当たり前過ぎて、余り感
じないが、しみじみ神様の恵みだなあ・・。

一度ひったくりに会って、外に出ると前後左右
常に緊張して歩くから、外に出ると息抜けない
ので、力が入って、帰国すると、ほっとしますと。

この頃、日本もいい加減危ないですけどね(笑)

バッグをひったくられて、そこに携帯が入って
いた。
時たま、日本からお母様が携帯をかけられる。
丁度、そんな時に、携帯をかけたら、どうも
おかしい。相手が出てるのに、何か変で、
不審に思い、夫さんの携帯の方へかけられた。

それで、携帯を盗まれたことを知り、では、先
ほど出たのは、泥棒さん?!?(大笑)

ご夫妻が、帰国されて、丁度テレビで、日本の
戦後すぐのフィルムが流れていた。
それを見て、「あ、カンボジアだ!!」と思っ
たと。「うわっ、一緒!」と。(^^)

政府関係者はベンツに乗り、綺麗な服を着てる
が、物乞いをする貧しい人々をよく見かける。
5歳ぐらいの子供が、赤ちゃんをおんぶして、
物乞いに来る。ホームレスじゃないかと思う子供
たちが、路上にいる。

公務員の月給が、日本円にすると3千円ほどで、
食べて行けないから、帰宅後も様々なバイトを
するそうだ。
とにかく食べて行くために、必死で生きている
から、大変な活気がある。人々が、生きてる!
って感じだ。
あの日本の戦後の映像は、カンボジアと重なる。

カンボジア訪問をしたAさん「でも、お金のある
無しって、幸せとは関係無いですよねえ。
貧しい生活をしている人たちの目がキラキラ輝
いていた。日本の子供には決して見られない目だ。

自分はお金には別に不自由なかったが、全然
幸せじゃなかった。心は虚しくて、やるせなく
て、生きる目的もなくて、いつも人との比較に
生きて、何の喜びもなかった。自分は生きて
いなかった。

神様に出会って、本当に生き始めた。
神様知れて、ほんとに幸せです。今はお金無い
が、平安で、平安で、この平安はもう何にも代
えられないです」

戦後の日本は、物がなく、貧しく人々は必死で
生きて来た。活気が溢れていた。
それが今、物が溢れて、豊かになって、自分は
富んでいる、豊かになった、乏しいものは何も
ないと言って、平和ぼけの中にいる。

実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目
で、裸の者であることを知らない。

何が幸せなのか。
何も無くとも、神様から罪赦され、神様との交わ
りの中に生きる事ができること、こんな喜びと幸
せは無い。

日本であれ、カンボジアであれ、神様に立ち返っ
て、神様との交わりの中で生きて行くことが、
最高の幸せ。

「しかし、私にとっては、神の近くにいること
が、しあわせなのです」詩編73:28

2008年10月01日(水)
  「境界線」

Cさん「失敗して、教えられました!」

友達との対人関係で、“この世と調子を合わ
せてはいけません。神のみこころは何か、何
が良いことで神に受け入れられ・・”
と神様が言ってるのに、わかっているのに、
ついひよっと、調子を合わせてしまう。

すると、出口で、出損なった高速道路状態(笑)
もう高速道路で、出るに出れんから、行くっきゃ
ないと、どんどん行ってしまって、罪を犯して
しまう。
平安が全然無くなって、教会に来て、我に返っ
て気づける(笑)いつもこの繰り返し。

いつも同じパタンだと、自分の内側よく考えて
探って行くと、自分に境界線が無い事が問題で、
自分が無い。自分が無いから、相手に合わせて
しまう。ほいほいへつらってしまう。

「自分が無いから、自分を受け入れて、認めて
くれる人なら、誰にでもついて行ってしまう。
自分をちゃんと持つこと、ノーをきちんと言う
こと、相手に合わせるのでなく、自分の気持ち
をきちんと言って行くことを、教えられてます」

「ちょっと被害に会った事があって、きちんと
自分は嫌だという事を言ったんです。すると、
相手が逆ギレして来た。
以前の自分だと、動揺してしまって、ひどく
落ち込んで、悩んで、思い煩ってました。
相手にどうしても受け入れて欲しいと。

でも、どう冷静に考えても、反省しても、自分
は悪くないし、いいやと思えたんです。」

「うわっ、それすごいわ。すごい前進!
ちゃんと言えた事と、いいやと思えた事。
そんな逆ギレ、相手自身の問題であって、
Cさんには関係無いよ。相手の感情の
責任は相手にある。」

「別の相手にも、きちんと自分の意見と
思いを伝えることができた。すると相手は
自分を避けるようになった。
でも、自分は悪くないし、相手が嫌なら、
付き合いを続ける必要ないと思えた。

これ、すごい変化なんです。以前だと、相手
に去られるのが、捨てられるのが恐くて、
自分を押し殺して、相手に合わせてた。
相手を怒らせた自分が悪いと。
人依存なんですよねえ。

神様が気づきを与えて下さって、本当に
感謝です!!」