2010年03月13日(土)
  「古い価値観」

信仰生活をしていて、根にある古い「価値観」
この世の価値観、生まれつきの価値観が問題
だと気づく。

Aさん「何度も何度も学ぶのに、どうしても古い
価値観があって、不都合な事、マイナスの事態、
経済的苦境や不合格、リストラ、病気、けがは
「悪」、順境が「善」との価値観が出て来る。

だから、逆境は「悪」だから、あってはならない事、
悪い事が起きると、神様に愛されてないと、なって
しまう。
何も問題が無い事が「善」、すべて順調に行けば
神様から愛されてるという事になる。

だから、試練が来ると、すぐに「何で?」「何で??」
となる。試練は悪で、愛されていない事になる。

しかし、御言葉によると、試練は良いもの、益と
成長のためのもの。御言葉の価値観に立つ時、
ああ、そうだったと我に返るが、根深い培われた
価値観にすぐ左右されてしまう」

Bさん「『懲らしめが愛』というのが、わからない。
ほんわか、暖かい感覚があり、喜びがあり、
平安で、何もかも順調というのが、愛としか
思えない。この世の根深い価値観ですよねえ。

懲らしめは痛く、苦しく、辛い、それが愛と
リンクしない。懲らしめが愛と思えない、わから
ない。認められない。

というか、自我が認めたくない。自分の思い通り
の神様が欲しい。自分が求めているのが、ほん
わか触れる事のできる、打てば響くように答えて
くれる神様なんだなと。

実際の神様が、自分の思っているのと大きく
違う。それを認めたくない。だから、神様が
わからない。
自分の思いの中で、神様を探している。」

「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の
中で捜すのですか」ルカ24:5

まさに、これで、自分の思い通りの神様を
捜しているから、わからない。

Cさん「すごい古い価値観がある。ちょっと自分の
思い通りにならない事が起きるとと、すぐ『何でなん?』
と、神様を責める思いが出て来る。

『ちゃんと聖書読んで、祈ってるのに、何でなん!』
と(笑)ご利益宗教ですよねえ。自分の根っこの価値観
が間違っている事がよくわかる。

古い価値観を御言葉の価値観に、変えられて行きたい」



2010年03月10日(水)
  「気持ちを言うこと」

境界線の学びをしていた。

自分の責任と相手の責任をはっきりさせること。
相手の中に入って行って、相手の責任を負っては
ならない。相手が負うべき責任。自分の責任も
きちんと自分が追うべきで、他人に負わせては
ならない。

自分の感情を、人のせいにしてはならない。自分
の感情は、自分に責任がある。

「ノー」を、きちんと言う大切さ。「ノー」が言えないで、
他人をどこまでも、入らせてしまう。
心は「ノー」で、口では「イエス」。ノーが言えない。
その結果、喜んでではなく、強いられて、嫌々している
ので、相手への恨みと怒りが鬱積する。

Aさん「私、そうでした。相手は、何とも思わずに、一緒
に行動しよう、ああしよう、こうしようと、どんどんやって
来て、ノーが言えない自分の弱さで、言われるがままに
嫌々受け入れていた。

時間と労力を幾らでも取られ、顔は笑ったまま、腹では
もう怒り心頭で、嫌で嫌で、以前、境界線の学びをした
時に、「これだ!」とものすごくわかった。

自分の価値観が、思っている事を言わない事が善、
黙って受け入れるべきと思っている、そこが違う事
がよくわかった。
神様に示されて、イエスはイエス、ノーはノーと、きちん
と言うこと、自分の気持ちを、ちゃんと表現する事を
練習し続けている。」

Bさん「自分がきちんとノーを言うから、相手のノーが
受け入れられる。ノーを言われて、嬉しい人はいない
だろうけど、だから言いにくいわけだけど、でも
自分が言っていると、すんなり相手のノーを受け入れ
られる」

Cさん「どうしようかな、自分の気持ちを言おうかな、
言わない方が良いかなと迷ったが、やっぱり言った方が
良いと思え、素直に言った。

すると、相手はノーだったが、受け入れられたし、
その際の気持ちを知る事ができた。もし、自分が
言わなかったら、その気持ちも知れなかった。相手
が知れて、言って良かった」

Cさん「対人関係が、あっちに気を遣い、こっちに気
を遣いで、なかなかしんどい感じだったが、ノーを
きちんと言えば良いとわかると、すごく気が楽になった。

そして、その通りに、都合悪ければ、はっきり
ノーと言うと、交友関係が良いように導かれて、
神様を感じている」

Dさん「自分はノーが言えない。ここが自分の欠点で
弱さ。ノーを言わないで、ずるずると優柔不断で、周囲
に迷惑をかけてしまう。

人に嫌われたくない、良い人に見られたい、良い人で
いたいというのが、根本にあると思う。
それなら、あっちにもいい顔、こっちにもいい顔で
八方美人になってしまう。

ストレートにはっきりと率直に物を言う人が友達に
なって、バンバンと率直に素直に気持ちをぶつけて
来てくれるので、もうこちらも言わざるを得なくな
って、すごく良い訓練とされた。

神様が一歩一歩導いて下さっていることが本当に感謝。
神様に助けられて、自分の気持ちを素直に率直に表現
して行くことを、練習して行きたい」

2010年03月06日(土)
  「正直に」

神様に、全くの正直にありのままで、向き合う時、
必ず導かれて行くことを見せられて来た。

Aさんが「自分の自我が強くて、自己中心で、自分の
事しか全く無いのがわかる。自分しか無い。
人の事など考えられない。自分だけ。

神様に従うのも、自分に益が欲しいから。心が満たさ
れたいから従う。この間、自分が従う事を通して、
全体に神様の栄光が現れたというのに、自分は全然
嬉しくない。

神様の栄光現れても、自分は何も感じない。嬉しくない。
自分にとっての喜びが喜びであり、神様の喜びが喜び
でないことがわかった。どこまでも自分中心」

Bさん「Aさんすごい〜。自分も自我がすごく強くて、
自己中心だけど、正直に言えるから、Aさんすごい」

「Bさんも言っとるじゃん」(笑)

「まあ、肉はそうよ。それが肉よ。イエス様が十字架で
苦しんでいても、血まみれになっていても、肉は平然
としている。何も感じない。これが罪の性質」

「ポルポトみたいな極限の状況が無いだけで、もし
極限状況に置かれたら、肉はモンスター」

「神様畏れて、御霊に支配されて従って行かないと
何をするかわからない」

Aさん「今、神様に焦点が合ってないんですよねえ。
ずれてて、自分に焦点が合ってる。自分、自分しかない。

いつも学ぶ太陽の前に十円玉置いたら、太陽が
見えなくなってしまう、あれ。
神様の前に自分を置いてて、神様が見えてない。
神様、何もしてくれん。ご利益もくれんし、不良債権
つかまされたと思ってる。」「はあ」大笑い。

そして翌日・・。

Aさん「昨日、神様は不良債権じゃ!言ったけど、
朝、祈ってたら、不良債権は自分じゃった・・」

「こんな不良債権を、見捨ても、見放しもしないで、
ずっと見守ってくれて、愛してくれて、神様に申し訳
ない。神様、ごめんなさい」

神様に自分のありのままの姿を、向けて行った時、
神様に確かにまみえる。

ごまかして、あいまいにして、良い子でいたら
全く神様に触れることができない。



2010年03月03日(水)
  「従って行くと」

「行って、シロアムの池で洗いなさい」

「そこで、彼は行って、洗った。すると、
見えるようになった」ヨハネ9:7

イエス様の言われる通りに、とにかく
言われる通りに、従うと、目が開いた。
従う事の大切さを教えられる。

今までの信仰生活で、肉が断固抵抗しても、
どんなに肉はしたくなくても、決心して、御霊に
示された通りに、促しの通りに、御言葉の通りに
従った時、キセキが起きた。

ある時は、状況に働かれ、又、状況は
全く変わらなくても、自分の心にキセキ
が起きて、拘束から解かれて、自由に自由に
されて行った。
自分が自分を窮屈にしていて、しかし、自分で
どうにもならない。

御霊に従って行く時、解き放たれて、平安にされる。
「そこで・・行って・・洗った。すると」の通りだ。

Bさん「今までの信仰生活、振り返ると、解かれて
解かれて、今まで来ました。

最初は『ねばならない』歩みをしていて、自分の力
でしているから、もうしんどくてしんどくて、でも
従わねばならないと思っていて。

そんな中で、神様が取り扱って下さって、砕かれ
砕かれて、もうほんとに砕かれました。
心がパキン!と二つに割れた。

自分で自分を縛っている私を、自由に自由に
するための神様のご愛、慈しみだったと今、
わかります!
通らねばならなかったし、ほんとに感謝だけです。
もう、以前と全然違います!神様に従って
本当に良かった」

見えるようになったんだ(^^)/

Cさん「対人関係で、傷つくので、どうしても拒否
反応が出てしまい、距離を置きたい相手がいたが、
神様に心を打ち明け、とにかく従おうと、祈りながら、
導かれるままに接していた。

すると、相手への見方が変わって来た。今まで
自分を攻撃して来る、傷つけて来るとしか
見えなかったが、相手の弱さなんだなと、
違う見方が与えられた。
すると、自分の心が違って来た。
間に神様がおられることをすごく感じた」

従って行くと、神様の導きの手が臨む。




2010年03月01日(月)
  「神の栄光のため」

有名な御言葉、「この人が罪を犯したので
なく、両親でもありません。神のわざがこの
人に現れるためです」ヨハネ9:3
を学んでいた。

皆で、何やかんやと語り合う。マイナスな
出来事が起こると、あの罰か、このバチか、
あの人のせい、この人のせいと、すぐに
犯人捜しをしてしまう。

クリスチャンになっても、根深い古い価値観
があるので、目の前の事に反応してしまって、
あの人が、この人がこうしさえしなければ、
こうはなってない・・、又、自分も責める。

でも、そこに何の解決も無い。全く無い。
喜びも平安も無く、ますますネガティブに
落ち込んで行くだけだ。


それは「神の栄光が現れるため」
何と希望があって、救いがある事だろう。

Aさん「ずっと、自分の欠点、弱さ、劣っている
所、出来ない所ばかり見て、どうにもならない
時期を過ごした。悶々として、苦しくて苦しくて、
たまらなかった。

こうなったのも、親が悪い、親の育て方が悪い、
生まれた地が悪い・・あのせい、このせいと、
過去から抜け出せなかった。

でも、今、『神の栄光が現れるため』が素直に
信じれる。心に平安と喜びがある。

親をずっと責めていたが、今は親がどんなに
愛してくれていたか、ほんとに神様から目が
開かれてわかり、今は、親に感謝で感謝で
ならない。親の立場に立って考えられる。

自分が変えられた。すべての過去も、
『神の栄光が現れるため』、何と嬉しい事かと
思う」

状況は全く同じ、何も変わってない、Aさんが
変えられた(^^)/神様視点に立って、神様に
焦点が合った時、同じ状況で、喜びと平安
に変わる。

状況でなく、自分でなく、過去でなく、神様に
視点が合うと、問題が問題でなくなる。

今、目の前にある問題も、悩みも、「神の栄光
が現れるため」に与えられている。

それらを通して、神の栄光が現れる!!
であるなら、いつでも希望があり、感謝がある。