2016年01月19日(火)
  「自分が強い」

自分自身を主に「委ねられない」ことについて、皆で「わかる、
わかる」と、あれやこれや話す。

「考えてみるに、やはりどこまでも、自分がやろうとしている。
だから神様に任せない。
“自分”が強くて、自我ですよねえ。自我が強いんですよねえ。」

自分の力が捨てられない。捨てようとしないで、“自分が”
“自分が” 自分がやらねば、どうする!と思っている。

明け渡すと、その“自分”が無くなると思うから、事態の
すべてが、何もかもがダメになると、思ってしまう。
自分が手を引いたら、壊れてしまうと。
だから、委ねられない、明け渡せない。

神様を頭では信じているが、渡すとどうなるかわからない
と、結局は神様が最善をして下さると、信じられない、
信じていないのでしょうね。
だから、自我がどこまでもしっかり握り締めている。
決して放さない。

頭では何度も御言葉を学んで、神様が最善をされる
とわかっているが、頭だけで、本当にはわかっていない。

そして、自分の思い通りに、事がなって欲しいので、
神様に渡すと、自分の思い通りにならない、と思っている。

神様の思い通りになって行くので、それも嫌だ、困る。
これも本音。自分の思いがどこまでも強い。

行き着くところは自我ですね。この自我が砕かれるしか無い。

どこまでも自分の力、肉の力は強力で、「ダイハード」で、
死んでも死なないほど強い。しぶとい。

「今までの信仰人生で、振り返る時、委ねる事ができたのは
ほんとに自分の力が砕かれた時、行き詰まって、絶体絶命
で、なすすべ何もなく、もうお手上げで、弱さの極み状態。

どうにもならないので、窮地で委ねた途端、180度方向
転換となって、喜びと平安に包み込まれて。」

「そうです!そうです!経験しました!
ほんと自我は強くて、でも、どうにも出来なくなった時に、神様に
すがるしか無くなった時に、奇蹟が起きた。
砕かれないと、神様がわからないですねえ。

でも、結局、行き詰まる事が感謝で、絶体絶命が感謝で、
砕かれることが感謝ですよねえ。
それが無ければ、神様なんて全然わからないですねえ。
痛い事は通るけれど、ほんとに感謝だと心から思えます。」


“ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。
これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせ
てくださる神により頼む者となるためでした”
Uコリント1:9