2006年10月29日(日)
  「無いときこそ」

今日は教会学校でツァレファテのやもめ女の
お話をした。先週のエリヤがケリテ川でカラス
に養われる続きだ。

飢饉の中、最後のひと握りの粉で作ったパン
菓子をエリヤに献げると、日照りの間中、かめ
の粉は尽きず、つぼの油は無くならなかった。
子供達も食い入るように紙芝居を見つめ、真剣
に聞いていた。

その後、夕拝でAさんが「結婚式があったんで
すが、私、靴が無かったんですよぉ。でもお金
が無くて、買えないし、どうしようかと。結婚
式迫るし、はいて行く靴がない。そしたら、玄
関に靴が並べてあって何と祖母が買ってくれて
たんです。
それも、自分の欲しかった長いブーツで、もう
びっくりして。こんな小さな事だったんですが、
神様だと思って、神様が目を留めていて下さる
と思いすごく嬉しかったんです」

Aさんの話を聞いていて、突然思い出した。
神学生の時、元旦に神学校で聖会があって、
行くのに、その時、お金が無かった。
どうしても行かなければならないし、祈って
いると、これは必要な物で、天地が逆さまに
なっても与えられると、どうやってでも絶対に
与えて下さると信じれた。

神に賭けて、信じて、お金は無いまま、とに
かく駅へ行こうと立った。
すると、玄関に来た時に、祖母がお年玉にと
ポチ袋を手渡してくれた。「もう大きいんだから
いい」と言うと「したいんだから」と。神様に
感謝した。祖母を通して与えて下さった。

もう一つは、少し遠方で聖書セミナーが1週間
に渡って開催された時のこと、心が恵まれて、
最後の献金の時に、献げたい気持ちが溢れた。
札とじゃら銭があり、札を献げて、じゃら銭が
帰りの電車賃で帰宅。
しかし、翌日の電車賃は無いので、行けないのが
残念だなあと思いつつ。

そして、帰宅すると、田舎の方の祖母から手紙が
来ていた。いつも信仰冊子を送って貰っているので
お礼にと、お札が同封されていた。わあ、神様だ!
それで、次の日も集会に行く事ができた。
献げたことを通して、溢れる恵みを膚に感じた。

無い時こそ、神様の恵みや愛がもろにわかる時で、
感謝。

by多恵子