2009年11月30日(月)
  「思い煩い」

「ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って
歩む責任を、肉に対して負ってはいません」
             ローマ8:12

「思い煩いって、もろにこれですよねえ。
もう人生思い煩いが当たり前、正常ぐらいに根
深く培われていて、思い煩いが無いと、不安に
なる。
それで、わざわざ思い煩いの種を捜し出して
来る。思い煩っていると安心する。」

「ほんとそう。無意識下でそうやっているから、
気づかないけど、思い煩っていたいんだよね。
思い煩いが好きなんだ。」

「思い煩いが好きなどと、信じられないけれど、
わかる!ほんとにそう!」

「思い煩わないと、何か無責任な気がする。
そんなノウテンキでいいのかと。
ちゃんと考えないと、と。考えることと、
思い煩いが、巧くすり替えられていて。」

「まさにこの御言葉そのまま。肉に従って
歩む責任を、肉に負っている。肉!!」

「私もおんなじ」「シナリオ書くの?」(笑)
「はい!最悪のシナリオ。すごものが出来
上がってますよ。世も終わりかというような」(笑)

「なったためしがない」「そう!実現した
ためしがない」

「思い煩いがないと、ほんとにこれでいいのか
と何か落ち着かなくて、そわそわする」(笑)

「思い煩いにしがみついて、安堵する。もの
すごく変なんですが現実なんですよねえ」

「それで、いつも、事が起きてから考えれ
ばいいじゃないかと言われる。起きる前
からあれこれ煩っても仕方がない。
やっぱり結局、思い煩いが好きなんですよ
ねえ。
自分で選択、選択、して行ってる」

「思い煩うな!と言われる神様に従い
たいです。従うとは、思い煩いを止める
ことですよね。」

「従うと、神様からの力が来るから、思い
煩いが消える」




2009年11月24日(火)
  「気づき」

Aさん「みこころ求めて、御言葉から聞いて
行ってるのに、全然与えられないし、語られ
ないんですよぉ。
ずうっと聖書読んでるのに、何も入って来ない。

今日学びしていて、わけがわかった。
御心示して下さいと言いつつ、嫌ならしない
し、それが自分の好みと合ってたらしようと
思ってる。
嫌いな事だったらするつもりは無い。
自分に都合の良い御言葉だけ聞いて、
都合の悪い御言葉は聞く気がない。

だから、わからないわけですよねえ。
こんな自分で、明け渡す事も出来ない
から、助けて下さいと祈ります」

Bさん「過去の事が、現在につながっている
ので、どうしても、過去に戻ってしまい、
あの時こうだったから、今こうなっている。

あの時ああでなかったら、今こうなっていない
のに。そこで堂々巡りし、関わった人を責めて
しまう。

でも、そこで責めると、自分に全然平安が無く
自分が苦しくなり、辛くなり、恨みつらみが出
るばかりで、満暗闇に落ち込んで行く。

これが肉とサタンだと気づきました。そこへ
帰ってはならないと。何の良い事もなく、何
の実もない。

神様見上げて平安に喜んで賛美して過ごし
ている時に、来るから、ほんとサタンですね。

もう元には戻らないのであり、益にして下さる
神様を見上げ続けて行きます。神様見上げて
いると、本当に平安なんです。」

Cさん「今日の学び通して、自分がずっと
言い訳していることに気づきました。
自分の非を決して認めない。認めたくない
んですね。
私がちょっと物を失ってしまったんですが、
私の不注意でごめんね、が絶対言えない(笑)

どこかにあると思うんだけど、と言葉を濁し、
子供がいてややこしかったから、と言い訳
する。

相手がここにあったんだがなあ・・と言うと、
それならちゃんと管理しておいてよ、と何と
心の中で相手を責めている自分。

もうとうとう仕方なく、自分の不注意で悪か
ったと言うと、相手は、いやいや子供がいて
大変だからと言ってくれ、これからは置き場所
決めようと言ってくれた。

ほんとに、強い自我があって、ごめんなさい
が言えない自分を知らされた。」

信仰人生、御霊の気づきがただただ感謝だ。
気づけることが恵みで感謝。
だから、悔い改め、成長して行ける。



2009年11月22日(日)
  「万事益」

Aさん「重大な失敗をしてしまって、その時は
苦しく辛いばかりで、益になるとは、頭ではわかって
いても、これがどう益になるのか、もう事が大き過ぎて、
全然信じれなかった。

それが、日がたつにつれて、皆の祈りのお陰で、
心も段々落ち着いて来て、状況も少しづつ収まって
来た。

関係者に、もう起きてしまった事は、どうやっても
どれだけ悩んでも、くよくよしても、絶対に元には
戻らないのだからと、前に進むように慰められた。

自分が消えてしまいたいほどの辛さ、そして、
人を非難したり、あら探しをしていた自分、この
自分こそが、罪人のかしらだと思い知らされた。

心が落ち着いて来た時、その重大な過失の中でも、
いかに神様に守られていたか、初めて思いが至った。

もっと大変な事態になっていても、不思議は無いのに、
最小限にとどめられ、奇跡のように守られた。
一つ間違っていたら・・今更ながらに事の重大
さに気づき、初めて、心の底からの感謝が湧いた。

感謝すると、、あれほど痛み、苦しいばかりだった
心が、不思議に変えられて、平安になってしまった。

そして、その事件前にも、深刻な試練を抱えて
いたが、何と、今回の事の前には、その深刻な
試練が全く問題で無くなってしまった。
笑えるほどの、些細な事になってしまった。」

Aさん通して、改めて、

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って
召された人々のためには、神がすべてのことを
働かせて益としてくださることを、私たちは知っ
ています」ローマ8:28
の御言葉を思った。

「すべてのことを」「益としてくださる」失敗も過失
も、「すべてのことを」。

あの事も・・、 この事も・・

これを心底信じて行くなら、希望しかない。
恐れも思い煩いも不安も失せて、
喜びと平安しか無くなってしまう。

何という驚くばかりの恵みの人生に、入れられ
たのだろう。


2009年11月18日(水)
  「あなたの家族も」

Aさんが「高齢でもう弱って来ている母を、ずっと
訪ねては、神様の事を話し続けています。最近は
もう『キリストさん、キリストさん』と言ってくれて、
嬉しいです」

“返さなければならない負債を負っています・・
ぜひ福音を伝えたいのです。”ローマ1:14

親は絶対に救われて欲しいと、皆、祈りに祈っ
ている。

今週、40数年来の主に在る親友の、お母様
が天に召された。
最期に救いの確認をした時も、頷いて下さっ
たそうだ。今、天で、喜びと安らぎと幸せの
中におられることに慰められる。

お母様は、ずっと宗教はなかなか受け付けず、
聞こうとされなかったが、Aさんが職場で仕事中
に、知り合いの宣教師さんが、家にお母様を
訪ねて下さった。

その時、心開かれ、語られる御言葉に、耳を
傾けて聞かれ、主を受け入れられた。
奇跡的なみわざだった。

Aさんの長年の祈りが答えられ、時と御霊の
強い働きがあることを見せられた。
お母様の救いに主の御名を崇め、本当に
喜んだ。

すべてに神の時があることが印象的だった。
祈りにあずかれた事が感謝だった。


同じく40数年来の、共通の親友Bさんに知ら
せると、隣県に住む彼女は、葬儀式に駆け付
けてくれたそうだ。それを聞いて、又、感謝が溢れた。

主に在る友が与えられている事の、恵みと幸せ
を思った。

Bさんのお母様の救いも劇的だった。

祈り続け、神様を伝え続けたが、なかなか罪
がわからなかったと。
ずっと苦労され、その苦労の中でも人のお
世話をされる良い人であるゆえに、罪という
ことがわからないと。だから、救いの必要がない。

90代のご高齢になられ、ある日、丁度同じ
部屋にいた時、お母様が突然、ベッドの上で
正座され、何と、祈られ始めた。

驚いていると、「神様、罪深い私を赦して
下さい」と祈られたと。
「私は自分は罪は無いと思っていましたが、
恐ろしい罪人です。私の罪を赦して下さい。
神様を信じます。天国へ連れて行って下さい」

もうびっくりして、本当に感謝で感謝で、救い
を喜んだ。
その翌日、お母様は天に召されたと。
救いを与えて下さった神様のみわざに驚き、
感謝でならなかったと。


親族の救い、自分にはどうも出来ないが、
祈り続けていると、神様が何とかして下さる。

“主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも
あなたの家族も救われます”使徒16:31

2009年11月16日(月)
  「懲らしめが愛」

「愛する者を懲らしめ」

“主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべて
の子に、むちを加えられるからである”ヘブル12:6

懲らしめは、神様の愛であることを学ぶ。

痛い事、しんどい事、苦しい事と、「愛」がすんなり
リンクしない。

「愛」とは、温かいもの、平穏無事な事、順風
である事、喜びや平安であって、苦しみや悲しみ
辛さ、痛みは、「愛」の対極をなすと思ってしまう。

だから、痛み、苦しみがあると、これは愛では
なく、愛されていないと思ってしまう。

この世で培われた価値観を、神様の価値観、
御言葉の価値観に変える必要がある。

神様を信じたなら、畑は豊作、病気やけがは無く、
受験はすべて合格、大金持ちになり、何の問題も
無い・・なら、自分が変えられる事は決して無い。

砕きたくて、何かを教えたくて、目の前の一つ一つの
事態は起きている。
学ばなければ、痛いだけで終わりで、自分は何も
変わらないので、同じ事を繰り返す。

Aさん「自分の失敗で、辛い苦しい事態を引き起こし、
消えてしまいたいほどの思いで、苦しくてたまらなか
った。眠れず、食べられずの日が続き、しかし、
幾ら、どう悔やんでも、元には戻らない。

でも、この痛みを通して色々な事を教えられた。
今まで私は罪人の頭の認識など無かった。今は、
罪人の頭だと思える。
環境に対しても、不平や愚痴が多く、感謝が無かった。
自分の汚さが本当にわからされた。

今までの悩みや問題が、全く問題で無くなった。
ほんの小さな事に思える。
どんなに守られて来たかに、初めて思いが至り、
感謝でならない。更に教えようとして下さっている
事を受け取って行きたい」

Bさん「今、厳しい試練のまっただ中だけど、
ほんとに神様見ている時は、平安でおれる。
将来も、先も何も見えないけれど、平安でおれる
からすごい。
神様がおられるから大丈夫、必ず良くして下さる
と思える。何の不安も無い。

ところが、神様から目を離し、状況と自分を
見た途端、海上歩行のペテロのように、一瞬に
してブクブクと沈む。
将来が不安で、不安で、真っ暗になってしまう。

この差がはっきり、くっきりしている(笑)
愛されてるんだと、神様を見ていたい」

Cさん「学びしていて、今までの人生の一つ一つの事、
辛かったあの事、嫌だったこの事、どうしてこんな事が、
の苦しかった事、その一つ一つが神様の愛であった
とわかりました。
神様を信じれます。今、感謝できます」

Dさん「苦しかったが、この試練でなければならなかった。
このセッティグでなければ、自分にはわからなかった。
思い返す時、パズルがつながり、感謝しかありません」


“苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。
私はそれであなたのおきてを学びました”詩編119:71


2009年11月14日(土)
  「砕きが感謝」

あれやこれやダベリングをしていた。

未信者の時に、長年培われて来た価値観
が、根深いですよねえ。
自分は、根が能力至上主義だとわかった。

能力がすべてだと思ってるから、何も出来
ない自分は価値が無いとなる。
こんな自分はいてもしようがない。

ずうっと学生の時から、競争、競争で、それは
人との比較の上に成り立つわけだし、それが
今の勝ち組、負け組になって行く。
自分は負け組だと。そこから思考回路がおか
しくなって行く。何の希望も持てず、真っ暗になる。

テレビに出てくる、劣等感にさいなまれた
○○容疑者が、自分に重なる。

試験前に勉強がちゃんと出来なかったら、
悪い成績を取るのが嫌で、順位が下がるのが
受け入れられなくて、試験自体から逃げたい。
仮病じゃなくて、ほんとにお腹が痛くなるん
ですよね。
プライドには、すごい負の力がある。

出来る事が良い事という価値観だから、出来なけ
れば、ひどい劣等感に落ち込む。
そして、出来たら、人を見下げて、優越感に浸る。

一生、劣等感にさいなまれて、暗くなって、落ち
込んで、そんな人生虚しいですよねえ。
つまらない、嫌だ。
やっぱりイエス様にあって平安で喜び満ちた
人生を生きたい。

でも、仮りに、一生涯、一番だったとしても、
今度は、そう言うことに左右されずに、振り
回されずに、伸び伸びと、生き生きと、喜んで、
自分を生きている人を、絶対妬むんですよね(笑)

ほんとに罪ですよねえ。自我。
砕かれることが感謝なんですよねえ。

砕きって、その人、その人、ピッタリの
スチュエーションですよねえ。ほんとに的確な
状況設定。その状況でなければ、その人は砕か
れない。それでなければならない。

こんなに、急所に、もろ的確に、ピッタリのスチュ
エーションを備える神様はすごい。

私に、この試練が来たのは、対人関係の癒しと回復、
能力主義の気づき、比較に生きて、優越感と劣等感
をグルグルするだけの人生から救い出すためだった
んだなと。ほんとに救いがある。

罪の性質、古い性質もあるけれど、聖霊様が内に
いて下さるなど、何と有難い。こんな有難い事はない。

新しい性質が与えられて、聖霊様から、指針が
いつも与えられて、何をすれば良いかがわかる。

愛の御声が聞こえて来る。矯正される。
慰めや励ましが来る。

う〜ん、ほんとに神様出会わなかったら、
どうなってたかわからない。
感謝で、感謝で、感謝しかない。

「ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、
神に感謝します」Uコリント9:15

イエス様の十字架が無ければどうなって
いたか、感謝しかない。



2009年11月11日(水)
  「軸」

学びの中で、

「多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを
見て、御名を信じた。
しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せに
ならなかった。なぜなら、イエスはすべての
人を知っておられたからであり、」ヨハネ2:23

という箇所が出て来た。

多くの人々が、イエス様を信じたが、イエス様は
人々を信じられなかった。

エルサレム入場に、「万歳、万歳」の大歓声を
あげた群衆は、その1週間後、手の平を返した
ように「十字架につけよ」と、豹変した。

「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるし
を見たからではなく、パンを食べて満腹した
からです」ヨハネ6:26

あなたがたが、わたしを捜しているのは、神
の子であると信じたからではなく、パンのため。

自分の願望が叶えられたいため、自分の
幸せのため、自分の利益のため・・
自分のために、神様を利用する。

自分の思いと合っている間は良いが、自分の
思い通りにならない、自分の思いと違うなら、
つまずいて、主を捨てる。
利益が得られなくなったら、ついて行く理由が
ない。

軸が自分。あくまでも自分の利益、損得。


皆で「う〜ん。でも、軸が自分じゃわ。
信仰の軸が自分にあり、自分のため。」

Aさん「この間も、思い通りにならない事態が
起きたんですよぉ。
その時に、『何でなん!』と思うんですよぉ。
聖書も読んでるし、祈ってるのに、『何で、こう
なるん!』
まさに、自分中心、自分のための信仰。ご利益
信仰です。

自分に都合の良い、心地良い事が、善い事、
自分に都合の悪い、痛い事が悪。試練は悪。
ほんとに神様飛んで、自分が軸。

でも、そうでなくて、やっぱり神様に喜ばれ
たいと思う。以前はそんな事全然思わなか
ったから感謝です(^^)」

Bさん「ずっと試練だったんだけど、ご利益
宗教だった事に気づかされた。それに気づ
かせるための試練だったと思う。

神様から、パンが貰いたいからつき従って
いた。従ったら、パンをくれる。神様に喜ば
れるためなど無くて、パンが欲しくて、ついて
行っていた。

今、試練を受け入れられる。自分のためじゃ
なくて、神様に喜ばれるために、従って
行きたいと思える」

Cさん「うわっ!すごい!神様に反抗して、
文句ばっかり言ってたもんね」(笑)

「神様に喜ばれるように、歩みたいですねえ」


2009年11月08日(日)
  「思い煩い」

「状況と自分を見たら、絶対に落ち込みますね。
もう思い煩いのどつぼに入る。
イエス様から目を離すと、ダメなんですよね」

信仰生活、どんなに歳月が経っても、全く
同じで、イエス様から目を離した途端、ブクブクと
沈む。

状況と自分を見ると、落ち込み、暗闇に入り込み、
イエス様と御言葉を見ていると、どんな状況の中
でも、すうっと心に平安が広がって来る。

「どれだけ落ち込んでいても、イエス様見上げると、
『大丈夫、神様が何とかして下さる』と、ほんとに
思えるから、不思議ですよねえ。

これ、神様ですよねえ。だって、その前まで真っ暗
闇だったんだもの。以前は絶対思えなかった」

Bさん「そう!そう!!神様見上げた途端、『最善
をされる神様だから、何とかして下さる!』と思える」

Cさん「私、特に心配症、思い煩い症で、不安材料
が来ると、自動的にネガティブモードに入って、
どんどん自分で最悪シナリオを描いて、究極の
最悪の最後まで行き着く。
すごいシナリオが出来上がる(笑)」

Dさん「あ!わかる!私もネガティブ人間で、そう!
ちゃんとシナリオが出来上がるんよね。そう成った
ためしがない!(笑)
それなのに、又、次が来たら、ド最悪のシナリオが
出来上がる(笑)
普通の人がそのシナリオ聞くと、はあ?の内容
なんよね。でも本人は真剣」

「神様信じて、神様の事知ってゆくにつれて、
『いいや。神様が、何とかして下さる』と思える。
最初の頃は思えなかったから、恵みを本当に
感謝です。奇跡です」


海上歩行のペテロそのままに、ほんとに
しんどい状況の中で、語られた御言葉を
見つめると、平安が臨む。

思い煩いに、不安に、暗闇に落ちて行かない。
下に落ちないように、御手の中で保たれている。

御言葉が霊であり、いのちであり、御言葉の
力を経験する。

「思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。
神があなたがたのことを心配してくださる
からです」Tペテロ5:7

「思い煩うな!」と言われるので、「従います」と
思い煩いを止めると、ほんとに止まる。
消えて行く。神様の超自然の力が働く。

そして、委ねる時、初めて「心配してくださって
いる神」に出会う。
真に心配して下さっている、嬉しいなあと実感
する(^^)/喜びが来る。

これが思い煩っている間は、心配して下さって
いる神が、決して見えない。



2009年11月06日(火)
  「原点」

Aさん「以前、全部、神様に明け渡した時、
生まれて初めての、すごい喜びが心に
満ちて、心が満たされたんです。

もう、神様いれば何も要らないと思って、
天にも上る心地で、もう幸せで、幸せで。
喜びが満ち満ちるんですよね。

毎日聖書読むのが、すごい楽しみで、今日は
神様、何語って下さるのかな、どんな御声を
かけて下さるのかなと、楽しみで、嬉しくて。

御言葉がどんどん心に入るんですよね。
それで、祈りもすごく答えられて。
必要は必ず与えられて。」

「それが今、全然、何か感覚が無くて。
祈れなくて、聖書読んでも、どうせ語られ
ないし・・なんて。

今日、学び通して原因がわかった。
神様が与えている状況を受け入れない。
頑なな心がある。自我がある。拒んでいる。

だから、つまり神様を受け入れず、
拒否して、シャットアウトしてるんだと。
だから平安も喜びも無い。

すごい自我がある。自分の都合の悪い
事、自分の思い通りでない事は受け入
れない。
受け入れられるよう、祈って下さい」

「祈れるなら感謝!!祈りにもって
行けることは、必ず聞かれるから、
受け入れられるように、神様がして下さる」

原点があって、帰れる所があるということ
はすごい恵みで、感謝。
そこにいつでも帰れる。

「すごく以前のあの神様に近い生活に、
帰りたい。あれさえあれば、何もいらない」

「うん。わかる、わかる。」


私たち、どんな時にも、帰る所、帰れる所が
あるって、何て幸せなんだろう。

「ガリラヤに行くように言いなさい。そこで
わたしに会えるのです」

とにかくガリラヤに帰る、信仰の原点に帰る
時、そこで主に会える。

2009年11月03日(火)
  「従うこと」

ナアマンの箇所で、ナアマンは少女からの助言
を何やかや思いながらも、受け入れ、エリシャ
に会いに行った。

そして、その対応に怒り、その指示であるヨル
ダン川に身を浸せなど、大いに気に入らず、帰途
につこうとした時、しもべたちが助言した。

とにもかくにも、やってみられたら、
いかがなものかと。


ナアマンは聞く耳を持ち、その進言に従い、
ヨルダン川で7度身を浸した。
その時、完全にらい病が直り、癒された。奇跡が
起きた。

御言葉に、その通りに、従うことがとても大切
だと学ぶ。

神の癒しをいただくために、私たちは
語られる通りに、実行することが大切で
そうしない限りどうにもならない。

肉の思い煩いや心配、悶々と悩むだけでは、
何もどうにもならない。


Aさんが「神様が従う時に、力を下さるから、
従うことが大切と教えられました。

私は、ずっと思い煩ってばかりいます。でも、
主は『思い煩うな』と言われるから、それ
に従うことが大事ですよね。

それに従っていないから、従おうとして
いないから、いつもいつも思い煩いに支配
されて、ほんろうされている事に気
づけました。

御言葉に従っていないです。
従っていないから、ネガティブな中に
いるんですねえ。


『思い煩うな』と言われ『思い煩いをいっさい
ゆだねなさい』と言われるので、今日から
従って行きたいです」

「思い煩うな」の御言葉を、無視するか、
捨てるか、聞かないから、自分も思い煩うん
だなと改めて教えられた。

「思い煩いません」「信じます」と従いたい。

2009年11月02日(月)
  「鏡」

創世記のロトの箇所を学んだ、恵みを語り合って
いると、

Aさん「最初、聖書読んだ時、ロトの奥さん、うしろを
振り返ってはいけないと言われていたのに、後ろを振り
返って、塩の柱になって、
何しとるんじゃ、まあ何とバカな、愚かなと思ったけど、
今日、これって、自分じゃと思いました」

出エジプトの箇所を学んでいた時には、

Bさん「このイスラエル、紅海を渡る偉大な奇跡を
見て、荒野に入った途端、水がない、食べ物がない
不平不満と愚痴ばっかし。

果ては何でエジプトから導き出した、エジプトに
帰ると言い出すし、まあこの人々は何、何という
人達だ、と眉をしかめていた。
が、これは、自分のことだとわかった」

皆で、「うん、そうそう、これ自分、自分」

Cさん「時々、子供を叱りつけ、怒鳴りつけたり、きつい
言葉を発している人を見ると、まあ、そんな感情をむき
出しにせんと、もっと子供をよく見て、見守って上げ
ないと。
まあ、私ならそんな事しないわ、と思ってるんですよ。

で、そう思った時、何か御霊様の感覚があって、心に
違和感あって、何か言っておられると、よくよく心を探っ
てみると、その子供を怒鳴りつけている人の姿は、
本音の自分じゃと。」

一応御言葉を知ってて、育児の学びもして貰って、ノウ
ハウも知ってるものだから、パリサイ人ですよねえ。
あの人のようでないことを感謝します、と言っている自分。
でも、御霊様の照らしがあると、まさに本当の自分そのもの。


鏡が無いと、自分で自分の姿は見えないように、
御言葉は鏡であり、自分の本音の姿が照らし出される。

そして、時々、人を目の前に置いて、良きも悪きも、本音
の自分の姿を見せられる。

これこれ、こういう恵みを与えて下さっていて、神様に感謝
でならない、と聞く時、

あ!全く同じ恵みが、自分にも与えられている事に、気づか
される。気づいていなかった恵みに気づける喜び!

周囲って鏡だ。