2007年08月07日(火) 「イエス・・について行った」
教会の学びで、 盲人バルテマイが主に目を開けてもらう箇所。 バルテマイの状況はどんなものだったろう。 当時は今のような福祉社会でなく、盲人である ことは働けず、生活の基盤はなく、社会生活が 不可能。 物乞いで生きて行かねばならず、自分でどうにも できない。人依存で、人に頼らなければ生きて行 けない。 それは何と惨めで、プライドが傷つくことだろう。 イエス様が来た事を聞いた時、叫んだ。 「私をあわれんでください」と。叫ぶので、大勢で たしなめた。「大勢で」とあるので、少数では不可能 な、かなりの叫び声だった。 しかし、周囲がたしなめるが、止めるどころか、 「ますます・・叫び立てた」誰も止めることができ なかった。人に止められて、引き下がる程度の 願望ではなく、心の底からのあらん限りの必死な 一途な願いであった。 彼は目は見えないが、耳は聞こえるので、周囲の イエス様の噂をしょっ中、耳にしていた事だろう。 どんなに愛深いお方か、真実で力あるお方か、奇跡 をするお方、癒すことのできる方、 彼には信仰があり、イエス様にはそうできると信じて 求めた。 「すると、盲人は上着を脱ぎ捨て」 物乞いの生活をする上で、上着は大切なもので あった。生きて行く上の無くてはならぬもの、必需品 であった。 しかし、彼はそれを捨てた。もう必要無い。イエス様 が目を開けて下さると信じきっていたからだ。 「あなたの信仰があなたを救ったのです」と、主は癒 して下さった。 すると、すぐさま彼は見えるようになった。 そして、「イエスの行かれる所について行った」 この「イエスの行かれる所について行った」が一番 重要なところだ。 彼はイエス様のことを、ずっと耳にし、聞いていた。 彼の心は、イエス様について行きたかったのだ。 彼の一番の願いは、救い主にすべてを献げて、ついて 行く人になりたかった。そのために目を開けて欲しかった。 Aさんが牧師に「今日の御言葉良かったです!すごく わかりました!」 イスラエルはあんなにも偉大なる、壮大なる大奇跡を 見たのに、奇跡に次ぐ奇跡をもって荒野で養われたの に、不信仰ゆえ荒野で滅んでしまった。 何のために、エジプトを出たのかわからない。 9人のらい病を癒してもらった人々は、「やったー!!」 と大喜びで、イエス様を忘れて、有頂天になり世に帰って しまった。 幾ら奇跡を見ても、身に体験しても、人は忘れてしまう。 イエス様について行くことが、一番の恵みであり特権で あり、最高の幸せだ。 「イエスの行かれる所について行った」マルコ10:52