2007年09月24日(月)
  「目を上げて」

この日曜にカンボジア派遣式をした。
このために皆が祈りを積んで下さって、愛と祈りで送り出せる
ようにと願っていた。

礼拝では、N宣教師のメッセージ、その後、派遣式。
終了後、食事歓送会をした。皆で思い出を語り、贈る言葉を
語った。
「N宣教師は子供の頃から自立していて、小学生の頃、黒い詰め襟
の制服にランドセルを背負っている姿は、小学生でなく、サラリ
ーマンがランドセルを背負っているようだった」(大笑)

「小学生の時に、青春切符で、時刻表片手に列車を乗り継いで、
長野まで一人旅をし、その自立さ加減にびっくりしました」(笑)

小学生の頃からの、カンボジアへの夢が叶って良かったね(^^)/と
皆が。別れは寂しいが、カンボジアへの働きがなされて行く事が
感謝。

皆の愛に包まれて、何とも温かいあったか〜い派遣式であった。
お祈りに本当に感謝。

N宣教師のメッセージが「わたしの示す地に行きなさい」
私たちもそれぞれの場所で、主の示されること、みこころを
行うことが大切。

「祝福」と聞くと、クリスチャンでも、良いことが祝福と思う。
家内安全、交通安全、無病息災・・人生に悩みがなく、問題がな
くすべてが順調、順風満帆が祝福だと思う。
病気をせず、健康で、歩みも順調、そうすると、神に祝福され
ている。
逆に、問題だらけ、悩みだらけ、病気続きで、倒産、経済的
困窮や悪いことが起こると、祝福されていないと思う。

この世の価値観だ。クリスチャンでも、この世の価値観、肉
の価値観が根深く巣くっている。

カンボジアの地方へ行った時、教会の青年を訪問した。そこは
薬も医療もなく、野戦病院状態で、何の手当もなされていない。
高熱に苦しんでいる。日本なら、治療によって治る。
地方の人々は病気になれば諦める。寿命がここまでだったと。
祈ることしかできず、地元の宣教師と一緒に祈った。
その苦しんでいる青年の顔が平安そうになった。彼はもう今、
恐らく天に召されているだろう。

日本なら完全に治る。では先進国は祝福されていて、発展途上
国は祝福されていないのか。
「祝福」とはそうではない。祝福とは、病気、健康に関係なく
神が共におられること。いつも共におられ、永遠に共にいて下
さる。

状況ではなく、「さあ、目を上げて」、状況から目を上げて
神を見上げること。視点の問題だ。神を通して状況を見ること。
「祝福」の価値観を、神の価値観に変えること。

「目を上げる」こと。その時、状況に関わらず、必ず心に平安
が来る。状況が変わらず、同じであっても、心には平安が臨む。
この神が共におられることが、祝福だ。