2009年07月30日(木)
  「嬉しくて、嬉しくて」

マイホーム

地区集会に、どんな時も休むことなく、忠実に
出席して下さっている、Aさんが、祝福を語って
下さった。

マイホームだと。私にとっての地区集会は、元気
をもらい、忘れかけた感謝の心を取り戻す所です。

忙しさを言い訳に、神様を忘れ、自我の道を
まっしぐら!

集会で、感謝の心、祈る心を取り戻し、集って下
さった皆さんから、元気に、前向きに、謙虚に
生きる力を分けて頂く所です。

神様に出会って、まだ日数の浅い私ですが。


「あなたに出会って、本当に良かった!

嬉しくて、嬉しくて、言葉にできない!」

少しでも神様の声に、耳を傾ける事ができる
ように、導いて頂けることに感謝です!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

♪ あなたに出会って、本当に良かった

嬉しくて、嬉しくて、言葉にできない ♪ ♪



Aさんの言葉に、心が共鳴して、喜びが溢れ、満ちた。

嬉しくて、嬉しくて、言葉にできない。

イエス様に出会って、本当に良かった!!!

心の底からの、力いっぱいの叫びだ。

2009年07月26日(日)
  「花火」

「うわあ!!綺麗ー!!」

花火大会があった。
教会の近くの高台から、素晴らしい見事な、1万発の
打ち上げ花火を見た。
昔から毎年あるのに、広島に来て35年、初めてだ。

時刻になったので行くと、何と、大勢の人だかり。
閑静な住宅街に車がひしめき、道路に椅子を並べて
すでに場所取り。シートを敷いて、花見のごとく、
お弁当持参に、びっくり!!

いよいよ始まった。ドーンと大きな音と共に、
真っ赤な大輪の花が、真っ黒の夜空のキャンパスに
見事に咲き誇る。余りの綺麗さに、見入る。
大きな花火だと、一瞬、その場がパッと明るく輝く。
不思議な臨場感がある。

しだれ花火、しだれ柳のように、大きく弾いて花が咲いた
後、余韻のごとく、花がしだれて行く。

青、黄、緑の花々が、大空で炸裂!!
真っ白な星や、土星、ハート、形も描かれて、楽しい。

クリスマスのイルミネーションに似た、銀白色や、金色
の点々が、大きな音と共に、夜空にまき散らされる。

間髪を入れず、幾つもの大、中、小の赤、黄、青の花々
が次々と、途切れなく、大空を美しく輝かせる。

真っ黒の大空いっぱいの背景に、大きなドーンドーン
という音と共に、見事なカラフルな美しい花々が描
かれて、心が感動する。

「うわあ!!すごい!」「きれいー!!」「わあ!!」
道路を埋め尽くした人々から、次々と歓声が上がる。

そのあたりが、妙な一体感に包まれて、可笑しい(^^)


最後は、やはり大盛り上がりで、銀色金色に光る
連発で、噴水のように、打ち上げられた、息を飲む
見事さ。

一帯に、拍手が湧き上がった。

夜、教会のAさんから「花火行って来ましたー」
とメールが入る。「帰りが大渋滞で大変でした」

翌日、教会へ行くと、Bさん「花火行ったんです!」
C]さん「家から見たー」
Dさん電話で「綺麗だったねー!」


どれほど大勢の人が、四方八方から、あの夜空の
一点を、注視してたんだろう。

イエス様の地上再臨て、こうなんだろうか、と
ふと思った。




2009年07月25日(土)
  「自我」

Aさんに突然の厳しい試練が臨んだ。
大変なショックで、苦しみ、悲しみ、痛み、
心は混乱し、余りの衝撃に、激しく揺れた。

「なぜ?」「どうして?」失望や怒りや、様々な
思いが千々に乱れる。

しかし、神様に焦点を合わせ、神様を見続けて、
祈り続けた。日にちの経過と共に、心が少しづつ
落ち着いてくる。
尚も、祈りに祈り続けていると、心が段々冷静に
なって来る。神様の力を感じた。

心に大きな変化が生まれていた。事態を受け
入れ、受け止めよう。
そのように変えられた心で、尚も祈り続けている
と、色々な事を御霊は示された。

状況や事態そのものでなく、それに至っている
原因に目を向けさせられ、それが突然のもので
はなく、根深く培われたものであり、又、弱さで
あること、自分自身が根底から変えられねば
ならないこと。

そして、この試練があって良かった、苦しいけれど、
あった方が良かったと、今、心から思えること。

もし、時間が試練前に戻り、どちらでも選択できる
としたら、自分は、迷わず、ここを通ることを選択
すると。

もし、この事が無ければ、平穏無事に、何もなく
進んで行っていたであろうが、形ばかりの、実質の
何も無い信仰人生になっていた事がわかる。
絶対にそうでありたくない。

痛いけれど、辛いけれど、自我が砕かれ、自分自身
を根底から変えようとして下さっている、神様の取り
扱いであること、それがわかるから感謝だと。
取り扱いにあずかって行きたいと。

平穏無事が、この世の宗教だ。悪い事が何も無い
ようにと信心する。自分にとって都合の悪い事で
あるが。

自分に都合の良いように、無病息災、家内安全、
商売繁盛、交通安全、平穏無事に人生を送り、
自我がそのままなら、本当に心底虚しい。

Aさんに深く共感する。


Bさんが、自分はご利益宗教だったと気づかされたと。

自分にとって都合の良い事が、善であり、自分に
とって都合の悪い事が悪、自分があるだけで、
そこに神様の御心など何も無い。

人生が自分の思い通りに、都合の良いように行って
欲しい。しかし、神様はそうではない。
それを自分は受け入れられない。神様の最善が常に
成っているのに、自分の思う最善と全く違うので、
受け入れない。反発し、反抗し、拒んでいる。

それは、自分を神の上に置いて、自分が神になって
いる。
自我であり、自己中心であり、だから、神様の愛が
わからない。平安も喜びもない。

その事に、御霊様が気づかせて下さって感謝だった。
やっぱり、自分は神様に従って行きたいと。


信仰人生、結局、「自我」に行き着く。
自我に死ぬのが嫌で、中途半端に歩むのか。
肉は、自我になど死にたくない、どこまでも自分中心
に歩みたい。

痛いけれど、しんどいけれど、砕かれることを
選んで、真の喜びと平安に満ちるのか。



「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、
それは、一つのままです。しかし、もし死ねば、
豊かな実を結びます」

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、
この世でそのいのちを憎む者はそれを保って
永遠のいのちに至るのです」
ヨハネ12:24

2009年07月22日(水)
  「愛されている」

「放蕩息子・兄息子」のことを話し合っていたら、

Aさん「私、イエス様を信じて20数年になりますが、
ずっと放蕩息子です。

赦されて、赦されて、今まで生かされて来ました。
もう神様の愛が身に染みて、身に染みて感謝しか
ないです。
イエス様を信じていますが、夜になると、悔い改め、
悔い改めの毎日です。ずっと悔い改めの人生です。

それがもう本当に不思議で、自分が神様について
行ってるんじゃなくて、神様がずっと私を握っていて
下さる、もうその人生でした。

崖っぷちギリギリの所が何度もあり、もうダメだ!と
絶体絶命!と思う時に、必ず、神様が襟首を持って
ひょいと、救い出して下さるんです。

波瀾万丈、紆余曲折あり、何度かもうダメだ、崖に
真っ逆さまと思う度に、ひょいと、助け出される、
ほんとに愛されていると、全身全霊で、身をもって
感じます。

信じていても、罪ばかり犯す者を、神様がいつも
いつも愛し、導いて下さっている。神様が愛であり、
愛されていることだけは、これだけは、もう身を
もって、人生かけて、心から証しできます。
神様は愛です。私は、愛されていて嬉しいです」

Bさん「私、教会って、品行方正な人々ばかり
だと思ってたんです。
それこそ罪とは、絶対無縁で、聖く、正しくて、
でも、全然思っていたのとは違ってて、すごく
嬉しかったです」

Cさん「主人と大喧嘩して、この〜、くそっ〜
とか、腹立つとか、こんちくしょうとか(笑)
皆、素で、地そのままですもんね(笑)
でも、教会へ来ると、『神様、ごめんなさい』で、
また、新たに夫を愛そう!と思えるから感謝です
よね」

Bさん「皆さんがあるがままで、だから、すごくホッ
として、嬉しいです」

Fさん「私、兄息子で、自分の力で頑張って
るから、神様の愛がわからない、ということが
わかった。
自分は神様を知らないことがわかった。
神様を真の意味で知れるよう、愛がわかるよう
今から祈って行きたい」

「自分で頑張ると、必ず人を裁きますね。
やっていない人を見ると腹が立つし、マルタ
みたいに。
出来ないのは、頑張りが足らないから、もっと
努力しないから出来ないと見てしまう。
必ず人を裁く。そして、出来ないと自分をも
裁く」

自分の心が聖霊様によって、見せられる
ことが感謝。


2009年07月19日(日)
  「自分の力」

Aさん「『太宰治は聖書を読んでいたが、自殺
してしまった。神の愛がわからなかったゆえに。

神の愛がわからないから、自分の力で生きる。
あなたは自分の力で生きていないか』

のことばが、ズシーンと心に入った。
まさにそうじゃ。神様を押しのけて、自分の力で
生きてるから、ますます神の愛がわからない。」

「律法によって義と認められようとしている
あなたがたは、キリストから離れ、恵みから
落ちてしまったのです」ガラテヤ5:4

「義が律法によって得られるとしたら、それこそ
キリストの死は無意味です」2:21


Bさん「うん、絶対、自分は放蕩息子の兄の方
じゃわ。こっちの方が、しっくりくる。(笑)

この時も、朝から1日、働いとったんじゃろ。
仕事して帰って来て、どんちゃん騒ぎで、
ムカッと来るわ。

自分勝手に好き放題して、のこのこ帰って来て、
チャラなど、甘い、筋が通らん、つけ上がる。
うん、わかる、わかる。」

「ちょっとそこに座れ!家に入るにも、ひと言ある
じゃろ!説教、垂れる。使用人になら、まだしも納得
が行くかも。」

Cさん「でも、自分が罪を犯した時は、放蕩息子の方
が、もろにわかる。自分も放蕩息子で、ものすごく、
父の愛情が、ただただ有難い。
父の愛や慈しみ、あわれみが身にしみて、よくわかる。
でも、そうでない時は、兄息子になっとる。」

Dさん「自分は兄息子そのもので、とにかく周囲を
裁きまくる。神様の愛やあわれみなど、ぶっ飛んでる。
そんな時は、自分の力で、肉で生きてることが
よくわかる。」

Eさん「自分も兄息子。神様は要求する厳しい人
だと思ってる自分がいる。神様の愛がわかって
ないんだと、わかった。」


一タラントのしもべが、「ご主人さま。あなたは
蒔かない所から刈り取り、散らさない所から
集めるひどい方」と言った。

「私はこわくなり・・あなたの一タラントを地の
中に隠した」、神は厳しく恐い存在で、常に
要求する方、恐いから従う。

兄息子、自分はこれだけしているのに、不公平だ
との怒りと欲求不満。
放蕩して帰宅して、祝いの大宴会など、そんなばかな。
そんな事があるか。人間は努力して、頑張ってなんぼ。
自分が否定されるようで、怒り心頭。

言われたことをし、規則を守り、破らない事だけが
大事なことで、父との関係など頭に無かった。

「おまえはいつも私といっしょにいる。
私のものは、全部おまえのものだ」ルカ15:31

父の最大の愛がここにある。
御父の愛をかみしめたい。




2009年07月16日(木)
  「思い煩わない」

Aさんが

「神様を信じて、思い煩いの面で、私、ものすごく
変わったですよ。自分でも驚くほど。

もう、以前は、極度の心配症、思い煩い症で、
何かあると、もうパニック、恐怖と不安がどうにも
ならない。ほんとに居ても立ってもいられない」

「うん、わかる!わかる!まだ神様信じる前も、
大変な時、教会に飛び込んで来てたものね」(笑)

「ドオッーと落ち込むんですよ。心の中が真っ暗に
なって、とにかく否定的思いしかない。

最悪の状況を描いて、自分でシナリオを最後まで
描き上げて。悪い方にしか考えられない。
それも、一番悪い状況に陥ると、なぜか信じて
しまってて、それもしっかり確信していて。(笑)

それが、神様信じて救われて、ものすごく変わり
ました。
なんで、最悪に考えるんだろう??って。
そんなのどうなるか先の事は、わからないという
のが事実で、正しい答え。
先を知っておられるのは、神様だけ。

その神様が、最善をする、愛している、計画を
持っていると言って下さっている。

最悪の状況を思わせ、落ち込ませようとサタンが
来るが、そんなの、どうなるかわからんじゃん、
別の状況になるかも知れない。更に良い状況に
なるかも知れない、と思っている自分に、驚き!!
これって、奇跡ですよ!!すごいですよね。

だから、私、思い煩わなくなりましたよ。
神様が良くして下さると、思っていて。」

Bさんも、いっさい先を思い煩われない。
今、現在、与えられているものを、心から感謝
しておられる。
だから、いつも口から、感謝しか出て来ない。

Bさんの置かれている状況は、どれ一つ取って
も、ドドッーと落ち込むばかりの現状だ。
身体的弱さ、経済的大変さ、これから先のこと、

でも、全く思い煩いが無いと言われる。
「空の鳥を見よ、野の花を見よ」との主を、
心底信じておられるゆえだ。

御言葉が、頭でなく、心の芯というか、
しっかり心に入る時、根づく時、信仰が起きる。

神様見上げて、思い煩いでなく、喜びが来る。
神様は、この事態をどんなに良くして下さるか
楽しみだ!!と。


2009年07月13日(月)
  「変えられる」

学び会の交わりが、神様への感謝で盛り上がった(^^)/

皆が言う。神様に出会って、夫婦関係がものすごく
変わった。
夫婦の間が、麗しくなって、仲良くなって、和気あいあいで
とても楽しいと。自分が変えられたと。

AさんもBさんも、「夫の趣味に全然興味が無かった。
全く関心が無かったが、夫に歩調を合わせることが
神様の御心なので、ちょっと夫の趣味を一緒にやって
みた。

すると、自分もはまって行き、何だか楽しくなって来る。
夫にその事について質問すると、ものすごく嬉しそう。
喜々として答えて、一生懸命教えてくれる。
今では、一緒に楽しんでて、これがまたものすごく
いいですよぉ〜!!夫婦円満で楽しい!」

皆で「神様の祝福だー!!」(^^)

Aさん「昔は、こうじゃなかったんですよ。今思えば、
夫も企業戦士のごとく、早朝出勤、深夜帰宅の毎日、
どんなにか疲れ果てていた事だろうと。

でも、昼も夜も、夫は不在。子育ても一人でして、自分も、
もう閉塞感で、心身クタクタで、いっぱいいっぱい。
夫婦共に、それぞれが疲労限界状態だったんですが。

夫は全然育児を手伝ってくれない。今、思えば、疲れ
きってて、出来なかった事がわかるんですけどね。
夜、子供が泣き止まないと、泣かすな!!
休日も、夫は休みたいばかりで、家族団欒もなく、
子供もみてくれず、もう私の中は、蓄積不満。
ほんとに、あのまま行けば、離婚してましたよ。

神様知って、神様の無条件の愛や犠牲愛を知って、
自我に死ぬこと、自分に死ぬことを学べて、ほんとに
心に平安と喜びが与えられて、夫を愛して行きたいと
思えるようにされた。
もう、夫婦の間が、ものすごく変わりましたよ。
神様に感謝で、感謝でならないです。

Cさん「私はずうっと夫に我慢して来て、我慢に我慢
を重ねて来た。神様に出会った時、自分が天国へ
行けることを知り、感謝した。
でも、夫は一緒に天国へと思えなかった。
ええっ!まだ天国まで一緒?!もうこの世だけで十分と。

でも、御言葉を少しづつ学び、神様のご愛や慈しみを知り、
自分に愛の無いことを知り、御霊に導かれて仕えて行く
ことを学び、私の心、気持ちが変えられました。
夫が救われて欲しいと、祈れるようになった。
夫が、子供が巣立ったら、夫婦で旅行しようと言った。
子供が巣立つ頃、もっともっと良い関係になりたい。」

Dさん「私、神様に出会ってなかったら、離婚してた。
とにかく神様に従って行こうと思って、神様が示され
る事を一つ一つ行なって行った。

すると、夫に対する愛情が与えられて、今、夫への
愛情があり、夫を心から愛している。
これは神様からのものであり、神様が私を変えて
下さった。
ほんとに、神様に出会ってなかったら、どうなって
いたかわからない」

結婚を建て直し、建て上げて下さって、夫婦の仲
を麗しくして下さる神様に皆で感謝(^^)/

神様に従って行く時、本当に自分が変えられる。


2009年07月10日(金)
  「豊かな所へ」

この度、帰国されるA宣教師夫人に、お会いした。
初対面だった。
ずっと日本にいたかったが、病気のため、帰国を
余儀なくされたとのこと。
残念だが、でも、故国で、続けて主のために働きますと。

日本を愛して、生涯を献げて来て下さった。本当に
有難うございました、ご苦労様でしたの思いで一杯
になった。

日本滞在43年と言われた。
何と、私がイエス様を信じた同年に、来日された!!

「なぜ、日本だったのですか?」とお聞きすると、
最初、アフリカへ行く事を考えていたが、神学生の
時に、日本のことを聞いて、重荷が与えられた。

でも、渋ったり、拒んだりしていたが、どうしても
思いが無くならず、どんどん強くなる。

それで、ある日、はっきりと、神様と向き合い、
その事について祈った。

「もし、日本が御心なら、行きますから、はっきりと
示して下さい」と。
その時、召しの御言葉が与えられたのですと。

最初は単身で、女性一人で、来られたそうだ。
地方に住まれ、それが日本人女性と二人で
住んで、共同生活をしたが、相手の女性は
全く英語がわからなかった。

A夫人は日本語が全くできない。基礎勉強も
全く無いままの来日でしたと。

それゆえ、もうその生活は、大変で、パニック
だったと。大きなストレスで、もう苦しくて、辛くて
しんどい日々であったと。

しかし、後で振り返った時、そのお陰で、日本語
ができるようになった。
もし、彼女が英語ができたなら、自分は日本語が
全くできなかったと思う。神様に感謝で、感謝で
ならないと。

Bさんも同じことを言っていた。
姉妹で、アメリカに留学。それぞれ別の州に。
Bさんは、日本人のいる環境だった。妹さんは
日本人が一人もいなくて、英語だけの環境で、
もう最初は、全くわからなくて、辛くて、苦しくて、
孤独で、涙、涙の日々だったと。

しかし、見る見る間に、妹さんは驚くほど語学が
上達し、早く喋れるようになり、自分との差が歴然で、
その発音が素晴らしく綺麗と。

やっぱり、苦しいけれど、あの状況だからこその
恵みで、しっかりと身に着き、培われると。

Dさんも「語学留学は、一人に限るよ。私は日本人
の全くいない、一人の環境に自分を置いた。
それは、ものすごく辛くて、しんどいけれど、でも、
ものすごく身に着いたよ。

ニューヨークでも、語学学校に来ている、日本人を
よく見るけれど、日本人同士で群れていたら、絶対
喋れるようにならないよ。楽で、楽しいけどね。」


私たちにも、神様は時々荒療治をされて、とんで
もないような、苦しい環境の中に置かれる。

でも、そこでこそ身に着く、そこでなければ身に
着かない、素晴らしい贈り物が備えられている。

楽な所ではダメで、決して身に着かない。

ある日、突然、降って湧いたように、苦しい
状況の中にいる事が、時としてあるが、
神様のご計画であり、必ず、素晴らしく豊かな
所へ連れ出して下さる事を信じていよう。


「あなたは私たちを網に引き入れ、私たちの腰
に重荷を着けられました。

私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。
しかし、あなたは豊かな所へ
私たちを連れ出されました。」詩編66:11


2009年07月08(水)
  「信仰の芽萌え出で」

カンボジア・・

真っ青なキャンバスに、白い雲、遙か彼方には、視界いっぱいに
広がる地平線。
何もない。果てしない広大な緑の大平原。その中に、椰子の木が
点在。これぞカンボジアの原風景。

バッタンバンでは、乾期に珍しくスコール。
ほこりが、雨のシャワーにきれいに洗われて、水滴の残る、瑞々
しく生き返った草木。
雲がおおい、川は濁流となり、グレイ色の風景は、水分を含んで、
しっとり何とも情緒的。

そこに、顔をのぞかせる、一条の鮮烈な太陽光線。
再び、真っ青な空が顔を出し、明るい輝きを取り戻し、
スコールの後の、ほっとひと息。

360度、広大な自然がどこまでも。日本では見たことの無い風景、
いつまでも見ていたい。心が惹かれ、癒される。

美しい自然に恵まれたカンボジア・・。

その美しいカンボジアで起きた、凄惨、陰惨な事実。
今、ポルポト裁判が行なわれている。元ツールスレン刑務所長
がクリスチャンになって、真実を何もかも明らかにしたいと。

何でこういう事が起きたのか、今後二度と起こさないために、
事実検証し、あらゆる資料を収集し、後世に伝えるとの目的
で、資料センターが設立されるそうだ。

エデンの園で、アダムとエバが神を捨てて、罪を選んだ。
最初の子供カインとアベル、そのカインが人殺しをした。
選んだ罪が、いかに悲惨なものであったかを、見る。

ポルポト兵士達も、自分が命令に背けば、また仕事に
手抜かりがあれば、自分が殺される。
殺すか、殺されるか、人間の罪は拷問を、更に残忍
なものへと、どんどんエスカレートさせて行った。
罪のなせるわざ。


次から次へと飛び込む日常のニュース。
親が子を殺し、子が親を殺し、誰でもいいとの無差別殺人。
次々と出る裁判の結審。どれがどの事件であったのかも
わからないほど。

エデンの園で、人の選んだ「罪」が、実は思いを越えた、
想像を越えた恐ろしいものであることを、見せられて
行く。

あの残忍残虐な、主の十字架でなければ、片がつけられ
なかった、恐るべき罪。自分の内にある肉。


「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの
情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」
ガラテヤ5:24

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた
のは、罪のからだが滅びて、私たちがもはや
これからは罪の奴隷でなくなるためであることを、
私たちは知っています」ローマ6:6

「自分の罪に対しては死んだ者であり・・」

十字架がなければ、どうなっていたのだろう。


Aさんが、詠んだ歌を見せて下さった。

「ポルポトに粉砕されし南の地に
         信仰の芽の萌え出ずるなり」


「カンボジアで働く、N先生のことを思って、詠んだん
です」と。

その短歌に、ツールスレンを思い、罪を思い、イエス様を
思い、涙が出た。




2009年07月07日(火)
  「五時の者」

病を持っておられるAさんが、

「自分は、ぶどう園のたとえの、5時の者です。自分は何もでき
ない。でも、何か自分にも出来ることで、神様に仕えたい」
と言われた。

ぶどう園のたとえとは、マタイ20:にあって、猫の手も借りたい、
ぶどうの収穫期に、主人が、労働者を雇う。

早朝に雇いに出て、労働者達と1日「1デナリ」の契約をし、雇う。
次に9時に出かけ、彼らには1デナリとは言わず「相当のもの」
と言って雇った。
12時と3時にも、出かけ、同じようにした。
5時にも出かけ、「誰にも雇ってもらえない」労働者たちを雇う。

そして、その日の仕事は終了し、賃金は最後の5時の者から
支払われた。その報酬は、1デナリ。

それを見て、早くから労働した者たちは、もっと多く貰えると
思った。しかし、全員等しく、1デナリだった。

すると、早朝の者が怒った。「何でなのか!」不平不満爆発だ。
自分達は暑い中、苦しい仕事をしたのに、同額とは納得が
行かない!怒りと不服。


だいたいこの箇所を読むと、不公平だと思う。
「何でなん!!」「おかしいじゃん!」

そう思うこと自体が、自分が早朝の者であるから。
無意識に、早朝の者に自分を重ねている。

もし、自分が5時の者であれば、どんなに有難くて、嬉しい事
だろう。1時間しか働けなかったのに、1デナリも貰えた。

今日の糧を待っているであろう家族、しかし、雇ってもらえ
ないまま、もう夕刻。このまま空手で、どうやって帰ろう。
そこに、こんな時間に雇ってくれる人が現われ、しかも、
丸1日分の賃金が貰えた。
何という恵みで、有難いことだろう。そこに、感謝しかない。


こんな事を話していたら、

Aさん「私、早朝の者じゃわ!!」
Bさん「私も、早朝の者!!」

Cさん「私、今、わかった。不平不満タラタラで、心の内で、
人を裁き、見下げ、腹を立て、自分が早朝の者なんじゃ」

Dさん「ものすごい肉の力があるんですよねえ。本当は何も
出来ないのに、できると思っているし、自分でしている」

自分が5時の者なら、すべてが恵みで、すべてが与えられた
もので、神様が満ち満ちておられるんだろうなあ。

これも、神様の砕きしかない。砕かれるしかない。



2009年07月06日(月)
  「国籍が天に」

お父様が救われて、大きな喜びにあるAさん。

引き続き、恵みをお聞きできて感謝だった。

・・・母の時もそうでした。告別式の朝、姉から
母の最期の様子を聞いた時、母の救いの
確信をいただきました。

その時、姉にも個人伝道でき、それまで両親
に起こった様々な守りを、不思議に思っていた
姉は「イエス様を信じる」と言ってくれました。

本当に嬉しくて嬉しくて、告別式の最中も知らぬ
間に頬が緩んでしまい、それを抑えるのに必死で、
母の死を悲しむより、喜びが爆発していました。
・・・

お母様とお姉様の救いが喜びで、喜びで、
天にも上る心地、親族の救いは何にも、何にも
代えられない、大きな大きな喜びだ。

以前、お母様が天に召されたBさんに
「寂しいでしょう」と言うと、

Bさん「いいえ、母が救われた喜びの方が
大きくて、もう嬉しくて、嬉しくて、嬉しかっ
たんですよ。
母は、もうずっと入退院を繰り返していて、多分、
無意識に、私の覚悟もできていたんでしょうね。
母とまた会える。ほんとに嬉しい。感謝なんです」
と笑顔で。

それほどに、親族の救いは嬉しい。
主に在って、ほんとに希望がある。


昔、小さな小さな命が天に召された時に、
司式の宣教師の先生が、葬儀式の冒頭で、大きな
声で、叫ばれた。「REJOICE!!」
「喜ぼうじゃないか!!」

驚いた。大衝撃だった。はっきりと「信仰」に立たれた。
「ベイビーは今、天国にいる。そしてこの事を通して
父親が救われ、祖母が救われた!神様に感謝
しよう!!」

式の最初から最後まで、神様にびんびん触れて、涙が溢
れて溢れて止まらなかった。神様の葬儀式だった。
この葬儀式で、二人の方が「イエス様を信じたい」と、
救われた。

身体はいつか必ず朽ちて行く。新しい朽ちない身体
を与えられて、永遠の住まいが用意されている。
主と共に、喜びと楽しみの中で、永遠を生きる。
何という身に余る恵みだろう。

「けれども、私たちの国籍は天にあります」
ピリピ3:20

2009年07月04日(土)
  「嬉しかったこと」

遠方の友から、緊急の連絡あり。

病にあるお父様を、急遽明日訪問できることに。
遠方でもあり、とっさの時にすぐには駆けつけられ
ないので、最後の機会かも知れない。

現地の牧師先生が来て下さって、福音を語って
下さるので、信仰告白できるよう祈って欲しいと。

場所は違っても、いつも一緒に祈り、祈って貰って
いる大切な姉妹。
どうか必ずお父様がはっきりと救われ、信仰告白
に導かれますように、切に祈る。
祈っていると、なぜか絶対に大丈夫!との思いが来る。

あ、牧師先生が訪問されている時間だ!と、心を天に
向け祈る。

どうだったかな、と思いつついると、外出先で、取り
急ぎの、明確な救いの報告が入った。
やった〜!!感謝!!

引き続き、帰途の新幹線の中からメールが入る。

まず娘と話して、病床のお父様は疲れてしまわれ
体力的に、牧師先生のお話が、十分聞き取れない
状態で、どうなのかなあという感じであった。

その日が、今日ではないのだろうかと、半ば諦め
そうになったが、

お母様との最期が、直接確認できなかったことを
ずっと悔やんで来たので、いざという時に間に合わ
ないやも知れず、どうしてもきちんと聞こうと決心。

耳元で、「次いつ会えるかわからないし、もしもの
時にすぐに来られないから、一つだけ確認させて欲
しい。イエス様を信じていますか?」

お父様は、うなるように大きく頷かれ、「そう聞いて
くれるのを待っていた」と。

淵田美津雄、元真珠湾攻撃隊長の証し の小冊子
を教会から頂き、ゴルゴダの意味を理解して読んだ、
大感激したとも、言われたと。

その日、ずう〜っと心に天の喜びがあった。
ご親族の救いは本当に嬉しい。

私の両親の最期を思い出した。

余命僅かで、もう話もできない、ベッドに寝たままの
父に、耳元で福音を今一度語り、「イエス様を信じて
ますか?」

救いの確認をした時に、はっきりと力強い声で、
「はい!」と言った。父の明確な意志だった。

「天国へ行こうね。また、会えるね」と言うと、また
鮮明な力強い声で「はい!」と言った。

お祈りするね、と私が祈ると、大きな声で「アーメン!」
と言ってくれた。それが最後で、息を引き取る時には
間に合わず、会えなかった。

母も、死を前にした時に、今まで聞いていた「イエス様
を信じる?」と聞くと、もう体力の無かった母は、大きく
頷き、もう一度、大きく頷いた。

お祈りするねと言うと、以前は「私はまだだから」と言っ
ていた母が、祈りも受け入れてくれ、一緒に祈れた。

母ともそれが最期だった。臨終には会えなかった。
今際の際に、会えるとも限らないんだなあと。

福音を伝える、神様の時を、逃さず、捕らえられます
ように。



2009年07月03日(金)
  「神のことば」

Aさんは、病にあられる。

いつも交わる時、Aさんから不思議な癒しが
流れて来る。心、癒される。

先週、不調になられて、しんどい、辛い、苦しい
状態におられた。

ご自分で、今、調子が悪いと自覚されていて、
病院に行って来ます、祈って下さいと言われた。

段々、親も歳を取り、弱って来るし、自分の将来
を思うと、不安でたまらなくなると、涙された。

いろんな試練が重なっておられ、心痛み、
皆で一緒にお祈りした。
「祈って下さい」「祈っています」とお別れした。

そして、今週。

素晴らしい笑顔で、来て下さった。前週と全然表情
が違い、とても明るいお顔で。
表情が、生き生きとしておられる。

「有難うございました!元気になりました」と笑顔で。
「ほんとに、お元気そうです!!」

「病院行かずに済んだんですよ」と。
1週間、祈って、ずっと御言葉を読んで行くと、

「恐れるな」「わたしはあなたとともにいる」
一言一言の御言葉が、心に臨み、心に響いて来て、

まさに、神の言葉であること、神の言葉の力強さ
を経験しましたと。

思い煩い、恐れていた心が、神の言葉が心に臨んだ
時に、すっかり平安になりました、と。

神の言葉が生きていて、霊であり、いのちである事を、
身をもって体験された。

Aさんを通して、改めて、神の言葉の力を見せられた。
神の言葉により、真に生かされる。


「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、
またいのちです」ヨハネ6:63

霊であり、またいのちである、生ける神の言葉を
自分自身も、日毎に聞いて行きたい。

「神のことばは生きていて、力があり」ヘブル4:12


そして、Aさんは、病にあるBさんの気持ちがとても
わかられて、慰めのために用いられておられた。

Bさんに「○○しか出来なかったと、言われるけど、
そうじゃないですよ。○○も、出来たんですよ。立派
ですよ。素晴らしいことですよ」

「しか」を「も」に変えられた。
その場に、優しさが漂った。