2009年05月01日(金)
  「神の時」

カンボジアから、一時帰国の孫Aが、
最近幼稚園へ行き出した。

とてもデリケイトで、慎重で、よく考える
ゆえ、未知の世界は不安、恐れでずっと
行けなかった。

周囲は、行けば楽しいのにと思うが、
本人は行きたくない。

同齢の子たちと遊ぶ必要も思われ、
ひよっと出してみるが、暗い顔になり、
嫌なんだなと。

それが、体験入園をきっかけに、突如、
自ら行くと言い出した。これはすごいこと。
元気に通園している。

ある日突然の急展開であった。

人の「心」を動かされるのは、神であると
見せられる。そこに無理がない。

「神のなさることは、すべて時にかなって
美しい」伝道3:11

「天の下では、何事にも定まった時期があり、
すべての営みには時がある」伝道3:1


三原宣教開始から、今年が8年目。
8年目にして、祈りに祈って来た教会学校が
ある日突然与えられた。まさに天から降って来た。

8年間、まず子供伝道からと思い、教会学校
をと思い、祈りに祈るが、全く門が開かれなかった。

どれだけ、人間が動いても、主の御心でなければ
何一つ動かない。微動だにしない。

「神の美しい時」があって、それ以前に、焦っても、
心配しても、思い煩っても、全く動かない。
いっさい動かない。

厳粛に、「神の時」があること、厳然とあること、
それを教えられたことが、感謝だった。

神の時が来る前に、幾らあがいても、煩っても
どうにもならない。

ひたすら「待つ」。待って、待って、待ち続ける。

思い煩わず、焦らず、信仰もって、待っていたい。

悠久の時が流れているように感じるが、待つこと
が信仰。待つことで、信仰を献げたい。