2012年03月12日(月)
  「うちにあるものを知るため」

Aさん「肉親の介護をしていて、神様から色々
教えられます。
しんどいからこちらに当たって来るのが、頭では
よくわかるのに、受けて、流せばよいのに、こちら
に全く余裕がないから、こちらも負けずに当たって
しまう。
時間的に、労力的に、いっぱいいっぱいなんですねえ。
余裕がある時は、それでも笑って受け止められるのに、
許容量オーバーな時は、ダメ。

帰りに、あ〜あ、と暗たんたる気持ちで帰る。

介護の仕事をしている人など、もう、何で出来る
んだろうと、よう出来るなあと、そんな事をヘル
パーさんに話すと、

『仕事だから出来るんです』と言われて。他人だから
ワンクッションあるから、冷静になれて出来ると。
自分も肉親は見れませんと言われた。

確かに、他人なら、いいですよ、いいですよと笑顔
で親切に対応できる。

これが肉親になると、いら立ちや、落ち込みや、
感情が、荒波のように揺れ動く。

当たって来られた時に、優しく返せばよいのが
わかるが、どうしてもできない。

したくない。自分の自我、その自我がいかに強く
岩石のように強固で、頑なであるかを、初めて
知りました。

これがアダムからの罪の性質であり、原罪であり、
これなんだと。このために、イエス様が十字架に
かかられなければならなかったと。

一つ一つの目の前のことは、自分の姿を教えて
下さるためなんだと。本当に感謝です。」



‘あなたの神、主が、この四十年の間、荒野で
あなたを歩ませられた全行程を覚えていなくて
はならない。

それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、
あなたがその命令を守るかどうか、あなたの
心のうちにあるものを知るためであった’
申命記8:2


一つ一つ目の前に置かれた事柄は、自分の内側
を見せて下さるため。

癒して、平安にして行って下さるため。