2006年05月25日(木) 「試練は痛いが・・」
昨日、Aさんと話していた。 「イエス様を信じても、最初の頃って、何だかよくわからない ですよねえ。 信じているし、天国へも行けるが、自分の力で生きている。 神様、全然嫌じゃないし、御言葉聞くことも、全然嫌じゃないけど、それはそれ、これはこれって感じで、神様、全然関係なく生きてる。 日常生活に関係ないんですよ。自分でやって行けてしまうし、 別に、楽しいし、何ら問題無いと、それはそれ、これはこれで ずうっと行ってしまいますよねえ(笑)」 「子供でつまづいたのが良かったんだ」 「そう、やっぱり行き詰まる事で神様求めて祈りましたねえ。それまで、神様頼る事がまず無かった。 子供の問題で、自分でどうする事も出来ず、頼って祈って、最終的に神様に委ねた。すると、ほんとに思いを越えて良くして下さって、最善に導かれた。あれが初めての経験だった。 振り返ると、あのつまづきが感謝だった。あれが無ければ、今も頭の神様で、全然離れて生活していた」 Bさんも「神様信じてるし、天国も行けるけど、何か頭の感じで、そんなに実感ないし、そこそこ、この世で楽しくやって行けるし、何の問題もないと、求める必要がなくて、やって行けてしまう。 神様を知れたのは、やっぱり試練通して。痛いけど、苦しい けれど、もう神様を必死で求める。試練が無かったら、今もそこそこのままだったと思う」(笑) Cさん「一時期、神様離れてたけど、もう行ったきりで、その 時は、神様の事など全く頭に無い。全くの神様無しで生活してる。それなりにやって行けるし、自分の力で生きて行きたいと思ってる。」「何で、帰れたのか?」 「行き詰まったから。自分の力ではどうしようもない問題が 立ちはだかったから」「それが無かったら、そのまま行ってた?」「ええ、そのまま行ってたでしょうね」(笑) 皆が皆、試練で、神様のもとに立ち返れて、頭の信仰が 試練によって、膚の信仰、実際を伴う信仰に入れられたと。 人間って、必要が無いと、求めが無い。求める必要が無い。 お腹がすいておらず、満腹のところへ、幾ら最上のご馳走 があっても食べられない。 試練は非常に痛いけれど、感謝で、振り返って、神様に一番近い時となる。 「神を求める人はいない」ローマ3:11 ほんと、人間て、放っておかれたら、神を求めないんだなあ。 自分で生きて行く。 「おのおの自分かってな道に向かって行った」イザヤ53:6 試練で、強固な自我の殻が砕かれて、恵みの中に入れられて 神様を知って行く。試練は痛くて辛くて苦しいが、神様を求める時、神様を知れる時、感謝。 「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。 私はそれであなたのおきてを学びました」詩篇119:71 by 多恵子