2020年08月31日(月)
  「神に導くストーリィ」

聖書放送を聴いていて、

夜空の星を見た時に、星座を知っているのと、知らない
のとでは、そこに違いが出て来る。

星を見ているだけなら、沢山の星があるなあ〜だけだが、
星座を知っていたら、そこにストーリィがある。

生まれてから、今まで起きた事が、偶然起きた事なら
バラバラに、散らばっているだけだが、

神を通して見る時に、偶然は一つも無く、一つの無駄もなく、
すべての出来事が、自分を神に導くストーリィであったと
わかる、と。



振り返ってみた時に、

思春期の頃、心の虚しさをずっと感じていた。
後に知ったが、パスカルの言う「心の空洞」だった。

心に神の形をした空洞があり、そこに、神以外の何を入れても
隙間が空くので、決して満たされることはないと。

例えば、四角の形に三角や丸を入れても、隙間が空くように、
何を入れても、虚しさは消えなかった。

そんな中、「レ・ミゼラブル」を読んだ時、心に響くものがあった。
あとかきに、キリスト教精神が流れていると記されていた。

中学生の時に、国語の時間に、聖書は、新約聖書と
旧約聖書に分かれていて、新約聖書とは神との新しい契約、
旧約聖書は古い契約だと習った。

普通の書店に売っていますと。ふと、読んでみたいと思ったが
日常に紛れて、忘れ去った。
何かのきっかけがないと、なかなか行動に移せないものだ。

高校に入学した時に、席が近くて、友人になった同級生が
クリスチャンだった。当時、毎週席替えをしていた。

すると、毎週〃席替えする度に、彼女と前後か左右に必ず
なった。「あ、また一緒だ」「嬉しい〜」を繰り返していた。
普通、有り得ない。

“くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る”箴言16:33

くじの結果は、主から来ると。
いろんな事を、よく話した。彼女が聖書を貸してくれた。
マタイを読んで、山上の垂訓に心惹かれた。

当時クラブもしていて、いつも時間に追われていて、全部は読めなかった。

その彼女と、次の学年も同じクラスになった。主の配剤だった。
その年に、特別集会に誘われ、その時に主を信じ救われた。

一つ一つの不思議が、私を神様に導くストーリィであった。