2011年08月21日(日)
  「自我が強い」

自我が強いという話をしていた。

Aさん「対人関係で腹の立つことがあって、
もう怒りで、怒りで、どうにもならなくて、この
自我が、自我がと、とにかくもう祈って、祈って、
祈ったんです。

祈っていたら、ほんとに助けられて、対応
が守られて、穏やかに、きちんと御心の
対応ができて、これは自分でなく、もろに
神様の働き、助けを感じました。

もし、あの怒りのまま、対応していたら、
爆発して、修羅場になってました。
もう、自我ですよねえ。自我が反応して、
怒り沸騰で、でも、以前はもっともっと怒り
が凄かったんですよ。
神様に従いたいと思うにつれて、段々
おさめられて来てます。本当に感謝です」

Bさん「神様以外の偶像があって、これが
なかなか献げられない。
強い自我が放さない。自我の強さを思い
知らされる。
頭ではわかるんですが、どうにもならない。
自我が握りしめてて」

Cさん「そうそう!偶像があると、神様が
二番手になるんよね。そして、神様が見え
なくなる。」

Bさん「そう!その通りで、神様二番手で
見えないんですよぉ。
握って自分では放す事ができないから、
『出来ません、出来ません』と祈ってて、

祈りに祈ってたら、御言葉与えられて、
目の前の示しに従うことができました。

目の前の具体的な御心に、従えたことが
嬉しかったです。」

Dさん「生涯を神様に献げて従って
行きたい思いがあるんですが、
自我が強烈で、思いはあるが、自我ゆえに、
出来ないんです。
自分の力では出来ないので、祈って行きます。

自我が本当に強いです。
苦しい状況を通して、この自我のありか
を知らされています。
砕かれるために、苦しみの中に置かれて
いて、神様の取り扱いであることがわか
ります。」


信仰人生、時間が経てば経つほど、
いかに自我が強いかを、思っているより
どんなに強いかを知らしめられる。
どこまでも、どこまでも自我は強烈。

自我の強さを知れることも感謝。
救われたことも奇跡、一歩一歩従って
行けることも奇跡、主のみわざだ。

イエス様の身が裂かれ、血が流され、
十字架がなければ、この自我の解決
が無かったことを、絶えず絶えず知ら
しめられる道のりだ。


「私たちの古い人がキリストとともに
十字架につけられたのは・・」


「私はキリストとともに十字架につけられ
ました。もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです」