2001年02月17日(土)
  我慢は自我!!

主に在るアメリカのHさんからのメールに恵まれた。

Hさんは昨年末に肘を痛めて、ワイヤー3本を入れる
手術をされた。リハビリをずっとされている。

「・・ほんとに此の腕曲がつたり伸びたりするのか
なあ--なんて思つてました。三週間めに曲げるのに、
又、腕が折れたのかと思う程痛くて、夜寝る前お祈
りして---もう私は、一生懸命我慢しました。

でも、涙がでる程痛いです。(痛みに堪える時は、涙
は目頭でなく目尻にたまつていた--目しつかり閉じ
てたせいかな)。イエス様にもう、うっー痛いの我慢--

その時---何故我慢するの---と我慢の「我」は--自
我の我でしょう。我慢の「慢」は--高慢 傲慢の慢で
しょう。途端に嬉しくなりました。
はいはい、もう二度と我慢は致しません。本当に(此
の戦前の大和撫子は---我慢 我慢欲しがりません、
勝つまではと、教えられて育つた世代)パウロじゃな
いけど目から鱗が落ちました。

今でも痛いです。でも--大きなアメリカ人がこの小
さい腕を、肘と手首をギュツト、つかんで曲げたり
伸ばしたり---でもそれが始まると、私はしつかり
と目を閉じて、イエス様、お出下さい、私はゼツタ
イに我慢しませんから---と、胸の中で祈つてます。

前にみたビデオで、私達が天国についた時「one
thing God'll ask you Did you learn to
receive my love 神様が一つだけ聞かれる----
貴方は私の愛を受け取ることを学びましたか---
有難い事です。主の愛を豊かに受けて生されて
る毎日。・・・」云々とあった。

頑張ったり、我慢している時って、神様の愛を受
け取っていない。拒否している。結構です、私が
しますから、と。

我慢したり、頑張る事じゃなくて、弱い無力な自
分をすべて、神様の御胸に投げかけて、神様の御
胸で憩うことなんだと、改めて恵まれた。

今日のデボーションでガラテヤ書を読んでいた。
「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の
子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人
になってはならない」

「キリストは自由を得させるために、私たちを解
放してくださいました。ですから、あなたがたは
しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせら
れないようにしなさい」

「律法によって義と認められようとしているあな
たがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてし
まったのです」

我慢しない、頑張らない、イエス様の御胸に抱か
れて憩います。嬉しい〜!!

by TAEKO