2017年08月04日(金)
  「主の山の上に備えあり」

カンボジアの宣教地を訪問して来た。

宣教師家族と久し振りの対面。
元気に守られていて感謝だった。

「主の山の上に備えあり」

とにかく、カンボジア宣教を示され、カンボジアの地に一歩
を踏み出した時に、この10年ずっと、絶えず「主の山の上
に備えあり」の歩みであった。

これから宣教という時に、まず家も、どうやって探せば
いいのか、現地は不動産屋が無く、誰を信用していいの
かもわからない。

時もピッタリに、丁度入れ替わりに帰国の宣教師さんに、
賃貸住まいをそのまま引き継ぐ事ができ、家具一式も安く
譲っていただけた。主の山の上に備えであった。

アメリカ人宣教師の教会を奉仕教会とさせてもらい、
集う教会も、主の山の上に備えあり。

スタートから、一歩みこころへと踏み出した時に、すでに
すべてが備えられている事を見せられる。

信仰もって一歩踏み出さない限り、経験できない恵みだ。

ヨシュアを新しいリーダーに、カナンへと進む時に、目の前に
とうとうと、岸いっぱいに溢れるヨルダン川が横たわる。

船も橋も無い。春先で、雪解けで水かさが増している。

でも、主の示しの通り、祭司たちが一歩を川に向かって
踏み出した時、水がせきをなして立ち、水は完全に
せき止められ、渡ることができた。

エリコの難攻不落の、そびえ立つ城壁も、主の示しの
通りに周囲を回り続け、ときの声を上げた時に
崩れ落ちた。

示された通りに、一歩を踏み出した時に、神が働かれ
みわざを見る。

最初の首都での働きから、更に田舎開拓伝道に移る。
そこでも、主の山の上に備えあり。

ふさわしい住まいが備えられ、教会学校、礼拝、祈り会
と導かれ、無料勉強クラブが用いられ、勉強を教える場に、
子供たちが集まり、親にも喜ばれ、それゆ教会学校に
出席されてくれている。

仏教国の中で、不思議な主の備えであった。

同じく、どこにおいても、信仰生活の中に、主の山の上に
備えありを、見せられて行けることに感謝。