2009年08月21日(金)
  「とどまることによって」

心の中に、何か物足らなさを感じる時。

勘違いし、間違った方向へ走ることがある。

何かをする事によって、その物足らない部分を
埋めようとする。

金持ちの若い役人が、イエス様のもとへ来て
「永遠のいのちを得るために、何をしたら良いかと」
聞いたように。
心の虚しさを、何かすることで埋めようとする。

しかし、人間の心の空洞は、何かする事によって
は埋まらない。
ハートの形をした心に、マルを入れても三角や四角
を入れても隙間が空いて、埋まらない。
何を入れても心は虚しい。それは人間でも、奉仕でも
趣味でも、仕事でも、何を入れても埋まらない。

神様の形をした空洞なので、神様を入れるなら隙間
なくピッタリと埋まる。ハートの形の空洞にハート型を
入れたらピッタリ埋まるように。

ピッタリ埋まる時、虚しさが消えて、心は平安と喜び
に満ちる。

人の心は、何かする事でなく、神様との交わりに
よって初めて埋まる。

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの
中にとどまります」
「人がわたしにとどまり、わたしのもその人の中に
とどまっているなら、そういう人は多くの実を結び
ます」ヨハネ15:5

人は何かすることでなく、主にとどまることによって
心は満たされる。

Aさん「それ!それそれ!!この間、実体験したん
です(笑)何か心が満たされず、もやもやしていて、
心虚しい。動きたいものだから、満たされたくて、
充足感や達成感が得たくて、あれやこれや奉仕を
する。
忙しい上に、更に自分で忙しくして、その内わけわか
らなくなって(笑)心はイライラ、ピリピリ、妬みやら
怒りやら出て来る。

平安全然無くて、心も宙に浮いていて定まらない。
そんな時、学びの中で、神様との交わりが、形式上の
デボーション、形だけで、全然交わっていない事がわか
った。
その日から、心から正直に、自分の本音を神様にぶつ
けた時に、交わりが復活した。すぐに心に平安と喜びが
戻った。

神様との交わりに問題があった、と教えられた。
それに気づかず、何かして満たされようと、いろんな
事に手を出して、しんどくなるばかりで。」

神様にとどまることによって、人は満たされる。
何かすることでなく、主の内にとどまること。
神様との、生き生きとした交わりが、何より大切だ。
そこから喜びと平安が来る。


2009年08月19日(水)
  「変えられて」

「自分が変えられた」という話になった。

イエス様を信じる前と、自分が全然違う(^^)/

Aさん「感情が先にカッーと来ると、もうわけ
わからず、子供にも小言三昧。怒りが抑え
られずに、ガガッーと頭ごなしに叱りまくってしまう。
後になると、ああ、あんなに叱らなくてもと、
落ち込んでた。

それが、イエス様を信じた後、腹は立つが、
もう一人の自分がいて、いやいや感情をぶ
つけてはいけないと、自制が働く。

子供心配の余りに、ついガガッーと言って失敗
してしまう事もあるが、こんな言い方されたら
相手は嫌だよね、同じ事を言うにしても、
言い方があるよねと、猛反省させられる。
神様が気づきを与えて下さるから感謝。

腹が立つ時は、「神様!神様!」と、「今、腹が
立ってたまりません!助けて下さい」と祈ってる。

以前だと、頭ごなしに怒鳴りつけるところを、
あなたの事が心配なんだからと、落ち着いた
コミュニケーションに変えて下さっている。
すごい変化です!いつも祈れることが感謝で
ならないです」

Bさん「私は、子供の立場で、変えられました!
以前は親と喧嘩になると、売り言葉に買い言葉
で、親にもろきつい言葉を投げつけて、メチャメチャ
言ってた。ほんとに親を親とも思わずに。
今、そんな事無くなって、変えられましたよ。
神様のお陰です」

Cさん「教会に来て、御言葉を聞くようになって変
わりました。どれだけあちこち求めても、何をどう
しても心に安らぎが、全く無かったです。
光が全く無い真っ暗闇の中でした。今、心に平安が
あります。あんなに求めた心の安らぎが、
今、あります。奇跡です!!」

Dさん「信仰の無い人生、イエス様の無い人生
など絶対に考えられない。
信仰は神からの賜物であり、信仰が与えられ
たことが感謝で、感謝でならない。
今、信仰が与えられていることが嬉しくて、
嬉しくて、ただただ感謝!!」







2009年08月16日(日)
  「神にはできる」

Aさん「問題を抱え、どうにもならない状況に
10数年、真っ暗闇の中でした。救いが無かっ
たです。光が無かったです。

今、はっきり光が見えます。
状況は、全く同じで、変わらないのですが、
自分の心が変わりました。

苦しい状況は変わらず、先も全く見えないですが、
委ねて行こうと思えるんです。
こう思えること自体が、以前から思うと、とても
考えられない事です。

自分の見方が、変えられて、以前はネガティブ
にしか見えなかったのに、今、心が穏やかに
落ち着いています。
本当に奇跡です。心が苦しくて、辛くてたまらなか
ったのに。奇跡が起きました」

「状況を、受け入れておられるのですね」

「あ、そうか。受け入れてるんですよね。
だから、心が安らかなのですね。
奇跡です。以前は自分の思いが強くて、
強くて、だから苦しくて、苦しくて、たま
らなかったです。
受け入れられるなど、奇跡です。」

「神様のみわざだ」

Bさん「Aさん、初めて教会に来られた時と、
全然違いますね。ものすごく変わられた」

Aさん「奇跡です。聖書の御言葉を聞いている
内に、心が少しづつ少しづつ、変えられて行き
ました」

神様は、御心なら状況を、変えられるし、
あるいは、状況がそのままなら、心を変えら
れる。
だから、どっちにせよ、試練を乗り越えて行ける。

Cさんも、状況は変わらず、苦しい状況はそのまま
だが、Cさんは、御言葉によって、生きておられる。

御言葉が心に臨んで来ると、辛い、苦しい状況
に関わらず、そのまっただ中で、心に平安が
与えられ、平安に守られると。

苦しい中で、主が共におられることを、
真に知り、心に平安を与えられる。
周りも、神様を見る。

人にできないことが、神にはできる。
不思議なみわざを見せられる。

2009年08月15日(土)
  「栄光」

イエス様は、十字架にかかられる前に、
“父よ、時が来ました。子の栄光をあらわしてください”
と祈られた。

残虐で、辱めであり、無惨で、釘づけられた無力の極みで、
ぼろぼろになって、死んで行かれる。
どこが神の子なのかと、顔をそむけたくなるような死に様、
それが栄光だと言われた。

「栄光」と聞くと、輝かしいこと、素晴らしいこと、何も
かもがうまく行くこと、マイナスではなく、プラス的
イメージがある。

とにかく順調であること、商売は繁盛、誰も病気にかか
らず健康であり、畑は豊作、受験はすべて合格、対人
関係すべて円満、順風満帆が栄光のように思う。

しかし、主は無惨な十字架、御父からも見捨てられた
十字架が栄光だと言われ、

私たちも、順調とは逆の状況の中で、主の栄光を現わし
て下さるし、又、栄光を見る。

Aさんは、子供がつまずいてしまい、不登校になって
しまった証しをされた。
その様々な関わりの中で、子供でなく、自らの内側を
照らされ、内にある人目を気にするプライド、虚栄、
自我に気づかされ、自分が砕かれたと。

Bさんは、思うように育児が出来なかった、親はよかれ
と思い、子供のためと思っていたが、結果的に子供を
損なってしまった。
辛く、痛い、苦しい中を通ったが、神様を信じて、祈り
委ね、取り扱われる中で、良かったと思える状態に
主がして下さった。あわれみに、感謝するばかりと。

その痛み、悲しみ、苦しみに、主のご愛、慰め、
慈しみ、あわれみが溢れるばかりに豊かであり、
神の栄光を見る。

十字架により、悪魔は滅ぼされ、私たちには完璧な
救いが与えられた。

マイナスの事に、失敗に、ぐじゃぐじゃの中で、そこで、
そのところで、御霊の導きに従って行くなら、
どんな状況であれ、栄光が現れるようにして下さる。


2009年08月10日(月)
  「天動説」

何か、人間て、自分たちだけど、すごい自己中心
だよね、と話し合う。

ほんとに自己中心だと思う。信仰年月経てば経つ
ほど、ますます、いかに自分が、自己中心かが、
わかる。

定点が自分にあり、自分中心に、世界が回っている。
日常の至るところに、出て来る。自分、自分、自分。

まさに「天動説」だ。
この間、日食で、巷は、大変に盛り上がった。
ニュースの映像で、金環食、ダイヤモンドリング、
を見ていると、何か、本当に神聖で、神様の
御手のわざを思う。感動する。

よく霊的「天動説」「地動説」というのがあるが、
日食を見ていて、まさしく「天動説」だと思い知った。

実は地球が回っているのに、どこまでも地球が
宇宙の中心で、太陽が回っていると思っている。

自分中心に宇宙全体が回っている。

自分を定点にしか、物事を考えられないのが、
アダムからの罪であり、行き着くところ、これが
どうにかならない限り、救いはない。

自分定点か、神様定点、自分中心か、神様中心
どちらかしか無い。

このために、イエス様が十字架で死んで下さって、
自分定点を解決して下さった。

「私はキリストとともに十字架につけられました」

「古い人がキリストとともに十字架につけられた」

自分定点の古い自分が、死んでいる事に
瞬間、瞬間、そこに立って、御霊に導かれて
御霊の支配の中に、生きて行けるように。
ここに救いがある。


Aさん「私、ご利益宗教だ。結局、神様を利用
して、自分の思い通りに生きたい。
自分の都合良いように進みたい。そうでない
と嫌だ。」

「まあ、肉はそうよ。それが自我よ。神様を
選べること自体が奇跡のような気がする。
肉は絶対に選ばないし、どこまでも、自分の好き
なようにしたいし。」

振り返って、何であの危機の岐路で、神様を
選べたのかわからない。
自分は絶対に選べなかった。自我が強くて
選べない。

奇跡。周囲の人々の祈りと、神様のあわれみ
しか、答えが無い。ただただ、あわれみによって、
生かされている。まさにこれだ。

「あなたがたが、わたしを選んだのではありません。
わたしがあなたを選び、あなたを任命したのです・・」
ヨハネ15:16


天に帰るまで、日々、肉でなく、御霊の導きを
選び取って、従って行けますように。

2009年08月06日(土)
  「あいまい」

よく人が言う。
同じ罪ばかり繰り返して、あ!また同じ失敗を
してしまった!
余りに懲りないので、いい加減、神様だって、
呆れ果てている。

本当に気があるのか。自分で自分が嫌になり、
深い自己嫌悪に陥る。
イエス様の血潮があるのに、余りの自分の不甲斐
なさに、何だか段々受け取れなくなってしまう。

十字架から遠ざかり、ちょっときれいになって
から、ましになってから、良い行ないを積んで
から、主のもとへ行こうとする。

余りに、ひど過ぎて、聖い神様の前に
出れない。時々、こういう状態に陥る。

「どうしても、きれいになって、神様のもと
に行こうとしますねえ。でも、それだと、十字架
を不必要、無意味にしてることですよねえ」

しかし、「御子イエス血はすべての罪から私たち
をきよめるのです」Tヨハネ1:7
感覚でも、感情でもない。感覚や感情に頼って
も何も感じない。

御言葉を心から受け入れ、信じる時に、罪
赦された平安が心に満ちる。

そんな事を話し合っていると、Aさんが

「そんなに殊勝ならいいんですが、私は
罪を犯しても、どうせ赦してもらえるから、大丈夫
という心がある。もっとひどいですよねえ。
すごい高慢ですよねえ。神様に対する
畏れが無いですよねえ。心の中、探る時
そうです」

Bさん「何か、わかる。心を探ると、底の方は『こんな
事ぐらい誰だってしている』。罪に対する恐れが
無いんよね。
『いけない』との思いと裏腹に『いや少しぐらい
大丈夫』『これぐらいいいんじゃない』」
『赦されるよ』と、自分を許してしまっている。」

心の底に、罪に対してあいまいな、流される、
むしろ流されたい、なあなあの、自分がいる。
好きなようにしたいから、あいまいにしておきたい。

ここに気づく事から始まる。


2009年08月04(火)
  「自分の思い通りに」

Aさん「イライラして、落ち込む出来事があった
んですよぉ。何か心沈むし、聖書を読もうと思って
読んだんです。

こんな時、よく聞くじゃないですか。御言葉与え
られて、教えられて、心がすっきりして、平安に
なったと。

でも、自分は読んでも、読んでも、何も与えられ
なくて、いい加減しんどくなって来て。聖書閉じて
しまって。何も心に無くて。

でも、時間が経つと、イライラや割り切れない心
も少しづつ薄らいで来るし、まあ、いいかと思え
たんですけど。

普段、導き求めて聖書読むなんて、無いんですよ。
でも、何か導き欲しいなあと、祈って、聖書読んでも、
何も全く感じるところが無くて、何でなんですかね」

Bさん「それって、示されたら、従おうと思ってたん?」

Aさん「うーん、うーん・・ほんとのところ思って
無いです」(笑)

Cさん「それ、それ!わかるわ。私も、そう!自我が
あって、自分は変わりたくないんよ。悪いのは相手で、
変えたいのは相手と状況。
状況を変えよう、変えようとするんよね。
物凄く強い自我がある。
そりゃ、聖書読んでも、わからんわ。
だから、わからんのんよ。(笑)」

自分中心に、自分の思い通りの答えが欲しくて、
悪いのは相手で、自分は変わりたくない。

自分が変わろうとするから、御言葉がわかる
のであって、自分が変わる気が無ければ、
御言葉はわからない。

Dさん「心が砕かれるほど、御言葉がわかる
から、Aさん、いつも聖書がわかりますよう
にと祈ってるから、その祈りが答えられてて、
神様が砕かれてるんじゃないん。
今回の出来事も、砕かれるためなんだよね」

Aさんに笑顔が見えて「何かすごく納得でき
ました!心がすっきりしました。
相手を変えようとしてました!自我ですねえ。」



2009年08月01日(土)
  「つもり」

精神の病を持っておられるAさん、

定期検診に出向くと、一目見るなり、主治医が
「Aさん、落ち着いていますね」。

一言も喋る前から、Aさん「医者は、わかるんですねえ」
「良好です。良くなって来ていますよ」と言われたと。

そして、「人によっても色々だが、Aさんは、『思いを
変えること』、それが、回復への道です」と。

「何か、聖書の言っている事と同じですね」(^^)

Aさん「御言葉が本当に、神の力であることを経験
させられています。
“恐れるな”“わたしがともにいる”という御言葉が
ものすごく力があって、心が平安にされるんです。

今、心がとても平安です。神様が近くて、こんなに
神様を近く感じたことは無かったです。今、神様と
一緒に生活している感じなんです。」

目の前の状況より、御言葉の方を信じていて、
信仰によって、生きておられることを、目の前に
見せられた。

そして、よく御言葉を信じている“つもり”だが、
不安と恐れ、思い煩いに、さいなまれるのは、

平安が無いのは、御言葉でなく、目の前の状況
の方を信じているからだと、見せられる。


Bさん「“つもり”が、神様から離れてしまう、サタン
の罠だと教えられた。」
ずっと神様に従っている“つもり”、御心を行なって
いる“つもり”、デボーションも毎日ちゃんとしている
“つもり”・・だから、何の問題も無いはず。

だのに、実際は、生活に神様を感じていない。
聖書を読んでも何も入って来ない、語られない、
だけど、まあ、こんな日もあるだろうで、日を
過ごす。ちゃんと従っているし。

しかし、神様と自分の間にもやがあって、膜が
かかっている。地に足が着いていない感覚で、
浮いている感じ。
そして、心に罪が湧き上がる。妬みや頑なな
心や反発心が起きて来る。

何でだろう?従っているし、御心行っているし、
デボーションもしているのに・・。

学びを通して、とにかく今の気持ちを、正直に
そのまま神様に、祈る事を教えられ、そのよう
にした。

すると、神様との生きた交わりが回復され、
神様に従っている“つもり”が、、決して神様に
従っていなかった事に気づかされた。

神様にでなく、なすべき事に心が占められて
しまっていて、なすべき事はどんどんするが、
神様に心が無いという状態になってしまっていた。

でも、外側、神様の御心行なっているので、
全然気づかず、神様に従っているつもりだった。

悔い改めた時、神様との交わりが回復し、
心がすっきりし、軽くなり、もやが消え、
地に足が着いて、神様との交わりの中で
歩めている。


神様に従っている「つもり」なので、
問題意識もなく、求めもなく、中途半端なまま、
ずうっと流されてしまう。
サタンがそこに働いている。