2009年12月20日(日)
  「叫び求めた時に」

Aさんがご自身の救いの証しをして下さった。
とても恵まれた。

精神的病にあって、何かを求めてたのだと思うと、
教会に足を踏み入れた。

結局は、10年間、教会へ行ったり行かなかった
りで、時たま気が向くと行った。

ずっと神様に反発していたと。斜めに構えて御言葉
も聞いていた。
心の底に、神がいるのなら、何で自分はこうなのか。
何でずっと病の苦しみにあるのか。
反抗心があり、素直に聞けない。

それが、ある日突然、御言葉が心に入って来た!
すんなり素直に心に入って来て、神を信じることが
できた。
なぜ信じれたのか、自分でもわからない。あれだけ
長い間、どうしても反発心が湧き、信じれなかった
のに。

「神様を求められたんでしょうね」

「あ、そうです!その頃、どんどん具合が悪くなり、
もう苦しくて、苦しくてたまらず、どうにもならず、
神様がいるのなら、ほんとに助けて欲しかった」

「心の底の求めに答えて下さったのですね」

「神様を信じてから変わりました。“恐れるな”
“何も思い煩うな”“わたしがあなたと共にいる”

御言葉がいのちとなって、心に入り、心が平安です。
ずっとこの平安が無くならないんです。
本当に感謝で感謝でなりません。

状況は何も変わってないんです。同じなんです。
だのに、以前あんなに苦しかったのに、今は平安
なんです。

神様は本当にすごいです。僕が平安なのが、周囲
にもわかるようで、親族も喜んでくれています」

まさに「わたしが与える平安」主の平安の中に
どっぷり守られておられる。

状況に関係なく与えられる「主の平安」、心が平安
なので、問題が問題で無くなってしまう。

まさに「主の平安」は、問題の解決d。

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは
あなたがたにわたしの平安を与えます。

わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは
違います

あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れては
なりません」ヨハネ14:27

どんな危機、状況の中でも、御翼の陰があり、そこで
暴風雨を避けて、平安にかくまわれる。


でも、神様がわかるのは、本当に苦しみの中、痛みの中、
弱さの中でなんだ・・

苦しみの中で、初めて、それを飲み込む本当の平安がわかる
し、何度も何度も失敗し、罪を犯して、それでも愛し続けて
下さる、決して変わることのない神の愛を経験する・・

2009年12月18日(金)
  「自分のため」

肉について色々語り合っていた。

Aさん「したくない肉というのは、わかりやすい。
御心示され、自我はしたくない。それは祈って行けて
心砕かれて、あずかって行ける。

ところが、むしろ“したい”肉が問題で、自分というのが
強くあって、神様のためと言い、そして、見かけは全く
神様のため風なんだけど、

自分も気づかず、欺かれてしまってるんだけど、
結局、自分のためにしてますよねえ。

そこに焦点合わせないとわからないけれど、しっかり
焦点合わせて考えると、自分のためだってわかる。

でも、神様の与えて下さった、この事だけは自分のため
じゃないって、自分のためにしていないって、はっきり
わかる事があるんです。

自分の栄光のためじゃないし、自分の欲のためでもない。
自分の賞賛でもないし、これは神様から与えられた、
神様のためのものとわかる。
これって、すっごい感謝ですよね。御霊が与えて下さって
いるとわかる。だからすごい感謝なんです」

「言ってること、すごくわかる。祈ってやってるし、神様
のためだと思ってるから、自分でも気づかないし、
わからない。
でも何か御霊様の働きで、何かが違う・・と気づく。
自己満足、自己実現、え?!神様のためじゃなく、自分の
ためじゃないかと。結局、自分のためだと。

そんな中で、それだからこそ、御霊が与えて下さるもの、
御霊から来ているものって、自分のためじゃないことが
わかる。
全然自分のためじゃない、自分の栄光や、自分の満足の
ためじゃないことがわかる。

自己中心にしか生きれないからこそ、自分のためでない
領域が現実にあるってことが、ものすごく嬉しい。
飛び上がるほどに嬉しい。

御霊の中に置かれて、御霊に導かれる時、自己中心から
解放されて、全然自分のためでない事が可能なんだと。

こういう瞬間があり、それを生きられることが、
ものすごい喜びで、これが自分にとっての救いだ。


“キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、
私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。
なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたもの
である。」と書いてあるからです”ガラテヤ3:13

自己中心にしか生きることのできない呪いから、
贖い出されていること、十字架に解決があること、
信仰人生最後まで十字架の恵みに生かされている。


“人は、天から与えられるのでなければ、何も
受けることができません”ヨハネ3:27

自分で何もどうにも出来ないから、

「やめよ。私こそ神であることを知れ」詩編46:10

これがすべてなんだ。神がして下さる。

2009年12月15日(水)
  「やめよ」

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」
詩編46:10

「やめよ」!
事が起きた時、まず、肉で思いを巡らすことを「やめよ」。
自分が動き回ることを「やめよ」。

「わたしこそ神であることを知れ」。

まず「わたしを呼べ」と言われる、神様を呼んで、
まず事態を神様に告げる。そして、祈る。
その事を、繰り返し、繰り返し、何度も自分で動いて
失敗しながら、繰り返し学習して、身に培われて
行くように。

事が勃発すると、「とにかく何とかしなくちゃ」と
神様が飛んで、まず頭が巡りに巡る。

しかし、的がずれていて、何かが違う。神様に
頼らず、自分が出て、自分が対応し、自分の思い
を巡らしている。平安が失せる。

「やめよ」
まず静まって、神様に祈り、思いを神様に向ける
時、正しい答えが出て来る。肉と正反対の御霊の
思いだ。
「この事は益となるから大丈夫」「この事も神様の
ご計画の内」「神様の目的と意図がある」
「耐えられない試練は無い」「大きな祝福が用意
されている」・・

御霊の思いが支配し、心が平安になり、救いが
来る。

Aさん「子供が心配症で、昨日も、ああなって、こう
なってと、どんどん不安材料を更に膨らませて、
絶対そうならんじゃろうというところまで、最悪の
シナリオを書いて、ああじゃこうじゃと思い煩って
たんです。

最初は、『はあ?』との思いで聞いているが、段々
耳を傾けていると、自分も、ほんとにそうなった
らどうしようと、どんどん不安になり、自分もつら
れてどんどん落ち込んで、暗くなってしまって。

『やめよ!』なんですよね。よくわかりました!
思い煩うのを、やめます!」

Bさん「ちょっと計画していた事が、全然その
ようにならなくて、障害が入るし、予定変更に
なるし、どんどん計画が崩れて、成って行か
ない。でも、誰が悪いせいでも全然ない。

右往左往していたところだったんですが、
あれこれ肉で考えるのを『やめよ』だと
わかりました!
こうなってるのも、すべて神様がされたこと。
全部明け渡して、神様が上から下さるもの
にあずかればいいんだと。
心がすっきりし、平安になりました!」

Cさん「年末年始の予定を、夫婦で話していて、
自分の思いと夫の思いが大きく違って、でも、
夫に従わないといけないし・・、でも、ついて
行かない気持ちもあって、丁度あれやこれや
気持ちが重く、暗くなっていたんです。

でも、あれこれ思い煩うのを『やめよ!』と言われ
ました。神様に明け渡します。
そして、御霊様の決定に従います。そう思うと
平安です」

肉の思いを巡らせるのを「やめる」時、御霊の
思いに気づけて、御心がわかる。

2009年12月04日(金)
  「受け止める」

Aさん「試練を試練だとわからない、受け止めれない時が
一番苦しかった。目の前の状況しか目に入らず、飲み
込まれていて、ただ苦しいだけ。怒りが湧き上がり、神様
にぶつけてた。

神様どうにもしてくれないし、教会も、もう行かない!と
思うんだけど、朝も起きられず、ぐずぐず遅れるんだけ
ど、なぜか、ずっと来れた。
神様に反抗して、自分は行かないと思うのに、なぜか
知らないが足が向いていて、来れる。気づいたら来てた
という感じ(笑)」

皆が「神様じゃあ〜」(^^)/

「試練だと思わないし、ただ、苦しくて、しんどい事が起こ
ってるというしんどさしかない。苦しいばかりで、神様に
焦点でなく、痛みに焦点があるから、どうしても自己中心
になる。

自己中の殻から抜けられない。何で?何で?で、神様
見ていないから答えも無いし、ほんとに学びの通り、状況
と自分を見るばかり。それしか見ていない。

それが、試練だと教えられ、受け取ろうとした時に、変化
が起きた。学びで、“すべての事が益”の御言葉を聞いた
時、信じれた。これも、益として行って下さるなら、信じて
行こうと思えた。」

Bさん「Aさんの顔がものすごく変わった。明るくなった。
口から出る言葉が全く変わった。愚痴、不満、不安の
ネガティブな言葉だけだったのが、神様、信仰、希望の
言葉が出ていて、こっちも恵まれる。

本当にいつも学ぶけれど、状況じゃないんですよねえ。
状況に反応してしまって、状況に飲み込まれてしまう
状況の問題でなく、自分が問題で、神様に、御言葉に
反応して行くことを訓練されています。」

Cさん「Hさんが末期癌のまっただ中で、平安与えられ
て、それは平安なにこやかなお顔されてましたよねえ。
主の平安が答えですねえ。どんな状況の中でも、主の
平安を下さる」

Dさんが、厳しい試練が次から次へと臨んだ時、それを
試練だと認め、神様の御手からだと認め、受け取る事
を全くして来なかったと言われた。

だから、痛くて、苦しくて、しんどいだけで、何も学んで
来なかった。いつか試練は去り、痛みも苦しみも時間と
共に薄れるが、ただ、状況が去って欲しい、状況が変
わって欲しいと願っていただけの自分自身は、何も
学ばず、変わっていな事に気づかされたと。

神様からの御手のものとして、きちんと受け止めたい。
自分が変えられたい、成長して行きたいと言われた。


わけわからない、しんどい事が次から次へと
来るのと、神を見て、御手からの試練と受け取る
のと天と地ほどの差がある。

学べること、自分が変えられること、成長して行ける
こと。神様を知れること。神様の愛がわかること。





2009年12月02日(水)
  「苦しみ通して」

「懲らしめは愛」で、試練は感謝で、苦しみを
通してしか、神様を深く知ることはできない
ことを学んでいた。

ヨブは、神様のうわさを耳で聞いていたが、
「この目であなたを見ました」と言った。

苦しみを通して、神を見た。神様と深い交わり
を持つには、苦しみを通してしかない。

痛みや苦しみを通してしか、神様を知れない
ような気がする。

あれだけの偉大な奇跡を目の当たりにして、
出エジプトをしたイスラエル、奇跡の中の奇跡
を見て、大喜びし、神を誉め讃えた。

でも、荒野に出た途端、水が無い、食べ物が無い
不平不満、愚痴。

奇跡を幾ら見てもダメで、人間の罪深さ、自己中心性、
肉、それで変わるほど甘くはない。イスラエルは
自分の姿。

頑なで、強情で、固い固い自我の殻、砕かれること、
苦しみが感謝なんだろうな・・

だから、すべての事について感謝できる。
「試練をこの上もなく喜びと思いなさい」に納得できる。
痛いのは逃げたいし、避けたいけれど、それを通る
ことなしに、実を結ぶことはあり得ない。

Aさん「今、苦しい試練が与えられているが、受け入れ
られます。最初は、不平不満と愚痴ばかり、神様を
罵って、呪ってました。
でも、そうやっていても、何の平安も無いし、喜びなど
無いし、ますます辛くて苦しいばかり。
ほんとにこんなの嫌だと思って、やっぱり神様に助け
を求めた。
助けを求めると、ほんとに助けが来て、神様にご計画
があること、益となること、この試練通して、実を結ばせ
て下さること、が素直に心に入って来た。

自分のために生きても虚しいだけで、同じ人生なら、
神様の栄光のために生きたいと思えた。

何か今、自分が変えられて、試練を受け入れられる。

Bさん「ずっと長い間、培われて来た、人の目を気
にする、人の評価が気になる、それがどうにも
ならず、どうしようも出来なかった。

本当に試練の苦しみに継ぐ苦しみを通って、
もう神様しかなくなる。人の目どこでなく、何の余裕
も無い。もう瀬戸際で、神様しか無い。
苦しみを通して、人の目が気にならなくなった。
苦しみしか無いんだと、苦しみでなければならなか
ったんだとわかる。

神様はベストフレンドでなく、自分にとればベター
フレンド、一番では無かった。でも、苦しみを通して、
神様が一番になった」

だから、すべての事について、感謝できる。