2007年03月01日(木)
  「神は第三者」

青年会の「信仰」の学びで、
信仰とは、全くの第三者である神を信じているはずが、
自分の中でグルグル、ぐるぐるしている場合が多いと
あり、ほんとにそうだと思った。

 @自分―――――――自分(神と思っているが)
 
 A自分―――――――→神
  自分←―――――――神

 Aが正しく神と向き合っているが、@の場合も多い。
 神のつもりが、ただ自分の中でグルグル回っている
 だけ。神と全く触れていない。

 神と触れていないで、自分の「思考」の中でグルグル
 回っているだけ。

Aさん「すごくわかる。デボーションで祈っていて、
神様に向かっているつもりが、自分の思考の中をぐる
ぐるしているだけ。神も、みことばも、そこにきちん
とあるので、なかなか気づかない。

朝祈ってるつもりが、祈りのつもりの中で、実は自分の
思考でスケジュールを浮かべ、計画を立て、自分の力で
その日やって行く。
全く神様は関係無く、自分がしていて、神から離れてい
ると気づく。
肉がしているから、周囲とギクシャク問題を起こす。

仮にうまく行くと、必ず自分を誇る。自分はこんなに
うまく出来る、自分は素晴らしいと。

自分の力で、肉でやると、必ずやっていない人を裁く
し、自分を誇る。
しかし、聖霊に導かれてした場合は全く違う。
自分を誇らないし、感謝が溢れるし、神に栄光を帰し、
平安で満ちる。」

肉から始まって、神に栄光が帰される事はないし、
御霊から始まって、自分に栄光が帰される事もない。

御心、御心と言いつつ、自分で御心を持って来て、
自分の中で、ぐるぐるしている。
自分の中の神だから、自分の思い通りになる。
しかし、現実は思い通りにならない。全くの第三者
だから、厳然と意志を持っておられる。
そこに気づけるように。

これは自分自身も、クリスチャンにもなかなか多い。