2009年05月24日(日) 「何も無いところに」
癌で余命すでに数ヶ月過ぎ去ったAさん。 “この病気は・・神の栄光のためのものです。 神の子がそれによって栄光を受けるためです” ヨハネ11:4 栄光を見せられている。 先週も、ある教会の婦人会で祈って下さった とお聞きし、主の栄光を拝した。 体調お悪く、今週の礼拝に来ることができなかった。 お身体少しづつ衰弱して来ておられる。 しかし、お身体身動き取れない中も、先日、 御言葉を聞きたい、学びをしたいと、近くの Bさんがお家に訪ね、二人で学びをされた。 夫のCさんに起こしてもらわなければ、一人 で起きる事もできない状態で、 どんなにかしんどくて、お身体は辛いだろうに、 普通、身体が弱ると、とてもじゃないが気力が 失せるのに、 心は違って、喜びがあられ、気力があられる。 神様を少しでも知りたい、渇きと強い求めに、 皆で、心正されるような、心で正座するような、 励ましを受ける。 「すごいですねえ」神様の栄光を見る。 「何もない」から、神様がすべてのすべてであり、 あんなに渇きと求めが、与えられておられるんだ なあと思う。 Aさん「私は、まあカチカチ、ガチガチの固い固い 岩のように頑固な者だったんですよ。 私、ステージ1の初期癌で何度か手術してる んですよ。でも、初期はダメですねえ。 全然平気で、きれいに切除すれば良いと、 どうも無いんですよ。 夫が神様の事を話してくれるんですが、全く 全然聞く耳無かったです(笑) まあ、頑固だったですよ。教会へ行ったのも 義理だけだったんですよ(笑) それが、ある日突然ステージ4、余命1ヶ月 と言われ、『ステージ4て何ですか?』と聞くと 『先が無いということです』と言われ、もう ショックでパニックで、涙が出て止まらなかった です。泣いて泣いて、来る日も来る日も泣き 明かしました。 私、砕かれました。ステージ1ではダメで、 4でないとだめだったんですよ。 生まれて初めて、神様に向きました。傲慢 だったんですよねえ。 こんな傲慢な者が、まあ神様を信じることが できて、感謝で感謝でならないです。 もうただただ、有難いばかりです。 これがあったからこそ、神様に出会うことが できました。 もうはっきり死ぬとわかった時、夫と同じ所 へ行きたいと思ったんです。 夫は、罪を持った今のままでは、同じ所へ 行けないと言い、神様を求めたいと思いました。 そして、皆がこんな自分のために、祈っていて 下さると聞き、それが心に染み、もう暖かかった です。嬉しかったです。それで、この神様を求め たいと思いました」 夫Cさんが、ずっと素晴らしい証しを重ねて来ら れたんだなあと思う。 Aさん大笑いされて話された。「神様信じる前にね、 もう病院で死ぬと思いましたからね、まあ夫 に、へそくりの在りかを全部話しましてね。 まあ、もうなんにも無くなってしまいました」(笑) 所有物どころか、命も余命通り過ぎて、今日 明日かもわからない状態、その中で、喜んでおられ、 不安も、恐れも。思い煩いも全く無いと言われる。 物も、健康も、余命も、すべてを失い、無くなった 極限に、 そこにあったのは、「イエス様」!! 「感謝」!「平安」!「喜び」!「安堵」! そこに神がおられた その事をAさんを通して、目の当たりに 見せられた。 「何もない」ところに、イエス様がすべてのすべて となって下さるんだ。 すべてを失ったところに、希望と喜びがある。 何という神様世界!!
2009年05月22日(金) 「NOTHING」
Aさんが「聖書の学びをしている中で、 自分が変わって来ていることを感じます。 育児一つにも、自分の対応が悪かった のでは、もっとああしていれば、こうして いれば、もしあの時、ああでなければ・・ こうなっていなかったのでは・・ ずっと自分を責める思いにさいなまれて、 自分を責め続けて来ました。 でも、聖書を知るようになって、そうじゃない んだと、はっと、気づけたんです。 自分を責めるが、その自分は一体何様なのかと。 全然立派でなく、間違うし、失敗するし、不完全。 自分を責めるということは、自分が立派な者、 立派に完璧にできるはず、という前提があって、 それが出来ないから、責めるわけで、できて 当り前と思っている。それは恐ろしい傲慢では ないかと。 出来るはず無いですよね。出来て当然でなくて、 出来なくて当り前、そう思った時、ガラガラと肩の 荷が落ち、心がものすごく軽くなったんです。 心が楽になって、そして、自分を責めなく なりました。 自分は無力で、何ものでもない、間違う者 であり、失敗する者であり、自分自身の内に は何もない。 それを認めた時、解放されました。 ずっと、ああ思ってはいけない、こう思っては いけない、こうでなければならない、ああで なければならない・・ 自分で、自分を物凄く窮屈にして、縛りつけ ていました。 ふっと、ああ、そう思う、それが自分なんだと 認める事が出来るようになったんです。 以前はそんな自分を認める事ができ なかったから、苦しかったんだと。 自分が赦されている、それが、ただただ感謝で 感謝でならないです。」 落ち込むのは、自分が出来る、出来て当然と 思っているから。だから、落ち込む。 自分は nothing なのに something だと思っている。 いつも、どうにもならなくなった、どん底に イエス様がおられ、どん底で必ず会える。 nothing の者を愛して下さっている、大きな 大きな深い愛に包まれる(^^)/ 無条件の、一方的な、与えて下さるばかりの 愛を膚で知る。
2009年05月19日(火) 「すべての事について、感謝」
Aさん「あれやこれやと、する事が目の前に あると、手のかかる子供に、ついイライラして しまって。 気がつくと、子供や夫に当たってしまってて」 Bさん「わかる、すごくわかる!」(笑) Cさん「一緒、一緒。それで自己嫌悪に陥る んよね」(笑) Dさん「振り返って、一番に思うのが、何でもっと 子供に信仰の楽しさ、喜び、生きる楽しさ、イエス 様にある喜びを、伝えてやれなかったのだろうと。 朝に1日が始まる時に、子供に、今日は1日楽しみ だね!!神様は何を用意していて下さるかね。 一緒に楽しもうね。とのスタンスで、何で出来なかっ たのかと、今になって後悔なんです。 あれもこれも、忙しく、手はかかるし、“ねならない” “ねばならない”で自分自身がすごくしんどくて、 窮屈で、余裕がなくて、 イエス様って、こんなに喜びで、生きるってこんなに 楽しみで、が無くて、正反対を教えてしまったのではと。 デボーションも、義務、おつとめみたになって、でも、 絶対にしなくては気が済まない。 妨害でも入ろうものなら、怒り、苛立つ(笑) Fさん「わかる、わかる!般若の顔になって、 『神様は愛よ!』『愛だからね!』と子供に 教える」(大笑) 「何してるか、わからん。本末転倒。でも、すべて 自分の問題で、自我ですよねえ。逆方向に行って いて気づかない」 自我は、どこまでも自分の思い通りにしたいから、 妨害されると、激怒、おさまらない。 奉仕や、デボーションや、神様のことに入って来 るから恐ろしい。神様のことで、ますます自我が 増長して行くということになる。 「すべての事について感謝しなさい」 思い通りにならない事を、感謝します。 今、出来ませんが、感謝します。 感謝することは、目の前の事態を神からのものと 受け入れることで、神を認めることになる。 そこに神が働かれる。 Aさん「感謝です!!(^^)/あれからも思い通りに ならない事が次から次へと起こるんですが、 『神様この事を感謝します』と、まず感謝する時、 心が平安になるんです。 思い通りにならなくても、いいやと思えて、苛立ち が消えて、心が安らかに守られます!」 Gさん「夫の都合と自分の都合が合わなくて、 でも心で『神様、感謝します』と言った時、受け入れ る事ができて、すると夫が、帰宅して『今日は有難う』 と言ってくれて嬉しかったです」 Kさん「私も夫婦で、双方の都合が合わなかった時、 歩調を合わせたら、何度も何度も『ごめんね』と、 気遣ってくれて、すごく嬉しく、祝福でした」 思いを通そうとする根深い古い性質、自我が問題。 「私はキリストとともに十字架につけられました」 に立って、御霊に導かれて歩めるように祈りつつ。
2009年05月17日(日) 「あの方は盛んになり」
この日曜、癌で余命が数ヶ月過ぎたAさんは 体調お悪く、教会に来れなかった。 皆で礼拝後、お祈りした。 数回、顔を合わせたBさんが、もうびっくり仰天 されて、 「Aさんが、そういう状態であること全然知らなくて、 明るくて、お元気で、喜んでおられて、いつも 満面の笑みで・・もうびっくりしました! あんなににこやかで、考えられないです。 すごい神様の栄光ですね!神様の栄光が 輝いている。神様すごいですね。 今現在、お会いできること自体が奇跡なん ですよね。すごい奇跡ですよね」 本当に神様の奇跡だ。 ご主人のCさんが優しくて優しくて、もう 至れり尽くせりに、いたわっておられて、 周囲の全員が口を揃えて言う。 「ご主人がほんとにお優しいですねえ。素晴 らしいですねえ」 牧師が「あれは、神様の優しさですね」 ご夫婦揃って、神様の素晴らしい栄光が 輝いている。 聖書を読んでいて、 「あの方は盛んになり、私は衰えなければ なりません」ヨハネ3:30 という箇所が出て来て、 主は、私が衰える中で、盛んになられ、輝き、 栄えて下さる。 自分が、自分の力が、自我が衰える中で、 主の救いが、栄光が、大きく輝いて行く。 主が盛んになられ、私は衰える。 Aさんがにこやかな笑みの中で話して 下さった。 「私はもう頑固で、頑固で、カチカチで、 固くて、固くて、岩のようで、夫が話して くれる神様のことを、全然聞かなかった んですよ。はねつけてました。 それが、末期癌という事で、初めて 心が神様に向きました。砕かれました。 神様に出会えて感謝で、感謝でならず、嬉しい です。もう感謝しかないです。 夫がそれまでも、私の救いのために、祈りに 祈り、切に切に祈っていてくれたようで、 嬉しいです。感謝です」 主の輝くばかりの栄光。 死に向き合い、何もかも明け渡しておられる から、主が盛んになっておられる。 主の栄光が現れるのは、自分が衰えるから。 そこしかない。自我が砕かれるしかない。 あれやこれや思いながら、 「私にとっては、生きることはキリスト、 死ぬこともまた益です」ピリピ1:21 の御言葉が響いてくる。
2009年05月14日(木) 「ツールスレン刑務所」
カンボジアへ行った時に、ツールスレン刑務所へ 行った。 普通の高校の建物を、刑務所にしたものだった。 教室を一部屋づつ回る。そこが拷問場所だ。 ベトナム軍が侵攻し、首都陥落。ポルポト軍はすでに 逃亡した後だった。 翌日、異臭で、その刑務所が発覚。拷問されたままの 遺体がそのまま転がっていたそうだ。血の跡もその ままだ。それを写真撮影し、展示されている。 そこから絶対に生きては出られない。死ぬまで延々 拷問が続き、死の苦しみが続く。自殺者も発狂者も 多かった。 密告社会を形成し、裏切り者、反逆者を密告させる。 密告、密告、密告・・親子で密告し、親族を密告し、 やるか、やられるかだ。 裏切り者を告白させるために拷問する。 極限状況の中で、意識も正常でなく、もうろう状態 何を言っているかもわからず、無意識に口から出た 名前。 裁判も、証拠も無し、出た名前の人々を捕らえては、 拷問し、それを繰り返す。まさに地獄そのもの。 ポルポト側の兵士、クメール・ルージュも、自分に 少しでも落ち度があれば、手ぬかりがあれば、即刻 粛清の対象だ。殺される。彼らも自分の首がかかって いる。必死で命がけで拷問する。狂気の世界だ。 人間がこれほど残虐になれるというほど、拷問は どんどんエスカレートして行った。無感覚になってしまう。 2万人を虐殺し、トラック満杯に運んでは、ゴミのごとく キリングフィールドに捨てた。 頭蓋骨も展示してあり、その頭蓋骨にひびが入り、 穴があいている。陥没している。どんな殺し方をした のか。 なぜか殺害する前に写真を撮る。その2千もの顔写真 が展示してある。その表情・・ 顔、顔、顔が迫って来て、まともに見れない。 初めて、ツールスレンを見た夜、余りの衝撃で、 朝まで眠れなかった・・。 ★「ポルポトとは?ツールスレンとは何だったのか?」 カンボジア渡航の搭乗8時間、そんな本を読みながら 行った。 人間の恐るべき罪、背後に陰湿、陰惨に働くサタン。 まさにサタンが粉々に粉砕、破壊したものは、 「愛」と「信頼」。 そして、イエス様が十字架の凄絶な拷問で、血みどろに、 ぼろぼろになられ、命を犠牲にして、打ち建てられたのが、 「愛」と「信頼」。 サタンから奪い返された。 ★残忍、残虐、壮絶、凄絶、狂気、破壊・・そのツールスレン 刑務所の記事が、先日、朝日新聞に載った。 元ツールスレン刑務所長 カン・ケク・イウがポルポト 政権を裁く特別法廷で、自らの罪を認め、被害者に謝罪 した、と。 元幹部ら5人を拘束しているが、罪を認めたのは元所長 が初めて。 「ツールスレンで起きた拷問、処刑は私に責任がある。 犠牲者や家族に謝罪したい。重大な犯罪だと認識して いる。どうか私の謝罪を受け入れて欲しい。 正直にすべてをささげ、この身を法廷に委ねる。検察や 市民のすべての質問に答えたい」 ツールスレン元所長が、クリスチャンになったと聞いた。 ★<在カンボジア日本人クリスチャンブログより> カンボジアでは、自分の罪を告白する習慣がない。 そんな中、各新聞が「カンボジア人たちは、被告が なぜ、自分の罪を素直に認めているのか理解に 苦しんでいる」と報じた。 その理由が「キリストのゆえ」と被告自身が本日 言術、まさに「主の栄光!!!」です。 自首に至った理由が「キリストによるもの」と公の 裁判の場で言術。 この裁判の模様は、ラジオで生中継されており、 多くのカンボジア人が、家庭で、職場で、この中継 に真剣に耳を傾けているが、 今日、キリストの名が、カンボジア全土に響き渡りました。 主の栄光!!
2009年05月12日(火) 「天の価値観」
この世の価値観で、長い間培われて来た。 また、今も凄まじいこの世の価値観の嵐だ。 心の一新によって、自分を変えなさい。 思考パタン、価値観が問題だ。 根深い古い価値観がある。 今週の礼拝メッセージは「カナンの女」の箇所 だった。 根底に、主のご愛と慈しみが確固とあり、 それを信じて生きて行けることに、とても 恵まれた。 カナン人の女性の信仰を、主が一歩一歩正しく 導いて行かれた。 「主よ。ダビデの子よ」女性は異邦人なので、 ダビデの子と言えない。 主は一言も答えられなかった。弟子たちが 女がうるさいから、何とかして欲しいと言うと、 主は「イスラエル以外には遣わされていない」 あなたはイスラエルではないと、言われた。 すると女性は、理解して、「ダビデの子よ」を 取り下げて、「主よ」とだけ言った。 ひれ伏して、礼拝してであった。 更に「小犬」と言われた。すると、女性は尚も へりくだって「そのとおりです」と言った。 しかし「小犬でもパンくずはいただける」と。 主はこれを「立派な信仰」と言われた。そして 娘は癒された。 これが天国の価値観だ。この世の価値観だと とんでもないよねと、話した(^^)/ 「しつこいじゃろ」「出来ん言われてるじゃろ」 又、「何と冷たい」 逆に冷ややかな拒絶に会うと「なら、ええわ」 「もう、ええわい」「していらん」(笑) プライドに触れ、カチンと来る。 これが世の価値観。 イエス様は女性の信仰をご存じで、それを 引き出し、整えようと、あえて拒絶と思われ るような態度をとられた。 信仰が無かったら、とっくに引き下がっている。 放蕩息子の箇所など 「放蕩息子など、とんでもない。好き勝手して 帰って来て宴会て、そんなん有りかい?」 「家に入るのはええが、その前に何か一言あるじゃろ」 「私なら、ただでは帰れんから、兄に手みやげの 一つも持ってと考える」(笑) 「私は兄と一緒。好き勝手してよう帰ってくるわ。 そんな調子のいい事あるわけない。帰ってくるな。」 「絶対、兄の方がしっくり来る。自分は兄じゃわ」 「ぶどう園の例えなど、絶対不公平だと思う。 自分は早朝の労働者で、同一賃金などおかしい」 世の価値観、肉の価値観だ。 逆に、天国の価値観、神様の価値観はほんとに すごいと思う。 神様のあわれみ、愛、慈しみ・・ 自分には無い、天の価値観を知り、感動する。 心に、肉の価値観と、御言葉を置き換え、 肉を捨て、御言葉を選択することを、天に 帰るまで続けて行く。
2009年05月10日(日) 「主を認める」
Aさんが、ある対人関係で、ちょっとギクシャク して、自分としては傷ついて、大泣きした。 しかし、しばらくすると、冷静になり、神様視点 に立てた。 それは状況が、相手が、どうのこうのでなく、 この事態により、神様は何を言われたいのか、 何を教えたいのか、神様のメッセージは何か。 祈って、よくよく考えた。 神様が言われたい事がわかった。 目の前の出来事自体については、自分ではすでに 心の整理がついて、もう問題では無くなっていた。 別の対人関係の事を言われたいのだとわかった。 自分の領域の中で、ある人との絆を建て直しなさい、 今から築き上げなさいのメッセージだった。 はっきりと理解できた。 感謝した。手遅れになる前に、修正可能であり、 大切な関係を、今から築き直し、建て上げること、 その事に気づかせられて、心から感謝だった。 神は対人関係の出来事を通して、別の対人関係 の事に光を当て、示して下さった。 神は無駄な事は一つもされない。 目の前に起きる一つ一つに、教えようとされる事 があり、メッセージがある。 それを受け取って行く時、どんな状況であれ、心は 平安になる。 「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。 そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」 箴言3:6 目の前の状況に飲み込まれて、状況だけを何とか しようとするなら、見誤ってしまう。 行く所どこにおいても、主を認めて、目の前の 状況に、主を認めて、主のお心を求めて行きたい なと思う。 そうでないと、成長がないなあと。
2009年05月08日(金) 「満ち足りている」
神様視点が大切との学びで、 「神様から目が離れると、感謝が失せ、 無いものばかりが目につき、不平不満、愚痴 になるよね」と、皆が話していた。 ほんとに神様視点から離れて、状況と自分 に視点を置くと、有るものが見えなくなる。 祝福や恵みが、全く見えなくなるから不思議だ。 Aさん「丁度、友人の子供さんが下痢がひどく、 大変で、友人が普段何も思わないけど、健康 であることが、いかに有難いかわかったと 言ってて、本当にそうだなあと思いました。 普段、健康の有難さすら感謝がなくて、無いもの ばかり数えて、不満に思っていて」 Bさん「わかります!熱が出ただけで、フラフラ でダウン。病気になると、身体に力が全く入らなく て、普段、普通に歩いて、動いている事が信じら れない。病気になって初めて、健康の恵みがわかる」 Cさん「人間て、すぐに高慢になるから、時々、 神様がコツンとして下さって、当たり前のことが、 実はものすごい恵みなんだと、知れることって、 実はすごい感謝ですよねえ」 「何もかもが当然になると、全く感謝がなくなって、 不平不満しかないですもんねえ」 以前、親友が話してくれた。 子供が、もう全く勉強しなくて、帰宅するや、遊びに 出て、遅くまで帰らない。 帰ると、勉強など全くすることなく寝てしまう。 自分は子供を偏差値でしか、どうしても見れず、 勉強をしない、成績の悪い子供を受け入れられない でいた。 当時、ロングヘアなのも、まず受け入れられない。 こうでない、ああでないと、子供を裁いていた。 ある時、その子供が事故に会い、医師から助から ないかも知れないから、覚悟するように言われた。 もうパニックで、神様から今までの自分の姿を見せら れて、自分は何をしていたのかと、悔いて悔いて大泣き した。 ワーワー泣いて悔い改めて、このまま死なれては自分は、 もうどうしていいかわからない。 何もかもどうでもいい。この子が生きていてくれさえ すればそれだけでいい、何もいらない、いっさいいら ない。心の底から思った。 神は切なる祈りに答えて下さり、九生に一生を得て、 命が助かった。 それ以来、生きていてくれるだけで、嬉しい、有難い それだけでいい、もう何もいらない、ずっとその思いで 子供を、受け入れさせて下さっていると。 感謝で、感謝でならないと。 あのまま行っていたら、自分はどうなっていたか わからない。子供を損なって、恐ろしい事になって いたと。 神様から目を離すと、あれが無い、これが無い、あれ も不足、これも不足、不満でいっぱいになる。 神様視点に立つと、あれも与えられていて、これも与え られていて、感謝と恵みで心がいっぱいになる。 Dさん「自分の心の頑なさ、自我の強さ、強情さが問題 ですよねえ。自分を神様に明け渡して行きたいです」 「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。 その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう」 詩編50:23 感謝して行く時、神様をあがめることになり、 感謝して行く時、救いを見ることになる。 「地はあなたのみわざの実によって満ち足りています。 ・・主の木々は、満ち足りています」詩編104:13 本当は、主のみわざの実によって、私たちは 満ち足りている。
2009年05月07日(木) 「万事益」
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従 って召された人々のためには、神がすべてのこと を働かせて益としてくださることを、私たちは知 っています」ローマ8:28 学びの中に、この御言葉が出て来て、話し合って いた。 その時、ふと、父のことを思い出した。 ある時、高齢の父が階段で、足を滑らせ転んで、 コンクリートだったので、頭を打ってしまった。 病院に運ばれ、身体は大したことはなかったが、 頭を打った加減で、記憶が途絶えてしまった。 現在の事は認識できるが、以前の事が思い出せ ない。 医師によると、一時的なもので、しばらくすると 戻るからとの事。 しかし、家族は大変心配した。 記憶喪失の事を聞いた時に、まず来たのが、 「ああ、転びさえしなければ・・」との思いだった。 何で、転んだのだろう、何で、何で・・。 その瞬間、いや違う、そうじゃない、神様目線に立つ とそうじゃない。ローマ8:28。 この事も必ず益として下さる、良かったと言える ようにして下さると、思えて、信じた。 そして、転んだことを感謝しますと、祈った。 数日後、転倒ゆえ、脳の精密検査を受けた。 すると、脳に癌の転移が見つかった。 父は以前に、初期癌の切除手術をしていた。 再発、転移だった。 その脳に転移とわかった事が感謝だった。 もし、転倒が無ければ、脳検査をする事も なかっただろう。 結果的に、父はその半年後、天に召されたが、 父のための祈りが積まれ、もう脳の手術は 不可能で、他にも転移が見つかり、 私たちも、心を備える時が与えられた。 父はその少し前に、長男の個人伝道により、イエス 様を信じる決心が与えられた。 その時は、手術前であり、明日手術との夜だった。 「おじいちゃん、手術のために祈ってるから」 の長男の言葉に、「お願いする」の返事。 そういう反応は、今まで決して無かったので、 驚いて、神様のこと、十字架の救いについて 話すと、「信じる」と。 本当だろうかと、もう一度繰り返して話すと、 やはり「信じる」と。 その後、転倒で、記憶喪失になり、少し戻ったり、 まだらな感じであったが、亡くなる前に訪ねた時、 意識がはっきりして、明確に救いの確認が与えられた。 もう衰弱で、言葉も喋れず、寝たきり状態だったが、 はっきりと力強く「はい」という言葉で、信じている こと、天国へ行ける確信を、表明してくれた。 救いと、救われた事が周囲にもはっきりわかる ようにして欲しい、との祈りを続けていたが、 その二つの祈りが答えられた。 結果的に、癌ゆえに、父は死と向き合い、神様 と向き合った。 癌でなかったら、救われていなかったと思う。 癌が感謝でならない。 父の救いは、母の救いへとつながって行った。 身体はいつか必ず朽ち果てる。高齢の父は癌でなか ったとしても、遅かれ早かれ死を迎える。 永遠のいのちが与えられたこと、その原因となった癌、 すべてが益で、本当に感謝。
2009年05月04日(月) 「視点」
Aさん「ずうっとサタンが来るんですよぉ。 自分の弱いところに、出来ないところに 攻撃して来る。お前はダメだ、ダメだと。 外から吹き込まれる感じで、ほんと サタンです。「サタンの火矢です」 ずうっとしつこく言って来る。 それを聞いて行くと、どんどん落ち込んで 行くばかり。自己憐憫やら自責やら、又 人を責めたり、不平不満が噴出してきて、 愚痴と文句でいっぱいになる。 ネガティブになり、心が真っ暗になって、 人生何もかもがダメに感じて、 どお〜っと深い淵に落ち込む感じ。 それで、深夜でも、もう聖書をバンと開いて、 御言葉を読むんですよぉ。 すると、ほんとに変わるんです。すごいです。 神様視点になって、否定的に受け止めて いた事柄が、信仰的、肯定的に変わるん です。 ああ、この事態は訓練のために与えて いて下さるんだな。 懲らしめは愛なんだな。神様は愛していて 下さる。将来に備えて、鍛え、整えて行って 下さるためなんだ、感謝なんだと、一変してしまう。 試練を受け止めて行こうと思える。 目線というか、視点の問題なんですね。 状況と自分しか見てないと、ひたすら 落ち込む。 でも、サタンてすごいですね。的確に自分 の弱いところを突いて来る。」 「うん。余りに的確で、的を射ているから、 サタンに説得されてしまう。狡猾、巧妙」(笑) 全く同じ状況で、視点だけで、真逆になってしまう。 ふっと目を上げて、神様視点で見ると、 目の前の事態はご計画の一環、この中で何を 教えようとされているのか、何を学べばよいのか、 この事の、神のメッセージは何か。 神様視点で求めて行ける。そして教えられ恵まれる。 神様が吹っ飛ぶと、すべてが否定的思考になり、 思い煩い、不安、恐れ、いら立ち、焦り・・。 いる領域が違って来る。 御霊の支配の中に、神のご愛の中にいつも とどまれるように。 でも、 「サタンが、あのデボーションを取って行く時の 巧妙さはすごい。 次々と声が聞こえて来て、あれしなきゃ、 これはどうしても急ぐよ、次、それした方 がいいよ。 その声がはっきり聞こえて、それに従って 行くと、神様との交わりの時間を巧く 全部取られてしまう」
2009年05月03日(日) 「圧倒的な勝利者」
Aさん、末期癌で、余命1ヶ月との宣告から 延命治療をされ、もう余命もとっくに過ぎて、 数ヶ月になられる。 診察の度に、余命○○日と書いた紙をくれて いたが、余命もとうに過ぎてしまって、その紙も、 もうくれなくなりましたと、大笑いされた。 病院で命が終わると思い、二度と外へは出ら れないと思っていたので、こうやって教会に 来れることが、もう奇跡で、有難く嬉しいですと。 教会に来ておられる時は、お顔輝いておられ、 終始ニコニコ笑顔で、とてもお元気そう。 「死ぬ人に見えないでしょ」と、声を上げて笑わ れる。本当に神に在って、死を越えておられる。 以前に外泊帰宅をされた折り、近所の方に バッタリ出会われた。 現在の状況を話し、末期癌で助からないこと、 余命少しであることをあるがまま、お話すると、 その近所の方が、それはもう驚かれましたと。 Aさんが、死を前にして、平然とニコニコして いることに、もうびっくりされたと。 でも、余命○○宣告の時期はとっくに過ぎて、 いつどうなっても、おかしくない状態であられる。 2週間ほど発熱と痛みで伏せられ、祈っていた。 Aさんの近くに住む、Bさんから連絡有り、 「昨日、聖書の学びをして欲しいとお電話頂き、 お訪ねして学びをしました。 学びの途中も、時々、呼吸が出来にくくなられ、 苦しそうでした。 癌の肺からの水が口や鼻から出られるようです。 でも、学びができて感謝でした。」 Aさん、お身体しんどく、痛みがあられながら、 御言葉を学ばれたいと、その渇きに、恵まれて 涙が出そうだった。 「大変な辛いお身体で、学びをしたいと言われること がすごいね」 Bさん「はい。Aさんの内に、聖霊様がおられるん だなあと、すごく感じました。 明日、教会で会いましょうねと、言われてお別れ したんです。身体が行けそうだったら、何とか行き たいと」 Aさん、今日来られていなかったので、伏せって おられるよう。お祈りしている。 ずっとずっと主の栄光を現しておられて、すごい なあと思う。 余りに恵まれて、Aさんのことをお話したら、 Cさんから、この御言葉が送られて来た。 「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方 によって、これらすべてのことの中にあっても、 圧倒的な勝利者となるのです」ローマ9:37
2009年05月01日(金) 「神の時」
カンボジアから、一時帰国の孫Aが、 最近幼稚園へ行き出した。 とてもデリケイトで、慎重で、よく考える ゆえ、未知の世界は不安、恐れでずっと 行けなかった。 周囲は、行けば楽しいのにと思うが、 本人は行きたくない。 同齢の子たちと遊ぶ必要も思われ、 ひよっと出してみるが、暗い顔になり、 嫌なんだなと。 それが、体験入園をきっかけに、突如、 自ら行くと言い出した。これはすごいこと。 元気に通園している。 ある日突然の急展開であった。 人の「心」を動かされるのは、神であると 見せられる。そこに無理がない。 「神のなさることは、すべて時にかなって 美しい」伝道3:11 「天の下では、何事にも定まった時期があり、 すべての営みには時がある」伝道3:1 三原宣教開始から、今年が8年目。 8年目にして、祈りに祈って来た教会学校が ある日突然与えられた。まさに天から降って来た。 8年間、まず子供伝道からと思い、教会学校 をと思い、祈りに祈るが、全く門が開かれなかった。 どれだけ、人間が動いても、主の御心でなければ 何一つ動かない。微動だにしない。 「神の美しい時」があって、それ以前に、焦っても、 心配しても、思い煩っても、全く動かない。 いっさい動かない。 厳粛に、「神の時」があること、厳然とあること、 それを教えられたことが、感謝だった。 神の時が来る前に、幾らあがいても、煩っても どうにもならない。 ひたすら「待つ」。待って、待って、待ち続ける。 思い煩わず、焦らず、信仰もって、待っていたい。 悠久の時が流れているように感じるが、待つこと が信仰。待つことで、信仰を献げたい。