2019年06月07日(金)
  「我慢ではない」

「信仰がためされると忍耐が生じるということを、
あなたがたは知っているからです。

その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あな
たがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた
完全な者となります」ヤコブ1:3


信仰がためされる=試練。

試練に会うと、忍耐が生じると言っている。
忍耐=トンネルは必ず出る、夜の後に必ず朝は来る、
主は必ず良くして下さると信じることだ。

その忍耐が培われるのは、トンネルの中にいる時、
夜にいる時だ。そこでしか培われない。

成長は、試練によってだ。

Aさんが、経済的苦境に陥った時に、不安と恐れと
思い煩いの中、祈って、見事にすべての必要が満た
される経験をした。初めての苦境であり、初めての
経験だった。

又、次に苦境が来た。やはり恐れと不安と思い煩い
に襲われる。しかし祈ると満たされた。

それを何度も何度も繰り返した。祈ると、必ず、必要
が満たされた。

何度も何度も訓練受け、段々、変えられて行った。

必ず与えられるので、次は、主がどのように与えて
下さるのか、楽しみになった。大きく変えられた。


Bさんが、手をけがした時に、処置した後も、余り
の激痛に、ただただ我慢していた。

額にしわを寄せ、力を入れて我慢していた時に、
ふっと主を仰いだ時に、気づかせられた。
これは違う。主が飛んで、自分の力で我慢している。

「我慢」の「我」=自我の「我」
「我慢」の「慢」=高慢の「慢」

我慢は、肉だと気づかされ、我慢するのでなく、
主に頼り、主にすがることだと教えられた。