2006年05月10日(水)
  「め・ぐ・み」

Aさんと話す。
「以前、他教会の方が来られた時、20年目にして初めて
福音がわかった。初めて恵みがわかり、ずっと苦しい苦しい
しんどい、重荷を背負ったクリスチャン生活をしてたと
言われた・・
私も物凄く、いびつなクリスチャン生活だったと、今、気づき
を与えられています。
杓子定規で、かくあるべき、ねばならない・・デボーション持つ
のは御心で、持つべき。
すると、何がなんでも形にはめる。子供が小さくて、起きて
来ようものなら、デボーションが邪魔される、妨害される、
まるで子供がデボを阻む妨害者。受け入れられない。

そんなにまでして、デボーションして、それで、御言葉が1日
とどまって、御言葉で生きているかというと、全く無い。
デボーションはそれはそれ、生活はこれはこれで、分離してて
全く自分で生きている。何の意味もなしていない。

律法そのもので、まさにパリサイ人が祈り、十分の一を献げ
礼拝し、何の落ち度もなく言いつけを行っている、それだと。

愛がない。神様を愛して、何かをするというのが全く無い。
する事が正しいから、どんなにしんどくても正しいから、しなく
てはならない、と思うし、しようと思って来た。

根本的に間違ってる、信仰が何であるかを、何もわかって
いない事に気づいた。」「え、すごい!気づきだ!」

「人を見れば、伝道、伝道と思って来たが、実際のところ
人は非人格の伝道対象者でしかなく、何といびつで、何と
間違ったあり方だったんだろうと。
そうでなくて、内にイエス様がおられるのだから、自然に
していたら、自然にいのちが流れ出て、証しになるはず
ですよねえ。
神様のされる事は、自然であるはずだと、今は肩から
力が抜けるように自然体で、自分はもういっさい何も出来
ません、ただ神様がして下さい、それだけですと、言ってる」

以前ある先生も「イエス様を信じた頃は、それでなくても根
が真面目な私は、信仰生活は修業だと勘違いしていました。」

「比叡山延暦寺ですね」(笑)

Aさん「私もそうです。性格が真面目で、ましてや神様なの
だから、もっと更に真面目でないとと思い、なすべき事はしな
ければ、でも、神様いりません、結構です、自分でしますと、
枝がぶどうの木から離れて、自分で行ってるんですよねえ」

「正しいことをしてるから、わからない、絶対にわからないよ
ねえ」

でも、御霊様は忍耐もって導き、示し、気づきを与えて
下さる。恵みのもとに導いて下さる。

“しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の
下にはいません。
御霊の実は、愛、喜び、平安・・”ガラテヤ5:18

by 多恵子