2009年12月18日(金)
  「自分のため」

肉について色々語り合っていた。

Aさん「したくない肉というのは、わかりやすい。
御心示され、自我はしたくない。それは祈って行けて
心砕かれて、あずかって行ける。

ところが、むしろ“したい”肉が問題で、自分というのが
強くあって、神様のためと言い、そして、見かけは全く
神様のため風なんだけど、

自分も気づかず、欺かれてしまってるんだけど、
結局、自分のためにしてますよねえ。

そこに焦点合わせないとわからないけれど、しっかり
焦点合わせて考えると、自分のためだってわかる。

でも、神様の与えて下さった、この事だけは自分のため
じゃないって、自分のためにしていないって、はっきり
わかる事があるんです。

自分の栄光のためじゃないし、自分の欲のためでもない。
自分の賞賛でもないし、これは神様から与えられた、
神様のためのものとわかる。
これって、すっごい感謝ですよね。御霊が与えて下さって
いるとわかる。だからすごい感謝なんです」

「言ってること、すごくわかる。祈ってやってるし、神様
のためだと思ってるから、自分でも気づかないし、
わからない。
でも何か御霊様の働きで、何かが違う・・と気づく。
自己満足、自己実現、え?!神様のためじゃなく、自分の
ためじゃないかと。結局、自分のためだと。

そんな中で、それだからこそ、御霊が与えて下さるもの、
御霊から来ているものって、自分のためじゃないことが
わかる。
全然自分のためじゃない、自分の栄光や、自分の満足の
ためじゃないことがわかる。

自己中心にしか生きれないからこそ、自分のためでない
領域が現実にあるってことが、ものすごく嬉しい。
飛び上がるほどに嬉しい。

御霊の中に置かれて、御霊に導かれる時、自己中心から
解放されて、全然自分のためでない事が可能なんだと。

こういう瞬間があり、それを生きられることが、
ものすごい喜びで、これが自分にとっての救いだ。


“キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、
私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。
なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたもの
である。」と書いてあるからです”ガラテヤ3:13

自己中心にしか生きることのできない呪いから、
贖い出されていること、十字架に解決があること、
信仰人生最後まで十字架の恵みに生かされている。


“人は、天から与えられるのでなければ、何も
受けることができません”ヨハネ3:27

自分で何もどうにも出来ないから、

「やめよ。私こそ神であることを知れ」詩編46:10

これがすべてなんだ。神がして下さる。