2004年07月04日(日)
  「わかりにくい罪」

自分の力で歩むことは、律法の下に自分を置く
こと、恵みを遮断してしまうこと。

律法の下は、すべてが自分の肩にかかるので、
しんどく、重荷を負った歩みであること。

しかし、それを捨てたくない自我があり、自分
の力で歩み、自分が評価されたい、自分を誇り
たい、自分に栄光を帰したい。
肉の性質は、どこまでも自分、自分、自分が神。

憎しみ、怠惰、妬み、争い、酒、ギャンブル、
そういうストレートな罪はわかりやすいが、自
分の力で歩む、神を頼らない罪が、なかなかわ
かりにくい。

そんな学びをしていた。

Aさん「あ、生活の中で、神様に頼らないで、
自分の力でやっているところに、今、気づいた。
大きな事は、神様に頼るが、後は頼っていない。
自分でやってる。祈りがない、自分の思いと自分
の判断、肉で動くから、ギクシャクギクシャク、
ややこしくなる。あ、それが見えました!」

Bさん「わかる。自分でやっている時、トゲト
ゲしくなる。イライラして、トゲを周囲に発散
してる。(笑)周囲に当たってる。仕事が許容量
オーバーで、どうしようもない時は、神様に頼り
きってた。それが、許容量内になると、自分の力
でやり出す」

Cさん「頼らないで、自分の判断と自分の力で
やっていると、どんどん神様から離れ、みこころ
から離れて行くこと、よくわかる。
今日、礼拝メッセージでも示された。種まきの例え
で、この世の心遣いが、御言葉をふさぎ、枯らして
しまうこと。
人への心遣いで、神様のみこころをそれる。マリヤ
がイエス様への心遣いで、食事だ、何だと忙しく立
ち回り、祝福を受けることが出来なかった。

自分は、ノーが言えなくて、断るべき事も断れなく
て、人への心遣いで、神様のみこころをそれている
ことが、よくわかった」

自分の判断、自分の力で、神様を頼らないで歩んで
いる時、聖霊様が気づかせて下さるように。
by 多恵子