2007年01月07日(日)
  「見守ること」

お正月にAさんから久し振りの電話。

子供の事を通して、何年も神様からの
取り扱いを受け、教え導かれた。

どうしても正しい事を、神様の事を子供
に押しつけてしまう。神様の事は絶対的
に正しいから、押しつけても自分の内で
正当化される。むしろ、善になる。
それが正しいと自分でも思ってしまう。

しかし、子供はどんどん離れて行った。
反発し、非行へと走った。子供の事は一番
辛い。今までの人生でこんなに苦しかった
事はないという中を、自分が間違っていた
と気づかされた。

どうしも子供を神様に従わせたくて、子供の
信仰を親が何とかしようと、ずっとコントロ
ールして来た。子供は重圧と反発で、むしろ
神から離れて行った。
自分自身が砕かれた。子供の意志をコントロー
ル出来ないことがわかった。なぜなら、子供の
意志は子供のもの。

親は祈ることができるのみだ。もういいと
思えた。教会へ来るのも来ないのも本人の
意志。信仰自体も本人の意志だ。

子供が高校を中退して働くと言った。
親としては高校だけは卒業するのが、本人の
ためと思った。しかし、自分も変えられた。

世間は甘くない事、今のままでは仕事が限ら
れる事、生活して行くのは実際大変である事、
人生の先輩としての助言だと、親として思う
事は思う事として気持ちを話した。
あくまで助言で、本人の意志を尊重すると。

本人はそれも受け入れた上で、本人の意志で
退学を決めた。本人の決めた事を親は受け入れ
た。親として出来る事として、書類を整えてやり、
もし復学したくなった時には、いつでも出来る
ようにしてやった。

自立すると言ったからには、経済的援助も本人
のために敢えてしない事にした。神に任せて
祈り続けた。

子供は働いたが、やはり甘くはなく、身体的に
きつく、ハードだった。現実にぶち当たり、良い
訓練だった。仕事一つでは足らず、二つしたりした。

時を経て、勉強したいと自分から願い、学校へも
行くようになった。そして、大学への政府からの
全額サポートを受けられる試験にもパスしたとの事。

放任でなく、祈りの中でひたすら見守る、これが
神様のお心だと思う。放蕩息子への御父の心だ。

人の心は、その人のもので、どうにも出来ない。
その人が自分でそう思わない限り、不可能だ。
人の心を変えられるのは、神様だけだ。
その神様にお任せできることが、何と恵みで感謝
な事だろう。