2009年10月26日(月)
  「追いかけてくる慈しみ」

Aさんはイエス様を信じられて、まだそんなに
日が経っていない。
が、まさに、「信仰によって」主と共に歩んで
おられる姿に、ものすごく恵まれる。


礼拝メッセージの中で、

詩編23:6「まことに私のいのちの日の限り、
いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう」
があった。

Aさんが「まさに、この御言葉を経験しています」と。

自分は病を得て、どん底を経験した。もう自分には
何の望みもなく、自分で、自分をどうする事もでき
ず、こんな自分には何の価値もないと。

心であがいて、心が何か求めていたのでしょうね。
教会へ行き始めた。御言葉も最初はよくわからず、
行ったり、行かなかったりしてた。

その状態が十年ほど続き、十年後、はっきりイエス様
を信じる事ができた。

はっきり心に受け入れると、御言葉が心に響いて
来て、御言葉によって生きるという経験をして行った。

御言葉を受け取り、信じて行くと、真に心に平安が
臨んで、力が与えられる。御言葉に霊がありいのち
があり、力がある。
生まれて初めての経験だった。自分が変えられて
行っていることが感じられた。

「一つ一つの状況に神様を見て行くと、メッセージが
あるのですね。」

自分自身に全く価値を見いだせなかった。
しかし、周囲から「○○ちゃん、これやってみない?」
との声がかかり、その事を実際にやって行くと、「え!」
という結果が出る。
その事に賞が与えられ、多くの人に認められるのだ。
最初は半信半疑だが、一つや二つでなく、それも
次々と与えられる。

こういう状況や事態を通して、神様が自分を慈しんで
癒して下さろうとしている事がわかった。

「いつくしみと恵みがが追いかけて来てます」
何よりその神様の御手が嬉しくて、ご愛と慈しみが
嬉しくて、感謝と喜びに溢れた。

「そういう風に、環境を通して、神様を見れることが
素晴らしいですね!」

「そして、こんなに素晴らしい神様を、あの十年さまよう
のでなく、もっと早く!に信じれていればと思ったん
ですが、

でも、あの十年無駄ではなく、自分には必要だったん
だと。

御言葉に『神のなさることは、すべて時にかなって美しい』
伝道3:11とあるので、すべてが神の美しい時であり、
御手の中なんだと思えて、また感謝でした」


「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みと
が、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」詩編23:6

メッセージで、日中は影が出来るが、その自分の影が逃げ
ても逃げても、絶対にどこまでも追いかけて来て、決して
無くならないように、「いつくしみと恵み」が自分を追い
かけて来ていると。


すべての人に、私にも、どこまでも追いかけて来る
神様の「いつくしみと恵み」。
霊の目が開かれて、しっかりと日毎に、いつくしみ
を受け止めて行けますように!!



2009年10月24日(土)
  「不信仰」

不信仰について学ぶ。

不信仰とは、信仰が足らない事ではない。
不信仰とは、神様でなく、自分自身、自分の力、考え、
判断を信じること。
不信仰は、人生の主導権を自分が握ること。自分の考えで
生きて行くこと。そして、ご利益宗教であり、神を自分の
ために利用することだと。

Aさん「以前、神様に従っていた時、ものすごく恵まれて
祝福されて、心が満たされる経験をした。
神様さえいれば、もう何にもいらないと思えた。
それほど、心が満たされて、幸せだった。

でも、試練に会って、受け入れられなくて、嫌で、しんど
くて、試練を与えた神様に反抗して、心頑なにしていた。

心に全然平安が無くて、虚しくて、御言葉も全然入って
来ない。心暗くて、辛いばかり。

ふと、以前に帰りたいと思った。あんなに幸せだった時に。

以前、自分は特に経済的なことで取り扱われ、神様の
みわざに継ぐみわざを見せて貰った。

それは自分が特にお金に弱いからであり、執着してしまい
偶像になってしまうからだ。

御霊に示されたように献げて行った。手元に無くなっても、
御霊に示されるままに従った。
すると、奇跡につぐ奇跡を見た。一度も違わず、100%
溢れるばかりに与えて下さった。

今、お金がないと言うと、いつも見てきたBさんが
「Aさん大丈夫ですよ!Aさんは、いつも必ず神様から
与えられたじゃないですか。いつもその辺から出て来て(笑)
今回も出て来ますよ!!」
周囲にも神様のみわざを現していた。

今、自分は「不信仰」だと気づかされた。「不信仰」に気
づいた。
神様全然見ていなくて、目に見えるところしか見ていない。
状況と自分だけを見ていて、暗くなって落ち込むばかり。
自分の判断を正しいとし、神様を退けている。
神様をシャットアウトし、自分が神になっている。

もう一度、神様に従ってみようと思えた。
「すごいんですよ!人から見たら微々たるものだけど、
自分にしたらすごい事なんですが、献げたんですよ」

すると、即、それが欲しかったピッタリのプレゼント
が来た。神様だ!!と思った。神様を感じたのが嬉しかった!

そして、もう一度微々たるものを献げたんです。
すると又すぐに、それが何々倍にもなって、天から降って
来たんです。久し振りに、神様感じて嬉しかった。」


神様見上げる時、本当に心に喜びが臨む。
嬉しい。心が満たされて、何にも替えられない。
神様と共に歩むことは、何という幸せ。

自分がどうであろうと、神様は最後まで握りしめて
放さないでいて下さる。


2009年10月22日(木)
  「従おうと決めると」

Aさん「みこころに従うと、ほんとに祝福あり、導かれ
て行くんだなあと経験します」

「夫婦間で、今まで相手がきつい事を言ったり、
傷つくような事を言われると、すぐ言い返していた。

他人なら、ワンクッションあって、冷静になれるが、
夫婦だと、一番近くて、甘えがあるので、ズッバズッバ
言ってしまう。
それで、ずっと喧嘩になり、気まずくなっていた。

神様を知って、霊と肉があることを学び、強い自我が
あることを、示され続けた。

神様知る前は、相手が悪いとしか思えず、そうしか
見えなかったが、自分の自我が問題であり、自己中心
が問題であることに、目が開かれて行った。

言い返すことが肉であり、肉がスカッ!とするのだ
という事を、教えられて行き、カチンと来ると、
『あ、自我が!』と、気づけるようにされた。

肉でなく、神様に従おうと決心した。
肉に従いたくないので、カチン!と来る時も、流して
行った。肉を捨てて、そっちには反応しない事を
選択した。

すると、不思議な事が起きて、自分の見方が変え
られて行った。
肉を捨て、御霊を選んで行っていると、『あ、夫は
悪気が全然無いんだ』ということがわかった。

初めての発見だった。全く悪気なく、言っている事が
わかった。私にわかるように、御霊様が教えて下さった。
神様に、感謝でいっぱいになった。
自分も、スルーして行けて、問題で無くなった。

神様に一歩従った時、ほんとに自分が変えられて
行くこと、教えられて嬉しかった。」

神様に従うと、次が見えて来て、前に進んで
行ける。今まで、見えなかった事が見えて来る。
一番嬉しい祝福かも知れない。


Bさん「夫に従うという事が、なかなか喜んででき
なかった。御言葉にあるから、渋々だった。

でも、やっと神様に従い、心から従おうと決心が
できた。

その時に、今までずっと身辺に続いていた、
家の外での悩み、問題が、ああ夫婦を一つに
するために、この試練が起きていると初めて
悟れた。

一つにならないと、立ち向かって行けないのだ
と。その事がわかったことが嬉しくて感謝だった。

神様に心を向けた時、すでに祝福が始まって
いる。


2009年10月20日(火)
  「神の栄光」

癌で闘病にあられたAさんが、天に召された。

この日曜も、もういつどうなるか、わからない状態
と聞き、天に帰られるのが近いかなと、心備えした。

少し前にも、近くの牧師先生夫妻が見舞って下さったと。
私たち夫婦がお訪ねした時も、知り合いのクリスチャンと
バッタリ!一緒に入って行った。

Bさん「まあ、Aさんは沢山の人に祈られておられて。
感謝ですよねえ。」

ご主人はアメリカ人クリスチャン。
軍の人々が集う教会なので、入れ替わり立ち替わり。
どんどん転勤して行く。
アメリカの様々な州に散ったクリスチャン達が、皆が
行った先の教会で、「Aさんのために、教会で祈って
貰ってるよ!」

日本でも、知り合いが知り合いに連絡し、日本各地で
祈って下さった。
私たちの教会でも、また、主に在る友人達も祈って
くれた。

未信者だったAさん、皆が祈って下さっているその
気持ちがものすごく暖かくて、嬉しくてと、心開いて
行かれた。

1年前に、末期癌発覚で、余命3ヶ月と医師から宣告
された。
余りにも唐突で、青天の霹靂で、もう何が何だかわか
らず、涙が溢れて溢れて仕方が無かったと。

その時に、ご主人の教会の宣教師さんが言われた
言葉が、心にとどまりましたと。

「余命を決めるのは医師ではありません。余命を
決めるのは神様です」

その通りに、余命3ヶ月が、1年3ヶ月生きられた。
人の生き死には、主の御手の中だ。

素晴らしい祝福は、その間に、明確な救いを受け
られたことだ。
沢山の人々の切なる祈りが答えられた!!

「イエス様を信じる前は、食欲が全く無くて、でも
食べねばならず、もう砂を噛むようで、味もなく、
無理やり、喉に押し入れてました。

それが不思議な事が起こり、イエス様を信じた日
から、どうなったのか、食事がまあ美味しくて、
美味しくて、よく食べられて、食事が楽しみになった
んですよ。

東京の方が、クリスマスカードを送って下ったのが、
もうそれが嬉しくて、嬉しくて、そのカードを見ては
もうひとりでに、笑みがこぼれて来て、一人で、
『♪聖〜しこの夜〜♪』と、歌ってたんですよ。」

「帰宅外泊した時に、近所の知り合いにバッタリ出会
って、実は癌で余命がもう過ぎて、ああでこうでと話
すと、その人が、もうびっくり仰天!!されて、
そして、私が明るいと、何でそんなに明るいのかと、
更に驚かれて」と、満面の笑みで、笑いながら話して
下さった。

Aさんと、ずっと優しく優しく支え続けられたご主人を
通して、素晴らしい主の栄光を見せて頂いた。

今頃、天で、主と共に、喜びと安らぎの中におられる
ことに感謝。
天がまた近くなって、慕わしくされている事に感謝。

「この病気は・・神の栄光のためのものです」

2009年10月14日(水)
  「その奥にあるご計画」

パウロが紆余曲折の中、暴風から守られ、
無事にマルタ島に着く箇所を学んでいた。

パウロは、カイザルに上訴したので、
囚人として、船で護送された。

一路ローマに向かったが、もう季節的に
海が荒れる時期になり、この航海は危険と
主張したが、
パウロの意見は認められず、百人隊長は、
船長や航海士の言う事を信じ、もう少し先で
冬を越す案に賛成した。

パウロの思い通りではなかったが、結果的に
暴風で、生きる望みも失せたような危機的状況の中、
流されたて漂着したのは、きっちりローマの下方の
マルタ島であった。

神はいつもご計画をお持ちで、自分の思い通りに
ならなくとも、委ねていれば、神のご計画が成し遂げ
られて行く。

そして、外側的に、現象面では、カイザルへの上訴
のゆえに、ローマへ送られるのであるが、その奥の
御心は、神がパウロをローマに送られ、ローマで証し
させるためであった。

信仰人生、様々な見えるところ、現象があるが、その
背後に神のご計画と御心がある。
現象面だけ見ていると、神のみ思いやご計画を見失
ってしまう。

Aさんが、対人関係で、厳しい試練に会った。
事実無根の事を言いふらされる。事実ならまだいいが、
全く、はなから、言ってもいない事、してもいない事を
中傷され、それを人に言って歩かれた。

「何で、自分がこんな目に??」
痛くて、辛くて、苦しくて、悶々状態に陥った。
幾ら考えても、なぜかもわからない。

自分はクリスチャン、必死でそんな相手に礼儀正しく
振る舞った。
しかし、誹謗中傷はひどくなり、周囲の知り合いから
入って来る。
「あんな事、こんな事を言われてたよ。最もらしかった
から、あなたってそう言う人なんだと思った。ごめん」と。

ひどく落ち込み、余りに辛くて、ノイローゼ寸前になり、
神様に祈り、助けを求め、すべてを明け渡した。
この事態をお委ねした。

そして、祈り続けていると、相手は少し心の病にあられ、
入院され、治療された。時を経て、回復され、良き交わり
与えられ、解決した。

見えるところは、大嵐の大暴風に翻弄され、「何でこんな
事に?」わけがわからず、苦しいばかりで、涙の日々で
あったが、実は神様は深いご計画を持っておられた。

Aさんは、人が気になって、気になって仕方が無い弱さ
を持っていて、いつも人目を気にしてしまうと。
人と比較し、傷ついたり、落ち込んだり、高ぶったり、
その所が強くて、どうにもならず、クリスチャンになってから
ずっと祈り続けていた。

この涙の日々の、辛い試練を通った後、全く人が気に
ならなくなった。ものすごく解放された。喜びでならない。

「こんな事、自分には全く無かったから、神様のみわざです」 
祈りに答えられるために、ここを通らなければならなかった
んですね。

単に現象面だけでなく、起こっている事を通して、
何を教えて下さりたいのかが、重要だ。

現象だけを見て、右往左往し、現象面が一段落すると、
それで終わりなら、一生何も学べないままで終わって
しまう。


2009年10月11日(日)
  「つもり」

「育児の学びで、あるがまま子供を受け入れる事
が一番大事と学ぶと、ほんとにそうじゃと納得する
んですよね。

子供を受け入れなくちゃと思い、自分は受け入れ
ている「つもり」なんですよ。
あんたは、そのままのあんたでいいんじゃけ、と。
でも、どこまでも「頭」なんですよね。

心をよく探ると、ほんとにきれい事の下に、本音
がある。受け入れていない。受け入れられない。

子供の足らない所を見たりすると、
なんも要求せん、もう普通でいいんじゃけ、頼む
けえ、とにかく普通でおってや、と心で言っている。
何で、普通でないんね!と。

何が普通か、わからんのですが(笑)

なんも要求せんと言いながら、つまり、
すごい責め立てて、要求してるわけですよね。
普通であれ、普通であってくれと。

でも、やっぱりよく考えても、何が普通か
わからんですよね(大笑)

そうやって、二重のメッセージを送って、余計に
子供を混乱させ、損なってしまいますよね。

お母さんは、あんたを受け入れてるよと、言うから
子供は、受け入れてもらえるのかなと思うと、実は
ドーンと、突き放されている。

ほんとに気づけて感謝です。」

人間、受け入れることが、ものすごく難しい。
これが出来ない。
強烈な自分があり、自我に触れるから。
持って生まれた罪だ。

受け入れるとは、自分に死ぬことだ。
イエス様が死なれた十字架で、自分も共に
死んでいる。

「出来ませんから助けて下さい」と、祈り始める
時、道が開けて来る。



2009年10月08日(木)
  「建前の下に」

・・・外側を繕った自分の底に、本当の自分が隠れている。
人は見てくれを良くし、綺麗に着飾った人前に見せて
いる自分を、本当の自分だと思い込んでいる。
その下に、強烈な自我があり、全く違う自分がいる・・・


Aさんが、懇談会があり、良くも悪くも、はっきりと物を
言われる先生で、子供の欠点をストレートにズバッスバッと
言われて、ズキッと痛く、心に突き刺さった。

子供の短所や足らない所を、そう言う言い方をしなくても・・、
そこまで言わなくても・・と。ひどいと、怒りを感じている
自分がいる。

それは子供の個性だし、自分はこの子をそのまま
受け止めて、受け入れて、見守ってやりたいと思って
いる。

他の子供と比較するのでなく、この子には、神様の
ご計画があり、この子の道があると思っている。
この子は、オンリーワンで、かけがえがなく、この子
が最高と思っている。


と、思っていた・・・


ところが、御霊に心をずうっと探られた。
何かが違う・・

御言葉を聞いていてわかった。本当の自分、私の本当
の心が。あぶり出されるように。

自分の本心は、綺麗に繕ったその心の下は、
その先生と全く同じであることを。

欠点、出来ない所を、責めて、裁いて、失望している。
だから、そこを突かれると痛烈に痛い。
何という自分。

綺麗に着飾った建前の自分を、本当の自分だと
思い込んでいる自分。

「悔い改めます」

「わかる。わかる。建前の下に、全然違う自分が
いること、聖霊様から示される。
悔い改めて、赦されて、赦されて、従って行ける
十字架の愛が、ますますわかる」

2009年10月06日(火)
  「御心に従って試練」

御心に従っていて、試練が来ることを学んでいた。
御心に従うから、試練が臨む。

「向こう岸へ渡ろう」とイエス様が言われたから、
御言葉に従って、舟に乗ったなら、生死に関わる
大嵐に会った。

御心に従わず、岸にとどまっていたなら、嵐に会わ
なかった。

なぜか、御心に従うのだから、順風満帆で、何もかも
がスムーズに行くはずと思っている。

それで、試練が来て、悩みが来た時に、うろたえ、
動揺し、自分の進んだ道は御心では無かったの
では?もしかして御心間違ったんだ、と悩んでしまう。

でも、御心を行なっている中で、試練が臨む。訓練
し、鍛え、聖め、信仰の成長を与えて下さる。

Aさんが、今は、ちょっと時間的にも体力的にも
無理なので、子供の関係の係に、今年は何とか
免除されるように祈っていた。
祈りに祈っていた答えとして、役が回って来た。

ハードで無理と人間的には思えたが、祈った結果
であり、これは神様からの御心と受け入れた。

御心で与えられたのだから、何とかして下さるはず
助けがあると思い前に進んだ。

ところが、ところが、次から次へと臨む試練。
仕事がうまく回らない、そこに絡む対人関係、今
までのやり残しのつけまで、担当者に回って来る。
泣きの涙だった。

引き受けた事が間違っていたのか?御心では
なかったのか?
そうでなく、御心に従って、試練が来た。

しかし、1年が終わり、結果的に素晴らしい神の
栄光が現れた。やはり御心であった。

「やって本当に本当に良かったです。自分への砕き
だったし、強い自我があり、砕かれ、訓練され、
鍛えられました。沢山の学びを得ました。

最後素晴らしい、麗しい対人関係の結果が与えられ、
本当に神様を見ました。
ここを通らなければ、神様を知れなかったし、通って
本当に感謝でした」

誰しも、逆境も試練も嫌で、逃げたい、避けたいが、
高慢砕かれ、自我が砕かれ、無くてはならないものだ。

どの試練も、砕かれて感謝だったと、心底思えるので
感謝だ。




2009年10月04日(日)
  「弱さのうちに」

神の力が、弱さの内に完全に現われることを
学んでいた。

Aさん、少し経済的必要があり、パートを願った。
子供もまだ小さく、育児と家事に支障が無い程度が
良かった。

「求めなさい。そうすれば与えられます」に励まされ、
とにかくまず祈る事が御心と、ふさわしい仕事が与え
られるよう、祈りを重ねた。

祈りに祈りを積んだ結果、仕事が来た。
それがパートでなく、フルタイムの仕事だった。
他に仕事は無く、「祈れ」と言われ、祈った結果
来たものだった。

家庭のこと、子供のこと、職種が自分に合って
いないこと、自分の能力越えている。絶対に無理と
思った。泣きに泣いた。

夫に相談すると「いいじゃない。してみれば。子供は
協力するよ」と、意に反した返事。環境が全部開かれ
ている。
非常に悩んだが、祈った結果のこと、祈りという御心
に従った結果、与えられたものと、従う決心をした。


祈りに祈り、神様に頼りに頼って、一歩踏み出すと、
神様が門を開いて下さるがごとく、次々と仕事の
成果が与えられて、びっくり!!

「本当に神様だ!!」「次も神様!!」「又、神様!!」
と自分には出来ないと心底認めているAさんは、すべて
神様に栄光を帰して行く。

ああ、これなんだと、端から見ていても、見せられる。
自分には何も無い事を認めて、神様に栄光を帰して
行く時、神様は幾らでも恵みを与えて下さる。

周囲から見ていても、驚くほどの成果を挙げて行く。
周囲から「ちょっとAさん、その仕事、賜物なんじゃないの」
と言われるほど、祝福された。

Aさんはただただ、「神様です!!」「自分じゃない、神様
です!!」と。

結局、家庭も子供もすべて守られ、必要な間、働けた。

弱さの中に現れる、神の力を見せられ、恵まれた。
心底出来ないところに、神の力は現れる。





2009年10月02日(金)
  「変えられている」

イエス様を信じて、自分では気づかぬ内に
自分の価値観や発想が、大きく変えられて
いることに気づく。

Aさん「知り合いの人が、子供が念願の
進路に行く事ができなくて、すべり止めの
学校に入学になった。
失敗だった、失敗だっと言うのですが、
どうして失敗なの?と言ったんです。

子供は、そこで生き生きと部活をし、喜ん
で行っている。
全然失敗じゃない。神様が備えて下さった
場所であり、そこでしか学べない事があり、
そこが最善なんですよね。
人との比較はいっさい関係無くて、その
子供さんにとれば、そこが最適の場です
よね。」

「Aさん、神様によって変えられたね!!」(笑)

Aさん「あ!ほんとだ!!神様、変えて下さった
んですね!
私、以前、こうじゃなかったですよね!!」(笑)

Bさん「以前と全然違います!以前は、人と比べて
落ち込んだり、羨ましかったり、惨めになったり・・。

今、どんな時も祈ることが出来て、気持ちを神様
に告げることによって、ほんとに受け止めて貰え
て、すっきり。
心に平安があります。ほんとに見方が変わって、
人が気にならなくなりました。

以前は、人も責めるし、自分も責めて、苦しい
ばかりだったのが、罪赦されて、自分を責める
事が無くなって、気持ちが楽になって、
ほんとに救われました」

Cさん「突然の事態が起きた時に、やっぱり
状況に反応してしまって、驚き慌てるんですが、
以前とは全く違います。

以前は、もうパニックになって、ひたすら落ち込
んで、真っ暗、どんどん悲観的になるばかり。

でも今は、とっさには慌ててしまうが、静まると
神様の主権の中のこと、何かのご計画を持って
のこと、何を教えようとして下さっているのか、
神様視点に立って見ている自分がいる。

ほんとに変えられている事を発見して
嬉しい。感謝です」