2013年12月03日(火)
「目が開かれた」
|
「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、
今は見えるということです」ヨハネ9:25
「友人に誘われて、イベント時には、ずっと教会に来ていた。」
「抵抗なかったんですか」
「それは全然。友達がいて、イベント時には食事も出て、
楽しかったし」
「それは他の宗教でも良いということ?」
「いや、そうではない。嫌な宗教は拒否反応があった。
教会にはそれは全然無かった」
「イベント時にはずっと来るんだけど、聖書の言葉には
全然反応せず。いつ聞いても、ずっとただの物語にしか
思えない。長い間、自分とは何の関係もない物語。
それが、ある時突然、自分に関係のない物語では
無くなった。
御言葉が、心にピッタリとはまって、答えが来たり、
慰めや励ましとなったり、まさに御言葉が生きてい
る事に驚き!
集会の時に、友達が横で、聖書の御言葉聞いて、
泣いていた事があって、何で泣いてるんだろう??と、
全然わからなかった。
それが、自分も御言葉が心に触れて、わけわからず
涙が出て来る。
悲しいからでなく、心が感動して出て来る。友達が
泣いていた意味がわかった。」
「長い間、全く何も感じなかったのに、どこがどう
なったんですか?
自分はクリスチャンホームで育ったので、神様がいる
ことと、奇蹟とかは信じれるんです。でも、そうで
ない人が奇蹟を信じられないのが当たり前ですよねえ」
「対人関係で、何もどうにも出来ない、崖っぷちの、
絶体絶命の状況に陥って、もうこれは、今までずっと
聞いていて、頭でだけ理解していた“祈り”しかない
と思えた。」
「でも、それまでに御言葉を聞いていたから、すぐに
結びついたんですよね」
「はい、そうだと思います。絶体絶命の状況を与え
られて砕かれたんですよね。砕かれないとわからない
ですねえ。今思えば、その試練が感謝でならないです」
|
|