2007年07月03日(火)
  「認めたくない」

自分の弱さは、なかなか認められない、と話す。
認められないというか、認めたくない。

Aさん「弱さの事を、神様が何か言っておられ
るのが、ちらほらっと見える。
でも、嫌だから考えない。心の押し入れに押し
込めて、見ない。
でも、日常の中で、弱さをしっかり見なさいと
言っておられると思う。何で認められないのか。
認めると、自分が惨めだから」

誰もみじめになどなりたくない。イエス様が罪
をあらわにし、明るみに出して行かれたので、
人々から憎まれた。
罪など知りたくないし、認めなくない、放って
おいて欲しい。

なかなか神様の愛がわからない、と言う人に
よく出会う。

Cさん「神様の愛が信じられないと言うより、
余りにも惨めで、自分の本当の姿が認められ
ないからじゃないか。
余りにも惨めで認められない、認めたくない。
自分の惨めで哀れで、裸である本当の姿を認め
ないと、十字架の必要が無い」

自分が良い人だと思っているから、十字架が
ピンと来ない。頭でしかわからない。罪がわ
からないと、十字架もわからない。

Bさん「わかる。自分の姿を認めたくないし、
非も認めたくない。だから、人を責めて行く。
自分を正当化して、周囲を責めていたら自分
を見なくて済む。
自分は正しくて、いつも人が悪い。人を批判して
自分を棚上げにする。罪は認めたくない」

「暗闇の中だ」「暗闇の中は、いつも自分が正
しい。自分が正しいと思っていたら、まさに
暗闇の中にいることだ」

「弱さを認めたくない自分に気づけるって感謝。
それすら気づかず、何ら問題無しと生きている」

自分の本当の姿を見て行かない限り、認めない
限り、成長が無い。結局、神様のことが何もわ
からない。
自分の惨めな姿を認めない限り、神様の愛はわか
らない。

“自分は富んでいる、豊かになった、乏しい
ものは何も無いと言って、実は自分がみじめ
で、哀れで、貧しくて、裸の者であることを知ら
ない”黙示3:17